涼しく暗い土蔵の中を、懐中電灯の黄色い光が心もとなく彷徨う。


「あれ?確かこの辺りに置いてあったはずなんだけどな……」


 スニーカーであちこち歩きまわったせいで、古い床板に積もった埃が舞い上がり、それに光が当たって視界をチラつく。

 俊介は母屋から少し離れた、敷地の北の角にある古びた蔵の中にいた。幅の狭い、木組みの階段を登って二階に上がり、その奥に重ね置かれたプラスティック製の収納ケースの中から、エアーポンプと小さなエアーストーンを探し出し、それらを持ってきたコンビニの白いビニール袋の中に移す。それからまた注意深く一階に降りた。ついでに、猫除けの金網も一緒に持ち出そう思ったが、この間まで入口の脇にあったはずの大きな網が見当たらない。しかしこの間とは言っても、俊介が蔵に入ったのは実に数カ月ぶりだった。

 仕方なく、もう一度入口の端から順に、全ての物を照らしながら確認して行く。くっきりした楕円形の光の中に、祖父母の代に使用されていたと思われる古い桐の和ダンスや、大きな茶箱、割れたガラスケースに入った髪の乱れた市松人形などが浮かび上がり、その影が白い漆喰壁に黒く濃く奇妙に映る。


「おっかしいな……無くなるわけないんだけど」


 独り言を呟きながら膝をかがめ、食器をしまった段ボール箱が乱雑に積み上げられた、ちゃぶ台の下に懐中電灯を向けてみる。すると開いたままの蔵の扉の外で、真っ白い光が戦慄わななき、それから巨大な岩を転がすような、重く不吉な音が蔵全体を包み込んだ。俊介は顔を上げ、その音に耳を澄ませた。


「雷だ……」


 小さく舌打ちし、金網はすぐに見限り、足元をライトで照らして素早く出口へ向かう。すると、ジーンズの尻ポケットの中で、携帯電話のバイブレーションが始まった。俊介は一瞬立ち止まり、懐中電灯を白い袋と一緒に左に持ち替え、右手で携帯電話を取り出した。

 液晶画面を見る。発信者は彩乃。机の上のメモを見たのだろう。風呂上がりの彩乃の姿が頭に浮かび、思わず電話に出る声が弾む。


「彩乃ちゃん、すっきりしたぁ?」


 再び歩き始め、のんきに訊く俊介の耳に、彩乃の悲痛な声が響く。


『俊介っ!俊介!!どこっ?』

「え、どこって?」

『今、どこにいるのよっ!?』


 電話に出るなり責めるような彩乃の口調に、俊介はたじろぎながら答える。


「ご、ごめん遅くなって。まだ蔵の中だよ?どうした??」

『くら?くらって何のことよ、倉庫に行ったんじゃないのっ??』

「うん、だから倉庫だよ。土蔵」

『どぞう??何それ??どうでもいいから早く戻って来て、お願いっ!!』


 ヒステリックな高い声が、耳に刺さる。それをなだめるように、静かに優しく問いかける。


「どうしたぁ?何かあったの??」

『私、怖い!!』

「怖いって、何がさ?」

『誰か入ってきたの。家に!でも玄関、閉まってるの、誰もいないのよっ!!』

「え?何??誰もいるわけ無いよ。だって俺はここにいるんだから」

『でも、誰かいたのよ!本当よ、階段を登ってきたのよっ!!』

「えぇっ……?」

『部屋のドアまで開いたんだから!!』

「彩乃……ちょっと落ち着いてよ、何の話してるの?」


 支離滅裂な説明を聞きながら、俊介は急いで土蔵を出ると、朽ちかけた中木戸を閉め、それから重く厚みのある漆喰の外扉を閉じた。ズシン、という低い音が闇に響く。


『きゃっ!なに、今の音?!』

「蔵の戸を閉めた音だよ」

『そう、そうよ、音がしたの!ガラガラガラって、玄関の開く音が!』

「まさか。だって俺はそっちに戻って無いよ?」

『やめて、そういう事、言わないで!怖い、お願い!!どうでもいいから早く帰って来てよっ!!』

「だ、大丈夫だよ、今そっちに向かって走ってる。それ雷の音だよきっと。心配無いよ」

『早く、独りにしないで!お願いっ!!』

「もう家が見えるから。ほら、彩乃、ブラインド開けてみて?俺が走ってるの、見えるから」


 彩乃は半泣きで右耳に携帯電話を押し当てながら、俊介の声に従って窓を見た。そして机に置かれた金魚鉢の上に身を乗り出し、手を伸ばして閉ざされたブラインドの中程に指を突っ込み、押し下げた。黒いスチール製のルーバーが、不快な金属音を立ててぐにゃりとひしゃげる。その逆三角形の隙間から外が見えた。濃密な闇の中に、チラチラと黄色い光が揺らめき、それから真っ直ぐに窓辺に立つ彩乃の顔を照らす。一瞬、眩しさに目を細めたが、その間にも光はぐんぐん家の方に近づいて来る。それを必死で見つめていると、その明りの中に、下からわざと照らした俊介の顔が浮かび上がり、携帯電話から、


『お化けだよ〜ん!』


 と言う、おどけたような低い声が響いた。緊張で乾ききった彩乃の唇から、

安堵のため息が漏れる。


「ああ俊介、良かった……」

『ふふふ、怖かった?独りにしてごめんね!』


 その声と同時に、空全体が収縮して薄紫の光りを放ち、視界のど真ん中を強烈な稲妻が走る。


「きゃっ!」

『うわっ……!!』


 鋭い光に、彩乃は咄嗟に肩を竦ませ目を閉じた。少し間を開けてから、氷山の崩れていくようなくぐもった雷鳴が轟く。


『……ね、雷でしょう?大丈夫だよ、今、玄関着いたよ』


 俊介のなだめる声に再びそっと目を開き、怯えながらブラインドの隙間を覗くと、懐中電灯の光はもう見えず、外は再び漆黒の闇のみとなっていた。


『えーと、鍵、鍵と……あ、雨だ』


 そして耳に届く俊介の声とは別に、雨粒が屋根に当たる音が聞えだし、強い風と共に目の前の窓ガラスを叩き始めた。

 

 やだ…私ったらバカみたい。さっきの、玄関が開く音かと思ったら、雷の音だったなんて…… 


 彩乃はふっ、と自嘲じちょうの笑みを浮かべると、ブラインドのルーバーから指を抜き、かじり付くようにしていた窓辺から体を引こうとした。

 

 すると机の上で、水の跳ねる音がした。

 下腹部に、ぬるりと冷たいものがへばりつく。

 下を向くと、へらりと腕を差しのべた、白い人魚と目が合った。







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