風鈴
熱いシャワーを浴び、汗と汚れを綺麗に洗い流し、丁寧に歯を磨いて髪を乾かす。 ブラシを通すと、彩乃の髪はすぐに艶やかさを取り戻した。
そしてこの日のために買い揃えた、純白のレースのパンティーを身に付け、少し迷った後、ブラジャーはしないまま、ベビーピンクのタオル地のルームウェアーを素肌に着て、バスルームを後にした。
廊下に出ると、家の中は静まりかえっていて、人の気配は無かった。
「俊介?」
小さな声で呼んでみたけれど、返事は無い。
どうやら外の倉庫に行ったまま、まだ戻って来ていないようだ。他人の、しかも初めて訪れた家の中に独りポツンと取り残されるのは、何とも居心地の悪い。
誰に
部屋の扉は、俊介の自室の他に5つあった。恐らく一つは両親の寝室。そして兄弟はいないと聞いていたから、あとは父親の書斎や、母親の趣味の部屋か、もしくは来客者用の寝室といったとこだろう。今は俊介ばかりが使っていると言っていたが、客用のトイレだけでなくバスルームまであるという事は、かつては人の出入りの多い家だったのか。いずれにしても、今現在、家族三人で住むには少し淋しすぎるほど大きな家だ。
「入るわよ?」
一応ノックし、俊介の部屋の扉を開くと、エアコンの涼しい風が、風呂上がりの火照った体を冷んやりと迎えてくれた。
けれどやはり俊介はいない。
取りあえず中に入って扉を閉める。
誰もいない部屋の中で、勉強机の金魚鉢に、自然と目が行った。
ガラス鉢の中で、金魚の白い胸びれが、手招きするようヒラリと揺れる。
彩乃はそのまま机に向かって歩いて行き、その脇にボストンバッグを置くと、肩に掛けていたバスタオルを外し、椅子の背もたれに掛けた。
それからガラス鉢の中を覗いてみた。すると金魚は、相変わらず鉢の底に横たわり、黒い小さな目をキョロリと動かし彩乃を見た。
けれどそれ以外、微動だにしなかった。
まるで彩乃では不満だとでも言うような態度に、思わずため息が出る。
「かわいくない子ね……」
そして金魚鉢に背を向けて、今度は部屋の中をじっくりと眺めた。
八畳ほどのフローリングの部屋。白い壁のうち、二面の大部分が、大きな造りつけの本棚になっている。棚も勉強机も、床に敷かれたラグマットも、落ち着いた茶系で統一され、ベッドが無ければまるで小さな図書室のようだ。彩乃の、納戸のように狭く、派手な色のキャラクターグッズやぬいぐるみで溢れた幼さの残る部屋とは大違いである。
本棚にぎっしりと並んだ本の背表紙を、彩乃は感心したように目で追った。部屋のすぐ左側の棚の下段には、重々しい百科事典。それから小中学生の頃にでも読んだと思われる世界の偉人伝や、童話集、それに文学全集などが整然と並んでいる。動植物や天体などのカラー図鑑も多い。それから、海や山の写真集。そして上の段に行くに従い、ハードカバーの小説の他に、最近読んだと思われるライトノベルや、青年コミック本なども比較的多く並んでいて、彩乃はその普通さにホッとした。本の前にはフォトフレームがいくつか置かれていて、そこには子供の頃の可愛い俊介の写真が入っていた。彩乃はそれを手に取り、微笑んだ。写真の他にもミニカーや、どこか地方の民芸品、動物フィギュアなどが所々に飾られている。そして、勉強机の上には、金魚鉢の他にノートPC、重ねられたノートや書類。それから小さなメモ紙を見つけた。
『 外にいるから 何かあったらすぐに携帯に電話して 俊 』
彩乃がシャワーを浴びている間に、これを書き残して倉庫に行ったのだろう。 そして勉強机を挟むように、両側に配置された本棚には、参考書や辞書の類、大学のテキストブック、そして獣医学の専門書などが並んでいる。
彩乃にとっては、開きたいと思う本など一冊もない無愛想な本棚である。けれどその中段の隅の方に、少し背表紙の雰囲気が違う新書サイズの本が数冊、並んでいるのが目に付いた。
『ペットの飼い方ガイド』
『コンパニオンアニマルとの上手な付き合い方』
『怒らなくても大丈夫。犬のしつけ方法』
『犬の病気 実例集』
『猫の病気 実例集』
それはペットの飼育に関する、マニュアル本のようだった。
そしてそのタイトルの下の著者名が、俊介と一文字だけ違う男性名であることに気付き、思わずそれを手に取ろうとした時、階下から、玄関の格子戸の開く音が響いた。
その音に、彩乃は飛び
別に日記でもなく、単なる新書だ。
しかも健全な、動物の飼い方マニュアル。 ミシ…
勝手に触れたとしても、どうという事は無いだろう。
けれど、万が一無遠慮な女だと思われては不本意だ。
少しだけ待てば良い。今、俊介が階段を上ってくる。
部屋に戻って来たら、後でタイミングを見計らって、
「この本を書かれたのはお父さまなの?」
と訊いてみる事にしよう。 ミシ、ミシ…
階段を登る足音を聞きながら、彩乃は瞬時に考えた。それから不自然に部屋の真ん中に立ったままの、自分の居場所をどこに落ちつけようかと再び部屋の中を見渡した。ベッドが一番手近にも思えたが、いきなりそんな所に腰掛けているのも
そしてあれこれ考えた末、廊下から部屋へと近づいて来た足音に急かされて、
結局、ただ単に勉強机の横にしゃがみ込み、ボストンバッグを開いて着替えを整理するふりをすることにした。
ちょうど、明日のデートで着るつもりでいたミニスカートとブラウスでも取りだそうかと思った時、カバンの中で、小花模様のハンカチに包まれた、丸い物が転がった。
ミシ、ミシ……
あ、そうだこれ!割れないうちに……
彩乃はそれを手に取り、ハンカチをそっとめくった。
ガラスの風鈴__
ミシッ、ミシッ、ミシッ……
華奢なガラスに、赤い金魚の絵柄が内側から描かれた風鈴は、金魚屋の老人が、鉢と一緒に俊介の手に押しつけたものだ。
『頼む、頼む、これと一緒に貰ってやってくれぇ。何か困った事があったら、ここに連絡してくれぇ……』
そう言いながら、最後に四隅の折れたような古びた名刺も渡された。
その名刺をどこに入れただろう__
ミシッ、ミシッ、ミシッ……
とぼんやり思いながら、手に掲げた風鈴を軽く振る。
チリリン
ミシッ……
涼やかな音色が、静かな室内に響く。
するとその音に反応したのか、ガラス鉢の底から金魚がムクリと体を起こした。
「あっ……」
彩乃はもう一度、風鈴を振ってみた。すると今度は、金魚は
その姿を見て、彩乃は老人が
「ふふふ。なあんだ、ちゃんと泳げるんじゃない。人魚ちゃん、あんたこの風鈴が好きなのね。それともこの音がご飯の合図なのかしら……?」
彩乃は面白くなってきて、床に
チリンチリンと乾いた音が響くたび、大人しかった金魚はガラス鉢の中で、ふわりとふわりと天女のように、四枚の薄絹を優雅にたなびかせる。
彩乃は水の中で風鈴の音色に合わせ、次第に舞い狂っていく金魚をじっと見つめていた。
何か変……
それを眺めているうち、体の奥を指でゆっくり、なすられ続けるような微かな
変だわ、この子……
金魚の、うっすらと血の透けるような長い
それは高潔な天女というより、白い裸体を薄桃色に上気させ、くねくねと悶え乱れる生身の女の姿に見えた。
男に取りすがり、抱かれたがる、人になれない哀れな魚……
彩乃が息を飲み、その人魚の
その微かな音にハッと我に返り、彩乃は風鈴を片手に振り向き、興奮気味に叫んだ。
「ねぇ、見て見て俊介!」
扉が
「この子すごいの、ちゃんと踊れる……」
けれど、そこに俊介の姿は無かった。
開いた扉の、のぞく程度の隙間から、廊下の白い壁がチラリと見え、あとは黄色い光が部屋の中に入り込んだだけ。
「俊介?」
彩乃は立ち上がり、それから机の上の金魚鉢の横に風鈴を置くと、扉の方へ歩いていった。
さっきまで階段から廊下、そして部屋の前まで聞えていた引きずるような足音は、ピタリと止まったままである。何か大きな荷物でも運んでいるのだろうか。
「ポンプ、見つかった?」
そう言って、ドアノブを引く。そして廊下に顔を突き出す。バスルームのあった、長い廊下の先まで見渡し、それから反対側の階段の方を振り返る。次に各部屋に、そして階下の音に耳を澄ます。けれど他の5つの部屋からも一階からも、人のいる気配は全くしない。
「……?」
彩乃は
「ねぇ、俊介?」
その声が、そのまま踊り場の高い天井に反響する。
返事は無い。
「どこにいるの?」
じっとしていられない。
「下にいるんでしょう?」
一段ずつ、そっと階段を降り始める。
「いるのよね?」
ギシ…ギシ…
今、踏み板がきしむのは、自分のせいだと分かっているのに、なぜか心臓の鼓動が早まっていく。
ブゥン…… コツン……
コツン…… コツン…… ブゥン……
階段を下りるにつれ、不規則な、低い唸るような音が聞こえてくる。
一階まで降りきって、玄関の前に立つ。そして恐る恐る音のする方を見上げると、天井から下がった半円形の照明器具の中に、小さな甲虫が閉じ込められて暴れていた。
思わず安堵のため息が出る。
この家は広すぎだ。人の気配がしない分、些細な音が、やけに気になる。
そう思い、彩乃は改めて室内を見渡した。
一階は、その玄関照明が一つ点いているだけで、あとは廊下も何もかもが真っ暗だった。玄関の
今、家の中にいるのは、私だけってこと?
そしてスリッパを脱ぎ、右足でそっと、自分の靴を踏んで玄関に降り、
……さっき、誰か階段を登って来たじゃない。
それから左足を一歩、裸足のまま御影石の上に踏み出した。
ガラガラガラっていう……
格子戸の引き手に手を掛ける。
この戸が開く……
カチッ。
固い手ごたえ。
引き戸は
足の裏に貼り付いた御影石の冷たさが、寒気となって背中を一気に這い上がる。
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