第2章

二人きりの夜

 玄関を上がるなり、家の中を案内するでもなく俊介は彩乃を急き立てるように階段を登り、二階の自室に向かった。

 部屋のドアを開け、窓際の勉強机に取りあえず金魚鉢を置く。そして黒い金属製のブラインドを降ろしながら、扉のそばに突っ立ったままの彩乃に、


「何か飲む?」


と訊いた。けれど彩乃は首を横に振り、少し躊躇ためらい小さく答えた。


「あのね……トイレ、行きたいんだけど……」


「え?あっ、ごめん!」


 俊介は慌ててブラインドの紐から手を離し、彩乃に駆け寄り、肩に手を当てクルリと方向転換させると、そのまま後ろから押すようにして一緒に廊下に出た。そして、


「あそこ、突き当たりの左側だよ。電気は扉の横の……」


 と言いかけて、急に思いついたように言った。


「そうだ!ついでにシャワーも入っちゃいなよ」

「え?」

「2階のトイレ、バスルームと一緒なんだ」


 俊介は返事も待たずに、ボストンバッグを持ったままの彩乃の肩をぐいぐい押して、廊下を歩き始めた。

 勝手知ったる我が家に戻り、落ち着いたのか、それとも逆に焦っているのか分からないが、俊介の態度はせっかちとも思えるぐらい急に大胆になった。

 でもその方が、彩乃は嬉しかった。実を言うと、本当にトイレで用を足したい訳ではなかった。化粧直しもしないままの汚い顔を、明るい部屋の中で俊介に見られたくなかっただけだ。けれどシャワーを浴びられるなら話は早い。彩乃にとっては好都合だった。

 二人して電車ごっこのように前後に連なり、長い廊下を真っ直ぐ進み、俊介がその突き当たりの左側のドアを開き、電気を点けた。

 中に入ると、大きな鏡の付いた白い大理石の洗面台と、ウォッシュレットがあり、その奥に透明な強化ガラスで仕切られた、小さなユニットバスが備えてあった。洗面所から、ユニットバスは丸見えである。なぜそのようにしたのかは分からないが、その造りは彩乃が高校2年の頃、5つ年上の社会人の恋人と良く通った、池袋の西口にある狭いラブホテルのバスルームを思い出させた。

 不思議そうに、そのガラス張りのユニットバスを眺める彩乃の横で、俊介は手短に説明を始めた。


「この棚の中にバスタオルとか、あとドライヤーも入ってる。適当に何でも使って。歯ブラシは使い捨てのがそこにある。……あ、でもここ、今はほとんど俺専用だからシャンプーとか男用しかないんだった。ちょっと待ってて、下から母さんの持ってくるよ」


 早口でそう言い、すぐに洗面所を出ようとする俊介を彩乃は止めた。


「俊介、大丈夫よ。私、旅行用の小さいの、シャンプーとか洗面用具、一式、持ってきたの。タオルとかも一応全部……」


 親に紹介される前に、その両親が留守なのをいい事に、内緒で家に上がり込んで数泊するわけだから、彩乃はなるべく痕跡を残さないよう、自分の使うものは全てボストンバッグに詰めてきた。


「そ、そうなんだ?ずいぶん大きな荷物だなとは思ってたんだけど……女の子は準備が良いね」


 俊介はそう言って笑った。

 それから彩乃の顔をまじまじと見た。

 いつもは溌剌はつらつと大きく見開かれた目の下に、うっすらと黒いくまが現れている。リップグロスはすっかり落ちて色を失い、長い髪は埃っぽく、つやが無いどころかTシャツの胸元で毛先がボサボサともつれ、見るからに疲労しきっている。

 考えてみれば当然だった。この暑い中、日陰とはいえ屋外でのイベントだった。しかも俊介や他の先輩ボランティア達がパイプ椅子に座り、長机を挟んで犬の里親希望者の適正確認や、実際に連れてきた一部の犬達とのマッチングをしている間、彩乃はほとんど一日中立ちっぱなしで、他の女の子数人と声を出し、活動紹介や、募金の呼びかけをしてくれたのだ。

 そんな彩乃を、その後もズルズルと俊介の優柔不断に付き合わせ、歩き回らせてしまったのだ。

 やつれ果てた彩乃の姿を見て、今さらのようにそれに気付く。


「…今日は、ありがとうね……」


 俊介は、唐突に礼を言うと、彩乃の頭に手を伸ばし、乱れた髪を整えるように優しく撫でた。

 いつも身だしなみに気を使い、ヘアメイクの一々にこだわる彩乃。

 うっかり触れて、髪型を崩そうものなら、怒られるような気すらしていた。

 

綺麗だけど、見るだけで触れられない、大事な人形を一つ手に入れた__


 この三カ月間、そんなふうに思っていた。

 もどかしい日々。

 けれど今、彩乃の疲れ切った隙だらけの姿に、今まで感じていた以上に、愛しさが込み上げる。髪を撫でる手が、自然に彩乃の頭を引き寄せた。

 俊介の薄い胸板に、彩乃の額がコツン、と当たる。その感触が、胸に響いて切なくて、初めて両手で抱きしめた。


 腕の中に彩乃がいる。


 その情景を、何度頭に思い描いただろう。

 けれどそれは、こんな簡単な事だった。

 近づいて、ただ腕を回せば済んだこと。

 それなのに、なんて無駄な時間をかけただろう。

 俺に勇気が無いせいで……


 もつれた髪に、頬をすり寄せる。


「彩乃……」


 腕の中の、温かく柔らかい体から、甘い香りと汗の匂いが絡み合い、濃く漂う。その匂いが、俊介をたまらない気持ちにさせていく。

 体が浮いてしまいそうな陶酔感を味わいながら、俊介はじっと彩乃を抱きしめていたが、しばらくして、すっと身を離した。

 腕の中で、同じように夢心地でいた彩乃は、ふいに腕を解かれた理由が分からず、俊介の顔を見上げた。その少し責めるような潤んだ瞳に、俊介は困ったような笑みを浮かべて言った。


「トイレ……だったよね」


 それを聞いて、彩乃は一瞬ポカンとし、それからハッと、自分の言葉を思いだした。


「や、やだ、忘れてた……みたい」


 そして真っ赤になると、もう一度俊介の胸に顔を埋めた。


「ゆっくりシャワー浴びておいで。その間に俺、倉庫に行って探し物してくるから」


 俊介は優しくそう言うと、彩乃の額にそっと唇を付け、洗面所から出て行った。



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