睡蓮鉢のある家

 練馬の小さな私鉄駅の商店街は人通りも少なく、まともな食事のできる店はとっくに営業を終えていた。目につくのは、安いだけが取り柄の居酒屋と、読経どっきょうのように陰気な歌声がれ聞える、昔ながらのスナックだけだ。

 駅前で唯一、24時間営業の丼物のファストフード店で食事を済ませ、俊介と彩乃は、とぼとぼと並んで歩いていた。


「大丈夫?カバン、重くない?あと10分くらい歩けば着くからね……」


 俊介はご機嫌をとるようにそう言っておきながら、彩乃のボストンバッグを代わりに持とうともせず、再び手を繋ぐでもない。なぜなら、両手は既にふさがっていたからだ。

 彩乃はバッグの持ち手を強く握りしめ、うつむき加減で、もう返事をしようともしない。そして俊介は困ったようにそれを見ながら、手に持った金魚鉢の水をこぼさないよう、ゆっくりと歩いていた。

 その中にはもちろん金魚が入っている。老人が「頼むっ!」と言って頭を下げ、

強引に持たせた金魚。白く長い尾鰭おびれの優雅な姿。けれど泳ぎの下手な気の毒な『人魚』

 娘のように可愛がっているというそれを、老人は、屋台の竿さおにぶら下がっていた、ガラスの風鈴一個と共に俊介の手に押し付けると、何度も何度も頭を下げ、拝むように手を合わせた。そして俊介は、これ以上無駄に押し問答を続けるよりは受け取ってしまった方が早いと考え、最後には押し切られる形で人魚を譲り受けてしまった。

 ようやく練馬に戻って、取りあえず空腹を埋めるためにだけ入った丼屋。長いカウンターテーブルにガラス鉢を置き、それを挟んで二人並び、黙って牛丼を食べた。

 店長らしい中年の太った男が、何か言いたげに二人の事をチラチラと見た。もしかしたら「ペットの持ち込みは禁止です」とでも言いたかったのかもしれないが、明らかに機嫌の悪そうな彩乃のせいか、何も文句は言われなかった。

 彩乃は、無言で丼を食べながら、電車の中の事を思い出していた。


『ごめんね、ごめんね』


 座席に座り、金魚鉢を膝に抱えながら何度も謝られるたび、彩乃はどうにも情けなく、しかもその姿が神社で老人が、


『この通り、この通りだぁ』


 と言って、卑屈ひくつにぺこぺこお願いする姿と重なって、余計に許しがたい気持ちになる。


『わしはもう、いつ死ぬか分からんでぇ、、、な、この通り、この通り、こん子を、、、うちのを、もらってやってくれ。頼む、あんたになら任せられる気がすんだぁ、大事にしてくれるって、信じられる気がすんだぁ』


 必死の哀願。

 もう今年限りで金魚の養殖からは手を引いて、全てを売り払い、東京の息子の家に近い有料老人ホームに入所する事が決まっている。そして今日が、リヤカーを引いての最後の金魚売りだった。だからタダでも良いから、二人が大事にしてくれるなら、好きなだけ金魚をもらってくれと言った。屋台を出す時はいつも人魚も連れ歩く。けれどそれは誰かに売ろうというつもりではなく、一緒に散歩に行くような気分で家から持ち出すだけで、手放そうとか思った事は一度も無い。でも、俊介に会って、気持ちが変わった__。

 と、老人は俊介の手を握り、涙ながらに語るのだ。人魚が初対面の人間にあんな懐いた事は今まで無かった。死ぬまで自分の手元で育てたいと思っていたが、いつ自分の方が先に死ぬかも分からない。老人ホームの部屋の中で、この後いったい何年まともに面倒を見てやれるのか。そう考えた時、人魚を任せられるのはあんたしかいない、と直感的に思った__。

 最後にはそう言い切った。

 何て自分勝手な言い草だろう。と彩乃は思う。たかが金魚。なのに『うちの娘』などと呼び『大事にしてくれ』とか俊介に言うのを聞いていると、まるで恋人である自分の存在が無視されたようで、プライドが傷ついた。そして鉢の中に横たわる金魚を、俊介が大事そうにガラスの上から撫でるのを見て『自分には全く触れてくれないクセに……』と、つまらない嫉妬を感じ、なおさら苛立いらだってくる。


「もうすぐだからね」


 いったい誰に話しかけているつもりやら__。

 

 彩乃と同時に、俊介は金魚のご機嫌まで伺っているようだ。


 一日目から何もかもが台無し。こんなはずじゃなかったのに__。


 灯りの消えた、比較的大きな邸宅が続き、時折犬の吠え声が聞えてくる。静かな夜道を照らす街燈は、彩乃と俊介の仲を取り持とうと、二つの長く伸びる影だけでも重ねてくれた。けれど結局、埼玉の名前も知らない神社の中を彷徨さまよい歩いていた時と、状況は何ひとつ変わっていない気がした。むしろ彩乃としては悪化している。

 そんな事を考えながら、四角く刈り込まれた高いカイズカイブキの生垣に沿って歩いていると、ふいに俊介が立ち止まった。


「着いたよ」


 俊介の声に顔を上げると、常緑樹の分厚い緑の壁は終わり、そこに四角く太い石門柱が、彩乃を見下ろすように立っていた。

 唐突に現れた、古いザラリとした花崗岩かこうがんの門柱。そして5メートルくらい先にもう一本、同じものが立っていて、その柱と柱の間は、黒くしっかりとした鉄柵扉で閉ざされていた。そして彩乃の目の前の柱には、縦に大きく、緑青ろくしょうの浮き上がった青銅の表札がはめ込まれていて、そこには俊介の名字ではなく、古めかしい書体で


下神井戸しもかみいど動物診療所』


 という文字が刻まれていた。

 鉄柵の中には、車6台ほどが停められる、コンクリート敷きの駐車場があり、そこから長い平坦なアプローチが続いていて、その先を目で追うと、遠い暗闇の中に忽然こつぜんと白い扉が現れ、それが浮かんでいるように見えた。

 なまぬるい風が吹き、ざわざわと音がして、その扉を取り巻く風景全体が黒く揺れ始める。彩乃は眉をひそめ、鉄柵の奥に白く浮かぶ扉を凝視した。上部に小さな丸いのぞき窓のはまった木の扉。目が慣れてきて良く見ると、闇の中にひっそりと、丈の高い笹薮に囲まれ、暗い色をした平屋の建物が建っていて、白い扉はその中ほどに付いていた。それがまるで夜光塗料で描かれた騙し絵のように、闇に不自然に浮んで見えたのだ。


「ここが動物病院の入口。この柵、開くと人の悲鳴みたいなすごい音がするから夜は開けられないんだ。だから悪いけど裏門から入るよ」


 俊介はちょっと照れくさそうに大きな門の前を通過し、また生垣に沿って歩き始めた。


 これが俊介の家……?


 このカイズカイブキの生垣は、いったいどこから始まっていたのか?

 彩乃はそれを確かめるように、俊介の背中を追いながら、何度も後ろを振り返った。そして30メートル程歩いて細い脇道を左に曲がって行くと、青々とした生垣は、時代劇のような白い塗壁に変り、少し先に瓦屋根のひさしの付いた門が見えてきて、その前で俊介は再び立ち止まった。

 右の白壁に掲げられた、黒い御影石の表札には、今度は確かに俊介の苗字が刻まれている。風格のある数寄屋造りのような門は、古い二枚の板戸でピタリと閉ざされ、その扉の合わせ目の中心には、民芸家具に見られるような、黒く大仰おおぎょう鋳物いものの錠前が下がっている。俊介はそれを『裏門』と言ったけれど、実際にはそこが病院としてではなく、住居としての表門になるのだろう。

 彩乃は茫然と、その立派な庇の付いた門を見上げた。まるでどこかの高級料亭の前に来たような緊張感が沸き上がる。

 短大で仲良くなった、わりと裕福な友人達の家を、今まで数回訪れた事があった。彼女達は大概たいがい、都内の広々とした高級マンションに住んでいて、彩乃は自分には縁の無いそういう場所に、非常に強い興味があった。立派なエントランスホールにはコンシェルジュが控えている事もある。その前を通り過ぎる時、彩乃はしばしば、自分の育ちの悪さを見咎みとがめられているような、後ろめたい緊張感を味わった。

 けれど今、俊介の家を目の前にして感じるのは、それとはまた少し違っていた。どちらかと言えば幼いころ、近くの遊園地で『びっくりハウス』というアトラクションに入る前のような、ワクワクとした緊張感だった。


「彩乃。ちょっとこの子、お願いしてもいいかな?」


 俊介が金魚鉢を差し出した。


「う、うん……」


 彩乃はすぐに頷き、ボストンバッグを肩に掛け直すと、両手で白い金魚の入ったガラス鉢を受け取った。俊介はジーンズの後ろポケットからキーホルダーを

取り出し、そこから黒いアンティーク調の鍵を探すと、唐草模様の施された錠前の穴にそれを差し込み、回した。

 噛み合った錠が解ける、固い金属音が響く。

すると、片方の木戸が内側に向かってすぅっ、と開いた。

 彩乃は一瞬、誰かが内側から板戸を引いたのかと思い、金魚鉢を抱いたまま、闇に向かって咄嗟にお辞儀をした。しかし、そこには誰もいなかった。


 ガラス鉢の中でペチャリと音がして、水滴が腕に飛び散った。


その冷たい感触にハッとして鉢を覗くと、金魚がまた水面近くまで上がって来ていて、口をパクパクさせながら暴れている。


「……しゅ、俊介!コレ、人魚!!また暴れてるっ!」

「えっ、本当!?分かった。やっぱり俺が持つよ」


 彩乃の非難するような声に、俊介は慌てて片手を伸ばし、再び金魚鉢を引き取り抱きかかえた。さっきまで大人しかったのに、彩乃が鉢を持った途端に暴れ始めた金魚を見て、彩乃はまた少し不愉快になった。けれど取りあえず、それは気にしない事にした。今、彩乃が気になるのは、この広くて大きい俊介の自宅の方だ。


「さ、入って」


 俊介に促され、内開きの木戸を入ると、まだ暑さの残る夜風に乗って、

濃い草の香りが、むっと漂ってきた。


「あ……。なんか、懐かしい匂い……」


 彩乃は思わず独り言のように呟き、その清々しい香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

 目の前には、芝生の敷き詰められた庭が広がり、その奥に、さっき表門から黒い塊りのように見えた小さな平屋とは別の、大きな二階建ての屋敷があって、丸い大谷石の飛び石が、広い玄関ポーチまで点々と続いていていた。

 瓦屋根の張り出したポーチの横には、丁寧に剪定せんていされた大きな松が生え、丸く駆られたサツキの植え込みがあり、背丈ほどの石灯籠いしどうろうまであった。

 そしてその灯籠の前に、たっぷりと水をたたえた藍色の大きな鉢が置かれていた。それを見て、彩乃は思わず指をさして叫んだ。


「あっ!……これが言ってた睡蓮鉢すいれんばち……?」


その青釉あおゆうで彩られた信楽焼しがらきやきの睡蓮鉢は、彩乃の想像していたものよりずっと大きく、立派なものだった。それは睡蓮鉢に限らず、玄関、家、庭などの全てが、通常より一周り以上大きい。

 彩乃の住む豊島区の西長先駅に近い住宅街は、池袋に近い事もあり、それなりに地価は高い。近所の一戸建ては、大体が3階建てのペンシルタイプの狭小住宅で、庭と言えるような場所は無く、塀も無ければ門扉すら無い家も多い。建ぺい率ぎりぎりいっぱいに建てられた、縦に細長い家屋の1階部分に、めり込むような駐車スペースがあり、そこに花の植えられたプランターと、おまけ程度に小さな睡蓮鉢を置いている家を、たまに見かけることがある。

 彩乃の自宅も、それと似たり寄ったりの狭い家の一つだ。

 しかし、俊介の住む下神井戸も、都心からは少し離れるけれど、近所に大きな親水公園があり、練馬の中では特に人気のある住宅地だ。新築で買うならば、100平米で5千万から6千万はするだろう。それなのに、駅から徒歩圏内の場所にこんな広い屋敷があり、しかもそんな所に俊介が住んでいるなんて彩乃は思いもしなかった。もちろん『医者の息子』である事は知っていたけれど、彩乃の中で医者と言っても『動物のお医者さん』というのが、何だか小じんまりと地味なイメージだった事と、俊介の普段の服装や持ち物が、またとにかく地味と言うより、質素に近かったせいもある。

 彩乃はぐるりとポーチを見渡し、それから深い大きな睡蓮鉢に近づいた。

 鉢の直径は約1メートル程あり、深さは彩乃の太腿の中程まである。小さな子供なら、かがんですっぽりと入れてしまうような大きさだ。そこに緑色した睡蓮の円い葉が、水底を隠すように隙間なく浮いている。


「ずいぶん大きな鉢なのね。立派なお家に住めて、人魚ちゃんも喜ぶわね」


 その言葉には、彩乃の主観が込められていた。さっきは思わず邪険に『コレ』と呼んでしまった金魚。けれど彩乃はそんな事は忘れたようで、今はもう目の前の、俊介の住む『立派なお家』に心を奪われていた。


「ねえ、早くこっちに移してあげましょうよ」


 彩乃がはしゃいだ様子で言うのを見て、俊介はホッとした。


「うん……でもその前に、水温合わせしなくちゃいけないんだ。それに猫除けの網も探さないといけないから、今日は取りあえず部屋に連れていくよ。あとでエアーポンプだけ倉庫から取ってくる」


 俊介はそう言って彩乃に微笑みかけると、玄関の鍵を開け、曇硝子くもりがらすの入った格子戸こうしどをガラガラ開き、中へと入った。

 彩乃はこのままガラス鉢から睡蓮鉢へ、金魚をザザッと移しかえれば終わりと思ったのに、また明日もこの白い金魚に二人の時間を奪われるのかと思い、ため息をついた。感情が、俊介の一挙一動で大きく揺れる。

 正直、厄介ものを背負い込まされた思いである。頼まれると断れない、優しい俊介。そんな所にやきもきさせられながらも、同時に魅かれてしまうのだから仕方ない。それにもう、俊介の家には着いたのだ。やっと二人きりになれる。その喜びの方が、結局は落胆を遥かに上回る。

 玄関の中に、パッと黄色い明りが灯った。


「彩乃、おいで」


 俊介が優しく呼ぶ声がする。

 彩乃はもう、俊介の前で決して嫌な顔はするまい、と心に決めた。

 この広い家に、今日から1週間、ずっと二人きりでいられるのだから。



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