追い星


「……ってなぁに?」

「……」

「ねぇ、俊介?」

「……えっ?!」


 話を聞きながら、ふいにぼんやりと浮かない顔をした俊介を、彩乃が心配そうに覗き込む。


「追い星って何?って、訊いたのよ」

「あ、あぁ、えっと……お、追い星ってのは、その……」

「発情したオスのエラやヒレに出てくる、白ぉい点々のことだぁ」


 動揺したように口ごもる俊介に代わって、老人は得意げに説明を続けた。


「つぶつぶした、ちいこい星みたいなのがくっきり出るほど、精が強くて、やる気まんまんの証拠なんだぁ。魚の場合は『交尾』じゃぁなくて『追尾ついび』ってぇんだけど、とにかくオスは、腹ん中にたっぷり溜まった精を、卵に思い切り良く、ぶちまけてぇもんだから、『早く卵ぉ、産めぇ、産めぇ』って、メスの脇腹ぁ、つんつんと口で小突きまわして急かすんだぁ。こんっ時のオスの、しつっけぇのなんのって、見てるわしらぁが羨ましいやら、うんざりするやらだぁ。まぁ、人間も一緒かもしれんがねぇ……ひょっひょっひょっ」


 老人が、入れ歯から空気の漏れたような笑い方をした。それを聞いて、彩乃は急に老人に対して強い嫌悪感を持った。

 犬やら猫ならともかく、鳴き声も発しない魚の生殖行動なんて、どうとも思った事が無かった。けれど、老人の思わせぶりな話し方のせいで『追尾』という行動が、臭うように生々しく彩乃の想像の世界に踏み込んできた。


 いやらしい……


 彩乃が露骨に顔をしかめたので、一瞬、何かに気を取られていたような俊介は、慌ててそこから話を飛ばし、先に進めようとした。俊介自身も、この話は出来れば避けたかった。


「へぇ……そうなんですか。で、その、結果は?上手くいったんですか?」


 少し怒ったように顔を赤らめた彩乃は、もうそんな話には興味が無いというように、老人から目を逸らし、むっつりとそっぽを向いて屋台の一番右の盥の中を覗いている。彩乃は、快、不快、の感情に対して正直だ。


「こん子は動きが鈍かったからなぁ、おんなじように鈍臭くて、背びれも無い、のんびり屋のランチュウだったら気が合うんじゃないかと思ったんだがなぁ……」


 老人の表情が曇る。


「同じ水槽に入れた途端、さっそく追尾を始めたんだけんど、ランチュウの方が性格が変わったように乱暴になってなぁ……こん子ぉは横に倒れたまんま、逃げることもままならんうちに

激しく小突かれっぱなしで……なんだか本当に、犯されてしまっているようでなぁ……」


 彩乃は聞くに堪えないというように眉をひそめ、それからチラリと俊介の横顔を盗み見た。すると俊介は唇を固く結び、今まで見たことの無いような険しい表情を浮かべていた。その顔は、青ざめているようにさえ見え、女の彩乃よりも遥かに気分が悪そうだ。

 けれど老人は、そんな俊介の顔色の変化にも、彩乃の嫌悪感にも気付かないまま無神経に話を続けた。


 ヲアタエル……


「……ちょいと気の毒なようには思ったんだけんど、まぁ、こういう時のオスは、多かれ少なかれ気ぃ狂ったみたいにメスを追っかけまわすもんだし……どの子も、そうやって卵ぉ産んできたんだし……長年の経験で大丈夫だろって、わしぁ、たかくくってたんだなぁ……」


 …ヲアタエル……


 頭の中がもやもやする


「……失敗だったんですか?」


 振り払え


「失敗だった」


 俺は冷静だ


 …ツヲアタエル……


「どうして?」


 あれは昔の事だ


「次の日、ランチュウはいなくなっとった」


 これとは別の話だ


「いないとは?」


 子供の頃の話だ


「食われて骨になっとった」


 

 オマエニバツヲアタエル



 俊介の頭に、あの日の自分の残酷な声が、はっきりと蘇る。


「ねぇ、もう行こうっ!!」


 彩乃が俊介の右腕を強く掴んだ。

 その強さが、過去の薄暗い幻聴の湧き出す心の水底から、俊介を救い上げた。

 彩乃の大きく見開かれた双眸には、明らかに怒りがこもっていて、その視線の先は老人に向けられている。

 老人が、金魚の『追尾』という行動について話を始めてから、俊介の様子が何故かおかしくなり始めた事に、彩乃は気付いていた。

 性に関して、彩乃以上に引っ込み思案な俊介。そんな俊介に、卑猥な妄想を掻きたてるような、思わせぶりな物言いをした老人を、彩乃は軽蔑した。

 単なる魚の交配の話が、人魚というイメージと共に、自分の頭の中で艶めかしく蠢き始めるのを、彩乃は何としても止めたかったし、俊介にもそんな事、想像して欲しくなかった。しかも、最後は「食われて骨になっていた」なんて、これ以上、薄気味悪い話は聞きたくもなかった。


 そう言えば、まだ食事もしていないのに……大体、今から買い物して私がご飯作ったら、慣れてないのに、いったい何時になるんだろう。それからシャワー入ったり、それに……いろいろ心の準備だってしたいし……金魚のことなんて、構ってられないわ……


 このまま老人の猥談に付き合うのは、時間の無駄だと、彩乃は判断した。


「俊介、もう帰ろう。こんな時間よ?それに、金魚って思ったより飼うの難しそうね。小突き合いとか、共食いとか……私はそんなの、絶対見たくないな。俊介だって、今まで何か嫌なもの、見ちゃった事あるんじゃないの?だからしばらく飼ってなかったんじゃないの?」


「そ、それは……」


 俊介は動揺して言葉に詰まった。俊介が、獣医師になるという夢を持つ事は、進学のプレッシャーも同時に抱える、という事だった。

 小学生の高学年の頃から、父と同じ大学に合格すると心に決め、コツコツとムラ無く勉強するよう努力した。

 中学受験、高校受験、中間テスト、期末テスト、塾の模擬テスト。次から次へとやってくる試験をひとつずつクリア―する度、夢に近づくと実感できた。

 しかしその一方では、少年時代を過ごす中、自然に経験するべき、感情的な何かしらを、俊介は無意識に回避し、犠牲にしてきた。その微かに欠けた部分が、時折、俊介の心に歪んだ波紋を落とす。


 そしてそれは、睡蓮鉢に広がった。

 小さな波紋が、蓮の葉蔭に輪を描くたび、金魚が一匹、姿を消していく。

 あの言葉と共に……


 そして、最後の一匹がいなくなった頃、俊介は希望の大学に合格した。

 それからは毎日忙しく、やりがいのある生活が始まった。今まで、勉強のために抑えてきた事を取り戻すかのように、俊介は色々な事を手放しで楽しんだ。

 サークル活動や合コン、アルバイト。そして短い期間ではあったけど、彼女と言える相手がいた時期もあった。心と体は満たされ、それからもう二度と、俊介は金魚を飼おうと思う事は無かった。

 毎朝通る、玄関脇の睡蓮鉢。その存在自体を、俊介は意識しなくなっていた。そして楽しい出来事が増えれば増えるほど、過去へ追いやられた金魚の後ろめたい記憶は、自分の中ですっかり都合の悪い部分だけが削ぎ落とされ、いつの間にか単なる『魚の飼育経験』として残された。

 けれど、彩乃の言うとおりだった。さっき、ハッキリと思い出した。しかも、嫌な事を『見た』のではなく、俊介が自分の意思で『実行』したのだ。そしてそれを、忘れた事にしていた。


 俺はあんな酷い事をしておきながら……


 相変わらず顔色が悪く、黙ったままの俊介を見て、彩乃は今度は老人に向かって柔らかい口調で、けれど目には非難の色を湛えたまま早口で言った。


「おじいさん、ごめんなさい。せっかくの金魚だけど、私達これからまだ一時間くらいかけて家に帰らなきゃいけないし、帰ってからまだ色々やる事あるの。だから……」


 俊介の横で、先ほどからピタリと口を閉ざしていた老人は、彩乃の刺すような視線の意味に、はたと気付いた様子で、手拭いを巻いた額をピシャリと叩いた。


「あれまぁ、気が利かんことで済まんねぇ、お嬢さん。わしゃぁどうも『気配り』ってぇもんが足りんようでなぁ。だから息子らぁにも、出てかれちまったんだろなぁ……。どうか気ぃ悪くせんでおくれ」


「いえ、良いんです。いろいろ可愛い金魚ちゃん達を見せて下さってありがとうございました。じゃぁ……」


 彩乃が手短に話を締めくくり、俊介の腕をとって有無を言わさず屋台の前から立ち去ろうとすると、老人は慌てて二人を引きとめようとした。


「ちょ、ちょっと待ってくれんかね……!!」


 けれど二、三歩踏み出した途端に、雪駄の先が地面に詰まり、老人は思い切り蹴つまずいた。

 玉石が激しく飛び散る音と、低い呻き声が聞こえ、俊介と彩乃は驚いて振りかえった。すると老人が、がっくりと両手を前について、土下座するような姿で屈み込んでいた。


「お、おじいさん!!」


「だ、大丈夫ですか?!」


 さすがに彩乃も驚いて、再び老人の元に駆け寄った。そして法被を羽織った腕を白くすんなりとした手で握った。すると指先に、ゴロリと意外にも太い骨の感触が伝わって、それと共にさっきの青い鱗の刺青が頭に浮かんだ。その鱗が、自分の手にも生えてきそうな気がして悪寒が走る。そして静かに、老人から身を離した。

 彩乃には、もう老人を最初の時のように、親しみを持って受け入れることができなくなっていた。しかし俊介は、老人の狭い肩を左手で抱くようにすると、自分の右手を捕まらせ、


「ゆっくりと立ちましょう」


 と言いながら、少しずつ老人を起こしてやった。


「やれやれ申し訳ない……」


 なんとか時間を掛けて立ち上がった老人は、俊介に手を引かれ、再び破れた円椅子に「よっこらしょ」と言いながら座り込んだ。


「痛い所は無いですか?」


 俊介は老人の手のひらを片方ずつそっと、表、裏、とせんべいのように返してから、その表情を見守った。

 けれど老人は、転んだはずみで入れ歯がずれたのか、鼻の下をゴムのように大げさに伸ばし、それから薄い唇を横に思い切り広げた以外は、特に痛がる様子も見せなかった。

 そして、自分で手首をぶらぶらと振ってから、その汚れた手のひらをパンパンっと柏手を打つように大きく鳴らし、最後にズボンの膝をゴシゴシと撫でた。


「どうやら何ともないようだぁ」

「良かった」


 俊介は胸を撫で降ろし、それから屋台の正面に突っ立ったままの彩乃にも笑いかけた。

 彩乃は複雑な心境で、それに力無く微笑み返すと、玉砂利の上に落ちていた手拭いを拾って、俊介に渡した。俊介はそれを受け取り、老人の前にひざまずくと、再び手をとり、その節の立った指の一本一本を確認するように拭ってやった。老人はしばらく黙って目を細め、気持ち良さそうに、されるがままになっていた。それから、鳥居の向こうの薄暗い竹藪をぼんやりと眺めながら、口元に深い縦じわを寄せ、何か考え事をしているようだ。

 それは、遠い若かりし頃、小さな体でリヤカーをグイグイと引きながら歩いていく自分の雄姿を思い浮かべ、まるでそんな自分自身に嫉妬でもしているような、切なく、やるせない表情だった。

 たるんだまぶたの奥で、小さな目が潤んでいく。


「……ありがとうなぁ」


 老人の目から、涙がこぼれ落ちないうちに帰らねば。ここで涙を見せられたら、きっと捨て犬を置き去りにするような気持ちになって、このままズルズルと帰れなくなってしまうに違いない。

 俊介はそう思い、最後の小指を拭き終えると、手拭いを畳んで屋台のふちに掛け、それからゆっくりと立ち上がり、改めて暇乞いとまごいをした。


「結局、冷やかしだけですいません。じゃあ僕ら、これで失礼しますけど、おじさんもくれぐれも……」

「た、頼む……待ってくれぃ……」


 老人は俊介を再び弱々しい手つきで引きとめた。そして口の中で何かパクパクと口ごもる。それがさっき見せてもらった人魚の口の動きと似ている気がして、固かった俊介の表情がほころんだ。


「どうしました?」


 俊介が優しく問いかけると、老人は皺の寄った唇を震わせて、それからようやくふっ切るように言いだした。


「わしぁあんたらに……いや、あんたに頼みたい事ができた……」


 老人はすがるような目で俊介を見つめた。それは檻の中で死を待つばかりの老犬の、白濁した哀れな目を思い出させた。





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