人魚
聞き違いかと思い、今度は俊介が耳の遠い老人の
「い、今、人魚って言いましたぁっ?!」
すると老人は肩をビクリと跳ね上げ、
「そんな大きい声、耳元で出さなくても聞えるてぇ!」
と、怒ったように言い、口を
「す、すいません、何だか人魚って聞えたような気がして……」
先ほどの、老人の
けれど、老人は大真面目に答えた。
「そうだぁ。あん中にぁ、人魚がおるんだ」
さっきから傍で二人のやり取りを見ていた彩乃は、我慢しきれず横から口を挟んだ。
「ねぇ、なに?どれが人魚なの?」
「ほら、あの棚の下の奥。何か白いのが見えるだろう?」
俊介がニヤニヤしながらそこを指差すと、彩乃も一生懸命、首をかしげて棚の奥を覗き込んだ。それを見て老人は「やれやれ」と複雑な表情で、坊主頭を右手で撫でた。それから少しして、思い直したように二人に訊ねた。
「……見てみたいかいね?」
俊介と彩乃は面白半分に、2、3度、素早く頷いた。それを見て老人は、首からするりと手拭いを抜きとると、
「じゃあ、あんたらにぃは、特別に見せてやろうかぃね」
と言って、重くまぶたの被さった小さな目を、一瞬、怪しく光らせた。それから手拭いを頭に巻くと、
その腕で、たらいを波立たせないよう、そっと右へとずらして隙間を作り、そこから棚の下に両手を差し入れた。
老人の曲がった背中が、さらに不自然に傾く。そして奥の方から、やや小ぶりなガラス鉢を、
引きずらないよう、慎重に取りだした。
「はぁ……」
彩乃の口から、ため息とも納得ともつかない、短い声が漏れる。
それは明らかに、落胆の色を帯びていた。老人の手の中の透き通ったガラス鉢の中には、
長い
どう見ても、単なる金魚。夢物語に出てくるような、上半身人間、下半身魚という、いわゆる人魚の姿では全く無い。けれど俊介は、その様子に、すぐに異様なものを感じた。
体調は、5センチほど。全体にうっすらと桃色を帯びた、白く艶やかなウロコに覆われている。そして、羽衣のように美しく伸びた胸びれと、すらりとした脚のように揺らめく二股に分かれた尾びれ。その尾びれの長さだけでも、6センチ以上あるせいで、実際のサイズよりもかなり大きく見えたようだ。
それはよしとして、さらにじっくり観察すると、その金魚には、背びれと腹びれというものが無かった。そしてなぜか鉢の底で、眠たがる幼女のように、口をパクパクさせながら横たわっているのである。
横たわって、である。
泳がずに。
俊介は不思議に思い、膝に手を付き腰を落とすと老人が手にした金魚鉢に顔をヌッと近づけ、横たわる金魚を鉢の下から覗き込んだ。
丸いガラスに、デフォルメされた顔が漫画のように滑稽に映る。突然現れた大きな顔に、白桃色の金魚は驚いたのか、たった4枚しかない華奢なヒレをバタつかせると、ようやく縦に起き上がり、それから俊介の視界から逃れるように、鉢の上へ上へとぎごちなく泳ぎ始めた。その不器用な様といったら、とても魚とは思えない。
そしてしばらく水面でも口をパクパクさせて、鉢の周りをようやく一周すると、すぐに力尽きたように鰭をだらりと休めて底の方に沈んで行き、また横にパタリと倒れた。
それを見て、俊介は眉をひそめた。
「この子ぁ、奇形なんだぁ」
老人がぽつりと言った。
「き……」
彩乃は、言葉を繰り返そうとし、途中でやめた。
「……元はコメットですか?」
俊介の頭に、流線形の胴体と長い鰭を持った、美しい姿の金魚が浮かんだ。
「いんや、ちょっこし違うんだぁ。尾びれの形をよく見てみぃ?」
老人は言いながら、金魚鉢を差し出した。俊介は、両手を鉢の底にしっかりと宛がって受け取ると、中の金魚をもっと詳しく見ようと思い、明るい裸電球に鉢をかざすように近づけた。
すると金魚は、急に白い鰭をバタつかせ、激しく暴れ始めた。
「これ、あんたっ!そんなに眩しくしちゃぁいかんてばっ!!」
老人が慌てて両手を振りながら叫んだので、俊介はハッとした。
しまった……つい、クセが……
そして、急いで屋台にくるりと背を向けて、電球の強い光から金魚鉢を遠ざけた。
びっくりして、ガラスに当たりまくる気の毒な金魚。それをなだめるように、俊介は「ごめん、ごめん」と優しく言って、鉢に腕を巻きつけ暗くしてやった。無意識のうちに、実験動物を観察するような態度をとってしまった事を、俊介は恥じた。
「人魚って、ずいぶん神経質なのね……」
彩乃は、叱られた俊介を慰めるように囁くと、老人には見えないように小さく舌を出した。
それに答えるように、俊介も肩をすくめて、無言の笑みを返す。
しばらく鉢を抱いてやっていると、金魚も次第に落ち着きを取り戻したようで、また底の方に、静かにスーっと降りていった。そして、ガラス鉢に添えられた俊介の右手に、もたれるように斜めになった。
「わっ、なにこの子、可愛い!何だか甘えてるみたいじゃない?」
俊介の手のひらに、安心したように体を預ける金魚の姿に、彩乃は思わず感嘆の声を上げた。
「ホントだね。よしよし、いい子だ、いい子だ」
俊介も調子を合わせ、白く柔らかそうな腹部を人差し指で撫でるような素振りをすると、金魚は一層、喜んだ様子で、尾びれを一度大きく揺らし、さらに鉢に体をこすり付けてきた。
「おやぁ?なんだ、産卵の仕草みたいだなぁ」
俊介にすり寄るような金魚を見て、老人は目を三日月のように細めて意味ありげな笑みを浮かべた。
「まるで猫みたいですね。魚がこんなふうに甘えるの、俺、初めて見ました」
俊介が嬉しそうに言うと、老人はまた得意げに鼻の穴を膨らませた。
「そうだろが?可愛いだろが?こん子はわしの娘みたいなもんだけぇ、大事に大事に4年間、育ててきたんだぁ。何でか不憫な体に生まれちまったけども、一生懸命、けなげに生きとるでなぁ……」
尾を震わせてなついてくる金魚を、ガラス越しにくすぐりながら、俊介はその姿をじっくりと観察した。
その脚のような長い尾を、横に振って泳ぐ。横に付いているものを横に振っても、推進力が付かないのは当たり前だ。扇子のあおぎかたを間違えているようなもので、これでは上手に泳げるはずが無い。
「最初からこんな泳ぎ方なんですか?」
「そうなんだぁ。初めてこん子ぉ見つけたんは、
「和金……ですか」
一番シンプルな和金とは意外な気がした。
「何だか一匹だけ、ぶきっちょな子が混じってんなぁ、とは思ってたんだけど、ちぃちゃい頃はそんでもわりとポンプの水流に乗ってひらひら泳いどったから、なんら困ることもなくって、取りあえずは面白おかしく、様子見とったんだぁ」
金魚がすっかり大人しくなったので、俊介は屋台の方へ向き直り、ゆっくりと鉢を覆うように抱いていた腕を解き、もう明かりで金魚が暴れない事を確認してからガラス鉢を老人に返した。
老人は目を細めてそれを受け取ると、左の盥の脇にそっと置いて話を続けた。
「けんどな、そのうちメダカくらいの大きさぁ過ぎた頃になってきたらなぁ、体が重たくなったんだか、段々水の流れにも乗れなくなって、おまけにヒレもぐんぐん伸び始めて、もっと鈍臭くなってって……そしたら、他の和金の子らぁが寄ってたかって、小突きまわすようになってしまったんだぁ。こん子は、すばしっこく逃げ回る事もできんでぇ、あっという間に傷だらけになって、きれいに伸びとったヒレもすっかりボロボロにされっちまったんだぁ」
「可愛そう……金魚の子供の世界にもイジメってあるのね……」
彩乃がため息をつくようにつぶやく。
「そうなんだぁ。わしこのまんまじゃぁ、こん子が殺られっちまうと思ってな、別の鉢に移して、家ん中で飼い始めたんだぁ。いじめられんのが不憫だったのもあっけど、なんちゅうか、その手足の長い『人』みたいな形に愛着が湧いちまってなぁ。……本当だったら正直言って、形の不細工なのは一銭の得にもならんから、すぐに処分しちまうんだけんど……」
「確かに。最初は人魚って言われて『えっ?』て思ったけど、じっと見てるとユーモラスだし、甘えてくるし……本当、人みたいで、守ってやりたくなりますね」
それは俊介の本心から出た言葉だった。もう盥の中のどの出目金や琉金よりも、その『欠陥』を持って生まれた『人魚』の方に、俊介の心は惹きつけられていた。
「わしもちょうどなぁ……一緒に養殖やっとった息子夫婦と、なぁんか意見合わないようになって、ケンカ別れしちまって……ちいこい可愛い孫娘連れて、東京に出て行かれちまった後だったもんでなぁ……」
老人は、遠い目をしながら金魚鉢の縁を、枯れ枝のような指で数回撫でた。
「余計に淋しかったもんで、代わりにこん子にぁよう目ぇ掛けて、特別に可愛がってやったんだぁ」
盥の向こうで、長く白い胸鰭が、老人に応えるようにひらりと動くのが見えた。恐らく『人魚』は、また鉢の底で怠惰に寝そべっているのだろう。
「でもなぁ、三年くらい経って、こん子もそれなりに年頃になったし、うまく泳げんとは言え、形のきれいな子ぉだし……ひょっとして、血筋の良いオスと掛けたら、面白い新種ができるんじゃないかぁって、ちょいと欲がでてなぁ……試しに『追い星』が胸鰭の脇に出とった、うちで一番高値で上等のランチュウと一緒に、産卵槽に移してみたんだぁ」
ヲアタエル
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