金魚売りの屋台


 盥の中の金魚達を眺めながら、俊介は強い喉の渇きを感じた。

 そして、彩乃の指先を握る手はそのままに、ボストンバックを肩に掛けた方の手で、ラムネ瓶を口に当て、一口飲んだ。

 刺激のある炭酸水が喉を流れる。その音が、ゴクリと妙に大きく感じられ、俊介はそれを誤魔化すように、一度軽く咳払いをしてから言った。


「彩乃はどれが好き?」

「うーん……そうねぇ……」


 無意識に甘えた声が出る。彩乃は、俊介がようやく自から手を繋いできてくれた事が嬉しかった。茶色い粗目ざらめのように固まっていた胸の中が、綿あめのようにフワフワと白くふくらみ、それから優しく溶けていくようだ。

 

 三つの盥の中には、様々な色や形の金魚が泳いでいた。ほっそりとした、鮮やかな赤一色の和金。ずんぐりとした体に、長い尾びれが美しい琉金りゅうきん。そして、大きく飛び出た目玉が愛嬌あいきょうのある、黒や赤の出目金。それらが透けるような尾びれや腹びれを優雅にあやつり、澄んだ水の中を漂う姿は、いかにも涼しげに見えた。そして良く見ると、どうやら金魚達は、その大きさごとに分類されているようだった。


 一番左側の盥には、体調3センチくらいの小さなもの。そして真ん中は5センチくらい。右端にはそれよりさらに大きい7センチ以上のもので、盥自体もやや深目だ。


「気に入った子ぉは、見つかったかいね?」


 すぐ後ろで、突然、しわがれた低い男の声がして、俊介と彩乃は息を飲み、弾かれたようにつないでいた手と手を離した。


 振り向くと、そこにはいつの間にか、せみの抜け殻のように背中の曲がった半被はっぴ姿の老人が立っていた。

 ちりめんじわに一面覆われた顔には、人の良さそうな笑みが浮かんでいる。


「ああ、びっくりした……」


 彩乃は危うく綿あめの棒を取り落とすところだった。しかし声を掛けてきたのが、全く害の無さそうな、小柄な老人だという事が分かってホッとした。そして手のひらで、その豊かな胸を撫で下ろした。さっきまで俊介の持っていたラムネ瓶の水滴か、それとも握り合っていた二人の手に、じわりといた汗なのか。撫で下ろした薄地のTシャツの胸元に、透けるような小さい水染みずじみが浮かんだ。


「あの。金魚すくいやりたいんですけど」


 俊介は、老人が「よいこらしょ」と言いながら、屋台の裏へと雪駄せったを引きずり歩いて行く、その背中に声を掛けた。紺色の半被の背には、太い円で囲まれた『金』という紋がくっきりと入っている。

 俊介の声は、草履ぞうりが玉砂利を散らす音が邪魔をして、老人の耳には届かなかったようだ。俊介を無視したまま、老人は座面の破れたドーナツ型の円椅子まるいすにちょこんと腰掛け、枯れ枝のように細く陽に焼けた腕を屋台のふちに乗せ、まるで石の置物のように、しわだらけの笑みを浮かべたまま黙っている。

 仕方なく俊介はもう一度、やや怒鳴るように言った。


「金魚すくいっ!!、おいくらですか?」


 どうやら老人は耳が少し遠いようで、首に掛けた手ぬぐいで、右の耳のふちこすりながら、たるんだまぶたを精一杯広げるように目を見開き、俊介の顔を見た。瞼を無理に持ち上げると、その反動で額に皺がひだのように幾重にも刻まれた。

 俊介がムキになって声を張り上げたので、彩乃はそれがおかしくて噴き出した。そして老人の方に、屋台越しに顔を突き出し、口元に拡声器のように手を当てて、俊介の言った言葉を繰り返した。


「金魚すくいは、おいくらですか?」


 すると彩乃の高い声は耳に届いたようで、老人は再び柔和にゅうわな笑顔に戻って答えた。


「あぁ、金魚すくいかいね」

「はい」

「うちはやっとらん」

「えっ??」


今度は彩乃が大きく目を見開いた。そして盥を指差し、大きな声で訊いた。


「じゃあ、この金魚達は?」

「これは売ってるだけ。金魚ひらいはやっとらん。傷が付くと気の毒だけぇ」

「傷?」


俊介が問い返すと、老人は目を細めて口を尖らし、首を横に振って答えた。


「そうだぁ。すくい網で追っかけまわすと、どうしても金魚の体、あっちこっちぶつけらぁ?

そすっと、ちぃちゃこい傷ができて、どんどん元気がなくなってくんだぁ。ヒレもビリビリ破れてしまっと、育てたもんとしちゃぁ見てらんねぇ」


 彩乃と俊介が、今まで思いもよらなかったその言葉に顔を見合わせていると、老人はニンマリと笑い、


「うちの子らぁ見てちょうだいな」


 と言って、トン、トン、トン、と屋台のふちを指で優しく小気味良く叩き始めた。すると三つの盥の金魚達は、くるりと尾びれをひるがえし、音のする方へ一斉に集まり始めた。それから老人が手を伸ばし、少し遠くの縁を叩きだすと、今度は、そっちに向きを変えて泳ぎ出し、そしてまた元の所を叩き始めればそちらに向かい、まるで老人の指揮に従ってダンスを踊っているかのようだ。


「わぁっ、すごい、すごい!お利口なのね!!」


 彩乃は無邪気に歓声を上げて喜んだ。それを聞いて老人は満足そうに、ひょっ、ひょっ、ひょっ、と声を上げて笑った。


「わしの心を込めて育てた子ぉ達なんだぁ。好いてもらって、大事にしてくれる人に買ってもらいたいんだぁ」


 そう言って、盥の中の金魚を瞼をたるませ、愛しそうに眺めた。俊介は好奇心に駆られ、同じように屋台のささくれた木の縁を、トントントン、と小突いてみた。しかし金魚達は俊介の指揮には知らんぷりで、全く反応を示さなかった。


「単なる反射じゃないんだ。おじさんの言う事しか聞かないんですね」


 俊介は、感心したように言った。


「そんなこたぁ無いよ。ちゃんと世話してやりゃぁ、すぐになつくもんだぁ。あんた優しそうな顔してるから、すぐにこん子らぁにも好いてもらえるてぇ」


 どこの訛りとも知れない、気の抜けたような独特の口調でそう言われ、俊介は照れ笑いを浮かべた。


「そのお気持ち、分かります。俺……いえ、僕たち、捨て犬の世話をするボランティアやってて、今日も街道沿いのショッピングセンターで、里親探しの手伝いやってきたんですけど、世話してるとやっぱり情が移って、良い貰い手さんが見つかるようにって、心から思うんです。中途半端な飼い主に貰われて、また捨てられるなんて事が無いように、僕たちも仲間と一生懸命やってるんです」


 俊介は誇らしげに言うと、隣にいた彩乃の肩に手を置いた。その俊介らしからぬ自信に溢れた行動に、彩乃はびっくりして抱かれた肩をすくめた。しかし悪い気はしなかった。むしろ、とても嬉しく感じた。

 そんな二人を老人は微笑ましそうに眺めると、白髪の坊主頭を、手拭いでごしごし擦りながら言った。


「そうかそうかぁ。若いもんも頑張ってんだなぁ。金魚ってぇもんはまぁ、割合丈夫なもんだぁ。けど、そん時の祭り気分で金魚ひらって、入れる鉢も無いのに持って帰って、ビニールん中入れたまんま、次の日にはもう死なせちまうなんてぇのは、育てたほうとしちゃぁ、そりゃ切ないもんだ」

「そうですね。犬でも鳥でも魚でも、お金を出して買って、はい終わり、ってわけじゃないですから……。最後まで責任持って飼うことが大事なんだって、忘れないようにしないといけませんよね……」


 老人は鼻の穴をふくらまし、大きく頷いた。それから少し疑わしそうに、俊介の目を見て訊いた


「ところで、あんたんとこは金魚鉢あるんだねぇ?」

「ええ。金魚鉢ではないですが、玄関先に大きな睡蓮鉢すいれんばちがあるんです。ずっと昔……そう、小学生の頃、縁日の金魚すくいで獲った金魚を、その中でたくさん飼ってたんですけど……」


 俊介は言い淀んだ。


「まぁ、その何て言うか……段々いなくなって……結局二年くらい前には、全部死んじゃって……」

「そりゃ寿命だろうなぁ。金魚は長生きしたとして、10年か15年だかんなぁ。子供ん頃にひらった金魚が、なんだかんだ二年前までいたってんなら、兄ちゃん大したもんだぁ」


 老人が寿命と言ったので、俊介はホッとした。

 実は金魚には、後ろめたい思い出があった。

 けれどそれは言わずに、そのまま続けた。


「それからずっと、蓮の鉢が入ってるだけなんで、その中でまた飼うことができます。猫除けの金網も、探せばまだ倉庫に入っているはずだし」


 それを聞くと、老人はまた大きく頷いた。


「そんなら問題ないなぁ。よし、好きなの選んでやってくれ。あんたぁ気に入った。無料ただで欲しいだけ持っていきなぁ」

「えぇっ!?そんな、良いですよ!!ちゃんとお金払います。ていうか一匹、おいくらなんですか?いろんな大きさのがいますけど……」

「気にしなくて良いから良いから、大っきい子ぉでも、小っさい子ぉでも、出目でも何でも選んで良いって」


 彩乃と俊介は再び顔を見合わせ、それから小さくうなずくと、


「じゃあ、二人で気に入った『子』を、一匹ずつ頂いていきます」


 と答えた。それから二人は屋台の前に横に並び、三つの盥の中を一つ一つじっくりと点検した。

 彩乃は、金魚を飼うのは初めてだった。本音を言うと、猫や犬など毛触りを楽しめる哺乳類の方が好きで、水の中の生き物は見て楽しむのは悪くないが、手に取って触れないものを飼ってみたいとは思わなかった。けれど俊介が世話をしてくれるのなら良いだろうと、気楽な気持ちで盥の中の金魚を物色していた。


「うーん……琉金も綺麗だけど、出目金がやっぱり可愛いかしら……」


 彩乃は、食べ終えた綿あめの棒を右手に持って片腕を組み、口元に軽く左手を添えながら、泳ぐ金魚達を目で追った。その瞳が裸電球に照らされ、キラキラ光る。そんな彩乃を、俊介は眩しそうに見守った。二人は今、腕が温かく触れあうほどの距離にいて、もはやそれに対してお互い何の違和感も無い。彩乃は間違いなく俊介と一つになる事を望んでいる。

 

 そして今晩、そうなるべきなのだ……


 そんな思いで愛らしい横顔を見つめていると、彩乃がふと、唇に当てていた親指を舐めた。

 指先に残る綿あめの甘い匂いが、無意識にそうさせたのかもしれない。ふっくらと柔らかそうな唇に、親指がするりと吸い込まれ、それから小さな赤い舌先が、その丸い爪の周りを円を描くように、ゆっくり濡らしていくのが見えた。

 それを見て、俊介の中に目眩めまいのような感覚と同時に、激しい肉体的な衝動が湧き起こり、彩乃のその湿った口元から慌てて目を逸らせた。そして大きく息を吸いこみ、束の間、目をつむる。


 彩乃を今日、俺は抱くんだ……


 先走る妄想を追い払うように、静かに、長く、息を吐く。

 それから心を整え、俊介はそっと目を開いた。

 すると、屋台の一番左端に焦点が合った。


 小ぶりな金魚達の入った、左の盥の後ろ側。光に照らされた、売り物の金魚鉢が並んだ棚の下段。木の棚板で陰になった薄暗い奥の方に、水を湛えた小さな鉢の、下半分が見えた。

 その半球体の、暗い水の底を、白い羽のようなものがひらりとよぎる。


「ん?」


 不思議に思った俊介は、身をよじるようにして棚の下を覗き込んだ。

するとそこには確かに、隠すように置かれた鉢があり、

中に一匹だけ、やや大ぶりの、形の違う金魚がいるようだ。


「おじさん、それは何??」


 俊介の問いかけに、屋台裏の円椅子に腰掛けていた老人は、亀のように首を伸ばして、棚に並んだ金魚鉢の間から、ひょこりと顔を覗かせた。


「決まったかいなぁ?」

「いえ、その……そこにある、おじさんの右横の……表の盥の陰になってる、その棚の下の金魚は何ですか?」


 すると老人は、ハッとしたように額の皺をまた極端に上に寄せ、一瞬、目を鋭く開いた。けれど、すぐまた元のだらりと力の無い目つきに戻った。その表情の変化が、何を意味するものなのか。訊いて良いのか戸惑いつつも、俊介の好奇心が上まわる。


「何だか、他の金魚とは種類が違うみたいですね」

「……これかぁ?これはなぁ……」


 老人は困ったように額に手をやり、ため息を付いた。それから両膝に手を当てて、また「よいこらしょ」と、声に出してゆっくり立った。そして眉根を寄せて『耳を貸せ』と言うように俊介に向かって手招きした。俊介は訝しげに老人に近づくと、その口元に顔を寄せた。

 シワの寄った唇の奥から、えた魚のはらわたのような臭いが鼻をつき、老人が小声で囁く。それを聞いて俊介は、思わず目を見開いた。


 「に……人魚?!」




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