金魚売りの屋台
盥の中の金魚達を眺めながら、俊介は強い喉の渇きを感じた。
そして、彩乃の指先を握る手はそのままに、ボストンバックを肩に掛けた方の手で、ラムネ瓶を口に当て、一口飲んだ。
刺激のある炭酸水が喉を流れる。その音が、ゴクリと妙に大きく感じられ、俊介はそれを誤魔化すように、一度軽く咳払いをしてから言った。
「彩乃はどれが好き?」
「うーん……そうねぇ……」
無意識に甘えた声が出る。彩乃は、俊介がようやく自から手を繋いできてくれた事が嬉しかった。茶色い
三つの盥の中には、様々な色や形の金魚が泳いでいた。ほっそりとした、鮮やかな赤一色の和金。ずんぐりとした体に、長い尾びれが美しい
一番左側の盥には、体調3センチくらいの小さなもの。そして真ん中は5センチくらい。右端にはそれよりさらに大きい7センチ以上のもので、盥自体もやや深目だ。
「気に入った子ぉは、見つかったかいね?」
すぐ後ろで、突然、しわがれた低い男の声がして、俊介と彩乃は息を飲み、弾かれたように
振り向くと、そこにはいつの間にか、
ちりめん
「ああ、びっくりした……」
彩乃は危うく綿あめの棒を取り落とすところだった。しかし声を掛けてきたのが、全く害の無さそうな、小柄な老人だという事が分かってホッとした。そして手のひらで、その豊かな胸を撫で下ろした。さっきまで俊介の持っていたラムネ瓶の水滴か、それとも握り合っていた二人の手に、じわりと
「あの。金魚すくいやりたいんですけど」
俊介は、老人が「よいこらしょ」と言いながら、屋台の裏へと
俊介の声は、
仕方なく俊介はもう一度、やや怒鳴るように言った。
「金魚すくいっ!!、おいくらですか?」
どうやら老人は耳が少し遠いようで、首に掛けた手ぬぐいで、右の耳の
俊介がムキになって声を張り上げたので、彩乃はそれがおかしくて噴き出した。そして老人の方に、屋台越しに顔を突き出し、口元に拡声器のように手を当てて、俊介の言った言葉を繰り返した。
「金魚すくいは、おいくらですか?」
すると彩乃の高い声は耳に届いたようで、老人は再び
「あぁ、金魚すくいかいね」
「はい」
「うちはやっとらん」
「えっ??」
今度は彩乃が大きく目を見開いた。そして盥を指差し、大きな声で訊いた。
「じゃあ、この金魚達は?」
「これは売ってるだけ。金魚ひらいはやっとらん。傷が付くと気の毒だけぇ」
「傷?」
俊介が問い返すと、老人は目を細めて口を尖らし、首を横に振って答えた。
「そうだぁ。すくい網で追っかけまわすと、どうしても金魚の体、あっちこっちぶつけらぁ?
そすっと、ちぃちゃこい傷ができて、どんどん元気がなくなってくんだぁ。ヒレもビリビリ破れてしまっと、育てたもんとしちゃぁ見てらんねぇ」
彩乃と俊介が、今まで思いもよらなかったその言葉に顔を見合わせていると、老人はニンマリと笑い、
「うちの子らぁ見てちょうだいな」
と言って、トン、トン、トン、と屋台の
「わぁっ、すごい、すごい!お利口なのね!!」
彩乃は無邪気に歓声を上げて喜んだ。それを聞いて老人は満足そうに、ひょっ、ひょっ、ひょっ、と声を上げて笑った。
「わしの心を込めて育てた子ぉ達なんだぁ。好いてもらって、大事にしてくれる人に買ってもらいたいんだぁ」
そう言って、盥の中の金魚を瞼をたるませ、愛しそうに眺めた。俊介は好奇心に駆られ、同じように屋台のささくれた木の縁を、トントントン、と小突いてみた。しかし金魚達は俊介の指揮には知らんぷりで、全く反応を示さなかった。
「単なる反射じゃないんだ。おじさんの言う事しか聞かないんですね」
俊介は、感心したように言った。
「そんなこたぁ無いよ。ちゃんと世話してやりゃぁ、すぐに
どこの訛りとも知れない、気の抜けたような独特の口調でそう言われ、俊介は照れ笑いを浮かべた。
「そのお気持ち、分かります。俺……いえ、僕たち、捨て犬の世話をするボランティアやってて、今日も街道沿いのショッピングセンターで、里親探しの手伝いやってきたんですけど、世話してるとやっぱり情が移って、良い貰い手さんが見つかるようにって、心から思うんです。中途半端な飼い主に貰われて、また捨てられるなんて事が無いように、僕たちも仲間と一生懸命やってるんです」
俊介は誇らしげに言うと、隣にいた彩乃の肩に手を置いた。その俊介らしからぬ自信に溢れた行動に、彩乃はびっくりして抱かれた肩を
そんな二人を老人は微笑ましそうに眺めると、白髪の坊主頭を、手拭いでごしごし擦りながら言った。
「そうかそうかぁ。若いもんも頑張ってんだなぁ。金魚ってぇもんはまぁ、割合丈夫なもんだぁ。けど、そん時の祭り気分で金魚ひらって、入れる鉢も無いのに持って帰って、ビニールん中入れたまんま、次の日にはもう死なせちまうなんてぇのは、育てたほうとしちゃぁ、そりゃ切ないもんだ」
「そうですね。犬でも鳥でも魚でも、お金を出して買って、はい終わり、ってわけじゃないですから……。最後まで責任持って飼うことが大事なんだって、忘れないようにしないといけませんよね……」
老人は鼻の穴をふくらまし、大きく頷いた。それから少し疑わしそうに、俊介の目を見て訊いた
「ところで、あんたんとこは金魚鉢あるんだねぇ?」
「ええ。金魚鉢ではないですが、玄関先に大きな
俊介は言い淀んだ。
「まぁ、その何て言うか……段々いなくなって……結局二年くらい前には、全部死んじゃって……」
「そりゃ寿命だろうなぁ。金魚は長生きしたとして、10年か15年だかんなぁ。子供ん頃にひらった金魚が、なんだかんだ二年前までいたってんなら、兄ちゃん大したもんだぁ」
老人が寿命と言ったので、俊介はホッとした。
実は金魚には、後ろめたい思い出があった。
けれどそれは言わずに、そのまま続けた。
「それからずっと、蓮の鉢が入ってるだけなんで、その中でまた飼うことができます。
それを聞くと、老人はまた大きく頷いた。
「そんなら問題ないなぁ。よし、好きなの選んでやってくれ。あんたぁ気に入った。
「えぇっ!?そんな、良いですよ!!ちゃんとお金払います。ていうか一匹、おいくらなんですか?いろんな大きさのがいますけど……」
「気にしなくて良いから良いから、大っきい子ぉでも、小っさい子ぉでも、出目でも何でも選んで良いって」
彩乃と俊介は再び顔を見合わせ、それから小さく
「じゃあ、二人で気に入った『子』を、一匹ずつ頂いていきます」
と答えた。それから二人は屋台の前に横に並び、三つの盥の中を一つ一つじっくりと点検した。
彩乃は、金魚を飼うのは初めてだった。本音を言うと、猫や犬など毛触りを楽しめる哺乳類の方が好きで、水の中の生き物は見て楽しむのは悪くないが、手に取って触れないものを飼ってみたいとは思わなかった。けれど俊介が世話をしてくれるのなら良いだろうと、気楽な気持ちで盥の中の金魚を物色していた。
「うーん……琉金も綺麗だけど、出目金がやっぱり可愛いかしら……」
彩乃は、食べ終えた綿あめの棒を右手に持って片腕を組み、口元に軽く左手を添えながら、泳ぐ金魚達を目で追った。その瞳が裸電球に照らされ、キラキラ光る。そんな彩乃を、俊介は眩しそうに見守った。二人は今、腕が温かく触れあうほどの距離にいて、もはやそれに対してお互い何の違和感も無い。彩乃は間違いなく俊介と一つになる事を望んでいる。
そして今晩、そうなるべきなのだ……
そんな思いで愛らしい横顔を見つめていると、彩乃がふと、唇に当てていた親指を舐めた。
指先に残る綿あめの甘い匂いが、無意識にそうさせたのかもしれない。ふっくらと柔らかそうな唇に、親指がするりと吸い込まれ、それから小さな赤い舌先が、その丸い爪の周りを円を描くように、ゆっくり濡らしていくのが見えた。
それを見て、俊介の中に
彩乃を今日、俺は抱くんだ……
先走る妄想を追い払うように、静かに、長く、息を吐く。
それから心を整え、俊介はそっと目を開いた。
すると、屋台の一番左端に焦点が合った。
小ぶりな金魚達の入った、左の盥の後ろ側。光に照らされた、売り物の金魚鉢が並んだ棚の下段。木の棚板で陰になった薄暗い奥の方に、水を湛えた小さな鉢の、下半分が見えた。
その半球体の、暗い水の底を、白い羽のようなものがひらりと
「ん?」
不思議に思った俊介は、身を
するとそこには確かに、隠すように置かれた鉢があり、
中に一匹だけ、やや大ぶりの、形の違う金魚がいるようだ。
「おじさん、それは何??」
俊介の問いかけに、屋台裏の円椅子に腰掛けていた老人は、亀のように首を伸ばして、棚に並んだ金魚鉢の間から、ひょこりと顔を覗かせた。
「決まったかいなぁ?」
「いえ、その……そこにある、おじさんの右横の……表の盥の陰になってる、その棚の下の金魚は何ですか?」
すると老人は、ハッとしたように額の皺をまた極端に上に寄せ、一瞬、目を鋭く開いた。けれど、すぐまた元のだらりと力の無い目つきに戻った。その表情の変化が、何を意味するものなのか。訊いて良いのか戸惑いつつも、俊介の好奇心が上まわる。
「何だか、他の金魚とは種類が違うみたいですね」
「……これかぁ?これはなぁ……」
老人は困ったように額に手をやり、ため息を付いた。それから両膝に手を当てて、また「よいこらしょ」と、声に出してゆっくり立った。そして眉根を寄せて『耳を貸せ』と言うように俊介に向かって手招きした。俊介は訝しげに老人に近づくと、その口元に顔を寄せた。
シワの寄った唇の奥から、
「に……人魚?!」
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