第1章

ラムネと綿あめ


「金…魚、屋?……だって」


 彩乃あやのは、古いリヤカー式の屋台の荷台に、右から左へと横書きされた、太い黒ペンキの文字を指差し、たどたどしく読み上げた。


「金魚すくいかな。やってみないか?」


 俊介にそう言われ、彩乃は白い綿飴を千切って口に運ぶと、そのままむっつり黙って考えるふりをした。


「俺、得意なんだ。彩乃の好きなのってあげるから」


 俊介は取り成すように言うが早いか、持っていたラムネ瓶を左に持ち替え、あいた右手で彩乃の、溶けた飴でベタつく指を掴んで引いた。


 使い込まれたリヤカーには、上に一本、太い竹竿が物干し台のように張り渡され、そこに黄色い光を放つ大きな裸電球が四つと、ガラスの風鈴が三つ、風の無い中、音もなくただぶら下がっていた。

 屋台に近づいただけで、煌々こうこうとした電球の光りが、彩乃の頬をじわりと押すように熱く感じられる。

 けれど綾乃は、その熱さが強すぎる明かりのせいだけでは無いというのが分かっていた。


 木製の荷台の中には、大きなたらいが3つ据え置かれ、なみなみと水が汲まれている。その中に、ポンプから管を伝って空気が絶え間なく送り込まれていて、滑らかな泡が溢れては消え、そして数本のすんなりとした緑の水草が浮く中に、たくさんの可愛らしい金魚が泳いでいた。


 その盥の後ろに、同じく木製の高さ30センチほどの横に長い棚があり、その上には透明のガラスに、青い縁取りの施された金魚鉢が大小10個ほど並んでいて、裸電球の明りを受け、虚ろな光を放っていた。


「きれいだね」


 水の中で、長い尾びれをひらひらさせて泳ぐ金魚を、目で追う俊介。その隣で、彩乃は指先を包み込む、彼の手のひらの熱さに頬を赤らめていた。


 二人が手を繋いだのは、この時が初めてだった。


 彩乃が俊介と知り合ったのは、文京区にあるミッション系の短大の、英文科に入学してまだ間もない頃だ。

 全体的に裕福な生徒が多く、ファッション雑誌に登場する読者モデルも多数いたりして、他所よその男子学生からも人気の短大だった。

 彩乃も、そんな華やかさに憧れて受験をしたものの、いざ入学してみると、一般サラリーマン家庭で育った彩乃は、なかなか話についていく事が難しかった。特に英文科は、帰国子女が圧倒的多数を占める中、早くも息苦しさを感じ始めていて、特に興味を引かれるサークル活動も無かったので、それなら学外で何かやりがいを見つけようと思い立ち、アルバイトを探し始めた。

 そしてネットで見つけた、新宿の大きなブックセンターの面接を受けた帰りに、彩乃は駅前広場で、小さな立て看板のかたわらで街頭募金を行っている一人の青年を見かけたのだ。


 いつもなら知らん顔で、目も合わせずに通り過ぎてしまうところだが、その日はふと、その青年の足元に伏せていた小型の雑種犬が気になって、彩乃の方から青年に近づいて行った。


 彩乃がそばにしゃがみこむと、プラスティックのゲージに繋がれていた、毛吹きの悪い小型犬は、勢い良く跳ね起きた。そして良くぞ来てくれたと言わんばかりに、貧相な尻尾を振りかざし、彩乃のホワイトデニムを穿いた膝に前足を掛けようと踏ん張った。

「す、すいません、こいつ今日、初めて連れてきたんで、はしゃいじゃって……こら、テツ、汚い足でダメだよ!」

 青年は困ったようにリードを引いて、小型犬を彩乃から引き離した。

「良いんですよ。私、犬、大好きなんで。……ところで、何の募金活動ですか?」

 笑顔で訊ねる彩乃の真っ直ぐな視線から、青年は照れたように目を逸らし、そして犬に向かって答えた。

「動物愛護団体の活動支援の募金です。な、テツ。お前のご飯代の寄付だよな。」

 そう言って、青年が小型犬の頭を撫でてやると、犬はもんどりうって喜び、最後には毛の薄い腹を出して服従のポーズを見せた。どこまでも卑屈で品の無い犬だったけれど、彩乃は可愛い可愛いと言って、青年と一緒になって、さらけ出された白い腹を撫でまわした。


 スッキリとした身なりの、恥ずかしがり屋の好青年。それが彩乃の、俊介に対する第一印象だった。

 俊介は、国立大学の獣医学科の2年生で、学校が休みの日は、東京の郊外にある動物保護センター内で、捨て犬達の世話や、健康管理に携わっていると言った。

「たまに人手が足りないと、今日みたいに街頭募金や、里親探しなんかのイベントにも駆り出されるんだけど……なかなかどうも、声を出すのが苦手でね」

 俊介が困った顔で、手に持ったカギ付きの四角い募金箱を振って見せると、箱の中からわずかな小銭が触れあう、軽い音が聞えた。

「じゃあ、私もテツのご飯代を募金するわ」

 彩乃は張り切って、肩に掛けた帆布のトートバッグから革の二つ折り財布を取り出した。しかし中を開いてみると、入っていたのは1万円札が1枚と、1円玉が3枚だった。

「あ、やだ、どうしよう!ねえ、募金ってお釣りはもらえるのかしら?」

 それを聞いて、俊介は笑い出した。そして、真っ赤になって1万円札を差し出す、彩乃の手を止めて言った。

「もし良かったら、一緒にあと1時間、ここで募金を集めるのを手伝ってくれないかな?……居てくれるだけでいいんだ。俺一人だと、どうも胡散臭いらしくて」


 そして、その日をきっかけに、彩乃も俊介と一緒に、動物保護のボランティアに参加するようになったのだ。

 俊介は学生だったが、保護センターの中では一目置かれる存在だった。

本人が獣医師の卵であると言う事ももちろんだけど、父親自体が、自宅で動物病院を開業していて、子供の頃からその助手として手伝ってきた俊介には、既にかなりの知識や経験があった。

 そして、そういったバックグラウンドは抜きにしても、俊介の真面目で優しい性格が、仲間達に好かれていた。

 興味半分で一回限りのボランティアではなく、継続的に活動に参加してくれるメンバーは、

常に人手と資金不足に悩む非営利団体では、とても重宝がられ、信頼された。

 一方彩乃も、可愛らしい顔立ちで、性格も明るく社交的だったので、募金活動やイベント活動では、通行人に積極的に声を掛け、資金集めには大いに役立った。

 

 彩乃と俊介は、全く正反対の性格のように見えた。けれどお互い東京育ちで、住所も、彩乃が豊島区、俊介が練馬区と近かったこともあり、二人は急速に親しくなっていった。

 そして俊介が彩乃に、交際を申し込んだのが約3か月前のことで、二人は晴れて相思相愛で

付き合う事にはなったのだ。

 しかし、その3か月の間、俊介は彩乃の体に指一本、触れることができなかった。

 それが彩乃は不満だった。今時、小学生だって手ぐらい握るのに、と。

 そうかと言って、プライドが邪魔をして、素直に自分から寄り添って甘えることができない。

 そんな自分自身にも何だかイライラしてしまい、会えば最終的にはケンカになってしまう日が増

えてきた。

 俊介には、自分の男らしくない態度が、彩乃を不機嫌にさせているのが良く分かっていた。けれど奥手で、元々女性経験の乏しい俊介には、隙が無く、いつも堂々としている彩乃に、どうやったらさり気なく手を触れて、抱き寄せられるのか、分からなかった。

 けれど、もう限界だった。3か月という大事な時期を過ぎると、きっと全てが良くない方へと向かい始めるだろうし、大体からして、俊介自身がもう、彩乃の体を抱いてみたくて仕方なかった。


 だから俊介は勇気を出して、両親が海外旅行へ出かけると言う夏休みの留守中に、彩乃に自宅に泊まりに来るよう、誘ったのだ。

「1週間、俺、独りになっちゃうから、彩乃、ご飯作りに来てよ」

 それが俊介の、精一杯の誘い文句だった。彩乃はもちろん、喜んでそれを受け入れた。

 

 そしてその当日、二人で埼玉のアウトレットモールで開催される、大がかりな捨て犬の里親探しのイベントに参加した後、彩乃は、俊介の家に直行できるように、ボストンバックに数泊分の衣類と、この日のために前々から用意していた、真新しい薄いレースの下着を詰め、来たるべき甘い夜に胸をときめかせてやってきたのだ。


 けれどイベント中も、それが終わった後も、俊介はなぜかよそよそしく、うわの空で、駅への長い帰り道、並んで歩く二人の間を、向かいから来た通行人が割って通り抜けて行くほど、悲しい隙間が開いていた。

 俊介は、彩乃のボストンバックを左肩に掛けながら、まるで家に帰りたくないかのように下をうつむき、そして、見ず知らずの埼玉の駅前商店街を、たいして面白い店があるわけでも無いのにぶらぶらと宛てもなく歩き続けていた。

 彩乃は、もどかしい思いで、けれど黙って俊介に付いて歩いた。


 そして、どこからともなく聞えてきた、盆祭のお囃子に誘われるがまま、その祭りの喧騒の中へと紛れ込み、ただ虚しいほどに明るい夜店の間を、二人して彷徨さまよっていたのだ。

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