第5話

 東京駅で京葉線に乗り換え、新木場駅に向かう。羊谷は、新木場駅に隣接する「夢の島公園」入り口で耳崎と待ち合わせの約束を取り付けていた。

 ごみの最終処分場を埋め立てて造られた夢の島公園は、陸上競技場や各種体育施設を内包する巨大なスポーツ公園である。バーベキュー広場もあり、夏から秋にかけてはファミリーや大学生、若い社会人といった類いのBBQ愛好家たちが集団で鉄板を広げて、鼻頭をくすぐる肉の焼けた旨そうな匂いを漂わせる。そのほか、熱帯植物園なる施設も存在し、スポーツ好きな人だけでなく、様々な人が楽しめるスペースとなっているのだが、近年園長に就任した獅子土という髭面の男が強力なリーダーシップを発揮し、さらに人気少年マンガの巨大オブジェや園内を回るトロッコ式ジェットコースター、某大手レンタルソフトチェーンと提携した近未来型図書館などの、今までとは一線を画す設備の導入を検討していると盛んに報道されていた。もちろんそうした大胆な施策の実現は血税を投入することが前提となっているわけで、自然、獅子土は民衆の反感を大いに買うという帰結になっている。

 ところが、羊谷たちはそんな税金投入型の〝夢の島〟に到着することはなく、東京駅で大きな方向転換を迫られる。京葉線のホームまで続く長い通路の中の、エスカレーター部分で彼ら三人が目にしたのは、なんと耳崎の死体だった。

 青ざめたマイケルが口を押さえる。「惨い……」

 耳崎の死体は胴のあたりから真っ二つに裂け、上半身と下半身がバラバラになっている。二つの肉片は、エスカレーターの最下段で階下に吸い込まれる床の動きに合わせて、機械的な上下動を繰り返していた。羊谷は最初何があるのかわからなかったが、数歩の距離に近づいたところで、ようやく耳崎の血みどろの顔を認識。悲鳴を上げて、耳崎の死体を飛び越えたのだった。後ろにいたマイケルと虫岡はそのとき談笑していたが、羊谷の突然の大声に驚き、マイケルも何がなにやらわからないままに、続いて耳崎の死体を慌てて飛び越える。しかし、運動神経が二人よりも少々鈍い虫岡は目測を誤り、まるで下手なスーパーマリオのように、だいぶ手前――耳崎の腰あたりにどすんと両の足で着地してしまい、その衝撃で死体が足の付け根あたりから千切れ、大きな血しぶきを浴びることになった。耳崎の死体は新たに、三つのパーツに分かれることになった。マイケルが「惨い……」と呟いたのは、耳崎の死体を発見したことに対してではなく、死者を冒涜した虫岡に対してである。

 いかに震災直後とはいえ、東京駅に着いてから京葉線ホームまでは不気味なほど静まり返り、ただ一人すら他の人間とすれ違うことがなかったため、羊谷は不穏な気配を感じ取っていたのだが、まさかこんな衝撃を食らうことになるとは。

「耳崎さん……。さっき電話したばかりなのに。なんで……」

 茫然自失の様子の羊谷。慰めるようにその肩を抱くマイケル。靴に付着した血液や体組織を床にこすりつける虫岡。

 重い沈黙が三人を包む。ただでさえ震災の影響でいくつか照明が消えていたのだが、心なしかさらに薄暗くなったように感じる。恐怖に支配される男たち。目的を失った集団。どこに向かって動けばいいのか誰もが困惑していた。

 長く続くと思われた静寂だが、その終わりはすぐに訪れた。口火を切ったのは、意外にも虫岡だった。

「冷静に考えると、これはまずい状況じゃないか?」

 残る二人を見回し、人差し指を口元にそっとあてて言う。

「事実だけ見てみよう。①俺たちの目の前には死体がある。②その死体はズタズタで惨いの一言だ。③つまり、明らかに他殺である。④さっき新たに千切れた箇所から血が噴き出したことを鑑みると、血は凝固していなかった。要は、殺されてからまだあまり時間が経っていない。⑤ということは、耳崎さんを殺した犯人はまだ近くにいるのかも? ⑥さらに、この通路には人が全くいない。⑦つまり、助けは呼べそうもない。⑧震災直後であり、警察組織は混乱している最中だ。⑨もう一度死体に目をやろう。胴の傷口を見ると、強い力で一気に引き裂かれた感じだ。鋭利な刃物で切られたわけではなさそうだ。⑩よく見ると、頭にも傷がある。こめかみの後ろあたり、ここだ。足にもある。四つほどの連なった、短い、しかし深そうな傷口。動物の爪を連想させる。⑪耳崎さんを殺したのは、本当に人間なんだろうか?」

「確認すべき事実が多くないか? もう少しコンパクトにまとめられないか?」

「確かに。ミスター虫岡、僕たちはただでさえ混乱しているんだ。わかりやすく伝えてくれ。そんな報告じゃあ、やっぱり君はビジネスの世界でも使えない人間だというレッテルを貼られるぞ」

「吠えるなよ、若造ども。わかった。わかりやすくまとめると、こうだ。『耳崎は獣のような何かに殺され、そして、その何かは俺たちのすぐ近くに潜んでいる』」

「おい! やばいじゃないか! なぜ早く言わない。危険すぎる状況だ」

「オーマイガー! なんてことだ。僕はここで殺されるんだ……」

「おいおい、本当にお前らはチキンだな。鳥だ、鳥。こんなときにビビってちゃだめだ。いいか、いつ襲われても立ち向かえるように、勇気を持つんだよ! 勇気だ! さあ武器を探せ! 手にとって戦うんだ!」

「いや、急にそんなことを言われても……」

「僕らは戦後世代だし……。虫岡、君はいつも夜、オンラインゲームで戦っているから慣れているかもしれないけど、僕たちは戦いに関しては素人だ」

 沸騰し始めた議論。幸か不幸か、虫岡の思い切った啖呵は辺りに賑わいを与えた。場に活気が蘇る。

 ガチャ。

 急に響く金属音。三人が驚いて音のしたほうを振り返ると、大きな荷物ロッカーからスーツを着た老人がゆっくりと出てきた。社会的地位が高いと思われる、高級そうな仕立て濃紺スーツと磨かれたローファー。そして、蓄えた髭は威厳を感じさせたが、白髪交じりのポマード頭は髪が乱れ、普段鋭い眼光を放っているであろう眼は、赤黒い隈に包まれ、憔悴していることを容易に想像させた。

 不意に現れた見知らぬ人物に三人は身構える。それを見て、老人が慌てて両手を挙げる。

「私は、新木場にある夢の島公園の館長だ。獅子土という。敵じゃない」

「本当だ! あいつ、『税金食い』の獅子土だぞ! 最低な奴だ」

 羊谷が指を差し、吐き捨てる。虫岡も「ということは庶民の敵! 我々の敵!」と、都合良く落ちていたモップを構える。マイケルは上着を脱いでタンクトップ一枚となり、鋼鉄の筋肉を露わにし、半裸の体をビルドアップさせて威嚇する。

「ちょっと待ってくれ! 確かに私は税金食いと呼ばれているが、そこの彼を殺したのは私じゃない!」

「そんなの信じられるもんか! 園長選出時の選挙公約をいまだに守らないのも、民間工事業者と癒着しているのも、新聞で読んで知っているんだぞ!」

「ぐっ……」

 口を紡ぐ獅子土。にらみ合う一人と三人。

 老人対働き盛り三名。圧倒的戦力差を感じさせるが、獅子土の老獪な目つきは、容易に飛び込ませない迫力も纏っていた。三人は、じりじりと広がりながら、老人の動きを牽制する。しかし、獅子土もロッカーを背にして一歩も引く様子がない。

 時間だけが過ぎていく。

 その間、じっと獅子土の髭顔に目をやっていた羊谷。意外なことに気づく。

 目の前にいる老人はまさしく、羊谷を面接した初老男ではないか? 腹に肉を蓄え、猫背になり、紳士らしい柔和な雰囲気は消えていたが、顔つきは間違いなくあのときの初老男だ。羊谷が入社して一年後、会社を自己都合で退社したとは聞いていた。在籍時は、自治体事業の雄と呼ばれていたが、今や税金食いに成り下がるとは。

「君は、もしかして、あのときの……」

 獅子土も気づいたようである。目を見開いたその顔には、知り合いの情けを期待する安堵の気持ちも若干浮かんでいるように見える。

――ところで、羊谷はまさしく、この緊迫の瞬間ですら童貞であった。ワローズ&ポリンティン社に入社後、コンサルタントとして第一線での活躍を求められ続け、嵐の中の航海にも似た荒波にもまれる生活の中では、愚息を一皮剥けさせる機会はなかなか訪れなかった。それが、彼が、心に用意している言い訳である。

「あの……確か、童貞の!」

 獅子土が、面接時に一番記憶に残っていたフレーズを口にした。虫岡とマイケルが「えっ?」と思わず声を出して羊谷の顔を両サイドからのぞき込む。

 羊谷の胸の中に、深い絶望が広がった。

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