第3話

 そんな不思議な縁から入社して五年、羊谷は中堅社員としての地位を固めつつあった。外資系コンサルティング会社「ワローズ&ポリンティン」は、この会社を踏み台にステップアップしていく社員が多く、十年も在籍すればベテラン、五年でも大きな権限を与えられて活躍できるのが特徴だった。羊谷も、東大卒、イェール大卒、ハーバード大卒のアソシエイト三名を持つ一流コンサルタントとして、業界の内外で名が知られるようになっていた。担当しているのは、今をときめく「モバイル業界」。モバイル界に羊谷あり、とは羊谷自身が語った言葉だ。

 iPhoneをはじめ、Androidを基幹とする海外スマホ、国産スマホ、そして未だ根強く人気のあるガラパゴスケータイをメインプレイヤーとする中、一回りサイズの大きいタブレット端末、ノートPCなども大きな存在感を放っており、さらにはパイが重なるスマートウォッチやスマートグラスなどのウェアラブル端末がキラ星のごとく現れ、群雄割拠という様相を見せるモバイル業界。その中で、羊谷が専門分野としているのが、モバイルとは名ばかりの、「ネット接続なしのアナログ端末」だった。インターネットに接続してこそ真価を見せるスマートフォン、そのコンセプトを逆手に取り、逆にネットにつながず端末のみで動作する、エコな、二十一世紀型の、自然と共生する、斬新でクリエイティブな、若者に爆発的ヒットを飛ばしている、それが「コネクション端末」である。行き過ぎた機械文明に警笛を鳴らす者が増え、さらにインターネットセキュリティの重要性が叫ばれる中、大いに注目されていた。この端末は糸電話の進化形である。非常に強度の高い自然界の糸、蜘蛛の糸。その繊維の人工化に、ある日本人科学者が成功したのが三年前のこと。この人工蜘蛛の糸(芥川龍之介の某作品にヒントを得て、この糸は後日「カンダタ」と名付けられた)を別の端末と直接つないで糸電話を可能にしたのが、「コネクション端末」である。友人や知り合いと〝直接つながる〟というソーシャル・ネットワーク的要素も併せ持つこの端末は、昨年のヒット商品番付で横綱に選ばれ、モバイル界に「ネットか、非ネットか」の議論を巻き起こした。羊谷はコネクション端末が発売される以前から注目しており、「日本で最も早く着目した、自他共に認めるコネクション端末の第一人者」と自分のブログのプロフィール欄に書いていた。この記述を見て、羊谷を頼ってくる経営者、事業責任者も多く、本日はそんな中の一人である、古くから続く東証一部上場家電メーカーのモバイル部門で課長を務める虫岡という男と会う約束をしていた。イェール大出身のアソシエイト、スペイン系米国人のケニーから電話が入る。

「先ほどミスター虫岡から連絡がありました。本社の一階ロビーでお待ちしているそうです。『もう約束の時間を二時間も過ぎている。いったいどうなっているのか』だそうです」

「なるほど。ミスター虫岡に伝えておけ。急いては事をし損じるぞ、と。今からコネクション端末の第一人者が向かうから、首を洗って待っていろ、と」

「了解しました」

 本社の一階ロビーに着くとすぐに、長身で猫背、いかにも自信が無さそうなおどおどした男が近寄ってきた。眼鏡のレンズに指紋が付いており、身なりに気を遣うタイプではないことを、姿を見た瞬間に理解した。

 だがしかし、弱々しい男に見えたが、「遅かったじゃないか! もう四時間も待ったぞ! いったい何をやってんだ。殺すぞ! 殺してやる!」と、凶暴な不良高校生を思わせる言葉遣いで羊谷を恫喝した。しかし、それもそのはず。羊谷は虫岡から連絡が入るたびに「もうすぐ着く」「もう目の前だ」「既にロビーにいるよ」と嘘八百を繰り返してきたのだから。しかし羊谷は、襟首を掴もうとする虫岡の両手をさっと払いのけて、肩を優しく叩いた。

「まぁ落ち着いてくれ。君はそんなことで我を失うタイプじゃないだろう? 君はいつでも余裕を振りまける大人の男のはずだ。さて、その大人の男に質問だ。私たちは今からどこで会議をする? さぁ案内してくれ」

「わかった」

 虫岡が羊谷を連れて行ったのは、意外にも立派な自社ビルの外、古めかしい木造の喫茶店だった。中年サラリーマンが昼休みに一服しようと大挙して押し寄せそうな、煙草臭い店だ。これからモバイル業界最先端の議論を交わす場所にふさわしいとは皆目思えない。

「ここか? ここは煙草臭いな」

「そうなんだよ。私も煙草の煙が嫌いでね」

「ではなぜ、こんなしょぼくれた店に連れてきた?」

「実は会わせたい人物がいる」

 店に入ると、一番奥の薄暗いテーブル席に座っている誰かが手を振っていることに気づいた。

「彼か?」

 顎で示すと、虫岡は羊谷の眼を見ながら、ゆっくりと頷いた。

 歩を進めると、待っていた者は外国人であることがわかった。少しウェーブがかかったブロンドの髪に透き通る青い目、長い脚を折り曲げもせず、悠々と壁にもたれて座っている。

「こんにちは」

「日本語、うまいじゃないか。誰に習った?」

「いや、俺は生粋の日本人だ。こんな身なりをしているが、両親ともに日本人だ」

「なんだと。驚いたな」

「そうだろう。だって嘘だからな。だまされたな。ガハハハハ! もちろん両親は二人ともアメリカ出身のブロンドの白人さ。これがアメリカンジョークってやつよ! ガハハハハ! 俺の名はマイケル。よろしくな」

「いやぁ、参った」

――それからというもの、羊谷と虫岡とマイケルの三人は予想外に意気投合し、最初の目的も忘れて新橋のガード下に飲みに行こうということになった。

「とはいえ、会社に電話しないと……。直帰すると伝えておかないと、面倒くさいことになるんだ」

「おいおい、羊谷。さっきまでの威勢はどこいった? 上司が怖いってか。お前は本当にチキン野郎だな。なぁ虫岡」

「そうだぜ、羊谷。俺なんか常に辞表を持ち歩いているぞ」

 虫岡はスーツのジャケットを開いた。白い封筒が挟まっているのが見えた。「いつでもハラキリOKだぜ! ガハハハハ!」そう言って、マイケルと顔を見合わせて馬鹿笑いしている。その様子を横目で見ながら、会社に電話をしようと端末を取り出そうとした。

 そのときだった。

 喫茶店が壊れるかと思うほどの揺れ。

 カウンターに並べられたコーヒーカップやグラスが勢いよく地面に落ちて、割れる。

 日本を襲った未曾有の大地震、マグニチュード9.5。それが判明するのは数日後だったが、あの3.11の東北大震災を経験した羊谷の身体は、あれよりも巨大な地震であることを明白に感じていた。

 揺れが僅かに収まった瞬間を見計らって羊谷は、喫茶店の出口に駆けた。後ろからは、虫岡が腰を抜かしたマイケルを肩で支えて追いかける。古い喫茶店を支えてきた、いくつもの傷が刻み込まれた木製の柱が、不気味な音を立てて軋んでいる。店内にいた他の数名の客も慌てて席を立つ。頭を守ろうと頭頂部にビジネスバッグを乗せる中年サラリーマンが少々。熟年同士の渋柿のような甘い恋愛を味わっていたと見られる年のいったカップルが二組。口髭を蓄えたマスターと、長身の若い店員。全員が店の外に出た後でも揺れは続いており、嫌でも地震の威力を想像させる。羊谷の頭には3.11のときの記憶が蘇ってきて、震源地がどこか思わず想像してしまう。店の前の、オフィス街の一角である路地にはサラリーマンが大勢立っている。皆、近くの建物から出てきたのだろう。東京でこれほどまでの揺れが起きたとなると、震源地ではもっとひどいことになっているのでは。原発は大丈夫なのか――周りの困惑する人々を見て、羊谷は眉を寄せた。

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