2話 また夢で逢えたなら




 不思議なひと……いや、神様だった、と菫はベッドに潜り込みながら昼間の出来事を思い返す。

 夢と現の境目が曖昧になる事などなかった。でも、あれは夢だったのではないか。そう思うくらいに、聞かされた話はまるで夢物語のようで、菫は思わずくすりと笑った。


「また夢で、逢世さんと逢えるのかな?」


 信じていない訳ではない。でも、まさかそんな不思議な、絵本のような出来事が自分の身に起きているなんて思いもしなかった。

 菫はそういった夢物語が大好きだ。

 昔から大事に取ってある絵本も何度読み直したことだろうか。

 自分がその世界の住人になれたら、そんな事を考えながら眠りについて、夢に見られたらなどという幼い妄想に耽った事もあった。

 お伽噺を読み上げる、優しい声を思いだす。


「すみれ……すみれ……。」


 うつらうつらと夢心地に居た菫はそこで自分を呼ぶ声に気付く。

 はっと目が開く。なかなか持ち上がらなかった瞼は、不思議な程に軽く開く。


 菫が目を開けばそこは、真っ白な世界だった。


 青空も雲も無く、天井とも思えない継ぎ目のない白が、上には延々と広がっている。足元にはかさかさと白い花が揺れていた。


「ここは……?」


 風が頬を撫でる。目に掛かった前髪を除けて、菫は辺りを見回しながら歩を進める。

 風が吹くということは、屋外なのだろうか。太陽は見えないが、心なしか陽気に当てられているようにぽかぽかと温かい。足元には風に揺れる白い花が延々と、地平線の彼方まで揺れており、それ以外には何一つとして見当たらない。

 不思議な世界が夢の中であることに気付く事はそう難しくはなかった。


 すみれ……。すみれ……。


 風が花を揺らす音の中から、ふと最初に聞いた優しい声が聞こえた。

 自分の名前を呼ぶどこか懐かしい声に誘われて、菫は後ろを振り返る。白い花園の先には今まで無かった筈の澄んだ川が流れていた。

 赤い橋が架かった広い川。その橋の向こうには、やはり今まで無かった筈の大きな白い樹皮の樹が立っていた。

 その下には女性がひとり。

 樹にもたれ掛かり座り込み、足元には一冊の絵本を置き、こちらを真っ直ぐに見つめている。

 遠くて顔立ちや表情は見えないが、口が動いている事はかろうじて菫にも分かった。


 すみれ……。すみれ……。


 女性は菫が振り向いた事に気付いたのか、本に添えていた手を離して、手をちょいちょいと、自分の方に空気をかき寄せるように、手招きをした。

 名前を呼び、手招きをする。女性は菫を呼んでいるのだろうか。


「誰……?」


 疑問を抱きつつも、その足は自然と女性の方へと進んでいた。優しい声に誘われるように、菫はふらふらと橋の方へと歩いて行く。

 しかし、菫の身体はぴたりと止まる。

 垂らしていた右腕を、何ががぎゅっと掴んでいた。

 冷たく柔らかい感触は、誰かの手だろうか。引き留める様に、手は菫を引っ張っていた。

 振り返る事はしない。早くあちら側に行かなければいけない。

 使命感にも似た不思議な感覚に、菫は脇目も振らずに前に進もうとする。


 すみれ……。すみれ……。


 呼ばれている。行かなきゃ。

 進もうとする菫の腕を、掴んだ手は更に強く後ろに引っ張る。掴む力も強くなり、ほんの少しだけ痛みに菫は顔をしかめた。


「離して……行かなきゃ……。」


 すみれ……。すみれ……。すみれ……。すみれ……。


 呼ぶ声が次第に大きくなる。

 腕を握る力が強くなる。


「痛い……! 離して!」


 無理矢理振り解こうとするが、手はまるで離れない。

 それどころか、掴む腕が一本増えた。

 後ろから引っ張る誰かは、いよいよ両手で菫を止めに掛かっている。

 今までは進めないだけだった。しかし、大きくなった力が、次第に菫を後ろに引き戻している。必死に地面を踏み込み、前に進もうとする。それでも力負けして後ろに戻されていく。


 すみれ……! すみれ……!


 離れていく筈なのに、声が次第に大きくなっていく。

 行かなきゃ。行きたい。あの川の向こうに。あの人の元に。あの人の膝の上に。


 またあの声を聞きたい。


「お願い……離して……! 離して!」


 すみれ! すみれ!

 声がいよいよ耳元で聞こえているかの如く大きくなる。

 腕に痛みにも耐えきれない。


「やめて! 離して! 痛い! 痛い!」


 酷い夢だ。菫は思う。

 行かせて。離して。お願い。


 誰か助けて。


 その時、ふと思い出す今日出会った青年の顔。

 そして、青年が告げた言葉。


 ――君は多分夢を見る。

 ――起きた後は忘れてるかと思うけどね。

 ――その夢の中で、俺の事を思いだしてみてくれればいい。

 ――そして、願うんだ。


 『逢世さん助けて下さい』と。


 人の時間を食べる虫。それを退治してくれる神様。

 灰色の髪の青年、逢世。


 菫は思いだした瞬間、無我夢中でその名を叫んだ。


「逢世さん! 助けて下さい!」




 よっしゃ、来たか。




 祈りは届く。

 次の瞬間、ズンと菫の足元を揺らす衝撃と、目の前に舞い散る白い花びら。

 上から勢いよく振ってきたのは、日中出会ったスーツ姿とはまた違った、上下灰色のスウェット姿のラフな格好の神様だった。

 改めて、目を輝かせて菫はその名を呼ぶ。


「逢世さん!」


 白い花吹雪の中で、神様、逢世は振り返る。

 にやりと右の頬をつり上げて、不適に笑った逢世は、乱れた灰色の髪をなで上げてから、よう、と右手をひらひらと振った。


「菫ちゃん夕方振り。ちゃんと覚えててくれたんだね。」


 その声に菫の表情は思わず綻ぶ。

 やはりあの出会いは夢じゃなかった。その安心感。

 そして落ち着き払った声に現れる余裕が、彼なら何とかしてくれるという期待を大いに抱かせた。


「逢世さん、お願いします! 助けて!」

「勿論。ちょっと待ってな。すぐ助けてやる。」


 逢世はズボンのポケットから何かを取り出す。見ればそれは銀色の砂時計。手のひらサイズのそれを、逢世はぽいっと菫に向かって放り投げた。

 反射的に両手を前に出し菫は砂時計をキャッチする。自然と手が出て、菫はいつの間にか自分の腕が後ろに引っ張る誰かの腕から開放されていた事に気付く。


「……あれ?」


 不思議に思い後ろを振り返れば、そこには白い花園が広がるのみ。腕を引いていた誰かは既に居なかった。

 助かった?

 そう思った矢先、菫の手元から声が響き、再び菫の意識は謎の腕から引き離された。


『ちょっと逢世。乱暴に扱わないでよ。』


 女性の声だった。但し、先程まで菫を呼んでいた声とはまた違う声だ。

 逢世は「わり、わり。」と適当に謝る。


「カタラエ。菫ちゃん頼むわ。」


 カタラエ、って何?

 疑問を抱く菫の手元で、砂時計はまるで生きているかのようにぶるりと震える。


『頼む、って……逢世あなた一人でやるつもり!?』


 次は聞き逃さなかった。

 その声は、間違いなく、菫の手の中にある銀の砂時計から響いていた。


「え? えっ……え!? す、砂時計が喋ってる!?」

『……あ。ごめん。驚かせちゃった? 大丈夫大丈夫、別に怖い物じゃないから。』


 菫の手元でぷるぷると砂時計が震えている。


『私は片重(カタラエ)。見ての通りの砂時計。逢世の……まぁ、相棒みたいなものね。』

「は、はじめまして。片重さん。燈菫です。」

『知ってる。自己紹介はもう聞いてるからね。……っと、それより逢世!』


 砂時計、片重がぴょんと菫の手のひらで撥ねて、逢世に向かって声を荒げる。

 逢世は面倒臭そうに髪を掻き乱し、くるりと菫と片重に背を向けた。


「大丈夫だって。あのくらいの虫なら。それよりそっちのが危なっかしいだろ。」

『……もう!』


 神様だったら喋る砂時計も持っているものなのだろうか。

 逢世の相棒、砂時計の片重をまじまじと見つめていると、くるっと砂時計が回転した。振り返ったのだろうか、と目をぱちくりとさせて菫が見下ろしていると、砂時計はぴょんと小さく飛び跳ねた。


『それにしても危ない所だったわね。間に合ってよかった。……でも、どうしてもっと早く呼ばないの!』

「え? あ、ごめんなさい。危ない状況だと気付かなくて……。」

『あなたねぇ……夢の中でも寝惚けてるの!? ほら、しゃきっとする!』

「は、はい!」


 砂時計に怒られた。まるで年上のお姉さんのようだ、等と考えつつ、菫は逢世が歩いて行く様子に目をやった。

 逢世は菫に背を向け歩いて行く。川の方へ、橋の方へと。

 菫の手を引いていた、誰かが居た方ではなく。


「あ、あの……逢世さん? 何処に行くんですか?」

『どこって、決まってるでしょう。』


 代わりに応えたのは片重だった。


『虫退治よ。』


 木陰で白い女性の影が揺れた。

 ざわりと吹き抜けた風が白い花園を騒がせる。

 座っていた女性が本から手を離し、腰を上げれば、まるで女性に叩き起こされたかのように、白い世界が本当の姿を現した。


 吹き飛ぶ白い花弁。それは咲き乱れる花から舞い散ったものではない。

 花の下、地平線の彼方の途方もなく大きな壁、そして先の見えなかった遙か上方の天井、白い固まったペンキのようなカモフラージュはぺりぺり、ぺりぺりと剥がれて舞い散っていく。それが白い花嵐の正体。

 白いカモフラージュの下にあったのは、深く黒い闇と、菫たちが立つ白く濁った水面であった。

 一変した世界。幸福な夢は、一瞬にして悪夢へと塗り変わる、否、塗り固められていた脚色を脱ぎ捨てた。


 そして、菫が手を伸ばそうとした女性もまた、そのカモフラージュを脱ぎ捨てていた。

 女性の姿が消えている。代わりにその上空に、丸い何かが浮かんでいる。


 るるる、るるるーる、るるる~♪


 狂った音程。狂った旋律。聞いているだけで頭がおかしくなりそうな歌。

 それは笛を思わせる長い鼻から奏でられる鼻歌。

 闇夜に浮かぶ白と黒の縞々の、まんまるな月から、長い鼻が垂れている。

 鼻が生えて歌うものは果たして月か。いいや、そんな筈がない。


 丸めた四本の手足を解いて、月のような何かは閉じていた瞼をゆっくりと開き、生物のような姿を露わにする。


「……象さん?」

『どちらかというと"バク"でしょう。』


 夢を食らうといわれる動物。それに月はそっくりであった。

 

「そう。こいつが夢を食う虫。」


 そう言いながら、逢世は軽く握った両手をくっつけ、その後両手を離していく。

 まるでパントマイムで細い棒を持っているかのような手の動き。

 見えない細い棒の上を、逢世の両手が滑り抜けた時、何もなかった筈のそこには、きらきらと煌めく星が生まれた。

 

「人の眠りによる休息を食らう虫。名を『零夢れむ』という。」


 左手をおろし、逢世は星の軌跡を右手に握り、宙に浮かぶバクに向ける。

 菫は何となく、それが星をちりばめた透明な剣のように見えた。


「……れむ?」

『あの虫の名前。眠りとは無意識の休息。その無意識の休息の時間を掠め取る、割とよく見る『虚食虫』よ。』

「きょ、きょしょく……。」

『休息を奪う際には、それに気付かれないように、自身が生み出した夢を見せる事で捕食に気付かれにくくする。それにしても本当に危ないところだったわ。貴女、深いところまで連れ込まれそうになっていたわよ。』


 片重の説明についていけなかった菫だが、最後の一言は理解できた。

 深いところまで連れ込まれそうになっていた。


『よく、踏み止まったわね。』


 ゾッとする。そして、気付く。

 菫に悪い夢を見せていたのは引っ張る腕などではなかった。

 

 川の向こうで手招きしていたあの人が、彼女をより深い悪夢へと引き摺り込もうとしていたのである。


「じゃあ……あの女の人が……?」

『そう。でも、もう安心して。』


 ぎょろりと開いた白黒バクの姿を取った虫の瞼の中には、黒い空洞が広がっていた。その不気味な黒い空洞に、菫が驚きびくりと身体を弾ませると同時に、煌めく星の剣を構えた逢世がとんと跳躍した。


『神様が助けに来たわ。』


 逢世が飛ぶ。軽いジャンプなどではない。

 まるで、宙を走るように、逢世は一直線に虫、零夢の元へと駆け上がっていった。彼が踏んだ宙は、彼が握る剣と同じように、まるで星をちりばめたように輝いていた。


 星の道を駆け上がり、星の剣を振りかぶる神様。


 菫は思わずその姿に魅入ってしまう。

 迫り来る、星の神様を前にして、零夢は鼻の下に隠れた大きな口をぬたりと開き、ピンク色の煙を勢いよく吐き出した。

 消化器のような勢いで噴き出すピンクの煙が逢世に迫る。しかし、宙を自在に駆ける神様は、ひょいと煙を飛び越した。

 

「当たらないな。」


 るるる、る、るるる、る~るる~


 零夢の歌う歌が乱れる。

 攻撃を躱されて慌てたのだろうか。

 そんな菫の考えは、すぐに誤りであると分かった。


 乱れた曲調に呼応するように、ピンクの煙からぬるり、ぬるりと黒い腕が飛び出した。長く関節の存在を思わせないぐねぐねとした黒い腕が、煙の上を走る逢世目掛けて伸びていく。

 右斜め下から腕が伸びる。逢世は腕を一度も見ずに、左に足を運び尚した。腕は届かず宙を撫でる。

 左後方から黒い腕が勢いよく逢世目掛けて襲い掛かった。


「あっ、危ない!」


 思わず菫が声を上げる。 

 手が逢世に届きかける。


 しかし、手は再び宙を撫でた。


 まず間違いなく、逢世の背中に触れたであろう黒い手であったが、触れたと思った瞬間、逢世の姿は数歩先へと進んでいた。

 まるで、ように。


 瞬きでもしてしまったのだろうか。


 菫は見開いたままの乾きそうな目で、確かに逢世の姿が、消えた瞬間を目撃した。

 腕が触れかけると消え、数歩前に進む。

 数歩、数歩、数歩、数歩……。

 零夢との距離が縮まっていく。気付けば既に逢世は零夢の十歩手前にまで迫っていた。


 零夢は身を守るべく、本能的に手を生み出していたピンクの煙を噛み切った。

 残り八歩。

 すうぅぅ、と息を吸いこむ音がして、零夢の鼻が持ち上がった。

 残り六歩。

 止まった鼻歌。零夢と呼ばれる時間を食べる虫がどんなものかを知らない菫も、それが迎撃態勢である事を理解した。

 思い切り吸いこんだ息。

 

 零夢はそれを勢いよく吐き出した。


 るるるの鼻歌とは違う、ブォォォォォ! と耳を劈くようなラッパの音色。

 思わず耳を塞いだ菫の前に、恐ろしい速さで直進してくるつむじ風が迫っていた。

 逢世が足場にした星を巻き込み、煌めきを帯びたそれはまるで風の槍。

 

 あ、危ない。


 菫が本能的に身に迫る危機を理解した時にはもう遅い。

 逃げる事すら許さないスピードで、風はもう菫の芽の先に迫っていた。


 死んじゃう? それとも、悪い夢から目を覚ますだけ?


 走馬燈というものだろうか。意外にも、風の槍を前にした後から、菫は色々と考える事ができた。死ぬ寸前に過去の記憶を見るように、菫は己が人生に思い馳せる

 最後の瞬間、彼女の口から零れたのは、何てこと無い些細な願望であった。


「……久しぶりに、ぐっすりと、気持ちよく眠りたかったなぁ。」

『これ終わったら幾らでも寝ればいいでしょう。ほら、もたもたしてないで。』


 尊いはずの最後の望み。

 それをさらりと受け流して、砂時計はぴょんと撥ねた。


「……あれ?」

『止めてられるのもそう長くないから。ほら、少し横にずれて。』


 菫が目をぱちくりとさせて、煌めくつむじ風を見つめる。

 思い馳せる時間がある筈である。

 風はぴたりと菫の目の前で止まっていたのだ。


『当たっても痛い程度だけど、痛いのいやでしょ。ほら、動いて。』

「は、はい……。」


 菫は止まった風を見たまま、ひょこひょこと横にずれた。

 風が全く触れない場所まで移動したところで、風の槍は再び動き出し、水面をばちゃんと大きく揺らした。


「……今の、片重さんが止めたんですか?」

『ええ。逢世に貴女を守るように言いつけられているからね。それより、もう終わりみたいよ。』

「え?」


 菫が逢世と零夢が居る宙を見上げる。

 そこでは。半月のように綺麗に半分に割れた、白黒の球体が、断末魔とも取れる狂った鼻歌を奏でていた。


 風の槍を当然の如く躱し、白黒の月の向こう側に立っていた逢世。

 軽く一振りすると消える星の剣。

 今消した星の剣で、零夢を真っ二つにしたであろう逢世は、胡散臭い笑顔とセットでひらひら手を振りながら、菫の方を見下ろしていた。


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