1話 自称神曰く時喰い虫が夢に住まう
菫はこくりと頷いた。
「そうなんですか。」
「うん。そうなんだ……じゃなくて。え? 信じちゃうの?」
「え? 嘘なんですか?」
「え? あ、いや、嘘じゃないけど……普通信じる? まぁ、信じてくれた方が話が早くて助かるんだけど……。」
菫は酷く正直な娘であった。多少寝不足で頭が回っていないという事もあったが。
すんなりと受け入れられて逆に困惑した様子の自称神様の青年は、気を取り直すかのように首からぶら下がったペンダントを指で弄った。小さな何の変哲もない石が僅かに揺れるのを菫は不思議そうに眺めていた。
青年は口を開こうとする。しかし、その口はぴたりと止まり、視線が右下、青年のスーツのポケット辺りに動いた。
「……おっと、そういえば時間は大丈夫? 学校でしょ? 遅刻しない?」
「……ああ、そういえば。どうしましょう?」
青年は呆然としていた。その表情を見た菫は不思議そうに目を瞬かせる。
「ふわふっわしてるなぁ、君。じゃあ、学校終わった後は大丈夫かな? そうだな……学校の前で待ってるから。何時頃に終わるかな?」
「えーっと……居残りがなければ、四時頃?」
居眠り常習犯の『居眠り女王』こと燈菫はしばしば居残りさせられる事があるのだ。
青年は流石に営業スマイルを若干崩して苦笑いした。
「……まぁ、気長に待たせて貰うよ。」
「はい。よろしくお願いします。」
ぺこりと一礼してから、菫は再び通学路に戻る。覚束ない足取りはそのままで、その危なっかしい後ろ姿を眺めながら、青年はふうと深く溜め息をついた。
右ポケットに手を滑り込ませる。取り出したのは銀の砂時計。動かない赤い砂をまじまじと見つめながら、青年は何かに語りかけるように呟いた。
「声掛ける相手間違えたかな? ……いや、確かに言いくるめ易そうな子だけども。」
誰かの言葉に納得しかねるかのように唸る青年。誰と語っている訳でもない、しかしまるでそこに誰かがいるように話す青年に、周囲の視線が向くことはなかった
ただ、今まで動く事のなかった砂時計の赤い砂がさらりと青年を促すように滑り落ちる。
「四時かぁ。時間まで呑む? ……いや、分かってる冗談冗談。素直に待つって。」
青年は誤魔化す様に笑い、銀の砂時計をポケットに押し込む。
顔を上げればふらふらと歩く少女の背中はすっかり遠くなっていた。
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「お待たせしました。」
「……うん。いや、全然待ってないよ。」
校門からとてとてと現れた少女に振り返り、青年は引き攣った笑みを浮かべていやいやと手を振った。
時刻は既に十七時。約束の時間の一時間後である。
「居残りかな?」
「居眠りしちゃって……起きたらこの時間に。ごめんなさい。」
「え……うん、まぁ、仕方ないよね。その眠気にも理由があるからね。うん、仕方ない。仕方ないよね?」
言い聞かせるように繰り返してから、青年は気を取り直してもたれ掛かった壁から背を離す。
「さて、時間も時間だし歩きながら話そうか。帰り道はあっち?」
「はい。」
青年の指差す方に菫は歩き出す。相変わらず覚束ない足取りだが、朝方見た時よrは大分マシなのはある程度仮眠を取ったからなのだろう。それでも菫の足元に青年は気を遣いつつ、横に並んで歩き始めた。
「そういえば自己紹介がまだだったね。君の名前は?」
「燈菫です。」
「菫ちゃん。いい名前だ。俺の事は『オウセ』と呼んでくれれば良い。」
自称神様の青年、オウセ。変わった名前だな、と言いたげに菫はすんと鼻を鳴らした。変わった名前だな、とでも思われたかなとオウセが思うと、菫はとろんと口を開く。
「変わった名前ですね。」
「ハッキリ言うね君。」
オウセが苦笑いすれば、菫は素直に頭を下げる。
「ごめんなさい。」
「いや、謝らなくていいよ。『逢う』に世界の『世』で『逢世』。一応本名。ほら、前見て。」
逢世(オウセ)。
自称神様の青年は、危なっかしい足取りの少女の視線を上げさせる。いつ転ぶかとはらはらしそうな眠たげな少女は、はいと素直に前を向いた。
さて、と逢世は仕切り直す。
「自己紹介も済んだ所で早速本題だ。君は今、原因不明の不眠症に悩んでいる。その原因について。」
「はい。」
「菫ちゃん。君は『楽しい時間は早く過ぎる』と感じた事はないかな?」
唐突な質問に菫は眠たげな目を擦ってから二度瞬きした。
聞き間違いではないか、寝惚けていて変な聞き取り方をしてしまったのではないか、そう思って聞き返す。
「え? なんですか?」
「『楽しい時間は早く過ぎる』と感じた事はないかな? 突然関係無い質問で聞き間違えたと思った? でもこの質問、今君の身に起きている事と全くの無関係じゃないんだ。」
「……えと、有ります。よく聞きますし。」
菫にも思い当たる節があった。
過去に夢中で読みあさった絵本。気付けば時間が経っていて、もっと読みたいと思っても、もう寝る時間だと取り上げられて。
楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。
菫は過去の思い出を懐かしみながら、逢世の続く言葉を待った。
「どうしてだと思う?」
「どうして、って……どうしてでしょう?」
そんな事考えた事もなかった、と菫は少しだけ考え込む……が、答えが出るはずもなく、すぐに菫は逢世に聞き返す。
すると逢世は即答した。
「それは『時間を虫に食われている』からなんだよ。」
「……虫?」
「そう、虫。」
また聞き間違えたかと思い、菫が聞き返せば、逢世はさらりと即答した。
虫。虫が時間を食う。自称神様よりも、更に訳が分からない。
菫は半分寝ている頭を精一杯回しながら考える。
ぐるぐると世界が回る。足が止まる。世界が傾く。菫はふわっと身体が浮き上がる感覚を覚えて、ふと思った。
これは夢?
「おっと、危ない。」
その身体を包む固く、しかし優しい触感。
気付けば前のめりに倒れかけていた菫の身体は、逢世の腕に支えられていた。
どうやら考える事に意識を集中しすぎて意識が飛んでいたらしい。危うく歩きながら寝落ちしそうになった菫は、逢世の顔が傍にある事に気付いてようやく、自分が逢世に助けられた事に気付いた。
「あっ、ごめんなさい!」
「大丈夫? いや、悪い悪い。あんまり遠回しに話すのやめよう。引っ張ると眠くなるよね。」
「だ、大丈夫です! ごめんなさい!」
寝惚けていて見落としていたこと。
菫は今、知らない青年と一緒に歩いている。
無防備にも程がある。菫は今までの会話を思い出して若干赤面した。
菫は天然である。しかし、ある程度の常識は持ち合わせている。
青年をナンパ扱いした事、さらりと身体を受け止められてしまった事、それが恥ずかしい事だとは理解出来た。
何はともあれ菫はようやく目を覚ます。
逢世は結論を述べた。
「簡単に言うと時間を食べる虫が居る。俺のような神様にしか見えない虫がね。その虫は人が意識しないような……意識から手放してしまうような、認識しにくい時間を食べる。楽しい事をしてる時は時間なんて意識しないだろう?」
「楽しい事をしてる時は時間を意識しない、っていうのは確かにそうかも知れません。」
菫は逢世の説明の「時間を食べる虫」という俄には信じがたい部分を素直に受け入れつつ、はっと逢世の言わんとしている事に気付いた。
「私の寝不足も、私が寝ている時間を虫が食べてるからって事ですか?」
「正解。俺には君についてる虫が見えている……というと語弊があるか。虫の気配が感じ取れるから、君が不眠症に悩んでいる事を見抜けたんだ。」
菫は人を疑う事を知らない。
根拠がなくとも聞き入れていただろうが、「菫の不眠症を見抜いた」という事実が、逢世が語った真実を更に確信へと近づけた。
これ以上疑いを向ける事もなく、菫は原因よりも重要な本題を自ら切り出す。
「その虫は一体どうしたらいいんですか? 追い出したら寝不足が治るんでしょうか?」
「虫は人の目には見えないように、人には対処のしようががない。実際、菫ちゃんは全く虫が見えてないだろう?」
きょろきょろと身体を見渡してみる菫。当然、それらしい虫が見える筈もない。
「波長が合わないから探しても無理だよ。」
「じゃあ、尚更どうすれば……。」
「その為に俺が居るんじゃないか。」
逢世の顔を菫が見上げる。逢世はにこりと胡散臭く微笑んだ。
「俺がその虫を取り除いてあげよう。」
「いいんですか? ありがとうございます。」
「お礼を言うにはまだ早いよ。」
「え?」
疑いもなく感謝の言葉を告げれば、返ってくるのは神らしからぬ俗っぽい笑み。菫はその笑みの意味を理解しかねて、不思議そうに二度瞬きした。
逢世がぴたりと足を止める。合わせて菫も歩みを止める。
逢世は菫の目の高さに持ち上げた右手の人差し指と親指で、小さな輪を作って見せた。そのサインが意味するところは、流石の菫にも理解できた。
「お金……ですか?」
「そう。何せ神様にも生活があってさ? タダで人助けって訳にもいかないんだよ。暮らすにも食べるにも着るのにも、今はお金が掛かりすぎる。」
「神様にもそういうのが必要なんですか?」
「まぁね。」
菫がへぇ、と感心したように声を漏らす。何故かその反応を見た逢世はばつが悪そうに顔をしかめた。
そう簡単に信じるなよ。そんな感情を込めた後ろめたさからの表情だったが、どうやら菫には意図を汲み取られなかったようだ。
「いくらですか?」
「え? あ、ああ。菫ちゃんの虫を取り除く料金ね。なに、そんなに高くはないよ。」
逢世が人差し指のみを立てる。
「1万円。」
「え。そんなに?」
「どんなお医者様に掛かっても治らなかった不眠症だ。安いもんでしょ?」
「……確かにそうですね。」
がくっと首を傾ける逢世。
「どうかしましたか?」
「……いや、何でも。君さ、人を怪しいと思った事ってない?」
「……怪しい? ……えーっと……。」
「分かった分かった。余計な事聞いた俺が悪かった。」
全く思い当たる節がないとでも言いたげな困り顔に逢世が先に折れた。
どうやらこの少女、人を疑う事を本当に知らないらしい。
薄々勘付いてはいたが完全に理解した逢世は、いよいよ結論を切り出した。
「勿論、後払いで結構。症状の改善が確認できてからで良い。それと、まぁ学生さんからそれだけのお金を取るのも気が引ける。だから、もう一つ、1万円以外の支払い方法を提案しよう。」
「そんなのあるんですか?」
「身体で払え、とかは言わないから安心してね。」
「え?」
「……ごめん。君には通じない冗談だったね。そんな不思議そうな顔しないで。心が痛い。」
逢世は苦笑しながら両手の平を合わせる。
まるで拝むかのような所作を、思わず菫は真似してしまう。
よくできました、と逢世は微笑む。
「これ。」
「これ?」
「そう。『祈り』だ。」
「いのり?」
合掌を揺すり逢世が「そう。」と笑ってみせる。
「一日5分でいい。合掌も別に要らない。但し、毎日。寝る前とか、何時でも構わない。俺、『逢世』という神様の為に『祈る』。これをやってくれるなら、料金は要らない。」
「……それだけですか?」
「それだけ……ねぇ。まぁ、覚えておいてくれればいいさ。」
逢世は合掌を解き、再び前を向いて歩き出す。その後ろに菫も続いて歩き出した。
「で、肝心の虫退治の方法だけど、これも簡単。」
「なんですか?」
くるりと振り返り、後ろ歩きをしながら逢世は言う。
「君は多分夢を見る。起きた後は忘れてるかと思うけどね。その夢の中で、俺の事を思いだしてみてくれればいい。そして、願うんだ。『逢世さん助けて下さい』と。」
「願う……ですか?」
不思議そうに聞き返す菫に、逢世はうんうんと頷いて笑いかけた。
今までとは違い、そんな反応を待っていた、とでも言いたげに。
「祈るだとか願うだとか、急に神様臭くて信じがたいかも知れないけど、そこんとこは信じて貰うしかないかな。」
「信じます。」
「……ん?」
しかし、その笑顔が固まるのもすぐだった。
聞こえなかったのだろうか、と今度は菫が言い直した。
「信じます。逢世さんの事信じます。夢に心当たりはないけど、もしそれっぽい夢を見たら、逢世さんを呼びます。毎日逢世さんに祈ります。
だから、お願いします。助けて下さい。」
眠たげで虚ろな半開きの目。
その奥に隠れた瞳は、淀んでいるように見えて、真っ直ぐに逢世を見つめていた。
視線はまるで濁っていない。その真っ直ぐな視線に刺されて、後ろ歩きをしていた逢世はくるりと前を向き直り、顔に手を添えぽつりと呟いた。
「……呼べば助けるさ。それに、お礼も祈りも助けてからで良いって。」
「ありがとうございます。」
「だから……! ……ああ、もういい。君は……いや、何でもない。」
何かを言いたげに言葉を淀ませる逢世。彼の事を気にしつつも、交差点に差し掛かったところで菫は「あっ。」と短く声を上げた。
「ここ、右に曲がります。」
「え? あ、ああ。そうなの。じゃあここでお別れだね。話したいことは全部話せたし。」
逢世は気付いて振り返る。
虚ろな表情だった少女は、僅かに口の端を緩ませ、ぺこりと頭を小さく下げた。
「さようなら逢世さん。また夢で。」
「……うん。」
「あ、信号変わっちゃう。逢世さん、渡らないんですか?」
逢世が振り返れば、前の信号は点滅している。
本来渡るつもりはなかったのだが、逢世は思わず駆けだしていた。
横断歩道を早足で渡りながら、逢世はぽつりと呟く。後ろの少女に気付かれぬように。
「……調子狂うな。」
横断歩道を渡りきって、振り返ってみれば、少女は小さく手を振って、淡いながらも屈託のない笑顔で立っていた。
逢世が手を振り返すと満足したようで、信号の変わった右の横断歩道を渡っていく。相変わらず危なっかしい足取りを遠目に見つめて、逢世は胸元の石のペンダントに指を絡ませた。
「……『燈菫(あかりすみれ)』。変わった人間だ。」
右ポケットに手を添える。砂時計の固い感触が手を伝った。
僅かに震える砂時計に、逢世は僅かに顔をしかめた。
「……もう人間とは付き合わないっての。虫を片付けたらそれで終いだ。」
神様は少女に何を思うのか。
少女の姿は気付けば大分遠くになっていた。
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