貴女の時神さま

夜更一二三

プロローグ 浅い夢の中で




 綺麗な女性が微笑みをたたえて私の前に座っている。

 私はこの笑顔を知っている。

 しかし、私はこの人を覚えていない。

 彼女は誰よりも私の身近に居た人で、今では誰よりも私の遠くに行ってしまった人だ。

 彼女が小さく手招きをする。私は一歩、彼女に歩み寄った。

 誰かが後ろで手を引いた。

 とても優しく、包み込む様に握られている私の右手。しかし、まるで向こうに行く私を引き留めるように、その力は強かった。


 微笑む女性が遠ざかっていく。

 私は彼女を追い掛けるのを諦めたけれど、何故か頬には涙が伝った。



 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~



 少女は眠たげに目を擦りながら、ふらふらと陽気の下を歩いて行く。

 制服は紫紺のブレザーに赤いリボン、ここらではよく見掛ける、樋宮ひみや高校のものである。同じ制服の女子生徒や、同校の男子生徒よりも若干遅い足取りであるく少女は、人目もはばからずに大口をあけて、それはそれは大きな大欠伸を漏らした。


「良い天気……。」


 春の陽気がまだ心地良い頃。これから来る寝苦しい季節を思い浮かべて、少女は憂鬱げに、相変わらずの寝惚け面で深い溜め息をついた。

 『あかり すみれ』は、高校入学から一月過ぎた程度で既に『居眠り女王』とまで呼ばれる程の、居眠り常習犯であった。

 色濃いクマに、寝不足に伴って青白い顔、あまり食が進まない為にほっそりとした頬筋、ふらふらとした足取りも相まって、とても危なっかしい少女。しかし、それだけで、居眠りが多いだけで、根は真面目で気の優しい少女、というのが周囲も認める菫という少女象である


 菫はどうしてこうも眠そうなのか。実のところ本人にも分からない。

 夜更かしをするでもない、いつも早めの就寝を心掛け、更に授業もぐっすりと気持ちよさげに眠っている。寝付きが悪いという事もない。しかし、何故かいつでも「寝た気がしない」。

 医師を頼れど今まで効果が見られた事もなく、彼女は既に二年以上の間、同じ症状に悩まされている。

 ある時期から続く謎の不眠症。

 そんな問題を抱えながら、菫は日常を生きていた。


 こんな日常が崩れる事は果たして幸か不幸か。


 通学路に立つ一軒のコンビニの前を菫が通り掛かった時、通学途中にパンなどを買う高校生の中から、ふらりと一人の青年が現れた。この時、菫はふと青年に目を奪われる。

 黒が薄い灰色の髪を自然体で流し、古びたグレーの背広を着た青年は、「青年である」と菫が思ったように、見た目は決して年を取っているという印象はなく、むしろ若い、20代であるかのように見えた。しかし一方で、どこか年季を感じさせる、菫の心中の言葉を借りれば「おじいちゃんのような」重々しい空気も感じた。


 口元に浮かべた愛想の良さそうな笑みから、人柄の良さが滲み出ている。

 しかし、それでプラスになる印象を打ち消すように、男の目はまるで笑っておらず、好奇に満ちているような、それでいて醜いものを見下すような、何とも言えぬ色を宿していた。


 浮き世離れしているとでも言うのだろうか。青年はその場に居るだけで、菫に十分過ぎる違和感を抱かせた。


 気付いたのは菫だけ。周りの高校生は誰も気付かない。まるで青年がかのように、菫が幽霊でも見ているのではないかと思う程に、誰にも見向きもされぬままに青年はすたすたと菫の方へと歩み寄ってきた。

 そこで初めて菫は青年が菫を見ている事に、菫の方へと歩いてきている事に気付き、同時に自分が青年をじっと見つめてしまっていた事に気付いた。


「やぁ。」


 よっ、と手のひらを見せて、青年は挨拶する。馴れ馴れしい挨拶に、菫は思わず記憶を辿った。知り合いだろうか。いや、知らない人だ。なら一体何の用事があって私に声を掛けたのだろうか。

 ぼんやりとした頭で考えていると、青年がにこりと笑って、尋ねてきた。


「少し時間いいかな?」


 その口調に、反射的に菫は思ったままの言葉を口にした。


「ナンパですか?」

「……え?」


 青年のがぴくりと引き攣る。その時、くすりと「女性が噴き出すような笑い声」が聞こえた。

 菫はそこそこ整った顔立ちらしく、同年代の男子生徒に所謂「告白」というものをされる事がちょこちょことあった。しかし、決してその「ナンパ」という発想は、自身の容姿に自信を持っているから出た訳ではなく、彼女が何気なく思い付いただけの言葉である。

 燈菫は天然であった。


 思わぬ反撃を食らった男はというと、何故か右下(背広のポケットのあたりだろうか?)をじろりと見下ろした後、すぐに菫に視線を戻して、再び口元に笑みを浮かべた


「ああ、ごめんね。誤解だよ誤解。そうじゃなくて、君にちょっと聞きたい事があってさ。」

「聞きたい事ですか?」


 何だろう、と菫は不思議そうにただでさえ細かった目を細めた。

 目を閉じかけると余計に眠くなる、こくりと頭が前に揺れると、おっとと青年は菫の身体を支えてくれる。


「眠いんだよね? その君が悩んでいる『不眠症』についてのお話だよ。」


 眠いという事は見れば分かるかも知れない。しかし、これが不眠症である……今日一時的なものではなく、菫が長らく悩まされ続けている問題である事を青年は知っていたかのような口振りだった。


「どうしてそれを?」

「その『原因』を僕が知っているから、と言ったら?」


 今まで医師に相談しても改善しなかった不眠症の原因を、見ず知らずの、今日初めて出会ったばかりの青年が知っているという。

 普通ならば信じられる筈もない。


「知っているんですか? だったら、教えて欲しいです。」


 それを信じてしまうのが、燈菫という少女であった。

 こればかりは青年も予想していなかったようで、一瞬目を丸くした後、何かを言おうと口を開きかけた。しかし発しようとした言葉を、迷った末に呑み込んだ後に、青年は小さく頷いた。


「うん、分かった。教えてあげよう。まず、どうして僕が君の不眠症を見抜く事ができて、どうしてその原因を知っているのか、その理由を話しておくね。」


 青年と菫が話している様を、道行く人々は気にも留めない。

 まるでここだけ別の世界であるかのように、青年と菫だけの会話がそこにはあった。

 当然、この時の菫には、今の状況が理解できる筈もない。

 その閉ざされた世界の中で、青年は冗談でも呟くように、小さく楽しげに囁いた。


「それは僕が『神様』だからだよ。」



 少女と神様は出会った。

 ここから物語は始まる。



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