3話 夢から醒めればまた夢
宙に浮かぶ白黒の月。
スマートフォンに表示したバクの画像を眺めながら、菫は一週間前に見た夢を思い出す。
手招きする女性。引き留める腕。
白黒のバクを象る虫(今思えばあれは本当に虫だったのだろうか?)。
そして、助けてという願いに応じて、颯爽と現れた灰色の神様、逢世。
逢世に投げ渡された喋る銀の砂時計、片重。
星の剣を握り、星の階段を駆け上がり、悪い虫と戦う神様。
危機一髪のところで、時間を止めて自分を守ってくれた神様の相棒の砂時計。
まるで夢のような出来事だった。
「いや、夢か。」
菫はぺちんと額を叩いて、スマートフォンを置き、洗面所に向かう。
鏡に映る自分の顔には、永らく刻まれ続けていた色濃いクマは既になかった。
制服のリボンをきゅっと真っ直ぐに直して、身なりに乱れはないかと菫は登校前の最後のチェックを行う。
「よし。」
洗面所から出て、廊下を歩き、再びリビングへと戻る。
朝食の食器も既に洗い終え、テーブルも綺麗に拭き終わった。窓も全て閉めて鍵を掛けている。指を指してひとつひとつを確認して、問題なし、と小さく頷き、ふぅと短く息を吐く。
早い内に二階の自室から持ってきておいた通学鞄は、リビングと和室を区切る、閉ざした襖の前に置いておいてある。忘れ物がないかのチェックは既に昨晩実施済み。菫はすすすとすり足気味に鞄にすり寄り、ひょいと少し重めの鞄を取った。
テーブルに置いてあるのは、キッチンから移動しておいた弁当箱を入れた小ぶりのバック。鞄と一緒にまとめて取っ手を取り、菫はリビングの外に出る。
扉を閉める最後の時に、リビングに向かってぽつりと告げる。
「行ってきます。」
玄関へと向かう黒いハイソックスに包んだ足取りは、スキップしているかのように軽く弾んでいた。
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菫の日常は一変した。
寝ても取れない疲れはなくなり、目の下のクマも次第に取れた。
気付けば転んでしまいそうな危なっかしい足取りは、今ではすっかり軽やかになり、通学途中にも細かい事に意識が向くようになった。
「よう、菫。最近朝早いな。」
「おはよう燈さん。」
「あ。おはよう、直葉。おはよう、倉敷さん。」
まず気付いたのは、今までの通学時間よりも少し早く家を出れば、高校前通りに繋がる交差点で、二人のクラスメイトに出会う事。
前から親しくしていた、見上げる程に背が高い女子生徒。スカートの下からはまくった指定ジャージを覗かせて、指定のローファーではなく運動靴を履く彼女は『
一方直葉とは対照的な、小柄で、比較的背の低い菫の頭一つ下にいる女子生徒。セミロングの黒髪だが、前髪はかなり長めで、左目が若干隠れてしまっている。如何にも大人しそうで伏し目がちな、趣味読書という文芸部員『
菫は元々抜けており、不思議ちゃんとして扱われる事が多かったが、人付き合いが苦手という訳ではない。日頃話す友達も少なくない。
中でも小学校からの付き合いの直葉と、偶々同じ絵本のファンであった倉敷さんとは、菫は特によく話すようになっていた。
その二人と、ほんの少し家を出る時間を早めれば一緒に通学できる事を知ってからは、菫の家を出る時間も自然と早くなっていた。
丁度出くわした二人と共に、菫は学校に向けて歩き出す。
ふと、倉敷さんが菫の顔を見上げて言った。
「最近調子良さそうだよね、燈さん。」
同調して、見下ろす直葉が「おお。」と声を漏らした。
「確かにな。顔色いいし。」
菫は交互に上下を見回し、うん、と小さく頷いた。
「最近よく眠れるんだ。」
「いや、前から大分寝てるだろ。」
「だよね。」
直葉と倉敷さんに突っ込まれ、菫は照れ臭そうに誤魔化し笑いを浮かべる。居眠り女王の悪名は伊達ではない。
「でも、本当に憑き物が落ちたみたいだね。」
倉敷さんの言葉に対して、本当に落ちたんだよ、と言おうかと思って、菫はぎゅっと口を噤んだ。
これは他人に本当に話してよい事なのだろうか。その判断がつかなかったカラである。
あれが
だからこそ、彼女はあの神様、逢世への感謝と畏敬の念を忘れない。
軽々しく話してしまってよいものなのかと悩むように。
そして、『あの夢以降、一度たりとも再会する事がなかった』としても、毎日欠かさず就寝前に、『5分間の逢世への祈り』を行っているように。
それが菫の生活の、大きな変化のひとつ。
そして、もうひとつ、菫の世界には大きな変化が起こっていた。
倉敷さんに何と答えようかと考えながら、菫がふと見下ろした先にもうひとつの変化はあった。
「燈さん? どうしたの? 急に怖い顔して。」
「え?」
思わず表情が固まった菫は、改めて倉敷さんの肩に乗った、小さな違和感を見直した。倉敷さんの小さな肩に乗るのは、手のひらほどの大きさの、鮮やかな緑色をしたバッタ。カタカタと首を傾ける、玩具のような不可解なバッタ。
誰の目にも見えていない不思議な虫。
そっと倉敷さんの肩に手を伸ばし、菫は大きなバッタを手で払おうとする。しかし、手はバッタの身体をすり抜ける。
「肩にゴミがついてたよ。」
「あ、そうなんだ。ありがとう燈さん。」
何もできない菫を嘲笑うように、一転した世界で無数の虫達がざわめく。
今まで見えなかった筈の、『時間を食べる虫』。
神様逢世に救われたあの晩以来、菫の目には『虫達の世界』が見えるようになっていた。
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菫は深刻な表情で、午後十七時の校門を出る。
あの晩以来、菫の目には時間を食べるという虫が見えるようになっていた。
虫は不思議な気配を持っており、見た目が普通の虫に近いものでも、気配でそれが件の虫だとすぐに分かる。
他の人には見えていないであろう虫は、あちこちで見掛けられた。大概はふよふよと宙を彷徨うだけで、誰かの時間を食べている様子は見受けられなかった。
しかし今日、友達、倉敷さんに憑いた虫を見てしまった。
倉敷さんもまた、虫に時間を食われているのだろうか。そうであれば、散々菫が困ったように、何か悪い目にあっているのではないか。
虫が見えるようになり、触れやしないかと手で払おうとしても触れられない。
あの虫を取り除かずにいたら、倉敷さんに何かよからぬ事が起きてしまうのではないか。
菫は顔を手で覆い、とぼとぼと歩く帰宅路で立ち止まる。
「……どうしよう。」
知ってしまった。見てしまった。放っておける筈がない。
あれ以来、神様逢世には一度も出会えていない。お礼を言いたかったのに、夢が途切れてからは一切言葉も交わせていない。
願えばまた、助けてくれるのだろうか。そんな事を考えて、授業中にも何度も呼びかけるように願いを送った。
でも、夢の外では願いは通じないらしい。未だに逢世の姿は見えない。
菫は顔を覆う手を外し、前をむき直す。
どうしたら良いのか全く分からない。でも、何とかしないといけない。
それでも彼女には、願う事と祈る事しかできなかった。
―――神様どうか、また逢世さんと逢わせて下さい。
交差点に差し掛かる。右に曲がれば自宅方向。タイミング悪く切り替わった信号を、焦って渡らず菫はぴたりと足を止めた。
本当に強い『願い』というものは叶うものなのだろうか。
止まった交差点の斜め前、その背中は見慣れない青いくたびれたジャージ姿であったが、どこか枯れ果てたような寂しい灰色の髪を見紛う事などあるはずもなかった。
―――私は夢でも見ているのだろうか。
気付けばその名前を声に出していた。
「逢世さん!」
しかし、車のエンジン音が菫の声を掻き消す。夕暮れ時、交通量の多い時間。菫のあまり強くない声は容易には灰色の髪の青年には届かなかった。
見失ってしまう。
焦って菫は左の青に変わった信号を見てから、足早に横断歩道を渡りきる。動き出した車の隙間から、かろうじて青いジャージ姿が見えた。
青年はポケットに手を入れたまま、猫背気味によたよたと歩く。スーツ姿でビシッと決めた、以前とは違った印象だったが、菫はあれが逢世であると疑わなかった。
逢世は更に向かい側の歩道を歩いている。再び横断歩道前で信号が変わるのを待たなければならない。
「逢世さんっ!」
声は届かない。見失うまいと必死に目で追う菫は、通りに並ぶ店の一つ、下に伸びる階段を逢世が降りていくところを見逃さなかった。
よかった、とほっと一息。そのままどこかにふらふらと歩いて行ってしまったら、追い掛けるのも一苦労だった。しかしどうやらこの傍の店(だろうか?)に入ったようだ。あの店に追い掛けていけば必ず再会できる筈。
信号が変わる。急な飛び出しをしないように十分確認してから、菫は早足で横断歩道を渡りきる。
そして迷う事なく、逢世が入っていった階段の前に立ち止まった。
階段の傍には木の看板がぶら下がる。
『BAR Grumble』。
BAR(バー)という事はお酒を飲む場所だろうか、と考え、菫は一瞬迷う。
こんなお店に制服で入っちゃって大丈夫かな?
困った事にここは思い切り通学路にあるお店である。ここに入った所を見られたら、先生に怒られてしまうのではないか。
しかし、天秤にかけるまでもない。
菫は親友の為ならば、怒られても構わないと、その薄暗い階段を駆け下りた。
てんてんと点滅する切れかけの電球の示す暗く、急な階段を降りていけば、下には茶色の木製ドアがあった。ベルをつり下げた扉の前には『OPEN』と書かれた黒い掛札が下がっている。
菫は恐る恐る、見た事もない大人の世界への扉を押した。
ちりんちりん。
ベルが鳴り、オレンジ色の光り零れる店の中から渋い男の声が響く。
「いらっしゃい。……ん?」
そこは少しだけ狭いお店だった。
入り口から、店の奥まで伸びるカウンター。
カウンターは椅子が六つ程並べられる長さである。
いらっしゃいという渋い声の主は、カウンターの内側にいる、酒を並べた棚の前に立ち、グラスを磨くスキンヘッドの大男だった。
サングラスに黒い口周りの髭、つるつるのスキンヘッドの下には、ぱつぱつのバーテン服。目は見えないが如何にも強面なおじさんである。
少しびっくりしたものの、菫は臆する事なく返事をした。
「すみません! すぐに出ます!」
「お、おお……え? いや、待て。学生さんが入ってくるとか以前に……。」
「神さ……じゃなくて人を捜してるんです!」
何かを言い掛けたスキンヘッドのバーテンは、菫の勢いに気圧され、「おお?」と素っ頓狂な声を上げた。
菫は構わず店内にいる、カウンター前に並んで座る人達に目を向けた。
「え? なになに? どゆこと?」
目をぱちくりさせているのは、菫の樋宮高校から少し離れた位置にある、
茶色い髪はもっさりと膨らんでいて、まるで鳥籠のようである。今どきメイクもそこそこに
「あれ? 人間の女の子? ちょっと待ってグッチ、今は貸し切りなんじゃないの?」
「いや、その筈だが……。」
少女がスキンヘッドのバーテンに振り返り問えば、つるつるの頭に手を当てて、バーテンは困惑した様子で菫の方を見直した。
菫はそんなやり取りにも気付く事なく、何故かバーテンでグラスを煽っていた女子高生?に疑問を抱く余裕もなく、更に女子高生の奥に座る人影を見遣る。
「まぁまぁお二人さん。いんじゃねーの? 細かい事は気にしないでさ。」
そう言って、真っ赤な顔でグラスを煽るのは金髪ロン毛の青いスーツを着た男。如何にもチャラ男といった風体の男は、にやけ面で菫の方を向き、「やっ。」と短く会釈をした。
「お嬢さん、人捜ししてるの? 見つけたら出てくんだよね? あんまり、未成年がこういうお店に入るのよくないからさ、早めに出た方がいいよ? ここにお目当ての人が居るとは思えないけど……どんな人捜してるの?」
親しげに話しかけてくるチャラ男の問いに、菫は答えなかった。
答える必要もなかった。
チャラ男のひとつ奥の席。グラスに丁度口をつけていたのは、この店にまで追い掛けてきた灰色の髪の青年であった。
「逢世さん!」
青年の肩がびくりと撥ねて、ぴちゃんと撥ねた酒が目に入り、「うおっ!」と一瞬悶えてむせる。
菫の呼んだ名を聞いて、ばっとバーテンと女子高生とチャラ男が奥に座る灰色の髪の青年の方を振り返る。
全員の視線が集まる中、咳き込みを何とか落ち着かせようと肩を揺らす青年は、驚愕に目を見開いて、自身の名を呼んだ少女の名を口にした。
「す、菫ちゃん!?」
「やっぱり、逢世さんなんですね!」
「ど、どうしてここに!?」
反応を見て菫は確信する。
彼はあの時の神様、逢世で間違いないと。
そして明らかに知り合い同士である、青年と少女を交互に見た、女子高生とチャラ男は、にやりと何やら不適な笑みを浮かべていた。
「へーん……おーちゃん、どゆことどゆこと? 酒の肴に、そこんとこ詳しく教えてくんなーい?」
「へえへえ逢世さん。もしかしてもしかすると……何かイケナイ事しちゃってる?」
「っ……! 待て! 違う! 一旦話を聞け!」
「慌ててる慌ててるぅ~。」
「逢世さぁ~ん?」
ゲスな笑みを浮かべる女子高生とチャラ男に慌てふためく逢世に追い打ちを掛けるのは、そんな事など気にしていられない菫であった。
「逢世さん! 実はお話したい事があって……!」
「ちょっと菫ちゃんも一旦待ってッ!」
「ひゅーひゅー!」
「やめろって!」
小学生のようなノリである。見るに見かねたのだろうか、この場で唯一大人びている、スキンヘッドのバーテンが、カタンとグラスを置いてから、パンと手を大きく叩いた。
周囲の視線が逢世からバーテンへと移る。
空気をぴしゃりと仕切り直したバーテンは、改めて静かになった店内の中で、渋い声を響かせた。
「おい、逢世。お前、今度は何持ち込みやがった?」
「……だから話すっての。」
菫はバーテンに落ち着かされて、そこで初めてひとつの事に気付いた。
逢世の背中に見た、人とは違う不思議な気配。
恐らくは神様のものであろうその不思議な気配を、店内に居る女子高生も、チャラ男も、そしてバーテンも、全員が纏っている事に。
「……皆さん、神様、なんですか?」
菫が思わず零した問い。
店内に居る逢世と菫を除く三人は、きょとんとした様子で互いに顔を見合わせた後に、菫の方を向き、こくりと小さく頷いた。
貴女の時神さま 夜更一二三 @utatane2424
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