楚の宿将の最期

 韓信と鍾離眛の間に交わされた最後の会話は、余人には理解し難い。想像できることは、幼き日から積み重ねられた数多くの思いが複雑に入り交じっていた、ということぐらいである。鍾離眛に限らず、この大陸に住む男には、面子めんつを重視する傾向がある。当時の状況からいって、鍾離眛を庇護できる人物は、韓信しかいなかった。だが、鍾離眛にとってその状況こそが、逆に屈辱であったに違いない。眛にとって、韓信は決して負けたくない相手であったのだ。しかし韓信の口から不用意に放たれた言葉は、そのような彼の思いを否定するものであった。つまり、鍾離眛は相手に比して自分が小さな存在であることに耐えられなかったのである。

 たとえそれが事実であるにしても。


 一


 陳平という人物は、数々の奇策で敗勢だった漢を救った。その功績が認められて後々まで権勢をふるい、最後には丞相の地位まで登り詰めた男である。

 ただしこの時点での彼の肩書きは、范増を死に至らしめたとき以来の護軍中尉のままであった。


 その陳平は、これより以前、諸将の意見が韓信誅罰に傾いていることを知り、事前に皇帝劉邦と話し合っている。

「……諸将の意見はどのようなものでしたか?」

 陳平がそう質問したとき、劉邦の態度はまだ定まっていなかった。

「韓信を滅ぼそうというのが大勢のようだ。……しかし、それも無理のないことだ。あいつらにとって韓信は最大の競争相手だからな。樊噲や夏侯嬰、周勃などの古参の将軍たちは、古参であるが故に、韓信には負けたくなかろう」


「陛下のお気持ちは、どうなのです? その……誰が最大の功臣か、という点ですが」

「本人の前では増長するだろうから言えないが……武勲の大きさから言って、文句なく韓信だ。諸将どもは口では韓信を穴埋めにするべきだ、などと言ったりするが、現実的にそれを実行できる能力はない。自分らの手の届かないところで、韓信が勝手に滅び、自分たちの出世を阻む存在がひとりでに消えてなくなることを望んでいるのだ」

「難しい問題ですな、それは。私も人ごとのようには思えませぬ。新参者の私を周勃どのや灌嬰どのはあまりいい目で見ておられぬようですからな」

「……わしはどうしたらよいのだろう」


「まずは問題を整理しましょう。第一に楚王が叛いたと誰かが告げた、とのことですが……その叛乱の事実を知っている者はいるのでしょうか」

「誰もおらぬ。あるいは根も葉もない噂に過ぎぬかもしれん」


「なるほど……では楚王韓信はそのような上書が陛下に届けられたことを知っているのでしょうか」

「まだ知らぬはずだ。確証はないが」

「そうですか」

「敵情を探るのは、そもそもお前の領分だろう。わしに質問すること自体、間違っているのではないか?」

「いやいや、ひとくちに敵情とおっしゃりますが、まだ楚王が敵と決まったわけではありませんぞ……。しかし、仮に楚王を敵に回すとして……陛下の兵は、その精鋭さにおいて、楚兵と比べてどうでしょう」

「及ばぬ。楚兵は伝統的に強いと言われているからな」


「では、将軍の質は? 楚王韓信に指揮力、統率力においてまさる将軍が陛下の配下におりますでしょうか?」

「いや、おらぬ。韓信を上回る用兵家がいると言うのなら、連れてきてもらいたいくらいだ」

「では、おそれながら陛下が韓信と戦うことは無謀であるとしか言いようがございません」

「だから聞いておるのだ。わしはいったいどうしたら、と……」

「考えがございます」

 陳平は、その場で劉邦に一計を授けたのだった。


 そして、会議の席である。姿を現した陳平は、控えめな咳払いとともに話し始めた。

「……将軍方の意見は、上書の内容を信じ、楚王を誅罰する方向に傾いているようですが、どうやって誅罰するかが問題です。楚王の兵は強く、現時点で用兵力をもって楚王を凌ぐ者もいない。誅罰しようとした者が、返り討ちに遭う危険が高い、と言えましょう」


 陳平は蕭何と灌嬰が誅罰に反対であることを知っていたが、あえてそれを無視して話を進めた。

「楚王を誅するにあたって、陛下の威を借りて我々が楚国内に入って行動することは出来ません。楚は韓信の庭のようなものであり、彼が兵にひと言指示を与えれば、我々はあっという間に包囲されてしまうでしょう」

「…………」

「また、上書の内容を明らかにし、楚王の罪を声高々に問責することもできません。あまり追いつめすぎると、楚王は本当に叛くしか道がなくなります。彼が兵を引き連れて関中に押し寄せたら、我々には対抗できる手段も、人もいないのです」


「要点を早く言ったらどうだ」

 もともと陳平のことを快く思っていない周勃は、嫌味な口調で話を遮った。

「……では、言いましょう。韓信を捕らえるには彼を単独の状態で国外におびき出し、口実を設けて逮捕する、これしかございません。すなわち、このたび陛下には陳の雲夢沢うんぼうたくという名勝地に物見遊山に出かけてもらいます。そこに饗宴を開く名目で諸侯を招待し、その場で捕らえる……軍兵を従えた韓信を捕らえることは至難の業ですが、平和な出遊にその身ひとつで拝謁にきた彼を捕らえることは、一人ないし二人の力士がいれば済むことです」


 二


「……それは、騙し討ちではないか。あまりに楚王に失礼であろう」

「そんな恥知らずな行為を、陛下や我々にしろというのか」


 諸将はそのようなことを次々に口に出して言った。陳平はこれにむかっ腹を立てて反論する。

「あなたがたは、どうもお覚悟が足りないようだ。そもそも上書があったからといって、楚王に本当に叛逆の事実があったかどうかは、定かではない。にもかかわらずあなたがたは、揃って楚王の失脚を望んでいる。私がこうして提案しているのは、ひとえにあなたがたがそれを望むからだ! 諸君が、韓信より下位の地位に甘んずることをよしとしないからなのだ」

「生意気な口をきくな! だいたいお前の作戦は、どうしていつもそのように人を騙すことを前提にしているのだ! 陰謀でしか物事を解決しようとしないのは何故だ!」

「決まっているではないか! あなたがたでは、韓信に勝てないからだ。それとも敗れて死ぬのを承知で、武人としての美意識を尊重して正々堂々と戦う、とでもいうのか。やめたまえ! とても勝ち目はない。私から言わせてもらえば、これから滅ぼそうとする相手に礼節をもって遇するなどというのは、偽善でしかない。この際だからはっきり言っておくが、十中八九、韓信は無実だ。彼を滅ぼすのは、彼が罪を犯したからではない。あなたがたのために彼に罪を着せるのだ! 後になってから知らなかった、とは言わせないぞ」

「この……ふざけるな!」

 周勃が食って掛かった。普段は朴訥で、まっすぐな性格の彼は、陳平の奇術めいた施策を常々不満に思っていたのである。


 会議の場はあわや爆発寸前の様相となった。

「もうよさぬか。……お前たちの気持ちはわからないでもないが、基本的に朕は韓信を捕らえることを、すでに決めている。なぜかというと……」

 部下たちの争いを仲裁した劉邦は、そう言いながら玉座から身を起こした。

「朕も年老いた。だから、自分が死んだ後のことを考えざるを得ない。思うに韓信は……お前らと実力差がありすぎる。このままわしが死ぬことになれば、天下は韓信のものになり、それに不服を抱いたお前らは、叛乱を起こすだろう。そうなれば、漢は終わりだ……。わしとしては、生きているうちにお前らの不満の種を除いておかねばならない」


 劉邦のこのときの発言は、諸将に衝撃を与えた。皇帝が自分の死期を悟り、自分亡き後の天下を行く末を案じた上での策略だとまでは、誰も想像していなかったのである。

 しかし、劉邦の韓信に対する警戒は、彼らには極端すぎるようにも思えた。特に灌嬰にとっては。


「楚王は、そのようなお方ではありませぬ」

 発言しにくい雰囲気の中、灌嬰はただそのひと言だけを発し、なんとか意思表示をしてみせた。

「うむ。わしとて、引っかかるものはある。ここにいる誰もが認めていることとは思うが、韓信は王朝建国の最大の功臣であり、性格も安定した男だ。だが……現実的に韓信が国家を転覆させる能力を有する限り、不安は取り除かねばならぬ。たとえ武人として恥ずべき方法をとらざるを得ない、としてもだ」

 皇帝のその言葉を最後に、会議はあっけなく終わった。既に皇帝の意志が決定している限り、彼らがいくら議論しても無駄なのである。


 こうして韓信は誅罰されることになった。


「曹参や盧綰、そして張良がこの場にいれば、こうはならなかったろうて」

 蕭何は灌嬰を前にそう言って嘆息した。曹参は斉の宰相、盧綰は燕王としてそれぞれ不在で、張良に至っては統一後、わずかな領地をもらっただけで半分引退した形である。


 皇帝と同年同日に生まれた親友の盧綰がいれば、皇帝の不安を和らげることができたかもしれない。

 韓信と長く戦場をともにしてきた曹参がこの場にいれば、少なくとも議論は大勢に押されることなく、もっと白熱したことだろう。そうすれば皇帝の意志が変わることもあったかもしれないのだ。

 そして張良がいれば、陳平による詐略的な解決方法をとることなく、もっと誠実で、武人の自尊心を尊重する案が提出されたかもしれない。

 しかし、彼らはいずれも不在で、そのことが韓信の運命を決定づける一因となったのである。


「張子房(張良)どのはりゅう侯となり、まだ若くして隠居生活をなされている、と聞きましたが……」

 灌嬰は蕭何に尋ねた。

「うむ。お上は張良の功労を高く評価しておられた。それゆえ、彼には斉の土地、三万戸を封邑として与えようとしたのだ。これはとてつもなく広大な領地だ。……つまりお上は韓信に代えて張良に斉を治めさせたかったのだろう。しかし、張良はこれを固辞し、わずかに留のみを領地とするにとどめたのだ。彼は病弱な男であったので、引続き国政に参加する自信がなかったのかもしれないが……実情は違うな。広大な領地を持ち、権勢を得ることで、自分が韓信のように疑惑の目で見られることを嫌ったに違いない」


 それを聞いた灌嬰は、突如涙をこぼした。蕭何は驚き、逆に灌嬰に尋ねる。

「なにか知っているのか」

「いえ……」

「では、なぜ泣く」

「……かつて楚王は、私に語ったことがありました。いわく、『自分は漢による天下統一がなったのち、斉国は陛下に献上して、どこでもいいから小さな土地をもらい、静かに余生を暮らすつもりだ』と……。張子房どのの現在の隠遁生活は、実は楚王が望んだものなのです! 話を聞いた当時、私は楚王の気持ちがよくわかりませんでした。……しかし、今に至り、ようやくその意味がわかったのです」

「……そうか」


 蕭何は答えを返すことができなかった。なんという皮肉な運命。韓信は張良に比べて立ち回りが不器用だった、ということか。

 しかし、そんなひと言で片付けられるほど、事態は簡単ではない。


 ――無双の国士も、これまでか……。

 かつて蕭何は韓信を「国士無双」と評し、劉邦にしきりに推挙した。

 自分のその行為が、結局は韓信を苦しめることになったのではないか。蕭何は近ごろになって後悔を感じている。


 灌嬰の涙を見ることで、蕭何のその後悔はさらに増幅していった。


 三


 下邳の宮殿では、韓信が鍾離眛を招き、余人を交えずに議論している。

 このとき韓信が鍾離眛を匿っていることを知っている者は宮中には多い。しかし、それがいけないことだと認識している人物は少なかったようである。

 はるか遠くの関中の地で、皇帝がそれを問題視していることに気付いている者は、ほとんどいない。もしかしたら気付いている者は、当事者の二人だけだったかもしれなかった。


「眛……。唐突だが栽荘先生の前歴を知っているか。その……淮陰に来る前の話を」

 韓信の問いに鍾離眛は首を振った。

「いや、知らぬ。君は知っているのか?」

 興味をそそられて膝を乗り出した眛だったが、目の前の韓信は浮かぬ顔である。どうやら、栽荘先生を種に昔話に興じるつもりではないらしい。


「栽荘先生は、戦国時代の燕の遺臣で、本名を鞠武というそうだ。燕の太子であった丹の守り役であったらしい。先生が死ぬ直前、私に話してくれた」

「ほう……。太子丹といえば、始皇帝に刺客を送った人物だな。それに失敗し、燕は秦によって滅ぼされた。栽荘先生は国を失い、淮陰に逃れてきたというわけか……。大人物だいじんぶつだな。意外にも、というべきか、やはり、と言うべきか……」

「うむ。……ところで先生が言うには、私は太子丹に性格がよく似ているそうだ。先生に言わせれば、私などは生き方の不器用な若者、ということになるらしい。太子丹も同じように不器用であった、とのことだ……今になって思い返してみると、栽荘先生は私の性格をよく見抜いていたよ。やはり、だてに年はくっていなかった、と言わざるを得ない」

「ふむ……」


 鍾離眛は、なぜ今韓信がそのようなことを話しだしたのか考えた。

 韓信は今、自分の不器用さを実感している。と、いうことは彼は今、なにかの問題に突き当たり、それをうまく解決できずにいるに違いない。

「信……。言いたいことがあるのなら、率直に言ってみたらどうなのだ」


 眛はそう言ってせき立ててみたが、韓信の態度はまだはっきりしない。

「うむ。そのつもりだが……もう少し話させてくれ。太子丹は、始皇帝を殺害しようと刺客である荊軻を咸陽に送り、それに失敗したことが原因で燕は滅亡するのだが……、この事件は太子が秦からの亡命者である樊於期を中途半端な義侠心を発揮して匿ったことに端を発している」

「……つまり、亡命者の樊於期が私であると言いたいのか。君が私を匿ったのは、中途半端な、つまらない義侠心がゆえだと」

「……よく、わからない。しかし、このままいけば、そういうことになる。私は、つまるところ、太子丹のような末路を迎えたくないのだ。たとえ、性格が似ていたとしても」

「……言っている意味がよくわからないが」

「君が私のもとで今後どのような人生を送るつもりなのかを知りたい。君はこのまま死ぬまで隠れ続け、何ごとも成すことなく一生を終えるつもりなのか」

「…………」

「それならそれで構わないのだが……。だが、おそらく君にはそんなつもりはないだろう」

「ああ。その通りだ」

「では聞く。君の目的はなんだ?」

「再び世に出て、名を残すことだ」

「それでは答えになっていない。何をして名を残すつもりなのかを聞きたいのだ」


 韓信の表情には、わずかながら不安が浮かんでいる。

 眛にはその理由がわかった。もし、自分がいずれ漢を打倒するためにここに潜伏しているのだ、などと言ったら……。


「私は、君を手助けするために、ここにいる。君にはそれがわからないのか」

「なに? どういうことだ」

「私を公職につけよ。そうすれば、君の王権は強化される。君と私が組めば……現在の君の不安定な立場を解消することができるのだ。私に兵を与えよ。君の兵たちの鉾先は今民衆に向けられているが、それは間違っている。民衆を威圧しても権力は強化されず、それはただ失われるばかりだ。権勢あるものに対して軍威を見せつけることこそ、国の安定につながる。それは結果的に民衆を守ることにつながるのだ」


 眛としては、充分鋭気を抑えたつもりである。彼の言ったことは、項羽の世を復活させることでも、漢を転覆させることでもなく、韓信の力添えをして楚の国力を充実させることだった。

 しかし、漢に対して武力を見せつけることには変わりはない。

 眛の見たところ、韓信はこの点に拒否反応を示したようであった。

「過激に聞こえるかもしれないが、これは必ずしも皇帝を討つ、ということではないぞ」

「……そうか。しかし……」

「不安か。だが、考えようだ。君の持つ武力は、充分漢に対抗できるものだ。加えて君自身の指揮能力や用兵の妙をもってすれば、漢はうかつに楚に手出しできない。さらに配下の将として私がいれば、皇帝たりとも君の機嫌を損なう真似はできなくなる」

「しかし……それは結局、敵対することだ。敵対とはつまり……叛くことだ」

「わからない奴だ。実際に武力を行使することはない。示威するだけで、ことは足りるのだ」

「確かにそうだが、しかしそれには君の存在を、漢に認めさせねばならない。ひそかに君を匿い、独断で要職につけたとあっては、私は叛逆者とみなされてしまう。たとえ実際はそうではないとしても、彼らに口実を与えるような行動を私は慎みたいのだ。……なあ、眛。私とともに皇帝のもとに出頭しないか。そして助命を請うのだ。誠心誠意訴えれば、きっと皇帝は聞き入れてくださる」

「それは、疑わしいものだ。……しかし、なぜ今になってそのようなことを言う? 信、君は……私を軽々しく匿ったことを後悔しているのか」

「いや、決してそうではない。ただ、君を匿い、庇護し続けるために現在の状況を打開したいと思っているだけだ。……実は先ほど私あてに朝廷から正式に命令が下った。楚領内に逃げ込んだと思われる君を逮捕せよ、とな」


 四


「皇帝は怒りや恨みなどの一時的な感情で、判断を誤りやすいお方だ。しかし、あの方のいいところは、その誤った判断に固執しないところだ。自分の下した決断が間違いであると気付けば、修正することを厭わない。事実、もと楚将の季父きふは首に懸賞金を賭けられていたが、最後には許されたのだ。かつての敵とはいいながら、有能な男を殺してしまうことの愚かさに気付いたのだ」


 韓信がこのとき話題にした季父という男は、もと項羽配下の将軍で猛将と恐れられた人物である。

 項羽が死んだのち、彼は諸国を転々とし、流浪の日々を送った。時には頭の毛をすべて剃り、手枷をはめて奴隷の姿に扮したこともあった。しかし最後には魯のとある有力者のもとに転がり込むこととなり、その有力者の訴えを聞いた夏侯嬰が皇帝に進言し、助命されることとなった。

 その後季父は漢の要職に付き、劉邦死後の帝室の混乱を数度に渡って解決に導く活躍を見せる。


「季父の例は、数少ない例に過ぎぬ。丁公ていこうは殺されたぞ」

 ここで鍾離眛の言う丁公とは、季父の叔父で、本名を丁固ていこといった。季父の母親の弟であり、やはり楚の将軍である。

 かつて彭城で漢王であった劉邦を追撃した丁公は、ついに剣の届く距離にまでそれに肉迫した。

 このとき命の危険を感じた劉邦は、「いくら戦争だからといって、二人のすぐれた人物が個人的に殺し合う必要があろうか」などと言って丁公をなだめたという。

 この言葉をもっともなことだと思った丁公は、剣を収め、劉邦を見逃した。


 ところが項羽が滅んで漢の世になったのち、丁公が劉邦に謁見しようとすると、劉邦は即座に彼を捕らえ、軍中に触れを出した。

 ――丁公は主君に不忠な男である。項羽に天下を失わせた者は、ほかでもない丁公である。

 と。


 結局丁公は斬り殺されたわけだが、そのときに劉邦は、

 ――後世の臣下たる者たちに、丁公の行動を見習わせてはならぬのだ。

 という言葉を残している。


「季父が生き延び、丁公が死んだのは弁護する者がいたかいないかの違いだ。季父には夏侯嬰がおり、丁公には誰もいなかった。皇帝の信用が厚い者が弁護すれば、丁公だって助かった可能性は高い。だから私は君を弁護しようと言っているのだ」

「……では聞くが、信。君はそれほど皇帝の信用が厚いのか?」

 あらためてそう問われてみると、確信はない。韓信は言葉に詰まった。

「…………」


「君は、思い違いをしている。皇帝は、機会さえあれば楚を直接支配したいと望んでいるのだ。君のような異姓の王に治めさせることは皇帝にとって苦渋の決断なのだ。それを君はわかっていない」

「……君の言う通りなら、最初から私を楚王などに任じなければよかったではないか」

「鈍いな、君は。もともと斉王だった君から王位を取りあげるわけにはいくまい。不満を持った君が兵を率いて叛乱しては困るからな。……おそらく欲の少ない君は、そんな意志などない、と言うだろう。しかし多欲な者は、寡欲な者の考え方がわからないのだ。皇帝は君が本心を訴えたところでまったく理解できないに違いない」

「……だったら、どうだと言うのだ」

「はっきり言って君は、皇帝にとって厄介な存在だ。考えていることがよくわからない、扱いにくい男として持て余されているのだ。きっと皇帝は君を除きたい、と思っていることだろう」

「…………」


「いいか、君がこれまで通り生き続けるためには、少なくとも今の状態を維持し続けなければならない。皇帝が楚を攻め滅ぼそうとしないのは、君の兵力に加え、今私がこの地にいるからだ。皇帝は旧楚の宿将たる私を恐れ、私がこの地にいるうちは、楚に攻め込んだりはしない」

 韓信はこれを聞き、しばらく考え込んだ。目を閉じ、こめかみに指を当て、沈思の表情を作る。

 やがて答えに行き着いた彼は、目を開けて言った。


「眛……。私が思うに、皇帝が恐れるのは君ではない。皇帝が恐れているのは……やはり私なのだ。君が楚地にいる、いないはたいした問題ではない。要は私が君を匿っている、そのことが重要なのだ。君の叛乱を恐れているのではなく、私が君を利用して叛乱を起こすことを……彼らは恐れているのだ」


 五


 韓信の発言は事実を捉えている。

 が、熟考の末に答えにたどり着いた彼は、その答えが鍾離眛にどのような感情をもたらすかを考えることなく、言葉にして出してしまった。

 韓信がそのことに気付いたとき、既に眛は怒りの炎を目に宿していた。


「信、君は……この私のことを……恐るるにも足らぬ存在だ、と言いたいのか。楚の宿将鍾離眛は、取るに足らない存在だと……」

「いや、そんなつもりで言ったのではない。ただ、皇帝が敵視しているのは君ではなく、私であることを言いたかっただけだ。つまり、私が頭を下げれば、君は許される。皇帝は君を恨んでいるわけではなく、私の武力を恐れているのだ」

「ありあまる能力を持ちながら叛く気概もない奴を、皇帝が本気で恐れるものか! お前は舐められているのだ!」


 鍾離眛は激発こそしなかったが、その言葉には力を込めている。

 韓信はどう彼をなだめるべきか、迷った。

「叛くこと自体を美化するのはよせ。私には、そんなつもりはない。それがなぜかわかるか? 私は今の地位を得るまで、数々の者を失ってきた。常勝将軍だと言われてきたが、失った兵の数は決して少なくない。しかも私が殺してきた敵兵の数は、それ以上なのだ。今私が意趣返しをして叛いたりしたら……彼らの死はすべて無駄となる。なんの意味も成さなくなってしまうのだ」

「さっき君は皇帝の美徳を説明したな。彼は間違った判断に固執しないと。それが本当に美徳だとすれば、君は単なる頑固者だ。過去の間違った行動にとらわれ、これからとるべき行動を改めようとしない」

「……それは皇帝の美徳だ。私のではない。私はそんな美徳を持ち合わせてはいない」

「ああ、そうだろうさ! 人は、誰しも正しいと思うからこそ行動に移すのであり、明らかに間違っていると思われる行動は、なかなか出来ないものだ。私だってそうだ」

「…………」


「私は、楚に仕えた過去の行動を間違っていたとは思っていない。楚が敗れ、滅びたのは確かだが、だからといって私が間違った行動をとったとは思っていない。聞け! 項王は敗れはしたが、悪人ではなかった。私は悪人に仕えたつもりはまったく無いのだ。……なのに、なぜ私が赦しを請わねばならぬ?」

 項羽は確かに敵に厳しく、残虐な面はあったが、ひとたび情に触れると寛大な態度を示し、身近な者には礼を尽くして接した。

 また、論功行賞の際、あまりに細かく国を切り刻んだことで吝嗇だと評されたりもしたが、これは裏を返せば、できるだけ多くの者に報奨を与えたいと望んだ結果だとも言える。

 義帝(懐王)を弑したことは、確かに間違った行為だったかもしれないが、項羽にとっては正しいことだったのだろう。

 しかし、今はそんなことを考えている場合ではない。


「誰かが言った。大事を成す者は、一時の屈辱をものともせぬ、と……。眛、君もそうだとは思わないか?」

 韓信は暗に鍾離眛に耐えろ、と言おうとした。


 ところがこの言葉も鍾離眛の癇に障った。

「王座にしがみつき、大事を成そうとしているのは、君だろう。私ではない!」


「眛! 事態は差し迫っている。私の近侍の神経質な者の中には、君の首を皇帝の元に届け、事態の沈静化を目指すべきだ、と言う者もいるのだ。……頼む。私とともに皇帝のもとへ……このとおりだ」

 韓信は床に頭をつけ、ひれ伏した。彼の必死の思いがそうさせたのである。しかし、鍾離眛はそれを受け付けようとしなかった。


「斬られた方がましだ」

「なにを言う! 誰が君を斬ると言うんだ。私には、そんなことは出来ない」

 韓信がそう言って目を上げたとき、鍾離眛の剣は既に抜かれていた。


 はっとした次の瞬間には、その剣が韓信の頭上に振り下ろされていた。

「やめろ!」

 危うく身を翻して逃れた韓信は、次の攻撃を防ぐために、自らの剣を抜き、構えた。鍾離眛の剣は、それを激しく打ち叩く。


「やめないか!」

「信! 受けてばかりいては、私を斬って首だけにすることは出来ないぞ。斬らねば、……私は君を斬る!」

 二度、三度金属音を鳴り響かせ、剣が火花を散らした。鍾離眛は力任せに剣を打ち付け、それを防ぎ続けた韓信は体勢を崩して転倒した。


 そして彼の剣は手から離れてしまった。

 ――しまった、剣が……。

 絶望を感じた韓信の喉元に、眛の剣先が突きつけられた。

「信。……ついに私は、君に勝つことができた」


 六


 季節は冬で、十二月の寒い中である。屋敷の戸は閉め切られ、寒気が中に入り込まないようにしてあった。このため、室内の音はあまり外に響かない。


 また、韓信は自室に鍾離眛を呼ぶ際は出来る限り余人を遠ざけ、衛士も通常より離れた場所に配置していたので、彼らが異変に気付かない可能性があった。

 あるいは大声で助けを呼んだ方がいいかとも思われたが、声を出したとたんに殺されることも考えられる。侍従の者たちが機転を利かせて対応してくれることを願った。


 その思いが通じたのか、彼らが廊下を走る音が、伝わってきた。助かった、と韓信は思ったが、よく考えてみると彼らを介入させることは、鍾離眛の死を意味する。助けると約束した以上、彼を殺させることは出来ない。

 たとえ自分が死ぬことになっても……韓信は、やはりこの場は二人だけで解決することを望んだ。

「来るな! 来てはならん。もうしばらく、そこにとどまれ」


 韓信は顎の下に剣先を突きつけられたままの状態で、大声を発して家令たちを制した。

「……いい判断だ。彼らに私を取り押さえさせないのは……。私が君を斬ることがない、と思ってのことだろう。……事実、その通りだ」

 眛はそう言ったが、剣は引かない。

「斬らないのか……?」

「君はかつて私に高らかに宣言したことがあったな。そう……相手が私でも自分は構わずに斬る、と。その思いは私も同じだ。いや、同じだった。……しかし、いざとなると旧来の友人を斬ることは出来ないものだな。さしあたり、君に頭を下げさせ、剣技で上回ったことに満足することにしよう」

「助けてくれるのか?」

「ああ。そうだ。おっと! ……まだ動くな。私は……幼き頃から常に……君に勝ちたいと望んできた。常に君より上の立場でいたいと。だが君は……それを昔からわかっていながら、私にそうさせようとはしなかった。子供の頃は学問や剣技で常に私を上回り、長じてからも君は私をはるかにしのぐ武功をたて、ついには王座に就いた。そして、あろうことか……今君は、生意気にも……私を助けようとしている。我慢できることではない。助けるのは、私だ! 君が私を助けるのではなく、私が君を助けるのだ!」

「…………」

 韓信は身動きできない。

 しかもこの時点で彼は、眛がなにを言いたいのか理解できなかった。


 眛は続けて言う。

「私の気持ちがわからぬのか? ……まあ、いい。それだけ君は無感覚になった、ということだ。権勢に溺れ、人の気持ちが見えなくなっている。前に君は私に言ったな。目が濁っていると! 私は、その言葉を今君に返そう」

「私の目が濁っているというのか。君になにがわかる。望みもせぬのに人の上に立っている私の立場を、君が理解できると言うのか」

「生意気な口をきくな! 助けてやろうというのに」

「……君の手助けを得て皇帝に刃向かう、という考えには同意せんぞ」

「それが最善と思ったのだが……君が納得しないのならば仕方がない。私の首を持って行き、皇帝に媚びるがいい。だが言っておくが、それはほんの一時しのぎに過ぎん。いずれ君は、皇帝に滅ぼされるだろう」


 ――あっ!

 鍾離眛の考えにようやく気付いた韓信は、とっさに彼の行動を止めようとした。

 しかし、一瞬早く眛の剣がその動きを抑え、無言で動くな、と命じる。


「信。お前は意気地なしで、人が言うほど優れた人物ではない。私の方が……」

 言葉の途中で、眛はそれまで韓信に向けていた剣を自分に振るい、一気に自らの首筋を切った。


 血が奔流のように噴き出し、韓信はその返り血にまみれた。

「ああっ! 眛! 眛! ……うぅ」


 しばらくたってから家令や衛士たちが室内をのぞき込んだが、その様子は凄惨な血の海であった。韓信はうずくまり、ぴくりとも動かない。鍾離眛は仰向けに倒れたまま、やはり動かなかった。


 彼らは斬られて血を吹いたのが客人の鍾離眛なのか、あるいは主君の韓信なのか、即座に判断することができなかった。




 

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