対峙の果てに……

 国家間の抗争に信義則はないとでも言えそうな出来事が、この当時に交わされた楚・漢の和睦であった。この文化圏に住む人々にあっては、敵対する相手に真情で向き合うという習慣は、古来からない。彼らは常に相手を不倶戴天の敵と認識し、互いの利益を尊重しあって共存するなどという意思を、露ほども持たなかった。そのため、歴史上たびたび交わされた同盟関係は、どれもたやすく瓦解している。

 しかし一概に彼らを愚か者と評することはできない。彼らは自分たちの勝利のために、最善を尽くしたのである。たとえそのために後世から悪評を受けることになろうとも、それを甘受する覚悟を持っていたのである。


 一


 広武山に陣する項羽のもとに、武渉が韓信の説得に失敗した知らせが入った。

「韓信は、わしに味方せぬ、ということか。さもあろう」

 傍らに控える鍾離眛は、思案を巡らせては見たものの、良い案も浮かばず、押し黙っていた。

「味方でない者は、敵である。敵は滅ぼすもの。……韓信を、斉を攻撃せよ」


 ――やはり、こうなるのか。

 項羽の命令を聞き、眛は嘆息した。項王の思考は単純すぎる。今この状況で、これ以上兵を割くわけにいかないことがわからないのか。

「漢との対立が長引き、軍糧も不足している今、斉を攻撃する余裕はございませぬ」

 眛はそう言って再考を促した。配下の将軍に過ぎない立場の自分としては行き過ぎた言動である。しかし、それをわかっていながら言わずにはいられない眛であった。


「彭城の兵を北へ差し向け、斉の動きを牽制するのだ。韓信をここへ来させてはならん」

「しかし、韓信の動きに気を取られ、彭城の守備が手薄になれば、西の彭越、南の黥布に行動の自由を許すこととなります。奴らはこれ幸いとばかりに彭城へなだれ込むでしょう」

 これが漢の軍略の妙であった。項羽が目前の劉邦率いる本隊にばかり気を取られている間に、別働隊が諸地方を制圧し、いつの間にか楚を取り囲む。眛にはその軍略が完成の時を迎えているかのように思えた。

「その時は、以前のようにわしが兵を返し、彭城を奪還する。まして今、劉邦は倒れた。死んだかどうかは定かではないが、傷つき動けないことは確かだ。漢に最後の一撃を加えてこれを殲滅し、疾風のごとき早さで彭城に帰る。できぬことはない。なにを思い煩うのか」


 このときの項羽の表情は、いつもの激情家のそれではなく、傷つけられた少年のようなものだった。眛は項羽に対して、韓信の懐柔を諦めるべきではないと言いたかったのだが、結局その表情を見てなにも言うことができなかった。

 ――項王は本来、武の人である。考えてみれば、その項王がかつて自分のもとを去った韓信に、頼んでまで戻ってきてもらう立場をよしとするはずがない。……思えば、悲しいものよ……。項王や漢王、韓信らの戦いは、天下の命運を左右する……しかし、同時にそれは単なる男の意地のぶつかり合いに過ぎぬかもしれぬのだ。

 眛は立ち去っていく項羽の背中を見つめながら、そんなことを思うのであった。


 居室に戻った項羽を、ひとりの若く、美しい女性が出迎えた。

 しかし彼女は、項羽の姿を見ても、型にはまった挨拶の口上などは述べたりしない。ただ、にこりと微笑んでうやうやしく頭を下げるだけである。

「やあ……待っていたのか」

 項羽の言葉に女性は、微笑みながらこくりと頷き、恥ずかしそうに下を向いた。それを見ると項羽は、なんとも表現しようのない幸福感に満たされるのである。


「お酒を……いま、お持ちいたします」

 そう言って立ち上がった女性の姿は、驚くほど細い。巨漢の項羽と並べると、ひとすじの糸のようであり、見るからに繊細な、壊れやすい細工品のようであった。


 項羽は、繊細なものが好みであった。自分が支えてやらなければ存在できぬもの、余計な理屈抜きで自分に庇護を求めるもの、自分を愛してくれるものを無条件で愛した。

 この女性はその典型であり、名をといった。


 項羽は虞に対して、たまに天下の動静の話をする。このときも、

「劉邦は倒れ、もう少しで漢は滅ぶ。そうすればわしは東に走り、斉の韓信を討つだろう。それで天下の趨勢はほぼ定まる」

 などと話したが、虞はこれに対し、やはり微笑みを返すだけであった。

 項羽が虞を愛する理由は、この邪心のない微笑みだけで充分であった。


 虞の手から注がれる酒を受けながら、項羽は考える。

 ――なぜ、世の人々は、この女のようにわしのことを受け入れることができぬのか。わしを愛せば、わしはその愛を裏切りはしない、というのに……。

 驚くことに、暴虐を謳われた項羽は、自分のことを愛されるべき人間だと信じていたのである。貴族として生まれた者に特有の考え方であろうか。


 しかし実際に彼は、自分の庇護の下にある者の信頼を裏切ろうとしたことはない。

 かつて韓信は項羽のことを自分の部下に対して吝嗇な男だと評したことがあったが、事実そうであったかは、疑わしい。要するに項羽の寵愛の度合いが低い者にとっては、自分に対する扱いが他者に比べてぞんざいなものに思えるだけであって、この種の批判の矛先は、項羽に限るものではない。


 ――わしをけちな男だと評するのは、わしの愛を受けるべき資格を持たぬ奴らばかりだ。……そして、そのような奴らはいまに滅びる。

 項羽は平素そのようなことを考えていたが、このとき夕日の赤い光を浴びた虞の神々しいほどの美しさを見ると、それは確信となっていった。


 ――わしを愛するこの虞の美しさは、どうだ。まるで神のようだ。神が滅びることなどあり得ぬ。

 その思いが、神でさえ自分を愛するというのに、自分を愛さぬ者が滅びぬはずがない、という思いに転じた。


 ――劉邦は、あのまま死ぬに違いない。

 項羽には自分を愛さない者の末路が見えたような気がした。


 二


 胸に当たった矢は突き刺さり、非常に強い衝撃を劉邦に与えた。さらにその衝撃によって劉邦は転倒して頭を打ち、気を失った。


 どれほどの時が経ったのだろう。劉邦が再び目を開けたときには、谷の向こうに項羽の姿はなく、岩場に一人きりで立っていたはずの自分のまわりには、張良や陳平などの幹部たちが輪をなしていた。

「お気付きになられたぞ!」

 周囲の男たちは口々に劉邦の無事を祝い、喜びの声をあげた。劉邦は、うつろな意識のなかで、それに腹を立てた。

 ――痛い……なんという痛みだ。こいつらはなにがそんなに嬉しいのか。人の痛みも知らず……。

 しかしその思いは、自分にも当てはまる。劉邦は数々の部下の死によって、現在の地位を保っているのだった。

 実際に矢傷を受けた痛みを体感した彼は、自分のためにこれに倍する痛みを感じながら死んでいった者たちの苦しみにはじめて思いを馳せることになった。


 ――紀信や周苛を始めとして、わしに命を捧げてくれた者は、数多い。その中には名も知らぬ者も多いが……どうして彼らがわしのために死んでくれたのか……謎だ! しかし、ひとつはっきりしているのは、いまわしがこのまま死んでしまっては、彼らの死をかけた努力がすべて無に帰す、ということだろう。


 そう考えた劉邦は、痛みを振り払って起き上がり、座った姿勢をとったかと思うと、一気に突き刺さった矢を引き抜いた。それに伴って多少血が吹き出たが、意に介した表情は見せない。

 しかし、顔色は青白く、額には脂汗が浮かび、誰の目にも憔悴していることは明らかだった。

「……お前らのその顔はなんだ! ……わしは死んでおらぬ」

 剛胆な口調で言い放った劉邦は、なにを思ったかしきりに右足の親指のあたりをさすり始めた。

「よいか。わしが射抜かれたのは、足の指だ。兵たちに胸を射たれたと悟られてはならぬ」

 自分が射たれたことによって兵の士気が低下することを恐れた劉邦は、痛みに耐え、張良の介添えのもと陣頭に立ち、士卒に自分の無事な姿を見せて回ったという。


 しかし無理がたたったのか、傷口が開いた。まともに立っていることも困難になった劉邦は一時成皋へ引き下がり、療養することになった。

 これにより漢の上層部の意志は、次第に講和を目指す方向へ流れ始めたのである。


 胸の傷は深かったが、それでも思っていたより早く治癒の兆しが見え始めた。しかし、問題なのは心の方である。「足を射たれた」と虚勢を張ってみせたとしても、自分自身に嘘をつき通すのは難しい。劉邦はこのとき、自分の傷ついた心を癒すのに苦労した。

 劉邦は体力がある程度回復すると、逃げるように関中に戻ってしまった。


 丞相の蕭何は劉邦が突然帰還したので、このとき目を丸くして驚きをあらわしたという。

「お怪我をされたと聞きましたが、もう出歩いておられるとは……お体の具合は大丈夫なのですか」

 蕭何は劉邦に尋ねたが、劉邦の返事は素っ気ない。

「体など、もうよい」


 蕭何は重ねて聞く。

「どうなされたというのです」

 劉邦は、これに対し返事をしなかった。

 ――もう、やめだ。


「おつらそうでございますな」

「蕭何」

「はい」

「……長いこと戦ってきて、わしは、ようやくわかった。わしはどうあがいても項羽には勝てぬ。お前は知恵も回る男だから、わしのかわりも務まるだろう。明日からお前が王だ。いや、今日、いまからでも構わない」

「……本気でおっしゃっておられるのですか」

「本気だ」

「残念ながら私は軍事のことはどうも苦手でございまして……恐れながら、辞退申し上げます。しかし、大王があくまで王座を退くというのであれば、かわりにひとり適任の者を推挙いたします」

「誰だ? ……いや、言うな。答えはわかっている」

「韓信を推挙いたします」

「……言うな、と言っているのに!」


「ご不満ですか」

「……あいつは駄目だ」

「理由をお聞かせ願いますか?」

「あいつは……自分に対して厳しい男だ。それに真面目な男だし、頭もいいときている。しかし、だからこそあいつは、他人の弱さや、だらしなさや奔放さを許さないに違いない。あいつの治める国は秦以上にがちがちの管理社会になるだろうよ。臣下や民衆は暮らしにくくなるはずだ」

「そうでしょうか」

「そうに決まっている」

「ならば、あきらめてご自分で国を治めていただくしかありませぬな。韓信が駄目な以上、大王にやっていただくしかありませぬ。大丈夫、やれますよ」


 蕭何は気分の落ち込んだ劉邦をなだめたりすかしたりして、機嫌を取りつづけた。そして渋る劉邦を無理に誘い、関中の父老たちに会わせ、酒宴をさせたりした。そこで父老たちに激励された劉邦は、結局広武山に戻ることとなる。


 劉邦が関中に滞在したのは、たった四日間に過ぎなかった。劉邦にとって、自らの傷心を慰めるには短すぎる期間であったに違いない。


 三


 ――なぜ、あれしきのことで……。


 韓信には蒯通が狂人を装った際に、どうして自分が落涙したのか、よくわからない。

 見捨てられた、と思ったのか。それとも蒯通をそこまで追い込んだ自分が許せなかったのか。


「私は、本当に気がおかしくなられたのか、と思いました」

 蘭はそう言って、口をつぐんだ。韓信は、自分がなぜ泣いたのか不明であったが、それ以上になぜ蘭が泣いたのかが、よくわからない。

「蒯通さまは……ずるいお方です」

 韓信がそのことを問いただしても、蘭はそれ以上言おうとしない。

 言えば、蒯通を誹謗することになる。自分が言えば、韓信は本気で蒯通を斬ろうとするかもしれない。蘭は、そのようなことは避けたい、と考えた。


「……私は、若い頃から決断力に乏しく、師からよく嘆かれたものだ」

 口を閉ざす蘭を相手に、韓信は切り口を変えて会話を続けようとした。

 ちなみに韓信がいう師とは、栽荘先生のことを指すのであって、劉邦や項羽、あるいは項梁などの上官を指すのではない。

「師がおられたのですか? 初耳です」

 蘭は興味を覚えたようだった。

「私は幼いころに両親をなくし、みなしごとなった。その人は私の師であると同時に、親代わりでもあった。しかし、それはともかく」

 韓信には栽荘先生にまつわる話をする気は無いようで、内心蘭は拍子抜けしたが、まさか話の腰を折るわけにもいかない。

 自分と韓信の関係は恋人以上であると自負していたが、それ以前に王と臣下なのである。臣下である以上、忠実でありたいし、主君の前では実直でありたかったので、あれやこれやと詮索するべきではない。だが、未来には昔話をする機会も訪れるだろう……そう思う蘭であった。

「蒯先生の策には、注目すべき点がいくつかあったが、君の言う通り、やはり実現不可能なものであった。にもかかわらず、私はそれを蒯先生に伝えることができず、結果的に彼は逃亡した。彼は死んではいないが、私が彼を失ったことには変わりがない。カムジンや酈生などと同じように……私はなにがいけなかったのだろう?」

「まず、あらためて将軍がなぜ実現不可能だとお思いになったか、その経緯をお聞かせください」

「ああ……」

 韓信は、話し始めた。


「私の勢力範囲は、趙・燕を含めれば、確かに漢・楚に対抗できるものである。蒯先生の持論はこれら三者の武力均衡によって、天下に安定をもたらす、というものであった」

「はい」

「しかし、天下に存在する勢力はこれら三国だけが絶対的なものかというと、実のところそうではない。梁の彭越や淮南の黥布が黙って見ているはずがないのだ。私が自立すれば、彼らも同様の動きを見せるのは、自然な成り行きだ」

「将軍が自立すれば、彼らも漢から独立すると……? でも将軍の勢力範囲と彼らのそれには、格段の違いがありますね」

「確かにそうだ。だが、三国の武力均衡で天下の安定を目指すからには、四国めや五国めがあってはならない。彼らの動き次第で、武力の均衡が崩れるから……。たとえば、私が彼らと同盟を結んだとすれば、その勢いは漢を上回り、楚を上回ることになるだろう。そうすれば漢と楚は手を結び、ともに私を滅ぼそうとするに違いない」

「項王と漢王が手を結ぶことが、あるのでしょうか。私はそこまで考えが及びませんでした」

「……項王からそれを言い出すことはないかもしれない。しかし、漢王は、やるだろう。あの方は、目的のためならば自らの感情を押し殺して行動に移せる。それまでの項王との軋轢や、私との友誼を投げ捨て、項王に頭を下げてまでも誼を結ぼうとするに違いない。これは……たやすく真似できることではない。私があの方に及ばない理由が、そこにある」

「将軍は、漢王に及ばないと?」

「及ばない。とても及ばぬ」

「項王には?」

「項王は、どうであろう。……近ごろよく思うのだが、項王は私と似ている。いや、私が項王と似ていると言った方がいいかもしれないな。私が思うに、項王は信念の人だ。自分の価値観を信じ、それに従わない者と戦うことを辞さない。私に彼ほどの武力や勇気はないし、彼ほどの絶対的な価値観はない。しかし、ひとりよがりなところだけは似ている、と思われるのだ」

「それはどうでしょう? 私には、項王は欲望の人と思われます。もっとも実際に接したことはないので、はっきりとは申せませんが。項王は天下に覇を唱えることが目的で、対抗する者と戦う、それだけです。漢王も同じで、天下に覇を唱えるために、かつての味方も敵に回し、敵も味方に引き込もうとする、それだけです。そこでおうかがいしたいのですが、このお二方に共通するものはなんだと思われますか」

「……なんだ、わからぬ」

「このお二人は、目的があまりにも壮大なために、常識が見えなくなっているのです。目が眩んでいるといっても差し支えないかと……」

「はっきり言う。しかもとてつもなく大胆な発言だ」

「蒯通さまの間違いは、将軍がこのお二人と同類の人種だと思って行動したことでございましょう。蒯通さまは将軍のことを見誤ったのです。あの方は、最後までそのことを認めようとしなかった。おそらくご自分でもわかっていたはずなのに……。ですから、そのことから生じた結果に、将軍が頭を悩ます必要はございません」

「なるほど……だが私は本当に彼らと違うのだろうか」

「将軍……違うに決まっています。将軍は王を称するために戦ってこられたのではありません。天下に覇を唱えるために数多くの死地をくぐり抜けてきたわけではありません。将軍は国をつくることよりも、個人として平和を望んだゆえに戦ってこられました。だから、この場に至っても漢王との友誼を重んじて裏切らず、死んでいった者を思っては悲しみ、思いが通じず去った者を思っては嘆くのです。これは、目的に目が眩まず、未だ常識にとらわれている証拠です。ですが思い違いをなさらないように。これは欠点ではなく、美徳なのです」

「ふうむ。では私の目的意識は小さい。小さいがゆえに普通の人間として振る舞うことができる、というわけだな。確かに私は気宇壮大な男ではなく、武将として世に立ちたいと思ったのも、単にそれが私に向いていると思ったからであった。そしてその先のことは、あまり考えていない。世間は……私を笑うだろうな。このような思慮不十分な男が、王を称したと」

「笑う者には笑わせておけばよろしいかと。将軍はそのような者は好まないとは思いますが」

「ああ。嘲りは大嫌いだ。それをする者も……嫌いだ」

「嫌いなのが普通なのです。ですが、人は王位に固執すれば、それにも耐えるようになります。漢王のように。どうしても耐えられなければ、嘲る者を滅ぼそうとするでしょう。項王のように。私は……将軍にはそのような生き方をしてもらいたくありません」

「しかし……私は、すでに王となってしまった。これから先、私が自分自身を失わずに生きていくためには、どうすればいいのか」

「将軍が漢王に味方すると決めたからには、漢の統一に最善を尽くすべきです。そして……漢が楚に打ち勝った暁には、大国の領有など必要ありません。斉国など漢王に差し出してしまうのがよろしいでしょう。そして将軍はそのかわりにどこか小さな封地をいただき、存在を誇示しながらも、そこで自由に暮らすのがよいかと存じます」

「……そうか……それはいい。静かな、穏やかな暮らしが目に見えるようだ」

「将来そのような地で将軍とご一緒に日々の暮らしを営むことは、私の夢でもあるのです」

「……夢か。……いい響きの言葉だ。今日から私もその夢を共有し、実現のために努力するとしよう」

「はい。でもあまり固執なさらずに。固執が過ぎると、目が眩みます」


 韓信はそれから気を取り直したように、何度か斉から出撃しては、楚の後背を襲い、小さな戦果を積み重ねた。梁の彭越の行動にあわせたのである。

 項羽は態度にこそ出さなかったが、これを受けて漢との和睦の必要性を気にし始めた。


 四


 無理を押して関中の父老の前に姿を現したのが功を奏したのか、広武山に陣する劉邦の軍に関中から多くの子弟が兵として補充された。

 その模様は谷向こうに陣する項羽の目にも留まる。首領が矢に倒されたにも関わらず、漢が軍行動を止めようとしないことに項羽は苛立ち、対応に苦慮した。


 ――漢との戦いはひとまずおき、後背の韓信や彭越を先に処理すべきだ。

 項羽はそう思ったが、どうしても行動に移せない。劉邦に傷を負わせ、漢を追いつめている自分が、相手に停戦を求めるなど不自然だと考えたのである。自身の矜持が許さないのであった。


 しかし、項羽にとって幸運であったのは、漢が兵力を増強したにもかかわらず、和睦の意志を楚に示したことである。項羽にとっては渡りに船であったことは確かだが、もちろんこれは偶然ではなく、楚がそれほどまでに漢を追いつめた結果であった。行為の善悪は抜きにして、項羽としては努力が実ったことに違いはない。


 だが問題は、このとき漢側の使者として項羽のもとに派遣された人物が、陸賈りくかという人物であったことだ。実を言うとこれは、他ならぬ生前の私のことである。

 当時の私は、弁舌にある程度自身を持っていた。が、しかし項羽はその私の自信を見事に打ち砕いたのだった。

「出直してこい」

 項羽の口から発せられたのは、たったそのひと言のみである。

 思うに当時の私は、ひとりで学問を追究するあまり、人の心の不安定さに気付くことがなかった。つまり、自分が正しいと考えていることは、取りも直さず普遍的に正しいことだと信じていたのである。

 このとき私が示した停戦の条件は、楚側が人質としている劉太公と呂氏を解放することであった。今にして思い返してみると、実に虫のいい話である。実質的に有利な状態にあった楚に対して、敗色濃厚な漢が一方的に条件を示すなど、後世の物笑いの種になりそうな話である。しかしあえて言い訳をさせてもらえるならば、当時の使者の最大の役目は、威厳を保つことにあった。たとえ漢が滅亡寸前であったとしても、私はそのことを楚に悟らせるわけにはいかなかったのである。相手に媚びるような態度を示すなど、もってのほかであった。

 とは言いつつも、やはりそのときの私の中に芽生えた感情は、屈辱であった。しかしそれは項羽に一喝されたことによるものではなく、自分自身の未熟さによるものである。しかし、このことはこのあたりで留め置くことにする。


 漢が私に替えて使者として選んだのは、侯公こうこうという人物であった。この男が鴻溝こうこうという広武山よりわずか東の土地を境に天下を二分することを提案し、受け入れられることになった。

 鴻溝より東が楚であり、西が漢である。

 これにより項羽は領地として梁を保有し、漢は関中・巴蜀のほか韓や西魏は保有するものの、それ以上の東進は阻まれたことになる。しかし、この和睦により劉太公と呂氏は解放され、漢兵はみなこれを歓迎し、万歳を唱えた。長く続いた対陣は終わりを告げたのである。


 このとき使者として実績をあげた侯公は、その褒美として財物や封地を与えられ、平国君という尊称を送られた。

 が、実をいうとこの人物は、周囲からあまり信用を得ていたわけではない。彼は「行く先々で国を傾ける」と、警戒されていたのである。彼に送られた「平国」君という尊称は、「傾国」の反対語であることから、この人物に対する劉邦や漢の首脳部の警戒感がよほどのものだったことがうかがわれよう。

 彼は与えられた褒美のうち、財物だけを手にすると封地に赴くこともなく、行方をくらました。逐電したのである。

 侯公は、漢のためを思って交渉の席についたのではなく、財宝と、自身の能力の誇示だけが目当てだったのだ。彼の内には、忠誠心のかけらもなかった。


 しかし侯公の交渉が成功したことは確かである。項羽は広武山の陣営を払い、東に向けて退却を開始した。何はともあれ、楚・漢の和睦は成立したのであった。

 この和睦を誰よりも喜んだのは項羽であっただろう。一様に万歳を唱える漢軍に対し、撤退する楚軍の姿の方が全体的に消耗しているように見えたことは、それを象徴するかのようであった。


 去り行く楚兵たちの姿を眺め、劉邦は安堵の溜息を漏らした。

 ――これで、しばらくは……。

 疲れていた。毎日のように続く緊張が体力を消耗し、胸の傷はなかなか完治しようとしない。劉邦にとって地獄のような日々であった。しかし、それも終わりを告げようとしている。


 だが、寝所に入ってひと休みしようと考えた劉邦の前に、表情をこわばらせた張良が立ちはだかった。劉邦はなにか予想していなかった事態でも発生したのかと心配し、立ち止まった。

「子房……」

「大王……機会は今しかありません。楚軍を追い、後ろから討つのです」

「なに! ……しかし、和睦が」

 張良のもともと青白かった顔が紅潮している。どうやら自分の策に興奮の色を抑えきれないらしかった。

「ええ、ええ! 和睦は確かに成りました。しかし、そんなことはもうどうでもよろしい。これを逃せば、漢は滅びます! あるいはこれを裏切りだと評する者もおりましょうが、そのときは私ひとりが責任を持ちましょう。とにかく討つのです。今! 楚を討つ機会は今しかありません!」


 張良は感情的な男ではないが、このときは激しく主張し、劉邦はその勢いにのまれ、この策を容れた。漢軍は広武山からひそかに出撃し、楚軍の追撃を開始することになる。


 陳勝・呉広の蜂起から端を発し、長く続いた楚・漢の抗争は、この時点より最終局面に入った。


 五


 灌嬰は漢の歴戦の武将であったが、年は若い。もともと諸国を渡り歩いて絹を売り歩く商人で、そのおかげか馬の扱いに慣れ、商売人上がりらしく、機を見て判断を素早く下す技術に長けていた。彼の戦は速戦即決、疾風の如き速さが特徴である。

 京・索の戦いを機に、旧秦の名高い騎士たちを従えることとなり、彼の軍はその速度にさらに磨きをかけた。このころから彼は「騎将灌嬰」と敬意をこめて呼ばれることとなる。


 そのような灌嬰であったので、当然ながら劉邦を始めとする漢の首脳部の信用はあつい。しかし残念ながら彼には政治的影響力がなかった。

 自己顕示欲が少なかったのかもしれず、あるいは生来政治的なものの考え方が苦手だったのかもしれないが、いずれにしても彼が尊重されるのは軍事の面に限ってのことである。このことから、灌嬰は非常に実務に長けた人物で、構想力を自慢としていたとはいえず、その点では韓信に似ていなくもない、と言えそうである。


 その灌嬰は韓信が斉を制圧すると、もっぱら楚との国境付近の防衛にあたり、斉の残党や混乱に乗じて侵入をはかる楚軍を相手に粉骨砕身の働きぶりをみせた。その戦いぶりに韓信が信用をおいたことはいうまでもない。

 しかし、最近は様相が少し変わってきている。これまでは防御が主な任務だったのに対し、近ごろは小規模ながら積極的に楚の補給路を断つような命令を受けるのである。さらには命令を発する韓信が自ら姿を現し、共に戦うことも多くなった。


 ――斉王の心の迷いが、晴れたのだ。

 灌嬰はそう思い、この事態を歓迎した。それもそのはず、彼は戦略上、韓信配下の斉軍に所属してはいるが、もともと漢の将軍なのである。それも重鎮であるといって差し支えない立場であった。その彼にとって韓信が楚の使者を迎え入れたり、幕僚の意見を真に受けて自立を企むことは、望むべき事態ではない。


「灌嬰将軍。そろそろ大規模な遠征があるかもしれぬ。心構えをしっかりとしておけよ。もっとも……君なら大丈夫なことと思っているが」

 このとき、韓信は灌嬰に向かってこのような内容のことを言った。灌嬰はこれに対し、

「大規模な遠征……それは、どの国を相手にするのでしょうか?」

 と質問したという。

 捉えようによってはきわどい内容であったかもしれないが、灌嬰には嫌味を言ったつもりはない。むしろ冗談めかして近ごろの韓信の気の迷いを茶化したのである。

 彼にとって韓信は王としては話しやすい相手だったのである。


「そういじめるな。もちろん相手は楚だ。……しかも今度は項王と直接相対することになるだろう。だから心しろ、といっているのだ」

「そうですか。いよいよ……。いや、私は相手が漢だとしても、戦いますぞ。斉王とともに」


 韓信はこの言葉を聞いて笑いながら言ったという。

「君のその言葉はうれしい。しかし、くれぐれも他人のいる前でそんなことを言ってくれるなよ。君も知っていることと思うが……私の立場は依然、微妙なままなのだ」

 灌嬰はそれを聞き、苦笑いしながら答えた。

「ええ、知っています。しかし、斉王様。あなたが楚を討つとお決めになられたことに、私は内心ほっとしているんです。仮に自立するとして……私はあなたと行動を共にするつもりではおりますが……ことが成功すればよいが、失敗したら私どもは逆賊の汚名を着ることになる。できることなら、そんなことは避けたいですから」


 灌嬰の言葉は、この当時の忠誠心というものがどういうものか、如実に示している。

 人は国や制度ではなく、人に対してのみ忠節を尽くす。美しい精神である。しかし、結果的にこの精神が延々と続く無秩序を生んだと言えるだろう。理念より憧れでこの時代の人々は行動したのだ。


「漢王の忠実なる臣下たる君が、軽々しくそんなことを言うべきではない。……君に妙な気をおこさせないためにも、私はここで断言しておくべきだろうな。斉王韓信も、やはり漢王の忠実なる臣下である、と」

 この時の韓信の表情には、曇りがなかった。

 灌嬰はそれを認め、

「よかった。これで前面の敵に意識を集中できる、というものです」

 と心から安堵したような顔で答えた。

 韓信の軍は、常勝の軍である。彼らは、負けたことがなかった。ただし、それがゆえに負けるのは想像できないほどに恐ろしいのである。

 そのため、韓信に従う兵たちは、自分たちの首領が無用な、意味のない戦いをすることを望まなかった。灌嬰はそのような兵たちの気持ちを代表して述べたと同時に、自分自身の強い思いを言い表したようである。


 韓信には、それが痛いほどよくわかったのである。自らの気の迷いが、恥ずかしくなるほどであった。


 六


「話は変わるが、兵たちは、君の言うことをよく聞くか?」


 韓信の質問は唐突ではあったが、灌嬰には彼がなにを言いたいのかよくわかった。

「旧来の漢の兵たちは問題ありません。しかし、新たに加わった斉兵はどうも……彼らは反抗こそしませんが……どう表現すればいいのでしょう……熱心さが足りないように感じられます」

「ふむ。そうだろうな。無理もないことだ」

 征服された斉の兵士たちは、いうまでもなく捕虜である。しかし、この時代の捕虜に人権は認められない。被征服者の兵は、征服者側の兵として戦うことを強要されるのだった。彼らが自分たちの主義・主張を態度で示すことは、禁じられていたわけではないが、現実的に難しい。我を通して旧主への忠誠を示そうとすれば、征服者によって斬殺されるのが関の山なのである。


 よって、軍は勝つたびに新参者の兵が増え、膨張していくことになるのだが、それら新参の兵を心服させることは、征服者にとって重要な課題のひとつである。彼らが反乱などを起こさないにしても、常に命令に対して消極的な態度で臨むようであれば、軍全体の士気が低下していくのは目に見えていた。

 ましていま韓信が問題にしているのは、一癖も二癖もある斉人なのである。彼らの国民性を思えば、自分の目の届かないところに、しかも国境の最前線に彼らを配置するのは危険が大きすぎたのだった。


「軍の編成を新たにし、君の部隊は漢兵を主体としよう。斉兵は私が引き受けて臨淄に連れて帰ることとする。構わないな?」

 灌嬰に異存はなかったが、斉人を斉に帰す、というのは多少不安に感じられた。小規模なものといっても、ひとたび戦闘ともなれば、多少なりとも味方に戦死者は発生する。灌嬰は、残酷なようではあるが、斉人にもっとも死の危険が高い任務を与え続けてきた。


 ――どうせ失う兵であれば、斉人に死んでもらおう。

 彼ら斉人が故郷に帰れば、旧知の人物たちと謀略を企み、よからぬ行動を起こすかもしれない。それを思えば、前線で死んでもらった方がよい、と考えたのであった。

 しかし、国を統治することを考えれば、それではいけないのかもしれない。斉人を捨て駒にし続けることは、彼らに不服従の精神を植え付けることになり、反乱の種をまくことになるのかもしれなかった。

 灌嬰はそう考え、不安に感じたものの、韓信の能力を信じ、同意した。

「私には、一抹の不安がございますが……それでも斉王のご判断は正しいと思われます。あなたにならば、なにかと問題の多い斉人でも従う者は多いでしょう。そして斉は次第に安泰な強国へと育っていくはずだ」


 これを聞き、韓信は気恥ずかしそうな顔をして言った。

「私にそのような徳はない。げんに国政はほとんど曹参に任せきりにしているくらいだ。軍事以外になんの取り柄もない私に残された仕事は、前線の視察くらいさ。……まあ、暇つぶしのようなものだ」

「そうでしょうか? おそれながら漢の将軍である私でさえ、あなたには従っているのです。どうして斉人が従わないことがありましょう。どうか自信をお持ちください。……そして、斉国の安泰を望むのであれば、早めに王妃を迎え、後継者をお決めになることです」


 韓信は灌嬰の言葉に目を白黒させながら答えた。

「王妃……後継者……。将軍、私は確かに王として斉国の安泰を願ってはいるが、斉の国王であることは私の人生の最終目標ではない。私は、漢が楚に勝った暁には斉国を漢王に献上するつもりなのだ」


 灌嬰は韓信のこの言葉に驚いた様子であったが、すぐに態度を改め、茶化した態度で反論した。

「仮に斉王がそのようなことをなさっても、漢王がお許しになるはずがないでしょう。引続き斉の国政を見よ、と命じられるはずです。斉王の人生の最終目標がなにかは存じませぬが、諦めて王妃を迎えることです」

「……はたして漢王はそのような命令を下すだろうか。私としては確信が持てないうちは王妃を迎えようという気にもならない。そして、私自身漢王からそのような命令を下されることを望んでいないのだ」

「そのようなことを! いまの言葉を聞けば、魏蘭は悲しみますぞ!」


 ――そんなことはない。そんなことはないのだ、灌嬰……。

 灌嬰は韓信と魏蘭の二人の夢を知らない。

 知らないがゆえのおせっかいな発言であったが、韓信はそれを腹立たしく感じたりはしなかった。まだ自分の周囲には、自分のことを思い、意見してくれる者が存在する。自分がそれに応えられるかは別問題として、韓信はそのことが嬉しかったのだった。


 灌嬰と別れた韓信は、その言葉のとおり前線の斉兵たちを引き連れて臨淄に戻った。しかし、このことがのちに悲劇を生むことになる。


 灌嬰の不安は、やはり正しいものであった。


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