三国は鼎の脚の如く
項羽を相手に奮戦する劉邦の苦労も知らず、韓信はこともあろうに叛逆について考えを巡らしたが、彼にはそれを実行する決断力がなかった。幕僚の熱心な説得に応じず、彼は初志を貫いて劉邦に臣従する決意をしてしまう。このころの彼は自らの義理堅い性格を持て余し始めていた。それが結果的に戦乱の世を長引かせるひとつの要因となっていることを自覚していたのである。
だが、彼の決断は人として自然なものであろう。私は彼を責める気持ちにはなれない。武力の均衡による平和などというものは砂上の楼閣のようなものであり、ほんの少しのきっかけで崩れ去るものであることぐらいは幼児にも想像できるものだ。しかし、戦時ともなると人は焦り、解決を急ぐあまりそのような考え方に靡くものである。だが、韓信はそれをよしとしなかった。
一
蒯通との会話を切り上げた韓信は、居室に戻ると侍従の者に蘭を呼ぶように言いつけた。彼としては曹参に先に相談するべきか迷ったのだが、考えてみれば劉邦の腹心たる曹参が韓信の自立を支持するはずがない。韓信にはそもそも自立に乗り気ではなかったが、それでも曹参を相手に結果のわかりきった相談をするよりは、蘭を相手にした方が客観的な意見が聞けると思ったのである。
また、蒯通との対話に常にない疲労を感じた韓信は、無意識に蘭に癒しを求めた。
ふとそのことに気付いた彼は、
――自分も、いつの間にか弱くなったものだ。
と、感じるのである。
それが自分にとって良いことなのか悪いことなのか、彼には一概に断定することができない。
召し出された蘭は、間もなく韓信のもとに現れ、常と変わらない挨拶をした。
「将軍、蘭にございます」
蘭が韓信のことをいまだに将軍と呼ぶのは、韓信の希望によってのことである。
「早かったな。蘭……」
「お召しがあるものと思っておりましたので。……それで蒯通さまはどのようなことを?」
「うん……一言でいうと、自立しろと。そうしないと私自身の身が危ういそうだ。漢王にも項王にも味方せず、三国鼎立の世を実現しろと彼は言った」
その言葉を聞いた蘭が漏らした感想は、
「いかにも蒯通さまが言いそうなことでございますね。理には適っていると思います」
と、いうものでしかなかった。韓信は、不安に駆られた。
「……賛成なのか? そういえば以前君は私に、力を蓄えよと言ったことがあったな。漢王を掣肘せよと。その意味は、蒯先生が言ったことと同じことなのか」
蘭は首を横に振り、韓信の不安を和らげようとしていた。しかしそれは、彼女は彼女で蒯通と違う要求を韓信にぶつけようとしている現れでもある。
「王という立場がこれほど重荷に感じられたことはない。君も私に難題を押し付けるつもりなのか。決断を迫り、期待に応えさせようとする。……期待に応えるのはいいが、私にはそれが私自身のためなのか、漢王のためなのか、それとも民衆のためなのか、あるいは人類社会の未来永劫の発展のためなのか、それがさっぱりわからないのだ」
韓信はため息まじりにそう言った。しかし蘭は逆に嬉しそうに目を輝かせ、
「そのすべてでございます!」
などと、およそ韓信を余計困らせるような返答をした。
「驚くことを言う。私ひとりの行動や選択が、それらすべてを満たすことがあるというのか。それが本当ならば、私はよほど注意深く行動しなければならない。君は、私にどうしろと言うのだ」
韓信は、やや途方に暮れたような表情で聞いた。その態度と口調からは、蘭の解答にはさほど期待していない様子がうかがえる。しかし、一方の蘭は何かを主張したくてたまらない様子であった。
「将軍は王ではございますが、現在のお立場は大いに漢王の威光を借りたものに違いありません。その事実を覆したいとお望みですか?」
「いや……そのことが実にけしからぬということであれば覆さねばならぬとは思うが、今のところそういう思いはない。また、私自身にも乱世の梟勇でありたいという望みもないのだ」
「では、将軍の望みとは、いったいなんでありましょう」
「あえて言えば……武人として天下の乱れを取り除くことだ」
韓信の口調は、ややはっきりとしないものであった。それは、彼がこの時点まで自身の具体的な将来をあまり描くことをしてこなかったことに由来する。
「では、将軍は最後までその意志を貫くことです。いま、漢王と項王に対抗して自立したとして……武力均衡など成立しません。漢王は将軍が裏切って自立したことに怒り、攻撃しようとするでしょう。そして項王はその隙を打って漢を攻撃する……武力均衡どころか、三つ巴の戦いが繰り広げられるだけで、天下は一層乱れます」
「……そうかもしれない。では、結局私はどうすれば良いのか」
「楚は漢王と将軍が協力することによって滅びましょう。そして天下は漢のものになります。ですがその後、漢王が善政を布き続けるとは限りません。将軍は漢王が間違いを犯した時に、それを正す存在であるべきです。その為には力を蓄えておかねばなりませんし、将軍ご自身が間違いを犯してはなりません」
「……ふむ」
「人の世が人の世である限り、争いがなくなることはございません。漢の世になって再び天下が乱れるとき、将軍はそれを治めねばならないお立場です。そのことを深く自覚なさるべきです」
蘭は力を込めてそう話した。しかしこれは救い難い話でもある。彼女は天下が漢の国号のもとに統一されたとしても争いが終わることはない、と言っているのであった。つまり、戦争のあとには内乱が起きる、というのである。
彼女の言によれば、韓信はそのときにこそ必要とされる存在だ、というのだ。
二
一方、広武山での楚・漢の対立は泥沼化し、なかなか進展を見せない。楚は軍糧の補給に苦労し、このときの軍中には、次第に飢えの徴候が現れてきている。
これに対し漢は敖倉を後背に抱え、食料に関する問題は抱えておらず、楚が飢えて弱ったところを攻撃すれば、あるいは勝てたかもしれなかった。
しかし項羽の圧倒的な武勇が、劉邦にそれを思いとどまらせた。加えて劉邦の父と妻を人質に取られているという事実は、彼らに行動に慎重さを要求した。
このため、広武山の攻防において、常に先手を打つのは楚の側である。
谷を挟んで、楚軍はしきりに漢軍を挑発したが、劉邦はどのような嘲りを受けようとも、まともに取りあおうとはしなかった。それに苛立った項羽は、軍中から壮士を選抜し、一騎打ちで漢に挑ませることに決めた。
退屈しのぎの余興のようにも思われるが、項羽としては狙いがある。楚の壮士が次々に漢の壮士を撃ち破れば、さしもの劉邦も自軍の士気の低下を恐れ、自ら姿を現すに違いない、と考えたのだった。
かくして武勇自慢の楚の壮士の一人が軍門から出撃することになり、その壮士は騎馬で谷を降りていった。
「我と勝負せよ」
長柄の矛を構えた壮士は、そう言って漢軍に勝負を挑んだ。
「誰もいないのか。漢は腰抜けばかりの集団だと聞いていたが、なるほどその通りよ!」
壮士がそんな調子で漢軍を狼藉し始めたので、たまりかねた劉邦は左右の者に、ぼそりと言った。
「仕方ない。誰か、出せ」
この命を受けて、漢の軍門から左手に短弓を抱えた一人の騎馬武者が姿を現した。彼は巧みな騎術で谷をくだり、馬上で矢をつがえながら言った。
「私が、相手だ」
言うと同時に短弓から矢が発射される。その矢は突進してくる楚の壮士のこめかみを正確につらぬいた。あっという間の勝負である。
「あれは……楼煩だ! そうに違いない」
楚軍の兵士はみな一様に恐れ、おののいた。漢の楼煩兵はそれを当然の如く受け流し、つぶやく。
「一人目……次、出てこい」
その声が聞こえたかどうかは定かではない。しかし先に仕掛けた以上、引くことのできない楚の側としては、次の壮士を前面に出すしかなかった。
しかしこの状況で楼煩の弓術にまともに張り合おうとするのは、無謀とも言える。楚の壮士がいくら剣術や槍術に長けていても、接近することができなければ、威力を発揮することはできない。
よって二人めの壮士は突進しつつ弓を構えて相手の楼煩に狙いを定めて射ったが、楼煩兵は馬を操り、そのことごとくをかわした。そして相手が短弓の射程内に入ったことを確認すると、静かに狙いを定めて矢を放ったのである。
矢はやはり正確に楚兵の目と目の間を貫いた。
「二人目……。次!」
言うと同時に楼煩は馬を走らせ、楚の軍門との距離を縮めた。相手が射程に入るまで待つ時間の無駄を省こうとしたのである。
楚の三人めの壮士は軍門を出たと同時に、射殺された。
「次!」
そのとき楼煩兵の視界に大柄な兵の姿が見えた。手には戟をとり、きらびやかな甲冑を身に付けている。
「四人目……」
楼煩は矢をつがえ、その人物を射とうとした。しかし、不思議なことに、それ以上体がいうことをきかない。手はこわばり、目は目標を直視することができなかった。
彼は突如恐れをなしたようにその場を離れ、一目散に軍門のなかに逃げ込んだ。
「……項王だ! 項王がいる!」
逃げ帰った楼煩は狂ったように喚いた。項羽は楚の四人めの壮士として、自分自身を前線に配置したのであった。
三
項羽とあえて一騎打ちを挑もうとする者など、漢軍の中にはいない。出れば殺されるのはわかっており、劉邦自身もそれを理解していた。
しかし、理解していながら、この場に至っては出ざるを得ないのが実情であった。
漢は楚に比べて全体的に武勇で劣るので、生存を望む兵は楚に靡くのが自然な流れである。だが漢は食を保証することで兵の流出を防ぎ、どうにかここに至っている。
だが、それも限界であった。項王を恐れ、すごすごと逃げ出すような王に兵がいつまでも心服するはずがない。
――いま、この場に韓信がいたら……。
劉邦はそう考えたが、すぐさま首を振ってそんな考えを頭の中から追いやった。韓信が項羽に打ち勝つことになったら、兵は韓信に従うだろう。そんな事態になっては、彼の存在意義など無きに等しい。
劉邦は意を決し軍門を出て、項羽と対峙することにした。しかしわかりきったことだが、武を競い合って敵う相手ではない。劉邦は両軍の兵たちが見守る中、項羽を論破することにしたのである。
「項羽! 貴様ほど悪逆な者は天下にはおらぬ」
谷を隔てた会見が始まった。両軍の兵士は等しく息をのみ、誰もひと言も発しない。
「天下を貴様の手に渡すわけにはいかぬ。なぜならば貴様はあまりにも罪の多い男だからだ。わしはそれを証明するために、いまここに貴様の罪を列挙してやる。数えきれないほどの罪だが、だからといって、どれも見過ごすわけにはいかん」
項羽は本来こらえ性のない男であったが、この場では怒りをあらわすことなく、なにも言わなかった。劉邦の出方に虚をつかれたのか、それともお手並み拝見、とでも思っていたのか、この時点では定かではない。
劉邦はそれをいいことに声高らかに演説し出した。
「貴様の罪の一つ! かつて懐王は先に関中に入った者を関中王と定めるとしたが、貴様は約束を違え、わしを蜀漢の王とした」
「二! 貴様は卿子冠(宋義のこと)を偽って殺し、自ら大将軍の座についた」
「三! 貴様は趙を鉅鹿に助け、それが終わると懐王に断りもなしに諸侯を引き連れ、函谷関に入った」
「四! 懐王は秦国内では暴虐な行為を働くなと命令された。にも関わらず、貴様は宮殿を焼き、始皇帝の墓を暴き、財物をことごとく私物化した」
「五! 貴様はやはり断りもなく、独断で秦王子嬰を殺した」
「六! 貴様は悪逆な方法で秦の士卒二十万を新安で穴埋めにし、秦の降将章邯を勝手に王に封じた」
「七! 貴様は自分の部下にばかりよき地を与えて王とし、もとの王を辺地に移し、天下に争乱を起こさせるに至った」
「八! 貴様は義帝(懐王)を郴県に追いだして、欲望のまま広大な領地をとった」
「九! 貴様は江南においてひそかに人に命じて義帝を殺させた」
「十! 貴様は人臣の身でありながら主君を殺した。また、降伏する者を殺した。政治をとっては不公平、誓いを破ってばかりで義に背く。天下に轟く大逆無道とは貴様のことだ」
劉邦はあらかじめこのような項羽に対する誹謗を暗誦でもしていたのであろうか。
この場に及んでこれほど項羽に対する中傷を列挙してみせるとは、よほど胆力の座った男でなければできない行為である。単なるごろつきの出身であったと言われる劉邦であったが、やはり天下に覇を唱えようとする資質があった、ということか。だがそのこと自体が「一種の狂人である」とも言えないことはない。
「貴様はわしと決戦しようと、そこに突っ立っておるが」
劉邦は次第に気分が高揚してきたのか、滑舌も良く、調子に乗っている。
「貴様を討つことは、わしにとって賊に誅罰を与えるのと同じことだ! よって貴様を討つのは、貴人たるこのわしの仕事ではない」
項羽は狼藉を浴びせられながら、まだなにも反論しないでいる。劉邦はそのことにさらに気分を良くし、最後のひと言を発した。
「貴様を討つ仕事はわしではなく、刑余の罪人こそがふさわしい!」
おお、というどよめきが両軍の兵士の中に起こった。
しかしそれもつかの間のことであった。どよめきは漢兵の悲鳴によって、かき消されたのである。
劉邦があおむけに転倒しているのであった。
どういうわけか、ぴくりとも動かない。誰もなにが起きたのか、理解できないでいた。
これを確認した項羽は、後方に控えた兵に声をかけ、その場をあとにした。
「よし。よくやった……あとで褒美を」
項羽の後ろに隠れていた兵が、劉邦めがけて弩を放ったのである。これが劉邦転倒の原因であった。
弩から発射された矢は、劉邦の胸板に命中していた。
四
蒯通は韓信を説得する。素直に言うことを聞こうとしないので、彼としては説得するしかないのだ。
「……人の意見を聞くことが、まず第一。第二にはその意見をもとに計画を練ること。これが物事を成功に導く手段でございます。間違った意見を尊重し、適切な計画をたてることなく、長い間安泰であった者は稀です。大王、決断は知ることの結果であり、逡巡は物事の妨げなのですぞ」
「わかっている」
「細かな計算を充分たてているつもりでも、天下の大きな見通しを持たぬことは、木を見て森を見ないことと同じです。また、知識を得ておきながら、決断して行動に移す勇気を持たぬ者に幸福は訪れぬ、といわれています」
「ふむ」
「猛虎の逡巡は、蜂が刺すのに劣る。進まぬ駿馬は、鈍い駄馬の歩みに劣る。勇者の気後れは、凡人の決断に劣るのです」
「…………」
「功業は成功しにくく失敗しやすいもの。機会というものは、つかみにくく失いやすいものなのです。時は来れり。おそらくは、いまこそが一生に一度の機会なのですぞ。これを逃せば、二度と機会は訪れますまい」
蒯通は、韓信が小さな恩義にこだわり、決断しないことに憤りを感じていた。もし自分が韓信の立場であったら……ためらうことなく決断する。
――乱世の武人であるという、自覚が足りないのだ。
蒯通は韓信の悩む姿を見るにたびに、そう思う。およそ天下に覇を唱えようとする人物などは、人のことを人と思ってはならない。世界を敵に回す覚悟が必要なのだ。
――しかし、残念なことに、この男にはそれがない。能力は有り余るほどなのだが……。
だが、それを理由に韓信を責める気にはならない。そもそも蒯通は、韓信に覇王となる意志がもとよりないことを知っていたからだ。本人の意志とは無関係に、勝手に話を進めているのは自分の方であった。
――私の思いは、果たされることがないだろう。
蒯通は、半ば諦めている。それでもこうして説得を続ける自分が、不思議でたまらない。
もともと蒯通は縦横家として、君主の意を酌み、その王業を助けるために弁を武器として諸国間を渡り歩くべく身をたてたのであった。しかし、思い返せば、自分が弁をふるった相手は君主たる韓信に対してばかりで、その意味ではまったく王業を助けているとはいえない。
――斉王自身が項王や漢王相手に対抗意識を燃やしてくれなければ、私が彼らを相手に弁論する機会は、訪れない。
ということは、自分は武人ではないが、あるいは韓信のように乱世に名を轟かしたいだけなのか。天下の趨勢を変える弁士として活躍の場を得たい、ということなのか。
そう考えてみると、自分が韓信を相手にくどくどと長広舌をふるう理由が、次第にわかってきた。
――私は、斉王の活躍を、妬んでいる。……いや、妬んでいるとはいっても、彼を憎んでいるわけではない。私は、彼に憧れているのだ……そうに違いない。
はたして自分は単に王業を助けたかっただけなのか。もしそうであれば最初から項王や漢王に仕えていれば、その目的は果たせたはずだ。しかしあえて自分はそれをせず、韓信を選んだ。それはなぜか?
――彼が若く、可能性を秘めていたように見えたからか……。いや、彼の年齢は項王とさほど違いがない。だとすれば、自分が彼に惚れ込んだ理由は、彼の若さだけではないはずだ。
項羽や劉邦にあって、韓信にないもの。それは他者を威圧するような鋭気に満ちた態度であった。反対に韓信にあって、項羽や劉邦にはないもの。それは冷静に現実を見据える目であった。
――初めて彼の姿を見たとき、既に彼は漢の大将として数々の武勲を誇っていたが、外見の印象からはまったくそれを感じさせない、普通の青年のように見えたものだ。
見る者によっては、韓信には覇気が足りなく、冷めた感情で物事を判断する傾向があり、頼りなく感じたことだろう。しかし、実際は彼のそのような性格が数々の武勲を生じさせたのである。
例えば韓信は、勝つためには自尊心など捨て、平気で負けるふりをした。劉邦はまだしも、項羽などには絶対あり得ない行動である。
そして韓信は、再三にわたって自分を囮にして、敵将を討ち取った。常に危地に身を置き、それによって勝利を得ようとする行動は、項羽はまだしも劉邦にはない。
しかもそれらはいずれも、敵に勝利し、かつ自分が生き残るための最も有効な手段だったのである。このように、韓信はすこぶる冷静な判断を下す男であった。
その韓信は、狡猾な敵将を相手に、それ以上の狡猾さを発揮して撃ち破った。また、偏った知識に凝り固まった敵将を、それを上回る知識の高さで撃ち破り、傲岸かつ腕力自慢の敵将を、それをあざ笑うかのような知恵で撃破した。
蒯通はそばでそれを見ていて、そのたびに痛快な思いをしたことを思い出さずにはいられなかった。楽しかったのである。
――この人物であれば、確実に王となれる。私はそれを助け、天下に絶対的な覇王を生み出すのだ。
蒯通は無意識のうちに、それを自分に義務として課したに違いない。
――しかし、私はどこかで思い違いをしていたのかもしれぬ。常に現実的な判断を下す韓信は、覇王となって時流に乗った生き方をすることを拒んでいる。思えば彼は、将来に夢を馳せるあまり、現実と夢の区別がつかなくなるような若者ではなかった。これは韓信より、私の方が夢見がちな性格であった、ということか?
蒯通はそれに気付いたが、それでも韓信の返答に一縷の望みを託している。藁にもすがる思いであった。
しかし、それも将来に夢を馳せていることに変わりがない。
五
「学者というものは、似たような考え方をするものらしい。かつて酈生は私に、『漢の世になっても、それに属さず、独立を保て』と助言を残した」
韓信は蒯通を前に重い口を開き、話し始めた。
「このことは内密に頼む。酈生は漢の功臣として死んだ。その彼が私に謀反を唆したという記録を残したくない」
「承知しております」
蒯通には、もとより会話の内容を他言する意志はない。それもそのはず、彼が韓信に訴えているのは、他ならぬ謀反の勧めであったからだ。説得に失敗し、ことが曹参や灌嬰などに漏れると、自分の命が危ない。
「酈生は私に独立したほうが、孤高を保てると遺言を残したが、思うにそれは私の個人的な性格を考慮した上での発言で、戦略的なものではない。……彼が私に独立を勧めたのは、私が基本的に他者との濃密な関係を嫌うことを察してのことだと思うのだ。つまり、無理をして人の上に立つよりは、誰とも関わらず、世捨て人のように生きろと……」
「…………」
「私は、どちらかというと他者と向き合うよりは、自分と向き合う方が好きだ。私の周囲には愛すべき人物が多数いるが、残念ながら世の中には、そうでない人物の方が多い。君も知っていることと思うが、私はかつて無法者にいわれのない侮辱を受け、その者の股の下をくぐったことがある……このうえもない屈辱だった。……私は王となったからには、あのような無学な、人を侮辱することを楽しみとしているような……とにかくあのような人物を、この世から一掃したい、と思っている。だが、人道的な観点から判断すると、それは間違いだ。強権を武器にそのような人物を有無を言わさず抹殺することは、人道に反する。それを私が行えば、私自身が彼らを批判する資格を失ってしまうのだ」
韓信が昔の屈辱について言及するのは、極めて珍しい。自ら語ることがなかったので、多くの人は韓信が昔のことを気にも留めていないと考えがちであったが、本当はそのようなことはなく、彼は忘れていなかった。
蒯通は韓信の恨み節ともいえそうな今の発言内容に驚きを感じざるを得ない。
「漢王に関しても、また然り……。かつて君と私は、漢王の私に対する扱いに関して賭けをしたことがあったな。あの時の勝負は曖昧な結果に終わったが、今に至り、私は断言することができる。……賭けは君の勝ちだ。漢王の私を見る目は猜疑に満ちている」
「そうでしょう。だからこそ私は……」
「ただし」
韓信は語気を若干強めた。おそらく自分に言い聞かせているつもりなのだろう。蒯通はそう思い、口を閉ざした。
「漢王が恐れているのは私の指揮能力であって、私個人ではない。例えば私と漢王が二人きりで対面している際に、漢王は死の恐怖を感じたりするだろうか? 韓信に殺される、と思ったりするだろうか?」
「……どうでしょう。私には、大王がその腰の剣で漢王をひと突きにするとは、思えません。しかし、漢王もそう思うとは断言できますまい」
「いや、私には断言できる。漢王は自分が殺されないとわかっているからこそ、私の勢力を削り、印綬を強奪するなどの行為を平然と行う。本気で恐れているのであれば、そのようなこともできはしないはずなのだ。つまり、私は漢王に一方では恐れられながら、一方では、舐められている」
「では……」
「しかし、舐められるのは、当然のことだ。私は彼の臣下なのだからな。つまり漢王は、私のことを恐れながら、まだ私のことを臣下として扱ってくださっている。臣下たる私としては、それが屈辱だとしても甘受するのが当然だろう」
蒯通は、ここに至り、韓信の言いたいことが理解できた。彼は、あえて鉾を収める、と言いたいのだろう。蒯通は全身の力が抜けていくのを自覚した。
「私は屈辱を受けたとしても、仕返しをすることを恐れる。自分で言うのもおかしいが、私は……計算高い男だ。仕返しをしようと思えば、緻密な計算でそれをやりきることができる。小は淮陰の無法者から、大は漢王に至るまで……。だが、仕返しは仕返しを呼び、結果、私は天寿をまっとうできないだろう」
「では大王は、漢王に忠誠を尽くすと……? 自立はしないと?」
「そうだ。侮辱を受けたとして、それに武力で対抗するのは、私の良心が許さない。正しいと思えぬ。ためらう理由がある以上、実行すべきではない、というのが結論だ。たとえ漢王が私のことを恐れ、邪険な扱いをしようとも、私自身が自重すれば、決定的な破局は免れる。漢王が自ら破局を招こうとするならば仕方ないが、あえて私の方からそれを招くことはない」
「大王の名は後世に忠臣として伝わることでしょうな。しかし、それは悲劇的なものでありましょう」
「……裏切り者として名を残すよりはましだ」
蒯通は絶望した。彼の意見は取り入れられなかったのである。失意のうちに座を立とうとする蒯通であったが、そんな彼に韓信は別れ際、ひとこと言葉を添えた。
「蒯先生……」
「は……」
「ありがとう。君が意見してくれたおかげで、私は深く考え、自分を見つめ直すことができた。今後思い迷うことがあれば、私は君の言ったことを思い出し、それをもとにどう行動すべきか決めるだろう」
このときの韓信の発言は、本人にとっては単純な謝意の表明のつもりであったに違いない。
しかし、蒯通にとってはこれが別れの言葉のように思えたのである。
六
斉は幼い子供まで猜疑心が強く、民衆の端々に至るまで謀略に満ちた国である。首都の臨淄はかつて学問の都であったが、その影響からか民は純朴ではなく、中途半端な知識を持ち、口答えすることが多い。また、刃傷沙汰も多く、城市には無頼漢がはびこり、決して治安がいいとはいえなかった。この原因については諸説あるが、かつて斉の最大有力者であった
この時代の無頼漢たちは、その子孫であるらしかった。
このためにわかに王を称した韓信にとって、斉を治めることは楽な仕事ではない。もともと人が感情を優先して行動することを本質的に嫌う彼は、統制された国家を望んだ。すなわち、法によってすべてを管理し、城市には軍隊が巡回するような国家である。
しかしそれが行き過ぎると民衆の反発を招き、暴動や反乱を招くこととなる。このため曹参や魏蘭が助言を与えるとともに、統治策に修正を加えたりして、どうにか斉は運営されている、というのが現状であった。
韓信は自分のあずかり知らぬところで事件がおき、それが重大な結果を招くことを極端に恐れた。このため城市でささいなことがあっても、韓信のもとに通報が届くような仕組みづくりをしている。
警察国家のような傾向があり、韓信自身もそれが最良の策だと信じて行っていたわけではない。しかし、彼がそのようにまるですべてを把握しようと努力したことには、理由があった。
かつての邯鄲での出来事は、自分の統治能力への不信を呼び起こすとともに、大事な人物を失う結果になった。韓信はそれを再現させてはならないと思い、必要以上に民衆を監視する政策をとったのである。
この日、韓信のもとに届けられた報告は、かつて耳にしたこともない、異様なものであった。
「市中に妙な話を神託として触れ回っている狂人がいる」
というのが、その第一報である。韓信は、胸騒ぎがした。
――革命は、神託から起きる。それがどんなにくだらぬ内容でも……。
神託が真実かどうかは、問題ではない。問題はそれを触れ回る者がどのような意志をもっているか、であった。実際に陳勝と呉広は架空の神託をたよりに、革命をある程度成功させたのだった。韓信としては、単なる珍妙な出来事として捨て置くわけにはいかない。
「詳しく調べ、逐一報告せよ」
韓信はそう命じたが、そのうち落ち着かなくなり、自分で確かめようと、ひそかに市中に出かけた。斉王だと市中の者に悟られぬよう、連れには蘭だけを選んだ。
「護衛は、必要ないのですか?」
蘭は韓信の不用心な行動を案じ、そう尋ねた。
「目立たぬようにしていれば心配ないだろう。それにもともと護衛などいらぬ。私は、ある程度剣技には長じているから……。もし道ばたに項王が潜んでいたら死を覚悟するが、まさかそんなことはないだろう」
韓信はこのとき冗談を言ったらしかったが、蘭としては落ち着かない。彼女としては、道ばたで韓信が命を落とすことが天下の趨勢にどんな影響を与えるのか、想像するだけで恐ろしかったのである。
「いざという時には、君のことも守り通してみせる」
その言葉は、頼もしいことは確かだったが、韓信らしくないとも感じられた。不安を打ち消そうと、無理に発した言葉のように思えたのである。
「……ああ、あれのようです」
蘭が指差した先には、世にも珍妙ないでたちをした初老の男が、やはり珍奇な舞を披露していた。剃り上げた頭に鉢巻きをし、両手には松明を持ち、ほぼ全裸に近い格好で何やら聞き取れない言葉を大声で発している。
よく耳を凝らしてみると、彼は世の行く末について予言をしているかのようであった。顔や体を白い塗料で塗りたくり、舞うその姿は、極めて原始的な神官の姿であった。
「……黄河は血の色に染まり、名は改められる。赤河と! 蝗は人肉を喰らい! ひひ……大地は血で染まる! 雨は降れども草木は枯れ、風は吹けども熱は冷めず! 飛ばぬ鳥は犬に喰われ、走らぬ犬は蟻に喰われる。三王は喰い喰われ、やがて空も血の色に……ひひ……おぇ」
その男は大声を出すために腹に力をいれすぎたのか、道ばたに這いつくばって胃の中のものを吐き出した。滑稽なようにも見えるが、一種の神事のようにも韓信には感じられた。
「なんだ、あれは。なにを言っている」
韓信と蘭は揃ってあっけにとられ、しばらく物も言わずにその男の姿を見つめていたが、そのうち、二人ともやりきれぬ思いに耐えきれず、涙が流れてくるのを抑えられなくなった。
「ひひ……信。……信ではないか。ぎゃは! 蘭もいるな……お前たちにいいものをやろう」
その男はこちらに気が付くと近づいて、二人に水銀で練った仙薬を手渡した。
「不老不死の薬だで! それを呑めば千年の長寿。ぎゃは!」
その男はそう言い残すと、振り向きもせず走り去っていった。
手に残された水銀の塊は、ただの毒の塊に過ぎない。かつては薬として処方されたこともあったが、この時代にそれを信じて呑むことは、気違いを証明することであった。
「……蒯先生……!」
韓信は涙にくれ、大地に膝をついた。
蘭は嗚咽し、水銀の塊を地に投げつけた。
韓信の決断は、蒯通の気をふれさせたのである。
しかし、蒯通が本当に気狂いを起こしたのか、というとそうではない。謀反を使嗾した蒯通は、処断されることを恐れ、気違いのふりをしたのである。
叛逆を使嗾した時点で既に気がふれていたのだと彼はその行動によって、主張したのだった。
後に韓信によって粛清されるという後難を予期しての行為である。
――私が、君を殺すと思うのか! 君は、私をそんな男だと……!
韓信はそう思ったが、もはやどうすることもできない。自分の決断が、彼にあのような行動を起こさせたことを後悔するべきかどうかも見当がつかなかった。
蒯通は二度と韓信の前に顔を見せなかった。狂人を装い、逐電したのである。たとえ韓信が決断を後悔したとしても、結果は変わらなかったことだろう。
蒯通の立案した三国鼎立の戦略はこの時代に成立することはなかったが、これより四百年後に活躍する諸葛亮という人物に見出され、実現される。「天下三分の計」としてあまりにも有名なこの策は、元来劉邦、項羽、韓信の三人の王を分立させ、その武力均衡によって社会を安定させるという蒯通の策をもとにしたものであった。
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