[4ー3]『笑顔は笑顔を呼ぶからね』

「あなたがついてて、どうして……」


 悲痛な声が耳朶じだを打つ。四歳児と六歳児の隣に並ぶ僕に許されていたのは俯くことだけだった。圧倒されて動けなかったなんて、なんの言い訳にもならない。


「先に着替えてきなさい」


 クラム夫人の優しい言葉に救われ、僕はその場をとぼとぼ後にした。


 ――よりによって母さんの大事なお客さまが来ているときに失敗するなんて。


 何度溜息をついたかわからない。部屋に戻った僕は泥を拭い、新しいシャツにのろのろと袖を通した。

 ふと戸棚を見やればガラス扉の向こうからひどく憂鬱そうな藍色がこちらを見ていた。なんて気が滅入る色なんだろう。僕はきつく目を瞑り、亡霊のような分身を視界から追い出した。





 重い足取りで戻った玄関ホールには涙顔のアッシュとそれを宥めるクラム夫人の姿があった。

 クラム夫人は僕を見ると「ウィルくん、」と表情を和らげた。


「今、マリーがセイルくんを着替えさせに行ったから」

「あ……あの、クラム夫人……さっきは」

「やぁだ、そんな畏まらなくていいのよ。ね、悪いんだけどアディを探してきてくれない? どこかに走っていっちゃったのよ」


 右手でぎゅっと拳を作る。これは名誉を挽回するチャンスかもしれない。

 二つ返事で飛び出すとまずはブランコのところに向かった。夫人の言った通り誰の姿もない。泥に残る無数の足跡は入り乱れ、そこから行き先を割り出すのはさすがに厳しそうだ。

 あたりを見回す僕の目は白い端切れを捉えた。低木の茂みにレースのリボンが引っかかっている。セイルはこんなのつけなかったから多分アデレードのだ。

 それをポケットに突っこみながら着替えに向かう前の光景を思い返していた。アデレードがいた場所、それに後から飛んできた母さんたちの立ち位置を踏まえれば――。

 振り返った視線の先には常緑樹の林が広がっている。





  * *





 かくれんぼにも似た〝人探し〟はセイルのおかげでお手の物だ。なるべく速度を保ったまま注意深く木立の中を走り回った。

 沢へと降りる小径こみちに差しかかったところで僕の足は止まった。視界の端に明るい赤が映りこんだ気がした。苔生こけむした倒木をそうっと回りこむと尋ね人は果たしてそこにいた。抱えた膝に顔を埋め、小さくなって座っている。


「――ここにいたんだ。探したよ」


 少女は顔を少しだけ上げた。上目遣いに見上げるその瞳が猜疑心さいぎしんに満ちていて僕はちょっとたじろいだ。


「あの……僕が誰か、わかる?」

「あいつの、お兄ちゃん」

「そう、ウィルトールっていうんだ。ええと……あの、ね」




 ――どうしよう。




 笑顔のまま固まった。とても連れて帰れそうな雰囲気じゃなかった。無理に立たせようものならさっきの喧嘩の再来って感じがした。セイルで嫌というほど経験している。はダメだ。絶対、

 僕の言葉を待ちきれなかったのかアデレードの顔は再び沈んだ。二本に編まれていたはずの赤い髪は片側がバラバラにほどけていた。かろうじて無事な房に結ばれた白レースのリボンに僕はハッと息を呑む。


「ねえ、これ向こうで拾ったんだけどさ。アデレード……アディの、だよね?」


 ポケットをごそごそやりながらアデレードの前に屈んだ。リボンを取り出し根気よく待っていればやがて少女の顔が僅かに上がる。オリーブ色の双眸が小さく見開かれたのを認め、僕はリボンをもう少し彼女の方に差し出してみた。なるべく刺激しないように、努めて穏やかに。

 おそるおそる伸びてきた手にリボンを握らせてやった。戻ってきたそれを大事そうに握りしめる手の甲は赤く腫れ、腕に走るのは痛々しい引っかき傷。


「セイルがごめんな」


 あいつがもう少し思い遣りを持って話せていれば――そう考えて溜息をつく。それは難しい注文だろう。でもせめて僕が事前にそばかすのことを教えていれば喧嘩にはならなかったかもしれない。

 セイルが着ていたワンピースだってそうだ。あれはお気に入りの一着だとアデレードは言っていた。やっぱり着替えさせてからにするべきだった。そうすれば少なくとも汚さないで済んだだろうし。

 結局はどちらも選べなかった未来だった。アデレードの唇は相変わらずむっと引き結ばれていて、それでも緩く首を横に振ってくれたので僕はほっとした。もう少し気持ちを誘導できればなんとか連れ戻せる気がする。


「――けど、さ」


 意識して悪戯っぽい笑みを浮かべてみせた。相手は六歳の女の子。セイルとたった二歳しか違わないんだ、きっと大丈夫。


「どんな理由があっても、手を出したら出した方が悪いことになっちゃうんだよ。そんなの、悔しいだろう? だから、痛いことはやっちゃダメ。それに、自分が痛いことをしたら相手も痛いことを返してくるし。……わかるかな?」


 言葉を選びながら、できる限り優しく言ってみる。なんとなく妙な既視感を覚えたけれどそのときの僕に深く追究する暇はなかった。セイルにはこんなふうに言ったことがないなとか、言ったところで聞きやしないしなと、そんな思いでいっぱいだった。

 アデレードは腫れた手をもう一方の手でそっと押さえていた。俯く顔つきはすっかり元気がなくなって見え、怒りの気持ちは消えてるように感じた。


「仲直り、しようか?」

「……」

「僕も一緒に行くからさ。それからみんなで遊ぼうよ」


 焦らず待っているとやがてアデレードはこくんと頷いた。まずは第一関門突破だ。腰を上げながら手を差し伸べて、アデレードをゆっくり立ち上がらせた。




 あらためて見てみれば彼女もなかなか酷い格好をしていた。髪は言わずもがな、白レースで縁取られた淡い緑色のドレスは今やすっかり泥水に染まり、元は真っ白だった靴にも派手に泥がこびりついていた。引っかき傷だって腕だけではない。


「遊ぶ前にちょっと薬を塗った方がいいかもしれないね。髪もまた結い直してもらってさ。……アディが着られそうな服あったかなぁ」


 途端にアデレードの顔が歪んだ。唇を噛み、今にも泣き出しそうだ。


「あっ大丈夫! 多分何かあるよ。ほら、帰ろう」


 慌てて作った笑顔で言葉を紡ぐ。軽く手を引いたけれど少女の足はがんとして動かなかった。まずい。内心焦る僕をアデレードはまっすぐに見上げてきた。つぶらな瞳は潤んで揺れていた。


「ねえ、わたしの髪の毛、だから?」

「え?」

「母さまが、ね、いつも言うの。すぐおこっちゃ、いけませんって。……そしたらね、おこりんぼだから髪の毛燃えてる色なんだろーって……あの子が」


 大粒の涙がぽろぽろこぼれ落ちていく。僕はこっそり息をついた。久しぶりに弟に憤りを感じた。あいつ、ほんとロクなことしない。戻ったら母さんにも報告して、絶対怒ってやる。

 ――でも、今はそれよりアデレードだ。




「僕は、とっても綺麗な色だと思うよ。アディの髪」


 屈んで少女の顔を覗きこんだ。それから、はぁ、と芝居がかった溜息をついてみせた。


「もし、怒りんぼが赤い髪になるなら僕も、それに母さんも、とっくに赤くなってると思うな。セイルにはいっつも面倒かけられててさ、本当にいっつも怒ってるんだ。……僕の髪の毛、赤い?」

「……あかくない」

「だろう? 怒りんぼとか関係ないよ。アディの髪の赤い色は本当に綺麗だから。堂々としていればいいよ」


 信用してほしくて、僕はにこっと口角を上げた。アデレードは半信半疑といった面持ちだ。もうひと押しかもしれない。


「そうだ、アッシュが心配するからにこにこ顔で戻ろうか。アディが笑顔でいれば、きっとみんなも笑顔になるから、――」


 その瞬間、僕はハッとした。強い既視感を感じた。この言葉は知ってる気がする。前にも言ったことがあったっけ?

 でも、アデレードに会うのは今日が初めてだ。僕は一体誰に言ったことがあるんだろう。

 わけがわからず混乱している僕の心に、不意に温かな声が蘇った。




『笑顔は笑顔を呼ぶからね』




 いつか聞いた彼の言葉だった。思わず、手を胸に当てていた。


 ――リューがいる。ここに。


 そうして振り返ってみれば、アデレードにかけた言葉はまるでリューが僕を介して喋ったようなものだと気づいた。あの雨の日、家には帰らないと意地を張っていた小さな僕に、穏やかに接し宥めてくれたリューを思い出す。

 今の僕はあの日のリューだった。


「わらっ、て、いいの? おこ、おこられ、ない? さっき、も、わたし、あやまっ、て、ない……」


 しゃくりあげながら見上げてくるアデレードに、僕は精一杯笑みを浮かべた。


「じゃあ、も謝ってあげるよ。だから、一緒に帰ろう?」


 胸を借りるつもりで彼のように口を開くとなんだかくすぐったかった。でも差し出した手をアデレードが握り返してくれたから本当にほっとした。

 そういうことなんだ。心の中で呟くとますます実感がわいてきた。あの日してもらったこと――あの日だけじゃなくて、今までしてもらって嬉しかったことを、今度は自分がしてあげる番なんだ。





 リューが笑っている。思う通りにやってごらんって、背中を押してくれている。


 ――決めた。僕はリューのような人になろう。

 これからは……が、アデレードにとっての〝リュー〟に――。

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