[4ー2]〝初めまして〟の挨拶

 ――ヴィーナ湖沿岸には幾つもの街や村が点在する。代表的なのは湖の北に位置するメリアントと、南側のクラレットだろう。

 古くから物流の要所として栄えてきたメリアントに対し、クラレットは学術都市として発展してきた。またその美観から保養地としての側面も持ち合わせる――





 ヴィーナ湖近辺についての記述は確かそれで全部のはずだ。脳内に広げたガイドブックを隅から隅までさらってみても街路図はもちろん、風土や特産についての記載はなかった。他の街に至ってはその名称すら載っていない。湖の略図は文字通り簡略されすぎていて、シアールト村がある細流は存在そのものが消えている有様だ。

 どこがガイドブックなんだと今なら言える。でもあれを買ったのは僕じゃない。どういう基準で選んだかは知らないけど、あのリューの持ち物だったら仕方ないかって諦めもついたしむしろ面白かった。きっとアンも同じことを言うと思う。




 沢に沿って細長く伸びるシアールト村。その一番奥に僕たちの新しい家はあった。川のせせらぎに風の音、鳥や虫の鳴き声しか聞こえないのどかな土地だ。家の前には野原が広がり、裏手の木陰にブランコが揺れていた。すぐそばには沢へと続く小径こみちがあって、魅力的な遊び場にセイルの顔はきらきら輝いていた。

 母さんは新しい環境に馴染めるか不安そうだった。着いて早々セイルが熱を出してしまったこともある。


「せっかくここまで来たのに、わたくしの選択は間違っていたのかしら……」


 頰に手を添え嘆かれても僕には「そんなことないよ」としか言えなかった。医療の心得がある侍女も疲れが出ただけと答えて、母さんはそれでなんとか平静さを保っていた。

 一両日でセイルの体調は良くなった。もしかすると好き嫌いに始まる生活習慣のあれこれをアンが改善させたことも大きかったかもしれない。他の病気を併発することもなく、熱が下がった途端に家の内外を走り回って、そのあとを追いかける侍女が少し大変そうだった。

 セイルが日々元気に遊ぶ様子に母さんの笑顔もだんだん増えていった。お茶の時間に母さんお手製のお菓子が出る日もあったし、夕食のあとは本を読んでくれたりした。





  * *





 半月ほど経った頃、村に冷たい秋の雨が降った。家に閉じこめられたセイルは窓枠に肘をついて恨めしそうに外を見ていた。かと思うと部屋中を駆け回り、椅子の上で飛び跳ねる始末だ。つまんない、退屈すぎるとぐずる弟を宥めるのはかなり骨の折れる仕事で、僕も雨雲なんて早くどこかに行ってしまえばいいのにと心底思った。

 心待ちにしていた青空が再び頭上に広がったのは数日後。始め雲間に点々と覗いていた小さな青は午後になると空一面を占拠した。野草の生い茂る庭には黄金色の陽射しが降り注いだ。

 喜色満面のセイルが飛び出していったのと入れ違いに、家には初めてのお客さんがやってきた。クラレットで会えなかった母さんのお友だちだ。ふたりは顔をあわせるなりきゃーっと歓声をあげて抱きあった。


「あなた、ちっとも変わってないわね! この間は本当にごめんなさいね。まさかこのタイミングで熱を出すなんて思わなかったのよ」

「いいのよフィル。……あ、今はクラム夫人だったわね」

「フィルでいいわよう。そんなふうに呼ぶならあなたのことも奥方さまって呼ぶわよ。それともルイダーフレット侯爵夫人?」


 身体を離したクラム夫人は母さんの両肩に手を置いた。顔を覗きこんだすぐそばから「やぁだ冗談よ」と笑い出し、また母さんを抱きしめる。

 ――なんだかちょっと意外だった。母さんのお友だちというから僕はてっきり物静かな人が来るんだと思っていた。表情が明るくころころと変わっていく様は見ていてとても楽しいし、元気を貰えるようだった。そういうところが母さんも好きなのだと、あとで嬉しそうに教えてくれた。


「マリー、とても元気そう。安心したわ」

「どうにかこうにかね。毎日試行錯誤だけれど」

「あら、うまくやってるわよ。見ればわかるわ、いい子じゃないの」


 夫人が満面の笑みを僕に向けた。どうやら〝初めまして〟の挨拶は合格だったらしい。ここにセイルがいなくて正解だったかも、と頭の片隅で考えたのは内緒の話だ。

 それからクラム夫人は一緒に連れてきた子どもたち――小さな女の子と男の子のふたりを紹介してくれた。


「アデレードと、アーシェラント。アディとアッシュって呼んでね。アディの方がふたつ年上なのよ。ほら、ふたりともご挨拶は?」

「こんにちは! ――ねぇ母さま、わたしブランコであそびたい! あそんできてもいい?」


 アデレードと呼ばれた少女は元気よく挨拶をしたかと思うと、すぐ母親の方に向き直っていた。そばかすが可愛らしい、愛嬌のある顔だなと思った。オリーブグリーンの双眼はきらきら輝き、彼女が動くたびに二本に編まれた赤い髪がぴょんぴょんと踊った。

 対するアーシェラントの方は濃い茶色の癖っ毛に、姉と同じオリーブ色の目をした男の子だった。夫人の陰に半身を隠し、八の字眉でこちらをじっと見ている。


 「濡れていたら声をかけてね」と母さんが了承するとアデレードはきゃあっと白い歯を見せ、弟の手を引き駆けていった。小さな背を見送るクラム夫人は溜息をついた。

「アッシュはどうも気が弱くって。アディは見ての通りお転婆娘だし、いっそ逆だったらね。同い年なのって確か末っ子くんでしょう?」

「きっと仲良くなれるわ。わたくしとフィルのように。わたくしは、あなたが羨ましいのよ。女の子ってどんな感じ?」

「あっそうよ、それ!」


 夫人はパンと手を打った。持参した鞄を開けて、中から綺麗な花柄の布を出して広げた。たくさんのフリルがあしらわれたそれは愛らしいワンピースドレスだ。


「アディのものなの。もう小さくて着られないから持ってきちゃった。末っ子くんにどうかしら」

「……セイラルダは男の子よ。それに」

「いいじゃない、一度くらい。記念だと思って着せてみて。きっとスッキリするから」


 にこにことした面持ちを前に、僕と母さんはこっそり顔を見合わせた。

 ……とても言えなかった。散々着せた過去があるなんてことは。





  * *





「えー、それ着んの?」


 沢から連れ帰ってきたセイルは案の定びしょびしょに濡れていた。普段なら文句を言える立場かとやりこめるところだけど、今日はさすがに言いづらかった。なにせ替えの服がとんでもない。


「ごめんなさいね、せっかく持ってきてくれたから断りきれなくて。ほんの少しだけ着て見せてくれたらそれでいいのだけれど……やっぱり嫌?」

「んー……べつにいいけど」


 申し訳なさそうに問いかける母さんに対して、セイルの返事は至極面倒臭そうだった。そして半時もすると女装姿のセイルが出来上がった。

 久しぶりの女の子セイルはなんだか懐かしい感じさえした。髪は頭の両側で編みこんで花のモチーフの髪留めを挿した。お揃いのデザインのチョーカーとブレスレットもあったけどそっちはセイルが嫌がってつけなかった。でもそんなことは全く関係ないくらい、セイルは可愛かった。誰が見ても女の子だったし、その辺の女の子よりも美少女然としていた。これは僕だけの感想ではなくて、クラム夫人も目を見張って褒めちぎっていたから、多分一般論でいいんだと思う。


「そうだ、同じくらいの年の子が来てるよ。二人姉弟でね、弟の方はセイルと同い年なんだってさ。友だちになれるんじゃないか?」

「ともだち?」

「同じ年頃の子と遊ぶのって楽しいと思うよ」


 僕は数ヶ月だけ経験した学校生活を思い返して言った。僅かな間だったけど共に学んだり競ったりした日々はあの頃の楽しかった思い出として心に残っていた。




 着替えてから行こうと言った僕の提案を、セイルは「めんどくさい」の一言ではねのけた。

 ブランコで遊んでいたアデレードとアッシュは、セイルを見てぽかんと口を開けた。


「うっわぁ……! ねぇ、あなたのお名前なんて言うの?」

「……セイル」

「わたしアデレードよ。そのドレス、あなたにならあげてもいいわ。お気に入りだったけどすっごくにあってるんだもの。だいじにしてくれる?」

「いらねーよ。こんなの着ねーし、すきじゃねーし。オレ、男だぞ」

「え?」


 アデレードの顔つきが強張った。思わず僕も固まった。こいつ、何言い出すんだろう。

 間違ったことはまだ言ってない。けどセイルの言い方はトゲがあるから心配なんだ。

 セイルはいかにも不機嫌そうな目でそっぽを向いた。ヒヤヒヤしている僕なんか全然お構いなしだ。対するアデレードの顔には〝意味がわからない〟と書かれている。


「じゃ、なんで着てるの?」

「おねがいされたから」

「……にあってると思ったんだけど」

「んー、ま、おまえよりはなぁ」

「セイル!」


 ふたりの間に割って入った僕は、セイルの両肩を掴んで離した。セイルはなんだよって怒ったけど怒りたいのは僕の方だ。なんで神経逆撫でするようなことばっか言うんだこいつ。

 ちら、と横目で窺うとアデレードは案の定むっとした顔をしていた。

 僕は小さく息を吐いた。頬を膨らませている少女の前に軽く屈んで、小さな顔を覗きこむ。


「ごめんね、嫌なこと言って。服汚すと悪いから着替えさせてくるよ。そのあとみんなで一緒に遊ぼうか」

「うん……」


 アデレードが全然納得してないのは一目でわかった。それでも我慢して頷いてくれたんだと思うと本当に申し訳ない気持ちになった。アデレードの気が変わらないうちに早くセイルを着替えさせなきゃ。

 弟を引っ張った。セイルは手を引かれながらアデレードの顔を眺めていた。


「おまえさー、かおにドロ飛んでんじゃん。ふけば?」

「えっ?」

「ほら、このへん。ブツブツいっぱい」


 セイルが自分の顔の鼻や頬の辺りを指し示す。

 途端にアデレードの頬に朱が差した。わなわな震えていたかと思うと勢いよく駆けてきて、セイルの頬を平手で思いっ切り叩いた。それから両手で突き飛ばす。流れるような一連の動作は実に鮮やかつ見事だった。尻餅をついたセイルは真っ赤な顔で噛みついた。


「ってえ! なにすんだよ!」

「ドロじゃないもん!」


 アデレードも真っ赤な顔をして怒鳴った。セイルはきょとんとして僕を見上げた。


「え、ちがうの?」

「……あのね、あれはそばかすって言って……あ」


 僕は最後まで言うことができなかった。見ている前でセイルの顔に、本物の泥が投げつけられたから。


「ドロってのはこれでしょ!」


 アデレードが足下の泥を掴んで投げた。それでセイルもスイッチが入ってしまったらしい。顔についた泥をぐいと拭って立ち上がるとアデレードに飛びかかった。新たな泥を掴もうとしていたアデレードの手をセイルが叩く。腕と髪を引っ掴んで泥水の上に引っ張り倒す。……もう止められなかった。

 騒ぎに気づいた母さんたちが駆けつけたとき、セイルとアデレードはもちろんのこと、間にいた僕までが泥だらけになっていた。

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