5章 8年前〜4年前
[5ー1]お誕生日のお祝い
アデレードの頬はパンパンに膨れていた。まるで空気を限界まで吹きこんだ風船のようだ。軽く
「もう一回!」
小さな駒が目の前に突き出された。ぐっと眉尻を上げ真っ赤な顔で見つめられても俺は眉根を寄せるしかない。
「今のが最後だよって言っただろう? 次は違う遊びを」
「だってウィルトールばっかり勝ってズルい!」
「そんなことないよ。アディの方がいっぱい勝ってる……」
「ズルい! もう一回やるの!」
アデレードはもう片方の手でサイコロを掴むと駒と一緒に押しつけてきた。その両目は潤み、今にも泣き出しそうだ。
俺は後頭部を掻いた。
弱った。
困った。
失敗した。
こんなことになるなら盤上ゲームを選ぶのではなかった。例えばカードめくりや言葉遊びのような、わざと負けてもバレない遊びにしておけばよかった。サイコロを振ってゴールを目指すゲームは一回が長いし、勝敗も運次第のフシがある。年の差によるハンデがないので純粋に遊びを楽しみたいときはいいけれど、今日みたいな〝時間配分を管理しないといけない〟ときは致命的だ。
だから母さんの侍女が「お茶の支度が整いましたよ」と呼びに来たときは正直に助かったと思った。
「行こうかアディ」
「でもゲームが……」
「今日はね、母さんがとっておきのお菓子を用意するって言ってたよ。アディ絶対喜ぶと思うよ」
内緒話を打ち明けるかのごとく、ちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべて覗きこむ。すぐにアデレードが「とっておき!?」と目を丸くし、俺は安堵の息をついた。どんなに機嫌が悪くても何か新しいことを提案するとパッと意識が切り替わるのはアデレードのありがたいところだった。これがセイルだったらいちいち理由を説明して納得させてからでないと動いてくれない。
「わあ……」
席につくとアデレードはぽかんと口を開けた。セイルとアッシュは目を輝かせ、侍女が押してきたワゴンにじっと見入っている。
堂々たる貫禄で鎮座していたのは真ん中に砂糖菓子が飾られた、クリームたっぷりのホールケーキだった。誕生日定番のお菓子である、通称〝お花ケーキ〟だ。
お花ケーキの名前の由来はその昔ケーキを彩る飾りに本物の花を使っていたからというのが通説だ。だけど今は生花は使わない。花を
ケーキがアデレードの前に厳かに運ばれた。俺やセイルの誕生日に出てくるものより花飾りの造りが凝っている気がする。
母さんとフィルさん――以前「クラム夫人」と呼んだら「フィルさんって呼んでと言ったでしょ!」と怒られたのでそれからは名前で呼ばせてもらっている――がやってきた。
「アデレードちゃん、八歳のお誕生日おめでとう」
「えっ?」
「ぜひお祝いさせてもらおうと思って、腕によりをかけて作ったのよ。お口に合うといいのだけれど」
「すごいわねぇ。この可愛いお花、マリーが作ったんですって。お菓子作りは昔から上手だったけれど、また一段と腕を上げたんじゃない? 料理人が悔しがるわね」
「フィルったら、褒め過ぎよ」
笑顔の母さんたちとは対照的にアデレードの眉がむむむむっと寄っていった。
内心、首を捻った。想像していた反応とちょっと違う。いつも全身で感情を表すアデレードだ、きっと飛び上がるくらい大喜びすると思っていたんだけどな。こんな難しそうな顔じゃなくて。
ふと母さんと目が合った。向こうも思うことは同じだったらしい。顔を見合わせ、お互いに小首を傾げる。
アデレードが「おばさま、」と顔を上げた。
「ケーキの日、今日じゃないわ」
「あら、アデレードちゃんのお誕生日は今日でしょう?」
「おいわいは、アッシュといっしょなの。だから」
合点がいった。そういうことか。考えてみればちゃんと説明していなかった。
俺は隣から「あのね、」と声をかけた。
「今日はアディのお誕生日をお祝いしようってみんなで決めたんだよ。アッシュのお祝いはまた今度。アッシュがお誕生日のときにしよう」
「そうよ。アデレードちゃんのお誕生日はアデレードちゃんが主役なんだから」
「アディ、よかったわね。あとでちゃんと歯磨きするのよ」
母さんたちもすかさず言葉を繋げてくれた。アデレードの口が再びぽかんと開き、母さんとフィルさんとを行き来していた彼女の目線はケーキに落ちた。
アデレードとアッシュの誕生日は同じ月、それもたった十日違いなんだとか。だから誕生日はいつも二人分まとめてお祝いしてきたのだという。
今年の春のことだった。今まで家族だけでお祝いしてきたセイルの誕生日の席に、アデレードとアッシュを呼んだ。みんなで昼ご飯を食べたあといつものようにお花ケーキが運ばれてきて、それがセイルひとりに向けたものだと知ったアデレードはすごくびっくりしていた。
「これ、セイルだけ!? ウィルトールは!? いっしょじゃないの!?」
「俺の誕生日は秋だからね」
「じゃあ、半分こは!?」
「なにを?」
「お花よ! お花の半分こ!」
お花、とおうむ返しに呟く。
訝しげに眉を顰めた俺の顔からアデレードは尋ね先を変えることにしたらしい。それ以上の会話はなく、フィルさんの元にパッと駆けていった。
だけど俺も驚いたんだ。花を分けるなんて初耳だ。ケーキそのものは切り分けてみんなで食べるけど、それにはお祝いのお裾分けという意味が込められている。メインの飾りは誕生日を迎えた本人のもの。おんなじ誕生日のジール兄さんとファル兄さんだってケーキはひとつずつ用意されていた。
「十日ごとにケーキなんか食べたら虫歯になるに決まってるでしょ?」
「でも、ひとりひとつってウィルトールが!」
「あなたひとりでどれだけ食べるつもり? お腹壊すじゃないの。半分こするくらいがちょうどいいのよ」
フィルさんに諭され、アデレードの頬が風船のように膨れていく。小さな彼女にとって母の言葉は納得いく答えではなかったのだろう。すっかり不貞腐れてしまったアデレードを宥めるフィルさんの姿に、俺はなんだか申し訳ない気になってしまった。
そしてそれは母さんも同じだったらしい。
「ねえフィル。アデレードちゃんの誕生日はいつなの?」
ようやく機嫌の直ったアデレードがセイルたちと遊びに出ていくと遠慮がちに口を開いた。そこでクラム家のお祝い事情を知った母さんは「今年はひとりずつケーキを用意してみない?」と提案した。
――いや、あれは提案を超えてもはや説得だったと思う。参加人数が多ければひとりあたりのケーキが小さくなること、場合によっては残しても構わないこと、歯磨きを徹底させることなど、俺やセイルのことも引き合いに出して母さんは真剣に訴えていた。最終的にはフィルさんが折れ、今日のお祝いの席が実現した。
お祝いの歌をみんなで歌った。そのときのアデレードは頬を染め、確かに喜んでいるように見えた。問題はケーキを切り分けたあとだ。お祝いのお裾分けがひと切れずつ配られ、アデレードのケーキには主役の花飾りが丸ごと乗っていた。
何気なく目をやった俺はギョッとした。少女の目尻に涙が盛り上がっている。
「アディ!?」
俺が声をかけると少女はびくりと肩を震わせた。ぱちりと瞬きをした途端オリーブグリーンの双眸から大粒の雫がこぼれ落ちた。慌てて手の甲で拭うけどぽろぽろと溢れ出る涙は一向に止まる気配がない。しまいには様子を見にやってきたフィルさんにしがみつき、アデレードは泣き出してしまった。
どうしたんだろう。何か気に入らないことがあったんだろうか。
なんて声をかけるのが正解か言葉に迷っていると、少女に耳を寄せていたフィルさんが「まあ!」と声をあげた。次いで軽やかな笑い声が響く。
「そんな理由? いきなり泣いたらみんなびっくりするじゃない」
「だって……」
胸に抱いた娘を撫でる手つきは優しい。しばらくしてフィルさんは顔を上げると少し困ったように笑った。
「お花。自分だけのお花がすごく嬉しかったんですって。ウィルくん、びっくりさせちゃったわね」
言葉の意味を理解するのに数秒かかった。ごめんなさいねと謝る夫人と恥ずかしそうに涙を拭くアデレードの姿にやっと事態を飲みこんだ俺はほうっと息をついた。なんだ、気分を害したわけじゃなかったんだ。それだけ喜んでくれたんだったら計画して本当によかった。
――だけど本当は。内心はまだちょっとドキドキしていた。密かに用意していたものがあったから。
ケーキを食べ終わるとセイルとアッシュのふたりは遊びに出ていった。俺はアデレードを手招きした。
「なあに?」
ソファに並んで座ったところでポケットに隠していたものを取り出す。
「どうぞ」
「え、なあに?」
「俺からのお祝い。お誕生日おめでとうアディ」
差し出したのは口の部分にきゅっとリボンを結んだ小瓶だ。中には白い飴が詰まっている。
両手で抱えてしげしげと眺めているアデレードに「ミルクキャンディだよ」と伝えると、彼女のつぶらな瞳が輝いた。
「ミルクキャンディ!? わたし、大すき!」
「そう? それならよかった」
「ありがとうウィルトール! 大すき!」
アデレードが抱きついてきた。かと思えばパッと立ち上がり、「母さま見て見て!」とフィルさんの元へ駆けていった。あっという間の出来事に呆気に取られつつも泣かれなくてよかったと安堵した。
アデレードたちが帰る頃になり、今度は彼女に手招きされた。はにかみ、何か内緒話をしたいような素振りだったので顔を寄せる。小さな両手を口に添えて何を言うのかと思えば、
「あのね、わたしね、今まで生きてきた中で、今日が一番しあわせ!」
なんて囁くから、俺はつい吹き出してしまった。
「俺も、今までで一番楽しい一日だったよ」
「次はアッシュのおたんじょう日をするでしょ。それからその次はウィルトールのおたんじょう日!」
「俺のお祝いもしてくれるの?」
「するー!」
向日葵のような笑顔が弾けた。やっぱりアデレードは笑っているのが一番だ。
俺も笑みを返しながら、きみの幸せはきっとこの先の未来にもいっぱいあるよと思った。
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