3章 11年前
[3ー1]弟は王さまだった。
いつもの時間、いつもの場所。木漏れ日の踊る紙面に並んだ文字列を追いながら僕の意識は幾つもの国や街を駆け巡っていた。
清々しいそよ風が軽やかに頬をなでていく。耳に小さく届いた鐘の音にふとページをめくる手が止まった。梢の向こうに広がる空はどこまでも青く高く、遠くの景色もくっきり見渡せるほど空気はよく澄んでいる。
「ウィルトール! お茶にしましょう。セイラルダを探してきてちょうだい」
奥の庭園の入口付近に母さんが見えた。本日の空想旅行は終了だ。承諾の声を返すと、僕は膝の上の本にブックマーカーを挟んだ。
「セイルー!」
返事が返ってこないのはいつものこと。でも名前を呼ぶのはこういうときのお約束かなと思って、あまり気にせず弟の名を呼びながら歩いていた。
最近のお気に入りの遊びは何だっけ。弟がいそうな場所を幾つか思い浮かべてみる。表の庭園の生垣迷路、離れの向こうの芝生広場、もしかしたら門のところで駄々をこねてる可能性もあるし、あるいは部屋のソファでひと休みしているかも。
まずは近いところから当たってみるかと
「セイル、母さんが呼んでるよ。お茶にしようってさ」
「いいね。あたしも交ぜてもらおうかな」
不意に届いた耳触りの良い声に、僕は息が止まるかと思った。信じられない気持ちで振り返ると、そこに懐かしい人がいた。
後ろでひとつに結った癖っ毛は赤みを帯びた金色。紫紺の瞳は朗らかに細められ、両腕を腰に当てた姿勢からはいかにも彼女らしい気概が見て取れる。
一瞬自分の目を疑って、でも本物だって思ったら嬉しい気持ちがじわじわと身体中に広がっていった。なんにも変わらない、旅に出ると言ったあのときのままの――
「アン!」
名前を口にした直後、駆け寄ってきた彼女に抱きしめられた。
「ウィル! あんた、本当にウィルなの!? 声もちょっと低くなったよね!? 大きくなったね……」
目の高さが随分近くなっていた。アンがまじまじと眺めるから僕は
「そりゃそうだよ。来月には十三だよ僕。アンずっと帰ってこないからさ、待ちくたびれたよ」
「……うん、悪かったね。あたしも会いたかった」
アンが僕の頭をなでた。こんなふうになでられるのは本当に久しぶりだったからちょっと照れる。それからもう一度目線を合わせて、またしっかり抱きしめてくれた。
「なぁ、だれ?」
気づくとすぐ足下にセイルが来ていた。服も靴も泥まみれ、可愛い鼻の頭や薔薇色の頬、金色の巻き毛にまで泥をつけて、じっとアンを見上げている。両手で大事そうに抱えているのは本日の作品だろうか。
アンはセイルの前に屈んでその顔を覗きこんだ。
「セイルだね。あんたも大きくなったね。元気そうでよかった。……けどこの格好はなんなの? ワンピースなんてまるで女の子じゃないか」
「あ、これはね――」
僕が説明しようとした瞬間、セイルは小さな右手をアンの顔に押しつけた。泥だらけの手の下から現れたのはさっきまで大事そうに抱えていた泥団子。左頬にしばらくくっついていたそれはやがてアンの膝の上にぼとりと落ちた。僕は顔から血の気が引いた。
「……は?」
状況を把握しきれず唖然としているアンに、セイルは綺麗な碧い目を
「やる。オバサン」
時が止まった。僕は確かにそう感じたのだった。
* *
あれから三年の月日が流れていた。
僕の背は一気に伸びた。それと同じように弟もとても伸び伸びと成長した。ただし身体面というよりは主に精神面の方で。自由奔放な彼はひとたび
どんなに身勝手な言い分でも母さんはそのまま受け入れて、時には物で釣り、おだてて宥めるという方法で癇癪を静めた。まさに弟は王さまだった。
虚弱体質なのは相変わらずで、元気に飛び跳ねているかと思えばすぐに熱を出した。母さんは身体に良いと聞いたものは片っ端から試した。でもセイルに嫌だとはねつけられるとそれを強制することができなかった。お陰でどれもこれもが中途半端に終わっていた。
偏食の激しいセイルは小柄で華奢で、見た目だけは本当に可愛らしかった。元々女の子が欲しかったらしい母さんはセイルによく女の子のワンピースを着せていた。肩まで伸びた金色の髪には綺麗な髪飾りを挿した。
「男の子なのに女の子の服を着せるのって、どうなのかな……」
一度だけ、遠慮がちに言ってみたことがある。でも母さんが言うには、これは病弱なセイルのためらしい。男の子だからこそ女の子の服を着せることで災いを避けるとかどうとか……あんまり必死に言ってくるから聞いた僕の方が悪かった気がしてきて、結局ごめんなさいって謝ることになった。セイルもまだ小さいし嫌そうでもないからいいかなと思ったのもある。ウィンザールの邸が世界の全てであるセイルにとっては世間の常識も善悪も、家族が言わない限り知りようもなかったのに。
「……大体のところはわかったよ」
泥を拭き取りながら僕の話に耳を傾けていたアンは引きつった顔のまま言った。
あのあと僕たちは庭園の中にある
泥まみれのセイルは連行されていくときも散々駄々をこねた。それを白い目で見送るアンの横顔は怖かった。下を向いて小さくなりながら僕はおそるおそる口を開いた。
「あの、さ……母さんも頑張ってるんだよ。僕もたくさん考えたんだけどさ、セイルは全然言うこと聞いてくれなくて、どうしていいかわからなくて……。だから、セイルの代わりにごめんなさい。……怒ってる、よね?」
「ウィルには怒ってないよ。大丈夫」
アンがにっこり笑みを浮かべた。だけど目の奥は笑ってなかった。
しばらく邸の方を眺めていたアンは大きな溜息をついた。
「世話を放り出したあたしにも責任があるからね。でも、さすがに想像以上だったわ」
「ごめんなさい……」
「ほら、そこで謝らない。ウィルは悪くないって言ってるだろ」
「うん……」
アン、ちょっとだけ雰囲気が変わったみたい。ハキハキした感じはおんなじだけど喋っていると時々あれって違和感がある。そこになんだか薄い壁のようなものを感じてしまって、僕はアンの顔を直視できない。
新しいお茶が運ばれてきた。ハーブの独特な甘い香りが湯気とともに立ちこめる。透き通った琥珀色を見つめていると僕の脳裏にあるものが浮かんだ。
「……あの、あのねアン。もうひとつ言わなきゃいけないことがあるんだけど……」
重い口を開いたら視線がこちらに向いたのがわかった。ただでさえセイルのことでがっかりさせてしまっているのに、今から言うことでさらに不快にさせるだろうなと思うと本当に気が重い。
だけど黙っていてもいずれはわかってしまうことだ。だったらちゃんと説明した方がいい。
「僕の小さな友だちを覚えてる?」
眉を顰めていたアンは次の瞬間懐かしそうに彼らの名前を挙げた。僕によく懐いていたチビ猫に、とうとう最後まで抱っこさせてくれなかった気難し屋の灰色猫。琥珀色の目をした食いしん坊は他の子のご飯まで食べてしまうからご飯のあげ方には注意が必要だったっけ。
「あの子たち、母さんがどこかにやっちゃったんだ。動物の毛はセイルの身体に良くないからって。……ごめんなさい。守れなかった」
「……そっか。悲しいけどそれは仕方ないことかもしれないね」
アンの
肘をついたアンは両手の中のガラスカップをしばらく眺めて、ゆっくりとひとくち含んだ。それから思い出したように鞄の中を探った。
「これ返しとくね。ありがとう」
渡されたのは一冊の小さな本。旅立つアンに僕が手渡したあのガイドブックだ。
「ウィルが持たせてくれて本当によかった。随分助けられたんだよ、それに」
アンが晴れやかに語るのを聞きながら僕はページをぱらぱらめくった。余白の部分に書き加えられた注釈を見つけて頬が緩んだ。筆跡は二人分。アンと、元々の持ち主であるリューのもの。
「ねぇ、リューのお友だちには会えたの? 約束守れた?」
期待を込めて顔を上げるとアンは思案気に横を向き、それから小さく口角を上げた。
「そうだね、半分はできたかな」
「半分? じゃあまた行っちゃうの?」
「しばらくはここにいるよ」
「ふぅん……」
少しがっかりした。これからはまた一緒に住めるんだと思ってたのに。昔みたいに、ずっと一緒に。
落とした視線の向こうからトントンと控えめな音が響いた。まるで扉をノックするみたいにアンがテーブルを叩いていた。
「しばらくいるって言ってるだろ。あの生意気な悪ガキをどうにかしなくちゃ。手伝ってくれる、ウィル?」
勝ち気に微笑むアンを見て、僕は言おうとした言葉を飲みこみ曖昧に笑った。
アンはその日からセイルと寝食を共にすると宣言した。セイルはやっぱり駄々をこねたけど、アンはお構いなしで首根っこを掴んで連れていった。
「子守りから離れるように言われてしまったわ。わたくしはのんびり休んでいればいいんですって。夫婦水入らずで食事でもして過ごせばいいと……」
ふたりを見送る母さんはなんだか浮かない顔をしていた。手を頬に当てて溜息をついている。もしかしたらセイルを取られたように感じてるんだろうか。
「大丈夫だよ。アンが言うんだから任せていいんだよ、きっと」
「そうね……アネッサは要領がいいもの。どんなことでも手際よくこなして、全て上手く収めてしまう。……でもわたくしは駄目。わたくしのやり方はアネッサにしてみればまどろっこしくて、きっと間違いだらけなのね」
「間違ってなんかないよ。母さんずっと大変だったんだしさ。しばらくアンが見てるから今のうちに休んでてってことだよ。ね、ちょっと休憩するだけ。誰も文句言わないよ」
「休憩するだけ……」
母さんは目を伏せて何かを考えていた。薄い金色の横髪が頬にかかり、長い睫毛が影を落とした様からはいかにも憂鬱そうな印象を受ける。だけど顔を上げた母さんは迷いを吹っ切ったような目をしていた。
「ありがとうウィルトール。あなたは本当に優しい子ね」
細い手が僕の頭をそっとなでた。真正面にある藍色の瞳を見つめ、僕は小さく笑い返した。
母さんが父さんとのんびりしたかどうかはわからない。けれど日が経つに連れてだんだん笑顔が増えているのはわかった。
逆にアンの方は眉間にしわを刻んでることが多かった。
「信じられる? 夜ベッドに入ろうとしたら蛙がいたんだよ。カ・エ・ル! 思わず悲鳴上げたら後ろでケタケタ笑ってる子がいるの。時間も遅いのに寝ないで見てるなんて、なんて性根が悪いんだろ! 腹が立ったからお尻叩いてやったけど全然懲りてなくてね、あの子」
アンが、それはもう大きくて深い溜息をついた。僕はテーブルの上の焼き菓子をアンの方に押しやった。
「疲れてるときは甘いものがいいって、母さん言ってたよ」
「……ありがと。ウィルはほんと天使だわ」
「そんなことないよアン、忘れてる。僕だっていたずらいっぱいしたし、逃げまわってたし。アンに怒られてばかりだったよ。リューと一緒にいっつも謝ってたじゃないか」
「そうだったかな……」
アンは頬杖をついて懐かしそうに微笑んだ。
「今思えばあんたのいたずらなんて可愛いもんだったわ。あんたはあたしの自慢の甥っ子だもの」
「あ……セイル、そろそろお勉強の時間だよね。僕探してくるよ。アンはそこで休んでて」
ありがとうと目を細めるアンに手を振って席を立った。その十数分後、盛大に溜息をつくことになるなんてそのときの僕は思いもしなかった。
弟のお気に入りの場所に向かうと、泥だらけになって地面を這ったり石や葉っぱをどけたりしている悪ガキがいた。最近はちゃんと男の子の服を着るようになっていたけど、今日のそれは既に真っ黒に汚れていた。
僕に気づいたセイルは目を輝かせて手にしたバケツを見せてくれた。中にはたくさんのミミズが
「すげーだろ、こんなに見つけたんだぜ! アンのクツに入れてやるんだ。アイツ、とび上がってビックリするぞ。ざまあみろ」
しめしめと嬉しそうに
母さんが、アンが、みんなが気にかけて大切に守っているのがこんなやつだなんて。
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