[3ー2]大事な宝物

 アンが帰ってきて半月が経とうとしていた。始めこそアンに盾突き仕返しをしていたセイルはそのたびに小っ酷く叱られ、やりこめられて、さすがに参ってしまったらしかった。アンの粘り勝ちだ。手のつけられない悪ガキも結局はただの四歳児だった。


「なぁーアンに言ってよー。セイルにやさしくしろーってさー」


 近頃は手も足も出ないらしい。それで時折こうやって僕のところにお願いにやってくる。けれどセイルの頼み方は全てが上から目線だし、内容にも全然賛同できないので聞いてやった試しはなかった。

 服の裾を引っ張ってくる小さな手を払いのける。僕はわざと深い溜息をついた。


「自業自得っていうんだよ。それにお前がアンの言うこと聞けば一件落着じゃないか」

「ムリムリムリ! アイツいっぱいいっぱいうるせーもん! ヤサイたべろとか、とびらはきちんとしめろとか、あいさつとかさー。メンドクセーことばっか! んで、まもらなかったらだぜー!? タイヘンすぎだろ!? おまえ、オレがしんでもいいのかよー」

「そんなことで死なないから大丈夫だよ。それと、年上に向かって〝おまえ〟も〝アイツ〟も言っちゃ駄目」


 僕は手の中の本に目を戻した。セイルはむーっと頬を膨らませてふて腐れた。


「ウィルのばーか。いじわる。さいあくー」


 いかにも腹の立つ声音で、他にも思いつく限りのケチをつけていた気がする。でも僕は相手にしなかった。構うから大袈裟に騒ぐんだとアンから教わって、こういうときはとにかく冷静に、あるいは限りなく無視に近い対応をすると決めていた。

 それでなくても最近セイルとはあまり関わりたくなかった。あいつを見ていると無性にイライラしてくるから。

 なんでイライラするのかは自分でもわからない。ただ、もしこのことを母さんやアンが知ったらすごく怒るんだろうなっていうのはわかっていた。そう思うと誰にも言えず、顔にも出せなくて、僕は部屋にこもっているしかなかった。

 本当に理不尽だ。悪いのはどう考えたって、言うことを聞かないセイルじゃないか。なんで僕が我慢しなくちゃいけないんだろう。兄だ、年上だってだけで、なんで僕が……。

 胸の内がもやもやして苦しくて、気を紛らわせるように唇を噛んだ。何もかもが嫌で嫌でたまらない。




 バンっと大きな音が響いた。セイルが力任せに扉を開けていた。


「もーいーよっ。どーせアンなんかすぐにどっか行くからな!」


 彼は彼なりの捨て台詞を吐いて出ていった。だけどなんでもないその言葉が突き刺さり、僕は不覚にも狼狽うろたえた。


「アン……いつ行くんだろう」


 しばらくはここにいるって言ってたけど、考えてみたらとても曖昧な言い方だ。アンが考える〝しばらく〟って一体どれくらいの期間なんだろう。

 半月なんてまだまだ短いと思う。いろんなことがあったようで、まだそれだけしか経っていないのかと驚く。けれどアンの滞在期間として考えれば決して短くはないようだ。旅の話をいろいろ聞かせてもらったら、街によっては一両日で出立することもだったそうだから。




 読みかけの本をひとまずテーブルに伏せて置く。部屋の奥の戸棚を開けると、並んでいた一冊の背表紙に指を掛けた。アンと一緒にいろんなところを旅してきたガイドブック。旅立つときはまた持っていってほしいと思っていた。そして、叶うのであれば今度は僕も一緒に連れていってほしい。


 ――聞いてみようか?


 不意に心に浮かんだ考えを反芻はんすうする。ダメ元でもいいから聞いてみようか。それこそ三年前からずっと頼んでみたかった願いだ。

 ここを出たい。

 息が詰まるこの邸を抜け出して、僕も見てみたいんだ。本を読むだけではわからない世界を。大好きなリューが楽しそうに語っていた世界を。




 ガイドブックを片手に部屋を出た。アンの部屋へ――そう思って一歩踏み出したところで行く手から当人が走ってきた。


「アン! ちょうど良かった。あのさ、」

「セイル見なかった!?」


 両肩をがしっと掴まれた僕はただ目を瞬かせるしかできなかった。数秒後にやっとのことで「セイル?」と首を傾げるとアンはイライラと口を開いた。


「読み書きの先生が来てるのに見当たらないんだよ」

「セイルならさっきまで僕の部屋にいたけど……」

「今は!? どこに行ったの!?」

「行き先までは、ちょっと……」


 しどろもどろに答える僕の言葉を待たずにアンは「もう!」と顔を覆った。


「ほんっとにあの子は手がかかるんだから! ……仕方ない、奥の手を使うか。ウィルありがとね。もし見つけたら引っ張ってきて」

「うん……」


 アンが僕の両肩を力強く叩く。視線が合っていたのはほんの一瞬、次の瞬間にはもう背を向けられていた。慌ただしく去っていく後ろ姿を見送って、僕は胸に抱えた本の表紙をそっとなでた。





  * *





「……ない、なぁ」


 翌日、僕は机の引き出しを全部ひっくり返す勢いで探し物をしていた。見当たらないのはブックマーカー。あれはリューから貰った大事な宝物だから絶対に探し出さなくちゃいけない。戸棚の中、ベッドの下、ありそうなところを思い浮かべては片っ端から調べていく。でもなかなか見つからない。

 腰を伸ばして溜息をついた。ほんとどこにやったんだろう。最後に使ったのはいつだっけ。


「うりゃあああああ」


 幼い声が耳に届いて、窓の外に目をやった。ちょうど真下にセイルが見えた。邸の裏口と庭園を繋ぐ小径こみち、石畳から砂利道に変わった箇所の真ん中にしゃがみこみ一心不乱に何かしている。

 今日は泥遊びじゃないのか。そう思った直後に僕は眉を顰めた。今、何かが光った。光ったというか、太陽の光を反射した――?

 一体何が。懸命に目を凝らしたけどセイルの手元は陰になっていてよくわからない。




 ――気のせいだったらいい。僕が今探し物をしているから、それで連想してしまうだけだったら問題ない。

 だけどもしも。もし見間違いではなかったとしたら――。




「セイル! 何やってるんだ」

「わっ、……ウィルかぁ、ビックリさせんなよなー」


 セイルがパッと顔を上げた。今日は珍しく汚れていないようだ。その手元を凝視する。右手に何かを握っているふうに見えるけれどいまいち自信がない。


「ちょっと待ってて! 今そっちに行くから」


 それだけ言って僕は部屋を飛び出した。

 まさかと思う不安な心を抑えて駆けつけるとセイルはちゃんと素直に待っていた。彼の足下には小さな穴があって、なんと落とし穴を作っているのだと言う。


「でもさーここにさー、このカタイ石がさー、ぜんぜんうごかねえの。ウィル、とって」

「……セイル、今、手に何か持ってる?」

「これ? ん」


 無造作に差し出されたものを見て僕は頭が真っ白になった。

 瞬時にそれを引ったくる。勢いに引きずられてセイルの身体がよろけるように前に出た。その薔薇色の頬が視界に入ったときにはもう僕の手が出ていて、小さな身体は軽々と吹っ飛んだ。




「うわあぁぁぁぁん!!」




 草むらに尻餅をついた彼の泣き声が辺りに響きわたった。悲鳴のような号泣に母さんもアンもすっ飛んできた。


「セイラルダ!?」

「何があったのウィル!? セイルは……」

「お前なんか嫌いだ!」


 僕はありったけの力で叫んだ。


「どっか行け! セイルなんか要らない! こんなやつ生まれてこなければよかったんだ! そうすればリューも死ななかったのに!」


 直後、乾いた音とともに頬に痛みが生じた。気づくとすぐ横に母さんが来ていた。


「なんてことを言うの!? 謝りなさいウィルトール! 今の言葉はここにいるみんなを傷つけたわ。あなたは、わたくしを侮辱する気なの!?」


 僕を睨みつける目は今にも泣きそうなほど赤かった。僕を叩いた母さんの方が、まるで叩かれたみたいな顔をしていた。よくそんな顔ができるものだ。

 思わずアンを見た。アンなら僕の気持ちをわかってくれるはず。だってアンもリューのことが大好きだったもの。手のかかるセイルよりリューがいた方がいいって、アンの意見も僕とおんなじに決まってる。僕は絶対間違ってない。

 だけど僕を待っていたのは落胆だった。縋るように見上げた先、セイルを抱くアンの瞳に宿っていたのは僕を責める色だった。


「セイルのほっぺた、あんたがやったんだね? セイルに謝りな」

「……アンまでそんなこと言うの?」

「お兄ちゃんのすることじゃないだろ。小さい子には――」

「嫌だ! 絶対に謝らない!」

「ウィルトール!」


 落雷に肩をすくめる。その拍子に手の中の金属片がチリ、と小さな音を立てた。取り返した宝物を両手で握りしめると表面がざらざらしていることに気付いた。指の腹が伝えてくるその違和に、僕は息ができなくなった。


「……みんな嫌いだ。僕の味方はリューだけだ! もう、誰もいないんだ!」


 それだけ叫んで、駆け出した。自分の部屋に飛びこむと鍵を閉めた。

 もうどうでもいい。

 僕はベッドに突っ伏して、腹の底から思い切り声を上げた。

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