[1ー3]ひとりでねてるの!?
だれかがぼくのほっぺたをさわってた。ひんやりつめたい手が、おでこにかかった前髪をすいたり頭をなでてくれている。さらさらした手つきはやさしくて、イヤな感じはそんなにない。でもくすぐったくてたまらない。ぼくはきゅっと小さく丸くなって、逃げるようにふとんの中にもぐりこんだ。
朝なのかな。もうちょっとねてちゃダメかな。まだとっても眠いんだもん、おねがいすればもしかしたらいいよって言ってくれないかな。
「……起きたの?」
しずかにふってきたのはまるくてやわらかい声だった。アンの声じゃない。ぼくはぱちっと目を開いた。そうっと顔を出して、声がした方を見上げてみる。まくら元にすわってたのはやっぱりアンじゃなかった。前かがみになっていたその人が身体を起こすと、うすい金色の髪の毛に光が当たってキラキラかがやいた。ぼくは息をするのもわすれてその人を見ていた。
「おかあ、さん……?」
しんじられない。だけど本当にお母さんだ。なんでお母さんがここにいるんだろう。なんでぼくを見てるんだろう。
ぽかんと見つめているとお母さんはちょっとうつむいた。
「……何を言えばと、ずっと、考えていたのだけれど……。駄目ね、うまくまとまらないわ。……わたくしのこと、怒っているでしょう? 嫌いに、なった……?」
お母さんの言葉にビックリして、ぼくは大急ぎで首を横にふった。お母さんにおこることなんてぜったいにないし、キライになることだってぜったいにない。
そしたらお母さんがふわっと笑った。
「優しい子。本当にわたくしを好いてくれているのね。……アネッサ、あなたが正しかったようだわ」
お母さんはちょっとだけ後ろを見た。つられてぼくも見てみたら、そこにアンがいた。目が合うとアンはほんのちょっと笑ってくれた。
「……この数日、いろいろなことを思い返していたわ。ウィルトール、もちろんあなたのことも。あなたを傷つけようなんて、少しも思っていなかったのよ」
本当よとつぶやくお母さんの声にふざけてる感じはぜんぜんなかった。ぼくがこくりとうなずくとお母さんはホッとした顔になって、それからゆっくり目をとじた。胸元で何かをそっとにぎりしめるように両手を重ねていた。
「わたくしの希望となるはずだった光が消えてなくなってしまったの。幼い頃より抱いていた夢も、ささやかな望みさえもことごとく打ち砕かれて、わたくしに与えられるのは辛くて惨めなことばかり……。世界がこんなに意地悪で冷たいものだなんて思いもしなかった」
「……世界ってつめたいの? 冬ってこと?」
「そういう冷たさではないのよ。……小さなあなたには、まだわからないわね」
ちょっとだけ笑ったお母さんは、笑ってるのになんだか泣いてるみたいに見えた。ぼくの心にトゲがささった。――きっとぼくはヘンなことを聞いたんだ。
お話がわからないことや、お母さんをがっかりさせちゃったことは、とても悲しかった。せっかくお母さんがお話をしにきてくれたのに。
ぼくはふとんの中でもぞもぞと両手を動かして、胸の真ん中をおおった。心が外に出て行かないように。
「……お母さん、悲しい?」
「え?」
「リューにね、気持ちはみんなに伝わっていくって聞いたの。ぼくが悲しい気持ちだとお母さんにも悲しい気持ちが移っちゃうんだって。……お母さん、悲しくなっちゃった……? あの、移ってたら、ごめんなさい……」
お母さんは何も言わなかった。真面目な顔でぼくを見ていたと思ったら目の前ですっと右手が上がって、ぼくは思わず目をつむった。身体をギュッとかたくしていると、しばらくしておでこをさわられた。お母さんはぼくの前髪をさらさらなでて、それからほっぺたに手を当てた。
おそるおそる目を開ける。そしたらお母さんがおおいかぶさってきた。
「おかあ……」
何が起きているのかすぐにはわからなかった。何度もまばたきをして、なんだか動いちゃダメな気がしたからそうっとしずかに息をした。アンとはちがう、あまいお花みたいないいにおいがする。
ぼく、お母さんにだきしめられてる。
アンがしてくれるのとも、リューにされるのともぜんぜんちがう。それでちょっとだけ、ぼくもだきついてみた。本当に、ちょっとだけ。くっつかないでって言われたらどうしようとドキドキしたけど、言われなかったからホッとした。
お母さんが自分のお部屋に帰って、ぼくはアンが運んでくれたごはんを食べていた。お母さんが帰ってからも、なんでかわからないけどむねがドキドキして落ち着かなくて、でもアンが「ご飯食べられる?」って聞いてきたから、うんって答えた。
ぼくはひどいかぜを引いていたらしい。プチ家出をしてからもう二日もたってるって聞いてビックリしたし、今の時間を聞いたらお昼をとっくに回っててまたビックリした。いっぱいねぼうしちゃったのにアンはおこらないで、今日はトクベツだよって言った。ベッドの上でぼくがごはんを食べるのを手伝ってくれた。
「そういえばねぇ、ぼく、ヘンなゆめ見たの」
「変な夢?」
「あのね、アンとリューがケンカしてたの」
豆と野菜をやわらかく煮こんだスープをもぐもぐやりながらぼくは答えた。
「いっつもにこにこしてるリューがね、アンにおこってたんだよ」
「ふぅん? ……何を怒ってた?」
「わかんない。何か言ってたけどよくわかんなかった。でもさ、リューがおこること自体がヘンなのにさ、よりによってアンをおこるなんてね。ありえないよね。アンにおこられるのならわかるんだけど」
アンはふふって笑った。
「そうかもね」
「ねぇ、リューは? ぼく、ただいまってちゃんと言ってない」
「うーん……今日はまだ見てないかな。またどこかほっつき歩いてるのかも」
ぼくが食べ終わったお皿をアンが下げて、代わりに水さしからお水を注いでくれた。
「もっと食べたかったな」
「じゃあ、夜はもうちょっと増やしてあげる。これ飲んだら寝るんだよ」
「えー? 眠くないのに?」
ぼくはくちびるをとがらせて抗議した。空のコップをアンにわたすと有無を言わさずねかされた。
「だーめ。はい、寝た寝た」
アンはぼくの肩がきっちりかくれるように掛け布団をかけて、頭をやさしくなでてくれた。アンが言うことはぜったいだから仕方ないや。おとなしくねよう。
おやすみなさいを言おうと思ってアンを見上げた。サラってすべり落ちてきたアンの金色の髪の毛がひとふさ、白く色がぬけていた。パチパチとまばたきをしたけどやっぱり見まちがいじゃない。アンが首をかしげた。
「なに?」
「髪の毛、白くなってる」
もぞもぞと手を出してぼくが指さすと、アンはその白くなってる髪の毛を指にまきつけた。
「これか。うーん……リューがさ、綺麗な髪になる美容液っていうのをくれたんだよ。試したらこんな色になっちゃった」
「……アン、おこった?」
「そりゃあもちろん。死ぬほど怒った」
「ほら。やっぱりリューの方がおこられるんだ」
ぼくが小さく笑うとアンも同じように微苦笑した。そうしてぼくのおでこと目を手でおおった。ほわほわあったかい手がやさしい闇を作って、ぼくを眠りの国に連れていく。
「おやすみ、ウィル」
* *
次に目がさめたのは夜じゃなくて次の日の朝だった。ぼくは本当にねすぎだと思う。でも身体にヘンな感じがするところはどこもなくて、これならもう起きてもいいよってアンがにこにこ言った。
ぼくはすばやく着がえてごはんをかきこんで、それから部屋を飛び出した。いつものお気に入りの場所に行ってみたらぼくの小さな友だちが集まってきた。みんなにそれぞれあいさつをして、かわってないことがうれしくて、ふと顔を上げた。
「リューはどこだろ?」
きのう聞いたときは街に行ってるかもってアンは言った。じゃあ今日もそうかもしれない。いつもしてたみたいにここで本を読んでればひょっこりあらわれるのかもしれない。
「ああ、あの男ですか。今日は見てませんなあ」
表門に向かうとおじさんがあごひげをなでながら教えてくれた。それから門のそばの小屋に入ったおじさんは書類のたばを持ってきた。ぱらぱらめくって、すみからすみまでよくながめて、最後に首をかしげた。
「……ここしばらくは通ってないようですな」
「そうなんだ……」
「かくれんぼですか、ウィル坊ちゃん?」
今度はぼくが首をかしげる番だった。これはかくれんぼなのかな。リューだったら本当にかくれんぼしそうだけど――。
「ぼく、もう一回さがしてみるね」
「そうですな。あ、今度外に出るときはちゃんとアン嬢ちゃんにお許しを貰ってくるんですよ?」
「そんなふうによんだら、おじさんもアンにおこられちゃうよ?」
「違いない」
ははは、と笑うおじさんにぺこりとおじぎして、ぼくは家にもどることにした。
自分の部屋には帰らずにろうかを何度か曲がって、お家のはしっこにあるリューの部屋に向かった。とびらの前で何度か深呼吸して、軽くノックしてみた。少し待ったけれど返事はない。
「……リュー? いないの?」
カギはかかってなかった。小さく開けたすきまからそうっと頭だけ入れてのぞいてみる。部屋の中はぶあついカーテンがしめられたままで薄暗い。リューはやっぱり外出してるのかもしれない。
リューの部屋の入口の真正面は全面掃き出し窓。今はカーテンがしまってるけど本当なら窓の外には広いしばふのお庭が見えるんだ。そしてその先にぼくが家出した林がつづいてる。
部屋の真ん中には丸いテーブルとそなえつけのイスが二脚。テーブルにおかれたトレイには水さしと、ふせられたコップが乗ってた。おくのかべの窓がわにチェストと書き物机がならんでいて、反対のろうかがわにはベッドがおかれてる。そこに、なんとなく人がいるようなふくらみが見えた。
ぼくはするりと部屋に忍び入った。音を立てないようしずかにベッドに近づくとリューがねていた。なぁんだ、いるんじゃないか。
「ねぇ、起きてよリュー」
「……んん、ウィル……?」
ぼくが肩をゆすると、リューは手をかざしてまぶしそうに目を開いた。ぼくはひざをついて、リューの近くに顔を寄せた。目が合ったリューはふわっと笑顔になった。
「ああ……元気になったんだ。よかったねウィル」
「うん。あのね、リューにいっぱい言いたいことがあるんだよ。ええとね、ただいまをちゃんと言ってなかったからただいまと、学校はリューが言ってた通り楽しかったよってことと、それからこの前むかえに来てくれてありがとうってこと」
ぼくは指おり数えて一気にしゃべった。リューはちょっとへんな顔をして、それからぷっとふき出した。
「なんだほんとにいっぱいだなぁ……。えーと、おかえりと、学校よかったねと、あと……なんだっけ」
「だから、むかえに来てくれて」
「ああ、雨の中のかくれんぼだね。どういたしまして」
「かくれんぼ?」
ぼくはちょっと首をかしげた。あのときはしくしく泣いてたら雨がふってきたから、近くにあった木のうろにもぐりこんだ。だからかくれてたわけじゃない。けど、さがしにきたリューに見つかったからやっぱりかくれんぼになるのかな。
ちょっと間があいた。ぼくはなんとなくそわそわして部屋の中を見回した。部屋が薄暗いのはカーテンがしめられてるからだ。リューがいつまでもねているから、カーテンもずっとしめたまんまなのかもしれない。
「ねえ……もうすぐお昼だよ? リューちょっとおねぼうさんじゃない? アンにおこられるよ」
「お昼? そうか、もうお昼か……うーん、寝てたら怒られるかなぁ……」
「ぼくがカーテン開けてあげる。明るくなったら、目、さめるでしょ?」
腰をうかせてカーテンに目をやった。走り出そうとしたらリューがパッとぼくの手首をつかんだ。それから首を横にふった。
「……実はね、俺も風邪引いちゃって。やっぱりもうちょっと寝てるからカーテンはいいよ」
「かぜ? そうなの? いつから?」
リューはちょっと考えておとといと答えた。ぼくは首をかしげて、それからハッと気づいた。
「あっ雨のとき……!? もしかしてぼくをむかえに来て、それでかぜ引いたの!? ご、ごめんなさい! ぼく……どうしよう……」
オロオロしてるとリューの手がぼくのうでをとんとんと軽くなでた。
「ウィルが気にすることないよ。俺がひ弱なだけだから……」
微苦笑するリューの顔はそういえば血の気がなかった。声にも力がない気がするし、なんとなくだるそうで、ほんとのほんとにつらいのかもしれなかった。
「じゃあ、ねた方がいいよね……。ぼく帰るね。アンにも言っとくから」
「うん、ありがとう」
「……あれ? でもさ、アンにきのう聞いたときリューは見てないって言ってたよ? どこか行ってるんじゃないかって。リュー、もしかしておとといからだれにも会わないで、ひとりでねてるの!? ごはんは!?」
あわてて聞いたらリューはおかしそうに笑った。それから〝かぜを引いたのはアンも知ってること〟〝ごはんはちゃんと食べてること〟を教えてくれた。
ぼくはくちびるをかんだ。おふとんのはしっこを両手できゅっとつかんで、背中を丸める。そのまま手の甲の上にあごをおいた。
「アン、知ってたの? ウソついたの……?」
「……そんな顔しなくていいんだよ。アンがちゃんと言わなかったのはさ……多分ウィルに余計な心配かけさせたくなかったんだと思う。さっき、俺が風邪引いたのを自分のせいかもって思っただろう?」
こまったように笑うリューにぼくはこくんとうなずいた。
「何度も言うけど、ウィルが悪く思うことじゃないよ。俺の風邪は俺の責任。大人だからね。……あーでもウィルに心配されてるようじゃ俺は大人失格かもなぁ……」
リューが深刻そうに大きなため息をつくから、ぼくはさっきとはまたちがう意味で申しわけないような気になってしまった。
「リュー、ねえ、そんなことないよ! リューはたよりになるし、ぼく、リューみたいな大人になりたいって思ってるし! だから失格なんて言わないで……ぼく、リューが大すきだからね? あの……でも、あのね……ぼくが心配するのリューがイヤなら、もう何も言わないことにする……」
しゅんとなって下を向いた。
ちょっと間があってリューが盛大にふき出した。目を丸くするぼくの前でリューは笑いをこらえきれずに肩をふるわせていて、ぼくの頭の中はハテナマークでいっぱいになった。
リューの手がぼくの頭をなでた。
「ごめんごめん、冗談言い過ぎた。心配されるのが嫌なわけじゃないんだ。嬉しいけどそういうことじゃなくて、ウィルも病み上がりなんだからさ……。人の心配ばっかしてないで、しばらくは自分のためにおとなしく滋養つけとけってこと」
「リュー……」
「……ありがとう。俺もウィルが大好きだよ」
ぼくの前髪をすくようになでてくれてたリューの手を両手でにぎった。まっすぐにぼくを見つめるリューのうすむらさき色の目がまるで何かの宝石みたいにキラキラしていて、とてもキレイだった。
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