[6ー3]今となってはもう
他ならぬ
少し離れた場所で控えるエルリヒを
「ウィルトールさまは私の命の恩人ですわ。なんとお礼を申せばよいのか……」
「大袈裟だよ。俺は大したことはしていない」
「まあ、ご謙遜を。ウィルトールさまは私に希望をもたらしてくださいました。私の運命はきっと良い方向へ変わるでしょう」
ローディアは「今日はこれにて」と会釈をし、エルリヒに付き添われて去っていった。
ふたりが消えた薄暮の街並みを眺めていたのはほんの数秒ほどのことだったと思う。すっかり日が落ち、街灯には順に明かりが灯っていく。
「誰か! 誰か来て!」
薄暗がりに女性の悲鳴が響いた。
声の主の姿はどこにもない。横転した荷馬車――馬は外されたようだ――を乗り越えてひとりふたりと駆けこんでいくところを見るとどうやら店舗内からの呼び声らしい。建物の壁には大きな穴が開き、通りに面したガラスは粉々に割れて落ちていた。ここからの再起はおそらく大変なことだろう。
隣の店舗の前に商品台が横倒しになっていた。あたりには色とりどりの飴を詰めた小袋が散乱し、もう売り物にはできそうにない。
ふと、嬉しそうに飴の袋を抱えるアデレードの姿が脳裏をよぎった。
――ああ、あの菓子店か。
何度かセイルやアデレードたちを連れて入ったことがある。店番を務める老婆の人柄がよく、子どもたちからは〝みんなのお婆ちゃん〟として親しまれていたはずだ。
中から出てきたギルマルクの私兵が上官の元に走っていった。
「怪我人が! 店主と子どもが棚の下敷きに」
「下敷きだと」
「今、持ち上げようとしておりますが、
俺の心臓が跳ねた。
――子ども? いやまさか……。
帰ると言ったその足で立ち寄っているはずがない。だが〝みんなのお婆ちゃん〟にアデレードも懐いていたのは事実。
急に重たくなった足を引き摺るようにして問題の店に向かう。覗けばいつも老婆が座るカウンターがあるはずの場所に背の高い棚が倒れこんでいた。元から間口の狭い店だ。等間隔で並んだ商品棚が、外からの衝撃で折り重なって倒れたようだ。床は
やがて慌ただしく運び出されてきたのは店主の老婆。青白い顔をし、どこかで切ったのか頭に当てられた布には血が滲んでいた。
続いて横抱きに抱き抱えられて現れたのは華奢な身体。赤い髪、閉じられた瞳。馴染みのありすぎる白いフードケープから伸びる四肢は重力に従ってくったり落ちていた。
嘘だ、と口の中で呟いた。身体中から血の気が引いていく。息が、できない。
俺の世界から音が消えた。
* *
静かに聞いていたアッシュが溜息をついた。思案げに呟いたのは「あそこだったんですね」という一言だった。
「お婆さんの菓子店のことは覚えています。なんとなくですが」
「未だに思うよ。なんでアディは寄り道したんだろう。まっすぐ帰っていれば事故に遭うこともなかった。せめてあの店じゃなければ」
「今となってはもうわかりませんね。姉も覚えてないでしょうから」
「うん……。うん?」
一拍遅れて眉を顰める。どこか引っかかる言い方だった。更なる詳細を目で求めればアッシュは思案げに「次は私の番ですね」と視線を下げた。
「……確か事故の翌日には姉は起きられるようになっていたと思います。目立った外傷もなく、そのときは受け答えもしっかりしていたそうで父も母も安心したと言っていました。ですが――」
事故の一件以降アデレードは突然叫んだり泣き出すようになったらしい。昼夜問わず繰り返される症状に家族みんなが参っていったそうだ。それでもフィルさんは根気よくアデレードを宥め看護していたと。
「父は情報をかき集めてメリアントに腕の良い医者がいることを突き止めました。その治療の甲斐あって姉の症状は落ち着いたんですが、代わりに記憶が消えてしまったんです。おそらく一年分ほど」
「消えた……?」
「ええ。あまり刺激になってもいけないのではっきりとは確かめてないんですが。医者が言うには事故のショックのせいだと……」
「……かえって良かったのかもしれないな。事故のことなんて覚えてない方がいい」
仮に一瞬のことだったとしても恐怖は凄まじかったはずだ。そんな記憶なら残っていない方が幸せというものだろう。アッシュも同感ですと頷いた。
本来、記憶というものは大なり小なり忘れてしまうものだ。もしかするとひょんなことから思い出す場合もあるかもしれないが、今のところその素振りは見られないらしい。アデレードが無意識に〝なかったことにしたい〟と自己暗示をかけている可能性も考えられると話は続いた。
先ほどリボンの件で感じていた違和がようやく腑に落ちた。そして問題はここからだった。
「治療していく中で父と母の方針が合わなくなりました。姉に元のように元気になってほしい、幸せになってほしいとその点は同じです。ですがその方法はとなると意見が食い違ってしまって……。それで離れることを決めたんです」
「……離れるって」
「母は姉を連れて
しばらく言葉が出てこなかった。押し黙ってしまった俺を見てアッシュは自嘲気味に笑みを浮かべた。
移ってきたというアデレードの話からてっきり一家揃ってのことだと思いこんでいた。そう伝えれば「実は父と私も近いうちに移ってくる予定ではいます」と返ってきた。新しい家はもう探してあるとのこと。さすが仕事の早いラドルフさんだ。あくまで少し距離を置こうというだけで、ふたりの仲はもうどうにもならないほど
俺に安堵の色が出てしまったらしい。アッシュは「お恥ずかしい話ですみません」と頭を下げた。
「今後も姉との会話で噛み合わないことが出てくると思います。ですがウィルトールさんならうまく対処してくれるだろうと母が……。私からもお願いします。勝手を言って申し訳ありませんが」
「……わかった。気をつけるよ。フィルさんにもそう伝えて」
「事故が起きた頃の話も極力避けてもらえませんか。姉にはもう
黙って首肯する。アッシュがホッと表情を緩めた。
* *
話を終え、俺たちは部屋を出た。回廊を戻りながら「そういえば、」と隣を振り向いた。
「アッシュにはひとつ言っておかないといけないことがあったんだ。あの事故の日だけどセイルと遊んだことは覚えてるか? セイルが先に帰ったって言ってただろう」
「……ありましたね。確か、川に行ったんだったかと」
「実際は違ったんだ」
「違ったとは?」
小首を傾げる彼を前に俺は溜息をついた。
――悪いことは重なるもの。
あの日は我がウィンザール家でも大事件が起こっていた。セイルの行方がわからなくなってしまったのだ。
他のクラスメイトの証言もあり、最後にセイルの姿が確認されたのはヴィーナ湖の水辺。誤って足を滑らせたのか、はたまた誰かに連れ去られたのか――考え得る事象は全て調べられたが弟は見つからなかった。
母は憔悴し、誰もが彼の無事を諦めた。
だが半月ほど経った頃、セイルはケロッとした顔で戻ってきた。どこに行っていたのか、何をしていたのかを問いただしても本人もよくわからないようだった。謎は深まる一方、母の「もういいでしょう。セイラルダは無事だったのだから」の一言でこの件は有耶無耶に終わった。
話し終えるとアッシュは明らかに動揺していた。ややあって彼の口から出てきたのは謝罪の語だった。
「――すみません。一緒に遊んでいたのに全然気づかなくて。てっきり黙って帰ってしまったとばかり……」
「アッシュは何も悪くない。あいつの日頃の行いが悪いからだよ」
「ですが、無事に戻ってこられたのもやはり日頃の行いの賜物でしょう。セイルはあれで友だち思いのいいやつですからね。不注意で人を怒らせることも少なくはなかったですが、ノリが良くてクラスの中心的存在でしたよ。
「……あいつが友だち思い? 中心的存在?」
おそらく渋い顔になっていたのだろう。俺を見たアッシュは苦笑いを浮かべた。
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