[6ー2]遠いあの日

 女性陣を見送り、俺たちは自室へ続く回廊を歩いていた。


「――それで、伝言って?」


 ちらりと隣を見やる。アッシュは一度視線を合わせ、すぐに前を向いた。口を開きかけたが声はなく、思案げに腹の前で両手のひらを合わせる。


「嘘です」

「は?」

「父からの伝言はありません。すみません」

「……つまりアディとフィルさんにはあまり聞かれたくない話があると」

「いえ、母は承知です。これは母の頼みなので」


 思わず足が止まった。

 一拍遅れて足を止めたアッシュが振り返る。彼は言いにくそうに口を開いた。


「ウィルトールさん、先ほど姉に違和感を覚えたのではないですか」

「……アディに?」

「そんなふうに見受けられました。声までは聞こえませんでしたが」

「話って、アディのことなのか。……もしかして、――」


 アッシュは小さく頷く。




 回廊を抜け、離れの一番奥の部屋に案内した。この棟は元々来客ゲストの宿泊用として使われているが、クラレットから戻ってきてからはその一室を自室として使っていた。ゆくゆくは兄とともに北方の街へ移ることが決まっている。それなら元の自分の部屋ではなく昔リューが使っていた部屋を仮住まいにしたかった。

 邪魔が入ることがないよう、アッシュが掃き出し窓の外を眺めている隙に施錠する。そうして中央の丸テーブルへと促したがアッシュは軽く手を上げて断った。


「長くなりませんので」

「だが、」

「メリアントでのことを少し話しておきたいだけですから。クラレットでのことはウィルトールさんの方がよくご存じだと聞いてます」

「まあ、からね」


 薄い笑みを唇に乗せた。

 遠いあの日のことは今でも鮮明に思い出せる。





  * *





「あら、一緒じゃなかったの」


 出迎えてくれたフィルさんは俺がアッシュしか連れていないことに首を傾げた。「ひとりで帰りたいと言われたので」と答えれば何やら合点がいったらしい。得心顔でうんうん頷いたあと「今日だけは大目に見ることにするわ」と笑った。

 夕焼けが一番綺麗に見えると評判の丘でアデレードと別れてから小一時間が経っていた。それだけあれば子どもの足でも余裕で屋敷と丘を往復できてしまう。一体どこで道草を食っているのか。

 東の空に星がひとつふたつと瞬いていた。この分ではあっという間に夜になるだろう。


「やっぱり見にいってきます」

「もう帰ってくると思うわよ」

「でも、だいぶ暗くなってきたし……」

「そう? じゃあお願いするわ、ウィルくん」


 お辞儀もそこそこに引き返した。

 あたりに気を配りつつクラムの屋敷から丘までの最短ルートを小走りに駆ける。行き来する人は昼間に比べずいぶん減っている。それは大通りに出ても大差ない。

 やがて俺の目は赤い髪の女性を捉えた。よりによって道のど真ん中をふらふら歩く後ろ姿が。


 ――いた!


 俺は一歩踏み出した。スッと息を吸いこんだが、


「ア――」


 ……途中で声を飲みこんだ。よく見れば背格好も髪型も全然違う。

 人違いか――。

 溜息を吐き出した。そろそろ残光だけでは識別が難しくなってきた。街灯に明かりが入るのももう間もなくだろう。早く見つけないと本当にまずい。

 こんなことになるならひとりで帰すんじゃなかった。いくら来年から高等科生になるといってもまだ十二歳だ。どうしたって行動が危なっかしい。


 ここからだと丘はもう目と鼻の先だった。このまま大通りを道なりに進むのが正規ルートだけど地元民は手前の抜け道を使う。この街で生まれ育ったアデレードも当然知っているし、そのうえでこれだけ時間がかかっているということはもはや寄り道は確定したも同然だ。

 全然違う方向に行ったのだろうか。最短ルートで来た俺とは入れ違いになっている可能性もある。その場合、彼女が進んだ確率が高いのはどの街路か――。


 思案に耽る意識の外側から騒がしい音が割りこんできた。見れば何かが猛スピードで駆けてくる。


 ――荷馬車だ。


 わかった瞬間、振り返っていた。道の真ん中には変わらず赤髪の女性の姿があった。その背後に迫る暴走車に気づいている素振りはない。

 俺は通りに飛び出した。


「危ない!」

「きゃあ!」


 女性の肩を抱き寄せる。

 俺たちの脇をすり抜ける瞬間、荷台の男が手を伸ばしてきたように見えた。間一髪でかわせば荷馬車は辻を曲がりきれずにそのまま角の店舗に突っこんだ。

 聞いたことのない轟音があたりに響く。

 なんだなんだと人が集まってきた。事態を把握した者から順に駆け寄り、そこここに人だかりができていく。

 街路脇に女性を座らせると俺はひっくり返った荷馬車に向かった。

 乗っていたのはふたりか。ひとりはあたりを見回していたが、俺が駆けつける前に明後日の方向に走り出した。もうひとりはを押さえ、ふらつく足で降りてくる。

 反射的に手を差し伸べていた。


「大丈夫か――」


 だが彼の目が暗く光ったのを見て咄嗟に手を引っこめた。そしてそれは正解だった。

 雄叫びをあげ、男が殴りかかってきた。

 男の腕をひらりとかわす。二度三度と男は拳を繰り出してきたが大振りな動きは隙だらけだった。かわざまに腕を掴んで後ろ手に捻り上げれば男は簡単に崩れ落ちた。


「荷馬車を操っていたのは誰だ! どこにいる!」

「道を開けろ!」


 やってきたのは濃紺色の制服をまとった男たちだった。そのうちのひとり、指揮官らしい男と目が合った。彼は俺が取り押さえている男と俺とを交互に見やり、数人を引き連れ歩いてくる。

 拘束した男が喚いた。


「おい! 乗ってたのはこいつだ! こいつ、急に殴りかかってきやがった! 頼む助けてくれ!」


 目を剥いた。この男、何を言い出すんだ。

 その僅かな隙を突かれ、男が戒めから抜け出した。そのまま逃走を図ったが敢えなく制服の男たちに捕まった。

 俺も数人に囲まれた。彼らが何者かは知らないがおそらくどこかの貴族に仕える私兵だろう。確かなのはそれがウィンザールうちではないということだ。

 真正面に立ちはだかり訝るような目を寄越してきた上官らしい男に、俺は首を横に振って答えた。


「逆だ。そいつが俺に飛びかかってきた」

「水掛け論だな。私にはどちらもが疑わしい。おまえ、名前は?」

「……俺はウィンザールの人間だ。不審なら人をやって確かめればいい」


 目の前の男をまっすぐに見返す。俺を囲む男たちの厳しい面持ちは変わらない。

 ――どうしたものか。

 こんなところで押し問答をしている場合じゃない。一番早く身の潔白を証明するには――。


「エル!」


 膠着状態を破ったのは凛とした高い声だった。皆の視線が一斉に声の主に向く。

 そこにいたのは赤髪の女性。先ほど暴走車から庇った彼女だ。通りを歩いていたときの覚束ない足取りはどこへやら、今は背筋を伸ばしてきちんと立っている。


「まさか、お嬢さまか……!?」


 信じられないといった面持ちで呟いた上官の男を含め、制服の男たちがざわつき出す。

 上官の後ろから男がひとり出てきた。彼女はその男の胸にまっすぐ飛びこんだ。


「エル、会いたかった……!」

「ローディアさま、どうしてここに! ルマイア家にてお過ごしのはずでは」

「神さまが私の願いを聞き届けてくださったのよ。ずっと会いたくて朝も夜もお祈りしていたのだもの。あの家は、無理。これ以上は耐えられない」

「どういうことですか……!? ローディアさまがこちらにいらっしゃるのは、もちろんヴァルム卿もご存じのことで……」

「その名は聞きたくありません!」

「――エルリヒ、お嬢さまを任せるが職務中ということを忘れるな」


 咳払いと共に飛ばされた念押しに、エルリヒと呼ばれた男はハッと女性を引き剥がす。その彼をうっとりと見上げていた女性はやがて周りに意識を向けた。俺と目が合ったところで「あ、」と小さな声をあげた。


「ウィルトールさま、」


 彼女が前に進み出た。遮ろうと出てきた上官の男を片手で制し、俺に深々と頭を下げる。


「ウィルトールさまですわね。先ほどはありがとうございました」

「……俺を知ってるのか」

「この夏まで高等科におりました。ザールグレンに在籍していて、あなたさまを存じ上げない者がおりましょうか?」


 朗らかに、かつ挑戦的に。彼女はくすくす微笑をこぼす。小首を傾げて見上げてくる眼差しからは「私のことは知らないのか」と読み取れた。だが申し訳ないことに覚えがない。

 黙っていたのはほんの数秒、だがそれだけで彼女はスッと居住まいを正した。


「ローディア・ギルマルクと申します。以後お見知り置きくださいませ」

「ギルマルク……。じゃあ、きみがの……?」

「あら、ご存じいただいていたのですね。光栄ですわ」

「お嬢さま、この男は……」

「この方はウィンザール家のご子息ウィルトールさまです。私を助けてくださいました。危険も顧みずに」


 ローディアは静かに微笑んだ。

 ギルマルク家といえばザールグレン大学校が創設される前から続く伯爵家だ。この街の住民で知らない者は誰ひとりとしていないだろう。そしてギルマルク家には一人娘がいて、その見事な赤毛を冠して〝あかがねの薔薇姫〟の異名を持っている。

 つまり彼女のめいに従うこの制服の男たちはギルマルクの家臣だったわけだ。

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