第4話 北海道函館市。鮭とイクラの親子丼。
函館駅をでたタスッタさんはしばらく周囲を見渡して人混みを観察した末、予定通りに右手に歩いていく。
そちら方に、函館朝市があると聞いていたからだ。
流石に観光地らしく、人は多い。
タスッタさんと同じく、朝市を目当てに駅を降りた人も多いらしく、人の流れができていた。
タスッタさんも、その流れに紛れて先へと進む。
「わぁ」
朝市に入ったタスッタさんは、思わず小さな歓声をあげた。
かなり大きな建物の中に、小さな店舗が並んでいる。
扱っている商品も、乾物や海産物などの食品から生花まで、ざっと見渡しただけでもかなり多様であった。
一店舗あたりの売り場面積は小さかったが、それを補ってあまりある多様性と、そして賑やかさ。
観光地であることも手伝って、どの店にもそれなりの客がついている。
こうした形式の販売店街はタスッタさんの郷里にはなかったので、タスッタさんにとってはなにからなにまで、すべてが珍しかった。
忙しなく周囲をうかがいながら、タスッタさんは朝市をぐるりと散策する。
特にお目当ての飲食店に注意してみてまわった。
やはり、海産物を扱うお店が多いようだったが、カフェやラーメン屋などもあり、はっきりいって目移りがした。
ぐるりと一周してから、改めてタスッタさんは考える。
さて、どこに入りましょうか、と。
少し悩んでから、タスッタさんはそのうちの一軒に入ることにした。
その店を選んだの確たる根拠はなく、たまたま家族連れの客がその店から出たところで、それならば自分一人の席くらいは空いているだろうと、そう判断したに過ぎなかったが。
流石に観光地なだけはあり、どの飲食店もそれなりに繁盛していて、店の外にまで順番待ちの列があふれている店も珍しくはなかったのだ。
タスッタさんは極端な美食家といいうわけでもなく、出されたものはなんでもおいしくいただく。
ここのような港町なら少なくとも材料は新鮮なものであろうし、どこに入っても大きく外しはしないだろうと判断したのだ。
タスッタさんが入った店は、海鮮丼を売りにしている店だった。
そこのカウンター席に座り、店員にメニューを手渡されてからタスッタさんはむむむと悩みはじめた。
メニューに記載されている文字は問題なく読める。
問題なのは、そこに記載されている料理がどれもおいしそうに思えることだった。
カニにイカ、エビ、貝、それらの盛り合わせ。
どれを選んでも満足はできるのだろうが、同時に、選び損ねた、すなわち、食べ損ねた料理のことをあとで思い返して後悔しそうでもある。
大変に残念なことに、一度に数人前をたいらげることができるほど、タスッタさんの胃袋は大きくはない。
しばしの黙考の末、タスッタさんは鮭とイクラの親子丼を注文した。
内陸部に生まれ育ったタスッタさんは、鮭に近い魚は食べ慣れている。
流石に、タスッタさんの生国には魚を生で食べる習慣はないのであるが。
それに、メニューの写真で見たイクラの粒々が赤くきれいに輝いていて、タスッタさんの目にはとても魅惑的に映ったのだった。
生の鮭の身とこのイクラを同時に食することができる料理とは、さて、どんなものだろうとタスッタさんは想像する。
タスッタさんの郷里でも魚卵を食べる習慣はそれなりにあるのであるが、たいていは焼いたり煮たりして、なんらかの方法で熱を通す。
やはり生食の習慣はなかったため、こちらの味についてもうまく想像することができなかった。
お茶を飲んで一息つく間もなく、注文した料理が四角い盆に乗って出てきた。
結構な大きさの容器に、あふれんばかりの大きさの切り身と赤く輝く魚卵の粒々が乗せられている。
おお、これが。
と、タスッタさんは思った。
実物も、写真と寸分違わぬ。
タスッタさんはしばし盆の上で手をこまねく。
箸を取るべきか、それとも蓮華を取るべきか、一瞬迷ってしまったのだ。
少し考えた末、タスッタさんはまず蓮華を手にした。
容器の中からはみ出さんばかりの赤い魚卵を先に片づけることにしたのだった。
タスッタさんは赤い魚卵を蓮華で掬い、それを口の中に放り込む。
想像していたよりも、生臭くはなかった。
弾力のある粒々を試しに舌先で押しつぶしてみると、どろっとした甘味の強い液体が口の中に広がる。
あ。あ。あ。
と、タスッタさんはひとりで身悶えする。
タスッタさんにとっては、初めて体験する味覚であった。
甘いだけではなく、ほのかに磯の匂いもして、塩の味もする。
なんだか、生命力の原型をそのままいただいている感じがした。
口の中ではじけるこの感触は、もはや官能的といってもいいのではなかろうか。
なんと贅沢な。
と、タスッタさんは思った。
この親子丼一食分の値段は、千二百円。
観光地であることと、それにこれだけの食材をふんだんに使用した料理であることを考慮すると、驚くほどに安い。
それでも、タスッタさんは、
「これは、とても贅沢な料理だ」
という感触を得てしまった。
根拠は特になく、強いていうのならば直感的に。
タスッタさんは、さらに蓮華で何口か赤い魚卵を口の中に入れて味わう。
ああ、これは。
と、タスッタさんは思った。
あんまり食べ過ぎると、駄目になる、と。
生き物の卵というのは、なんでこんなにもおいしいのでしょうか。
生命力そのものをいただいている気がします。
次にタスッタさんは鮭の刺身を一切れ、箸で摘んで口の中に入れる。
正直、イクラほど劇的なうまさはない。
魚の切り身は魚の切り身だ。
ただしとても新鮮で、とても生とは思えない味と風味がある。
その切り身は赤身だっが、同じ赤身魚でもマグロのように過度な脂っこさがなく、さっぱりしていた。
でも、噛めば噛むほどほんのりといい風味が感じられるようになる。
滋味というのは、こういう味を表現するのかな、とタスッタさんは思った。
地味ではあるが、滋味。
最後に、切り身の下にあったご飯をいただく。
ん?
ひとくち口に含んで、タスッタさんは少し考え込む。
その直後にすぐに、
「ああ、この味と匂いは、お酢を含ませているのか」
と自力で正解にたどり着いた。
この時点で寿司を経験していないタスッタさんは、酢飯という調理法も当然のことながら知らない。
少し匂いが気になりますが、でもこれは、こってりとしたイクラのあとだとさっぱりとしてちょうどいいですね。
と、そんなことを思う。
最後に、イクラと鮭と酢飯を少しずつ口に含んで咀嚼する。
うん。
いい親子だ。
どろりと濃厚なイクラと、地味だけどしっかりとした味がある鮭、それに、口の中を濯ぐような酢飯の三段攻撃。
イクラだけだと、口の中がしつこくなる。
鮭のお刺身とお酢を含んだご飯があるから、これだけイクラがあっても飽きずに食べられるようだ。
うん。いいですよ。これ。
心中で、タスッタさんはひとり頷く。
一通り、味見を済ませたあと、タスッタさんは一心不乱に容器の中身を食べ出した。
どこかで事前に、
「丼物はそうするのが作法」
という知識を得ていたからでもあるが、それ以上にタスッタさん自身が目の前にあるこの親子丼という料理に心の底から満足しているためでもある。
さほど時間をおかずにタスッタさんはその親子丼を完食し、お茶を飲んでひと息つく。
いいお食事でした、とかそんなことを思いながら。
「ごちそうさまでした」
小声で呟いて、タスッタさんは伝票をつかんで席を立った。
港町函館は海産物の宝庫であり、夕食の時間になったらまた別の店を探して入ってみることにしよう。
さて、その時刻までどこにいって時間を潰すか。
これから立ち寄るところを頭の中でいくつか候補をあげながら、タスッタさんは会計を済ませて店を出た。
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