第5話 東京都江戸川区。ホットサンドと挽きたていれたてのコーヒー。

 顔を洗ってからすぐ手回しのミルでコーヒ豆を挽くのが、もう長いこと続く嘉平の朝の日課だった。

 ゴリゴリゴリゴリとハンドルを回すたびにミルの中で豆が砕け、なんとも香ばしい香りが周囲に漂う。

 いい運動にもなるし、コーヒの香りに包まれていると徐々に頭が覚醒していくような気がする。

 早朝の静かな、そうしていられる時間が嘉平は好きだった。

 どうにかサーバー一杯分コーヒーをいれる分量の豆を挽き終える頃、コンロにかけていたお湯がいい具合に沸騰する。

 コンロの火を止めてから、嘉平は台所を降りてサンダルをつっかけ、店へと出た。

 理髪店を廃業してからもうかなり長いことになるのだが、物置と化している店内は意外に片づいている。

 暇を持て余した嘉平自身が毎日のように掃除をしているからだった。

 店内に置いてある段ボール箱の中から缶コーヒーとペットボトルなどを取り出し、プラスチック製の籠の中に移す。

 店の前に置いてある自販機の中身を補充するのも、毎朝の嘉平の日課だった。

 それにしても今朝は冷えるな、とか思いつつ、鍵を開けて店の玄関から外に出る。

 ふと自販機の方に目をやると、そこにニット帽をかぶった外人の女の子が立っていた。

 自販機の前で、なにやら難しい表情をしている。

 これはどうしたことかと、嘉平は思った。

 外国人自体は下町のこの近辺でもすでに珍しくはなくなっている。

 同じ外国人でも今目の前にいるような、抜けるよな白い肌をした別嬪さんは珍しいといえば珍しいのだが、たとえ日本人であっても容姿の美醜に関していえばピンからキリだ。

 こうしたとりわけて別嬪な外人さんがいたとしても、場違いではあっても別に不思議でもなかろう。

 嘉平が不自然に思ったのは、その場違いな別嬪さんがその場に立ち尽くして、どうやら途方に暮れているらしいことだった。

 なんでだ?

 と不審に思い、嘉平は素早く周囲を見渡してそれらしき原因を探る。

 その原因はすぐに明らかになった。

 なんのことはない。

 別嬪さんの前にある自販機が、すべて売り切れになっていたのだ。

 どうやら、暖冬らしからぬ昨夜の冷え込みで、すべての飲み物が売り切れてしまったらしい。

 そういうことなら、と、嘉平は思い立ち、その別嬪さんの肩を軽くつつく。

 肩をつつかれたことで初めて嘉平の存在に気づいたその別嬪さんは、物おじする様子もなくまっすぐに嘉平の方を見返す。

 別嬪さんと目が合ったことを確認してから、嘉平は手招きをした。

 これで着いてくるようなら、いれたてのコーヒーのひとつでもご馳走してやろう、と、嘉平は思う。

 問題はその別嬪さんが嘉平のことを信用してくれるかどうかなのだが、その点については相手の判断に任せるしかない。

 その別嬪さんは、薄く笑みを浮かべながら嘉平の方によってきた。

 不用心な気もするが、おれのようなじじいが相手では無駄に警戒する必要もないか、と、嘉平は思う。

 別嬪さんはまず店の中の様子に物珍しそうに見渡してkら、嘉平に何事かしゃべりかけようとするのだが、嘉平はそれを手振りで制止する。

 嘉平は自分の喉元を差して首を振り、あああ、と異音を発してみる。

 それだけでその別嬪さんは、すぐになにかを了解した顔つきになった。

 そう。

 嘉平は生まれついての唖者なのである。

 聴覚には異常がなく、なにをいっているのか聞き取ることはできるのだが、明瞭な発声をすることはできない。

 そんな嘉平にとって、初対面の外国人と会話を試みようとするのはいかにも難儀なことであった。

 身振り手振りでわかる範囲内でいいじゃないか、と、嘉平はそう思う。

 嘉平は一度缶やペットボトルの入った籠を店の中に置き、別嬪さんを台所に招く。

 別嬪さんは店を通り抜け、警戒する様子もなく入ってきた。

 台所においてあるテーブルを手まねで勧めると、素直にちょこんと腰かけた。

 それを確認して、嘉平は棚から食パンの入った袋を出して、その中から八枚切りの食パンを二枚取り出す。

 まな板の上に重ねた食パンをおいて、包丁を使って慣れた挙動で耳を切った。

 シンクの下の収納からホットサンドプレスを取り出して、その上に耳を切ったパンを置く。

 冷蔵庫からスライスチーズとあり合せの野菜を取り出し、チーズはパンの上に乗せ、野菜は薄くスライスする。

 チーズの上に薄切りのキュウリとトマトを置き、ホットサンドプレスを閉じてガスコンロの上に置いて火をつけた。

 一度沸騰させたあと火を止めて放置していたポットを手に取り、セットしていた引いたばかりの豆の上に、慎重な手振りで湯を含ませた。

 湯を落とすたびに、乾燥した豆が水分を含んでむくむく持ちあがり、コーヒーの馥郁たる香りが台所に充満する。

 わぁ、と別嬪さんが小さな感嘆の声をあげた。

 十分にお湯を吸って豆が膨らんだのを確認してから、嘉平はやはり慎重な手つきでさらにお湯を回しいれていく。

 この辺の加減は、長年の経験によって培ってきた勘が頼りだ。

 ようやくペーパーフィルターの下に、たっぷりと豆のエキスを吸ったお湯がぽたぽたとしたたり落ちはじめる。

 途中、お湯を落とすのを中断してガスコンロにむかってホットサンドの焼き器をひっくり返し、嘉平はまたすぐに豆の上にお湯を落とす作業を再開する。

 そうしてお湯を落とす嘉平の表情は真剣そのものだった。

 これも毎日のように繰り返されてきた嘉平の日課なのだが、嘉平はやはり毎日のように真剣な面持ちでお湯を落としている。

 いかにお湯に豆のうまみを十分に吸わせた状態で落とすのか、というのが、嘉平をはじめとするコーヒ好きにとっての大きな課題なのだった。

 嘉平の真剣な面持ちに感化されたのか、別嬪さんもコーヒーがぽたぽたとしたたり落ちる様子を真剣な顔つきになってみつめる。

 ゆっくりと落ちる水滴と、それを見つめる二人。

 濃い琥珀色の物体がサーバーの中に何割ほどまで満ちると、嘉平はポットをコンロの上に戻してホットサンドプレスの火を止めた。

 中に挟まっていた、程よく焦げ目のついたホットサンドをまな板の上に乗せて包丁でざっくりとふたつに切り分ける。

 切り分けたホットサンドをシンクの収納から出した皿に乗せてテーブルの上に。

 二客のマグカップも棚から出してテーブルの上に置き、そこにいれたてのコーヒーをなみなみと注ぐ。

 こうして二人分の簡素な朝食を用意し終えた嘉平は、別嬪さんとさしむかいに座る。

 ふむ。

 じじいと正体不明の別嬪さんとが、初対面でこうして朝食を分け合うわけか、と、今さらながらに嘉平はそんなことを思う。

 嘉平も年齢をとり、今では随分と食も細くなっていたのでホットサンドを半分にすることは別に苦にはならない。

 嘉平が手まねでむかいに座る別嬪さんに食べるようにうながすと、別嬪さんは小さく頷いてまずマグカップに口をつける。

 その直後、

「あ」

 という形に口をあけた。

 おそらく、これほどの風味のコーヒーをこれまで飲んだ経験がないのだろうな、と、嘉平は予測する。

 外国の事情までは知らないが、挽きたて、いれたてのコーヒーは香りも味もそれ以外のコーヒーとはまるで違う。

 都内の喫茶店でも、この嘉平のコーヒーに及ばないもんを出す店の方が多いくらいだろう。

 これはそうした専門店よりも嘉平の腕や入れ方がいいということではなく、単にどれだけ手間を惜しまないかという方法論の問題だった。

 そんなことを思いながら、嘉平は自分のマグカップを持ちあげてその中身を啜る。

 いつもの通り、先ず舌に液体の熱さを感じ、そのあとに実に満足のいく香りが鼻孔を抜けていく。

 最後に、若干の酸味と焦げ臭い感触が舌の上に残る。

 そう、この熱さと香り。

 そして最後に熱い液体が食道を嚥下していく感触までも含めたものが、コーヒーというものなのだ。

 嘉平はホットサンドを手にして、それを一口、かじった。

 こちらも、熱い。

 特に中のスライスチーズがしっかりと溶けていて、口の中を火傷しそうなくらいに熱くなっていた。

 はふはふいいながらゆっくりと咀嚼して冷まし、味わっていく。

 溶けたチーズとしっかりと焦げ目が入ったパン、それに熱されて味が微妙に変わったキュウリとトマトが口の中で混じり合う。

 熱くて、うまい。

 見ると、むかいの別嬪さんもホットサンドをかじっていた。

 はやり熱いのか、頬が赤く染まっていて、うっすらと顔に汗を浮かべている。

 そして、嘉平さんとほぼ同じタイミングでマグカップを手にして、一口、中のコーヒーを啜った。

 ほぼ同時に口の中のものを嚥下して、なんとなく見つめあう。

 嘉平はいつのまにか、自分が曖昧な微笑みを浮かべていることを自覚した。

 熱くてうまいコーヒーと、熱くてうまいホットサンド。

 そして、目の前にはこれまでに見たことがないような別嬪さん。

 今日のひとときは、じつはとんでもに僥倖なのではないか。

 などと、嘉平は思う。

 別にこれまでの人生がとりわけて不運であったとも嘉平は思っていないのだが、それでも自分がふたたびこういうひとときを過ごすことは、もうないのうだろうなと、そんなことをうっすらと考える。

 簡素ではあってもうまい朝食と、それをいっしょの食卓で食べてくれる人。

 それがあるだけでもう十分ではないかと、嘉平はそんな風にひとりで得心していた。

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