第2話 神奈川県川崎市。牛丼チェーン店の朝定食。
むむ。
これが、券売機というやつですか。
あるチェーン店の中にある券売機の前で、エルフのタスッタさんは、心中でうなり声をあげる。
こうした飲食店のシステムは郷里で予習してきていた。
券売機のボタンに印字されている文字も問題なく読めるし、ここはひとつ、度胸を出して使ってみるしかない。
タスッタさんの故郷では、こうした券売機はおろか、複雑な機能を持つ機械の類がほとんど普及していなかったので、タスッタさんはこの券売機に対しても根拠のない畏れを感じてしまっている。
券売機を前にしていつまでも行動に移ろうとしないタスッタさんのことを訝しげに見ながらも、あとから来たサラリーマン風の若い男性が棒立ちになっているタスッタさんを追い越して券売機に五百円硬化を放り込み、朝定食のボタンを押して食券とお釣りを受け取り、そのまま店内のカウンター席に着く。
その様子を、タスッタさんはあっけに取られた表情で見守った。
なんという、無駄のない、洗練された動きだろう!
あの人は、券売機のプロに違いない!
などと、このときのスタッスさんは思っている。
「買い方、わかりますか?」
いつまでも券売機の前に棒立ちになっているタスッタさんを見かねたのか、若い店員がそう声をかけてくる。
「口頭でも注文できますけど」
「わかります!」
タスッタさんは力強く答えた。
本人はそうとは意識していなかったが、この時点でタスッタさんはかなり意地になっていた。
さて、どれを食べましょうか。
タスッタさんは券売機のボタンを睨みながら考える。
いい機会だから、噂に聞くドンブリモノとかいうものを試してみたい気持ちもあるのだが、朝十時までしか注文できないという朝定食とかいうものにも未練がある。
しばし悩んだ末、タスッタさんは結局、ある朝定食を選択した。
先ほどの若いサラリーマンに倣ってカウンター席に座り、食券をカウンターの上に置く。
すぐに、先ほど声をかけてきた定員がやってきて、食券を手に取った。
「小鉢はなににしますか?」
「小鉢、ですか?」
思いがけず声をかけられて、タスッタさんは反射的に訊き返してしまう。
「小鉢はこの四つの中から、選ぶことができます」
店員はプラスチックケースに入ったメニューをタスッタさんの前に差し出して、そう説明した。
おそらく、その店員にしてみても、同じような説明を何度も繰り返してきたのだろう。
実にこなれた挙動であり、声の調子だった。
「この中から」
タスッタさんは、小さく呟く。
この上、さらになにかを選択しなければならないとは。
これは、明らかにタスッタさんの予測にはなかった事態だ。
とはいえ、今度はタスッタさんも長くは迷わなかった。
冷や奴や豚皿などは素材が明瞭であるし味もなんとなく想像がつくのだが、よっつの選択肢の中で、たったひとつだけ、タスッタさんが未体験であり、かつ、味の想像できない食物があったのだ。
タスッタさんはここで、噂に聞く納豆の小鉢を選択した。
朝定食はいくらも待たない家にタスッタさんの前に置かれる。
味噌汁とご飯と、目玉焼ききと焼いたウィンナーとサラダ。
それに、納豆の小鉢。
かなりおおぶりの湯飲みに入ったお茶まで出してくれる。
値段の割には、結構なボリュームなんじゃないでしょうか。
タスッタさんは、心の中で誰にともなくそう論評する。
ここ最近の経験で、タスッタさんも日本の外食産業の事情というのがおぼろげに判断できるようになっていた。
丼に入ったご飯の盛りもいいし、栄養のバランスもそれなりに取れている。
コストパフォーマンスは、かなりいいな。
と、タスッタさんは思った。
ふと横を見ると、先に注文していたサラリーマン風の客が例の納豆の小鉢を箸でかき混ぜているところだった。
そうか。
納豆とは、あのようにして食するものなのかとタスッタさんは得心する。
納豆が大豆を発行させた食物であるという知識はあったのだが、実際の食べ方などはについてはタスッタさんはよく知らない。
タスッタさんの郷里に伝わってくるニホンの知識には、大きな欠落があるのだった。
タスッタさんはまず納豆の小鉢を手にとって自分の顔に近づけ、匂いを嗅いでみた。
そして、次の瞬間には、覿面に顔をしかめる。
くさい。
想像していた以上に、くさい。
これは果たして、本当に食べられるのでしょうか。
と、タスッタさんは不安になる。
発酵とはすなわち腐敗でる。
微生物による成分分解作用のうち、人の役に立つものを発酵、そうでないものを腐敗と呼ぶ。
つまりは、呼び名こそ変えてあるものの、現象としてはその両者は同一にものであった。
納豆は、つまりは腐った豆にほかならない。
などという思考が、タスッタさんの脳裏でだーっと展開していく。
知識としては知っていたが、納豆はタスッタさんが想像していた以上にくさかった。
ふとみると、例のサラリーマン風の男はあろうことかかき混ぜた納豆をご飯の上にかけて平然とそれをかき込んでいる。
その表情から、うまいのまずいのか、にわかには判断できない。
その男は食事を楽しむというよりは、なにかの義務を果たすかのように実にストイックな表情で淡々と食事を進めている。
むむ。
と、タスッタさんは思う。
あの人が平気で食している以上、わたしも食べられるはずなのです、と。
ここでもタスッタさんは奇妙な対抗意識に駆られているようだった。
いったいなにがタスッタさんを駆りたてるのか、それは誰にもわからない。
意を決したタスッタさんは、先ほどのサラリーマン風の男に倣って納豆の小鉢の中に醤油を垂らし、箸の先端を突っ込んでわしゃわしゃと乱雑にかき回しはじめた。
糸を引いた納豆が小鉢の中で踊る様子はどう見ても腐っているようにしかみえなかったし、事実腐っているわけだが、ねえこれ本当に食べても大丈夫なんですよねえ、と、その様子を目の当たりにしたタスッタさんはにわかに気弱になる。
どこまでその攪拌を続ければいいのか判断できなかったので、タスッタさんは適当なところで小鉢の中身をかき混ぜることをやめ、その中身をご飯の上に乗せてみる。
これで、確か。
と、タスッタさんは先ほど見た光景を頭の中で反芻した。
さらに、ご飯と納豆をかき混ぜていましたよね、あの人は。
タスッタさんは、力のいれ加減に注意しながら、不器用な手つきで丼の中のご飯と納豆を混ぜ合わせてみる。
うむ。
こんなもの、なのかな。
しばらくして、ようやくタスッタさんは納得をして箸を止めた。
箸に納豆のべたべたがついていたので、それを清める意味もあって、まず箸を味噌汁の中に入れて軽く混ぜてから、碗に直接口をつけて味噌汁を飲んでみる。
うん。
味噌汁だ。
と、タスッタさんは思う。
化もなく不可もなく、といったところか。
驚くほどうまいわけでもないかわりに、決してまずいわけでもない。
ごくごく普通の味噌汁だった。
次に目玉焼きの見下ろし、少し考えてから、調味料として醤油を選んだ。
たら、っと目玉焼きの上に醤油をかけてから箸の先で目玉焼きを割り、まずは白身の部分を口に入れてみる。
うん。
と、スタッスさんは思う。
これも、普通。
ごくごく普通の、食べ慣れた玉子の味がした。
そしていよいよ、納豆が混ざったご飯に挑戦してみる。
できるだけ匂いを意識しないようにして、目を瞑った状態でひとくち、納豆混ざりのご飯を口の中に放り込み、咀嚼してみた。
うん?
と、タスッタさんは思う。
匂いは、確かにあれだけど。
それと、噛んだときの感触も、あれだけど。
でも、うん。
なんだろう。
そんな、びっくりするほどまずいわけでもないな、これ。
いや、むしろ、うまい。
噛むほどに、たんぱく質特有のうま味を、口の中に感じた。
でもこれ、原料はお豆だったよね、と、タスッタさんは疑問に思う。
ともあれ、これならば問題はない。
十分に、タスッタさんにも食べることができた。
そのあと、タスッタさんは味噌汁を啜って口の中をリセットしたあと、箸でウィンナーをちぎり、その一切れを口の中に放り込む。
うん。
これも、実にウィンナーだ。
意外なところがなんにもない、ウィンナー。
表面がぱりっと焼けていて、歯ごたえがよく、噛むとじわっと肉汁が染み出す。
うん。
普通に、うまい。
納豆ご飯をまた口に入れ、そのあと、今度は目玉焼きの皿に載っていたサラダを箸で摘んで口の中に放り込む。
このとき、タスッタさんはあえてドレッシングを使わなかった。
せっかくの生野菜だったから、できるだけ素材をそのまま味わいたかったのだ。
そして、納豆ご飯と、味噌汁。
今度は、目玉焼きの黄身の部分に挑戦する。
見た感じ、半熟気味だったから、割ってしまわないように気をつけないと……などと思っているそばから、箸の先を引っかけて黄身の表面を裂いてしまう。
どろっとした黄身が、皿の上に流れ出てくる。
ああ。
これは、いけない。
タスッタさんはそう思い、慌てて目玉焼きを納豆ご飯の上に置く。
そして、刻みキャベツで皿の上に残った黄身を丁寧に拭い、それを口の中に放り込む。
黄身の、いつのもように濃厚な甘さとしゃきっとしたキャベツとが、タスッタさんの口の中で混ざる。
タスッタさんはそのあと、納豆ご飯の上に乗った目玉焼きをあえて箸で割く。
もう黄身がこぼれてしまっている以上、遠慮する理由はなかった。
納豆ご飯に染み込んでいく黄身を横目に、タスッタさんは卵焼きのかけらと納豆をご飯を同時に箸で口の中に放り込み、咀嚼する。
うん。
納豆のたんぱく質と玉子のたんぱく質。
植物性と動物性、二種類のたんぱく質が口の中で混合した。
納豆ご飯。おかず。味噌汁。
そのみっつを順番にローテーションで箸をつけていきながら、タスッタさんは食事を進めていく。
うん。
普通。
すべて、普通。
でも、普通にうまいって、実は、とてもいいことなんじゃないだろうか。
食べ進めながら、タスッタさんはそんなことを思う。
別にがっついたつもりもなかったのだが、いつの間にかタスッタさんは、出された料理をすべてきれいに平らげていた。
最後に、ゆっくりとお茶を飲んで、軽く息をつく。
うん。
いいお食事でした。
「ごちそうさまでした」
小さく呟いて、タスッタさんは席を立つ。
会計はすでに済んでいたので、もうあとを見る必要がない。
「ありゃーとやんしたぁー!」
かなり訛化しているが、かろうじてなにをいっているのか判断できる店員の声が、タスッタさんの背中を追いかけてくる。
普通においしいけど、しかし、ここは、あくまで単身者用の店だな。
と、店をあとにしたタスッタさんは、そう思った。
こうした店が全国にまでチェーン展開をしているこの日本とは、結局どういう国なのだろうかと、タスッタさんは疑問に思う。
タスッタさんの故郷では、食事とは基本的に、家族で囲むものであった。
この日本にも、そうした食文化がないとも思わないのだが。うむむ。
疑問は尽きないし、まだまだ研究したいことばかりですねえ。
と、タスッタさんは結論する。
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