腹ぺこエルフさん放浪記
肉球工房(=`ω´=)
第1話 東京都北区。年越しそば、お屠蘇、お節、お雑煮。
大晦日、日がすっかり暮れた頃に淑子が帰宅した。
ただし、一人で、ではなく、予想外の連れを伴って。
「お父さん。
この人に、ずいぶんと助けられたのよ」
老境に入った淑子の肩を支えていたのは、驚いたことに、若い外国人の女性だった。
聞くところによると、買い物の途中で足をくじいた淑子の介抱をしてくれたその上、荷物持ちまでしてくれたという。
「日本語もかなり達者な人でねえ。
タスッタさんというんだけど、お父さん、この人今夜泊まるあてがないっていうから、家に来て貰ってもいいわよね」
そうした事情を長々と説明してくれた最後に、淑子は漣三にいった。
大声で説明をしながら、淑子はかなり大量の荷物を冷蔵庫か台所のそこここに収納していく。
タスッタさんは、淑子を手伝う。
漣蔵は、居間で炬燵に入って淑子の声を聞いている。
うん。
「いいんじゃないかなあ」
一通りのいきさつを聞いたあと、漣三はしわがれた声でようやくそれだけを答えた。
もとより、漣三はこの世代の男性らしく普段から口数が少ない。
その分、淑子がよくしゃべる。
最近では外国人による犯罪が増えてきているともいうが、取られるものさして残っていない隠居夫婦の侘び住まいである。
このタスッタさんという人は、どこの国から来た人かは知らないが、ずいぶんとあか抜けた様子であり、到底、悪い人には見えなかった。
かなり間を置いて、漣三はそう続ける。
「年寄り二人の住まいなもので、なにもお構いできませんが」
年齢が年齢であるから、漣三のしゃべりはかなりスローペースであった。
「いえいえ」
タスッタさんは眩いばかりの笑顔で答える。
「お世話をしていただけるだけでも大変にありがたいことです」
なるほど。
かなりしっかりとした日本語だ。
と、漣三は思った。
秀麗眉目というのはこういうことをいうのか、と、そんなことを思ってしまうほどの涼やかな容姿でもある。
漣三がこれまでの生涯で見てきたうち、一、二を争うほどの別嬪さんだった。
もう年であるから漣三も心が騒ぐことはなかったが、あといくらか若かったら、たとえ淑子の前であっても、到底平静ではいられなかったに違いない。
「どれ、炬燵にでもお入りなさい」
漣三は、やはりしわがれた声でそういう。
「では、遠慮なく」
タスッタさんは軽く会釈をした上で、するりと炬燵布団の中に足を突っ込んだ。
つけっぱなしのテレビが、なにかと騒がしくてくだらないバラエティ番組を映し出している。
漣三はそうと意識せずにリモコンでチャンネルを変え、画面に時代劇が映し出されたところでようやくリモコンを置いた。
「それであなた様は、どこの出でありますか?」
「デ、ですか?」
タスッタさんは、かわいらしい仕草で首をひねる。
「どこの国から、来なさったね?」
みかんを持った駕籠を炬燵の天板の上に置いた淑子が、漣三の言葉をわかりやすくいい直した。
「とても、遠いところです」
タスッタさんはいった。
「名前、いっても知らないと思います」
「そうかい、そうかい」
漣三は鷹揚に頷く。
確かに、漣三は外国の国名などろくに知らない。
「なんでまた、日本に?」
「いろいろと、見て回るために」
タスッタさんは、また首を小さく傾げた。
「ニホンゴで、なんといいますか。
それ」
「観光だわねえ」
淑子がいう。
「しかし、おひとりで?」
「ええ、ひとりで」
タスッタさんが頷く。
「わたしの国、とても遠いので、ひとりが精一杯でした」
淑子は来客用の湯飲みにお茶をいれ、タスッタさんの前に置く。
タスッタさんは、淑子がお茶をいれる様子をじっと見つめていた。
「これは、飲み物ですか?」
「そう、飲み物」
淑子はいう。
「お茶よ」
「これが、お茶」
タスッタさんは、湯飲みをじっ見下ろして、誰にともなく呟く。
「この地域では、一般には緑茶をそう呼ぶと聞いています」
「普通の、緑茶だなあ」
漣三はいった。
「あまり高い茶葉でもないが」
「おあがりなさいな」
淑子に促されて、タスッタさんは慣れない手つきで湯飲みを持ちあげ、漣三の所作に倣いつつ湯飲みの中身をすする。
そして、
「おいしいですね!」
と、顔を輝かせた。
「みかんも、おあがりなさい」
自分でもみかんの皮を剥きながら、漣三はいった。
「はい。
いただきます」
タスッタさんはやはり漣三の動きを真似て、みかんの皮を剥きはじめる。
ニット帽を脱ぐと、タスッタさんの白に近い髪と、先が細長く尖った耳が露わになった。
「変ではありませんか、これ」
タスッタさんは、自分の耳を指で摘んで、そう訊ねてくる。
「変だとは思わなんなあ」
漣三はいう。
「似合ってますよねえ」
淑子はいった。
外国人に知り合いがいないこの夫婦にしてみれば、この広い世界の中には、そういう耳の形をしている人が大勢いる国もどこかにあるのだろう、といった程度の認識である。
「そうですか」
タスッタさんは、柔らかく笑った。
「この人、なんでこんな格好をしていますか?」
「これは時代劇といってなあ」
漣三は答える。
「つまりは、大昔にあった出来事を元にして作ったドラマだ。
だから、昔の人がしていた格好を、こうして再現している」
「時代劇」
タスッタさんは頷く。
「そう呼ぶのですね」
日本語がずいぶん達者な割に、タスッタさんは意外なところで物を知らないようだ。
途中で風呂を勧めたりしながらも、夫婦はかなり長いことタスッタさんとの会話を楽しんだ。
タスッタさんは、日本語が達者な割には、奇妙に思えるところで無知な部分があった。
たとえば、トイレや浴室の使い方がわからず、淑子を呼ぶ場面などもあった。
服装は、普通の若いものと変わらんのになあ。
とか、漣三は思う。
タスッタさんは、どこでもみかけるようなパンツ姿でライトダウンジャケットを身につけていた。
あとで淑子に聞いてみたところ、おそらくおれは全国展開をしている量販店のものだろうということだった。
タスッタさんは、美形な割りには、服装にはあまり頓着しない性格であるらしい。
そうこうするうちに、この年最後の夜が更けていく。
「そろそろお蕎麦を用意するけど、タスッタさん、お箸は使えるの?」
「お箸、使えます」
タスッタさんは、妙に真面目な表情をして答えた。
「ニホンに来る前に、練習しました」
「そう」
淑子は軽く流して台所に移動する。
用意するとはいっても、市販の麺を茹でて、暖めたやはり市販のめんつゆの中に入れて出すだけであり、たいした手間にならない。
どうせすでに仕事もない年寄り所帯、年末年始の準備は、何日も前から計画的に整えている。
あと数日は、家事も最低限しかする必要がなかった。
「いただきます」
「イタダキマス!」
漣三、淑子夫婦のあとに、タスッタさんが妙に力んだ様子で唱和する。
そして、やはり夫婦の様子を盗み見しながら蕎麦を手繰ろうとし、そこで、タスッタさんは盛大に噎せた。
「あら。
大丈夫?」
淑子が、慌ててテレビの上に置いてあるティッシュの箱を持ってくる。
「これ、吸いながら、食べるものですか?」
情けない顔をしながら、タスッタさんはいう。
「食べるのに、修練が必要になりますね」
どうやら、タスッタさんのお国では、麺類を啜って食する習慣がないようだった。
練習の甲斐もあって、どうにかタスッタさんも年越し蕎麦の完食に成功した頃、テレビから除夜の鐘が鳴り響き出した。
そしてカウントダウンがはじまり、年が改まったのを確認して、漣三と淑子は居住まいを正して、
「明けましておめでとうございます」
と、年賀の挨拶を交わす。
タスッタさんも、やはり二人の行動を見て真似て、
「あけましておめでとうございます」
といって頭をさげた。
「日本では、これが年越しの挨拶なのよ」
「そうですか」
タスッタさんは頷く。
「知識として知ってはいましたが、実際に見たのははじめてです」
「あら、そう」
淑子もタスッタさんの言葉に頷いた。
「タスッタさんは、日本のことをよく勉強してきたんだねえ」
「はい。とても」
タスッタさんは真面目な表情で頷く。
「わたしは、よく予習をしてきました」
「年も明けたことだし」
漣三が、台所から一升瓶とコップを抱えて帰ってきた。
「ちょっと飲むか。
タスッタさんは、こっちはいける口かい?」
「お口が、どこかにいくのですか?」
タスッタさんは首を傾げた。
「お酒は飲めますか? っていうこと」
淑子が、助け船を出す。
「ああ、お酒。アルコール飲料の総称ですね。
わたし、知っています。
予習してきました」
タスッタさんは、なんだかよくわからない得心の仕方をした。
「そしてわたしは、おサケを飲むことも可能です」
タスッタさんがそういったので、漣三はタスッタさんの前にコップを置き、その中に並々と冷酒を注ぐ。
そして自分の分の冷酒もなみなみと注ぐと、口を尖らせてその酒を飲みはじめた。
タスッタさんも、やはり漣三の真似をして冷酒を啜る。
そして、一口飲んだあと、
「おいしい!」
と、小さく叫んだ。
「そうだろう、そうだろう」
漣三は相好を崩す。
「こいつは、いい酒だ。
まだまだあるから、いくらでもやるといい」
つまみ代わりにと、淑子がお節が入った重箱を持ってくる。
「これが煮豆で、こっちがカズノコ」
「これは?」
「昆布巻きだな」
などというやり取りをしながら、三人はゆったりとした酒盛りを続けた。
とはいえ、基本、漣三と淑子の夫婦は年が年だから、酒量の方もそこまでは進まない。
ちびりちびりと舐めるように酒を味わいながら、ときおり、お節を摘む。
「豆類と、魚卵と、小魚を干したものに、海草に、鶏の玉子に、野菜」
お節の作り方について一通りの説明を聞いたタスッタさんは、そういって感心したように頷いた。
「ニホンの人、食生活が豊かですね。
なんでも食べますし、調理法も多岐に渡っています」
タスッタさんは、健啖家というほどでもなかったが、勧められればどんな料理も好き嫌いをすることなく口にした。
「そうかも知れないねえ」
淑子は、曖昧に頷く。
これまで、外国の食事について想いを馳せた経験がなかったからだ。
「タスッタさんのお国では、なにを食べるんだ?」
漣三がそんな疑問を口にした。
「やっぱり、なんでもですね」
タスッタさんは、柔らかく微笑みながら答える。
「わたしの国も、ニホンと同じくらい、食事には貪欲です」
「さて、お雑煮でも用意しましょうかね」
空が白みはじめると、淑子はそういって席を立つ。
「お屠蘇ばかりだと体に悪いし」
「おゾーニ、ですか?」
タスッタさんは、奇妙なアクセントで訊き返す。
「知らないか」
漣三はいった。
「汁物の中に、焼いた餅を入れたものだ。
内容は土地によってかなり違ってくるんだが、うちのは澄まし汁に鶏肉、三つ葉を入れたものに餅をいれるな」
「お餅。
知っています」
タスッタさんは例によって真面目な顔をして頷く。
「お米を搗いて、ペースト状にした食べ物ですね。
そうですか。
そういうのを、おゾーニと呼びますか」
いくらもしないうちに、淑子が湯気のたった碗を乗せたお盆を持って帰ってくる。
「わたしらはもう食が細いから、ひとつだけだけど。
タスッタさんは若いから、みっつくらいはいけるよねえ」
そんなことをいいながら、淑子はお雑煮の入った碗を配る。
「ひとつ。みっつ。
なにごとですか?」
タスッタさんは、そういって首を傾げた。
「餅の数だよ」
漣三が教えた。
「見ればわかる」
「これが、お餅。おゾーニ」
タスッタさんは碗の中の餅を箸で摘んで、かなり高く持ちあげた。
「想像よりも、ずっと、柔軟性があります」
「餅を食うときは、よく噛んでな」
漣三はいった。
「こいつが喉に詰まると、窒息をする。
それで、毎年何人も命を落としているでなあ」
漣三の言葉を聞くと、タスッタさんは途端にぎょっとした表情になった。
「脅かすんじゃありませんよ」
淑子はそういって、漣三の肩を軽く叩く。
「大丈夫よ。
そうなるのは、力がない、わたしらみたいな年寄りがほとんどだから。
若いタスッタさんは、ねえ」
そんな前置きをしてから、三人はお雑煮を食べはじめた。
「これは、啜らなくてもいいですか?」
「蕎麦とは違うから、啜らない方がいいだろうなあ」
「お餅は、よく噛んでね」
タスッタさんは、まず碗から直接一口、汁を啜ってみる。
醤油ベースした汁の味に、ほのかに三つ葉と柚子の皮の風味が混ざっている。
これは実は、かなり繊細な料理なのではないかとタスッタさんは想った。
味も香りも、シンプルなようで、複雑だ。
次に、箸で持ちあげた餅を一口かじる。
汁の水分を吸った餅は、タスッタさんが想像していたよりも柔らかい。
最初は味がないようにも感じたが、よく噛むうちに餅の味がじんわりと甘くなっていく。
そして、餅の味と汁の味が口の中でうまく混ざり合って、形容しがたい妙味を生み出していく。
「おいしいです」
どう形容していいのかわからないので、タスッタさんは、その一言だけで感想を述べた。
故郷とはかなり食文化が違うので、タスッタさんの持つ語彙では、こうした料理のうまさをうまく表現できない。
これは日本語だけのことではなく、タスッタさんの母国語で表現しようとしても無理だったろう。
そのあと、タスッタさんは一心不乱にお雑煮をかき込んだ。
そのまま談笑を続けるうちに、漣三と淑子はそのまま炬燵で寝てしまう。
そして、目をさますとタスッタさんの姿は家の中から消えていた。
炬燵の天板の上にはふたつのポチ袋が置いてあり、その中には金色に輝くシンプルなデザインの指輪が入っていた。
「外国の人なのに、あの人はお年玉のことまで知っていたんだなあ」
と、漣三と淑子はしきりに感心した。
かなり後日になって、その指輪のことを調べてみると、かなり純度の高い金でできているということが判明した。
そうした調査をしたときには、すでにかなりの月日が経っていたわけだが。
漣三と淑子の夫婦は、
「あれは歳神様が、姿を変えて訪れてくださったのではないか」
と、のちのちまでいい合っていたという。
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