第14話 東京都港区。居酒屋の鯖味噌定食。
その日、タスッタさんは都内にあるオフィス街に来ていた。
そろそろ春めいた日が多くなって来たこの頃、スーツ姿の人ばかりが歩いている。
周囲のビルを見渡したタスッタさんは、皆さんこの周辺で働いている方ばかりなのだろうなと、そんなことを思った。
これだけ大勢の人が働いている場所なら、食事をする時間を多少でもずらして貰えれば、お店の方ももう少し席が空くでしょうに、とも思う。
これだけビルがたて込んでいる場所で、このビルの中で働いている人たちが一斉に外に食事に出たら、店舗数的に限られている飲食店の席がすぐに埋まってしまうのは、しかたがない。
結局、需要と供給のミスマッチが原因で起こる混雑なんですよねえ、と、タスッタさんは勝手なことを考えている。
二十分ほど前、いくつか覗いてみたお店が軒並み満席で入れなかったので、今日のタスッタさんは食事の時間を少しずらすことにしていた。
現時点で、十三時をいくらか越えているので、そろそろ周辺の飲食店も空いてきただろうか。
そう思い、タスッタさんは改めて周囲を見渡した。
飲食店らしい看板は目に入るものの、いまいちタスッタさんの琴線に触れるものがない。
どうせここまで待ったのですから、とか思いながら、タスッタさんはもうしばらく近辺を散策してみることにする。
とはいえ、場所が場所であるから、多少歩いたところでビルばかりが並んでいる殺風景な光景が広がっているだけなのだが。
しばらく歩くと、タスッタさんの注意を引く場所に通りかかった。
もう十三時を二十分以上も回っているのに、店の前に行列ができている。
しかも、その行列は常に動いていた。
つまりは、お客さんの回転が早く、人の出入りが早いということだ。
こういうお店は、あたりであることが多いんですよね、と、タスッタさんは思う。
ましてや、ここはオフィス街。
何年もこの周辺に通ってきている人たちがわざわざ贔屓にしているお店、ということになる。
これは一度、入ってみましょうか。
内なる心の声に従って、タスッタさんはそのお店の行列の最後尾に並んだ。
行列に並んでから十分もしないうちにタスッタさんは店の中に入ることができた。
店員にカウンター席に案内されながら、タスッタさんはさり気なく店内の様子を観察する。
内装から判断すると、そのお店は昼食も出しているが本来は居酒屋であるようだ。
壁には料理やお酒の名前などが紙に書かれたものが無秩序に貼られている。
お客さんたちは九割方スーツ姿の人たちで、それも年配の男の人が多い。
そして、お客さんたちが食べているものを確認すると、どうもこのお店は魚料理がメインのようだった。
では、と、タスッタさんは改めてメニューを開く。
煮魚、焼き魚、いろいろあるなあと、すぐに感嘆することになった。
昼食用のメニューはほとんどお魚づくしだった。
しかも、種類が多い。
さてどれにしようかな、と、タスッタさんは思う。
この銀だらというお魚は確かまだ食べたことがないですよね。
そう思い、タスッタさんは通りかかった店員に声をかけて銀だらの煮つけ定食を注文してみる。
しかし、すぐに店員に、
「ごめんなさいねえ。
銀たら、今日はもう終わっちゃったの」
と謝られてしまった。
「銀たら、うちで一番の売れ筋だから、早い時間に来ないと売り切れちゃうのよ」
「ああ」
タスッタさんは気落ちした様子で頷く。
「それでは、そうですね。
鯖の味噌煮定食、お願いします」
「はい、鯖の味噌煮定食、いっちょー」
鯖の味噌煮定食は、タスッタさんが注文をしてから五分もかからずに運ばれてきた。
早い。
これでは、ほとんど配膳するだけの時間しかないのではないか。
しかも。
「わぁ」
手元に運ばれてきた盆をみて、タスッタさんは思わず声をあげる。
これが、定食か。
鯖の味噌煮を頼んだはずなのに、なぜか刺身が盛られた小鉢までついてくる。
それも、小鉢とはいえかなりの大盛りで、四種類か五種類の違った種類の魚のお刺身が盛られているのではないか。
それだけではなく、お漬物やじゃこおろしの和物、具だくさんの味噌汁に茶碗蒸しまでもが、お盆の中にぎゅうぎゅう詰めになっていた。
「ご飯はおかわりできますからー」
あまりの充実ぶりに目を丸くするタスッタさんに、お盆を置いた店員がそう声をかけて去っていった。
これは、行列ができるのも納得ですねえ。
と思いつつ、タスッタさんはまず味噌汁に箸をつける。
豚汁に近いほどに、たくさんの具が入った味噌汁だった。
その味噌汁を一口すすり、
「おいしい」
と心のなかで呟く。
だしがいい具合に効いていたこれは、どうやらあら汁であるらしい。
口にするだけで、どこか安心するような味。
これならば、他のお料理も期待できますね、と、タスッタさんは思う。
次はなにをいただきましょうか、と、ほんの数瞬迷った末、タスッタさんは刺身の小鉢に箸をのばした。
赤身と白身、青魚。
郷里にいたときは生の魚の切身をそのまま食べることなど想像もつかなかったくらいだが、今のタスッタさんは刺身のおいしさも理解している。
食文化の違いなのか、それとも保存技術の差なのか、あるいはその両方か。
とにかく、タスッタさんにとって刺身がかなりのご馳走であることは確かだった。
小皿に醤油を垂らしてそこにわさびをとき、箸でつまんだ刺身をほんの少しつけてから口に運ぶ。
この赤身は、おそらくはマグロだとタスッタさんは見当をつけた。
マグロとはいってもいろいろ種類があって、そのうちのどのマグロなのか判断がつくほどタスッタさんはマグロについて知識が豊富ではなかったが。
いずれにしろ、しっかりとマグロの味がする。
ご飯を少し口にしてから今度はメインの鯖の味噌煮に挑んでみた。
鯖の味噌煮はかなり大きく、半身がほとんど丸ごとごろっと皿の上に乗っている。
これだけがおかずになっていても、どこからも文句が出てこないだろうと思えるほどのボリュームだった。
その鯖の味噌煮を箸でほぐして、口の中に放り込む。
味噌の塩気と鯖の淡白な味わいが、舌の上で交じり合った。
ああ。
と、タスッタさんは思う。
これは、ご飯は進みますねえ。
味噌汁を一口すすり、再度、今後はマグロ以外の刺身に。
マグロとは別種の脂が乗った白身の刺身も、絶品だった。
少し弾力があるこのお刺身は、なんのお魚なのでしょうか。
またご飯を食べて、鯖の味噌煮に箸をつけ、味噌汁をすする。
たまに、お新香なども摘みつつ、タスッタさんは食事を続ける。
ああ、これは。
どうしよう。
箸が止まらない。
もともとどの料理も量が多めであることもあり、タスッタさんはすぐに一杯目のご飯を食べ終えて店員さんにおかわりをお願いする。
どれもおいしいなあ、ここの料理は。
と、タスッタさんは思った。
お魚の料理がこれほど多彩で、しかもどれもおいしいとは。
二杯目のご飯にタスッタさんはこれまでその存在を忘れていたじゃこおろしをかけて、一口食べてみた。
うん。
これも、さっぱりしていて、いい。
じゃこおろしは、なんというか、食欲を増幅させるような味わいがあった。
改めて、タスッタさんは刺身の小鉢に箸をむけた。
彩りも味も歯ごたえも微妙に異なる、別の種類の生のお魚の切り身。
それが一度に味わえるなんて、しかもそれがメインの料理ではないなんて、なんて贅沢なことなのでしょうか。
箸をいれるとほろほろといい具合に崩れる鯖の味噌煮も、いい。
鯖自体の味とそれを引き立てる味噌味、それと、白いご飯。
このコンビネーションは、無敵です。
などと、訳の分からないことを考えてしまう。
どのお魚もおいしく、しかも違った種類のおいしさを持っていた。
ただ一食のなかにギュッと凝縮された、なんという多様性。
そんなことを思いながらタスッタさんはあらでだしを取った味噌汁を啜る。
刺身を食べる。
鯖の味噌煮も食べる。
もちろん、ご飯も食べる。
食事を終えて、タスッタさんは最後に残っていた茶碗蒸しを手にとった。
茶碗蒸しという料理のことは知識として知っていたが、実際胃に食べるのはタスッタさんもこれがはじめてのことになる。
そもそも、普通に暮らしていてそんなに頻繁に遭遇得する料理でもなかった。
まだ十分に暖かい器を手にとって香りを確かめ、スプーンを入れてその味を堪能する。
暖かく、柔らかく、どこか優しい味がした。
おいしいお魚をたくさん食べたそのあとのシメとしては、こういう料理でちょうどいいのかも知れない。
ああ。
と、タスッタさんは茶碗蒸しを口にしながら、そう思う。
今回も、いいお食事でしたと。
会計を済ませ、店を出てから、
「今度は、夜に来ましょう」
と、タスッタさんは、そう決意をした。
お食事もいいけど、これほど巧妙にお魚を料理するお店ならば、お酒のお供にしても十分に料理を提供してくれるはずだ。
こうして、タスッタさんの行きつけのお店がまたひとつ増えたのだった。
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