第13話 静岡県山中某所。二種類の桜餅と抹茶。
その日、タスッタさんは岐阜県の某所にある山の中を散策していた。
別にハイキングコースや登山道というわけでもなく、それどころか地元の人でさえ滅多に足を踏み入れることがないような、人里離れた場所であった。
その証拠に、道もろくに整備されていない。
おそらくは、この周辺も誰かの私有地なんだろうな、と、タスッタさんはそんなことを思いながら、額に浮かんだ汗を拭う。
タスッタさんだって別に好んでこんな不法侵入めいた行動をしているわけではない。
昨日、タスッタさんが所持しているスマホに宛名不明のメールが届き、そのメールで誘われたからだった。
基本的に、タスッタさんはこちらでは特定の誰かと深いつき合いをしないようにと心がけている。
当然、自分のメールアドレスも誰にも知らせてはいなかった。
そんなアドレスに、不意に、不特定多数を対象にしたスパムメールではなく、明らかにタスッタさんを対象としたメールが届いたのだ。
当り障りのない時候の挨拶からはじまって、明日、こちらの場所で一席設ける。ついては、もし都合がつくのならば、出席していただければ、とかいった内容の文面が簡明に書かれていた。
なによりも驚いたのは、こちらに来てから数えるほどしか口にしたことがないタスッタさんの長々しい本名が正確に表記されていたのだった。
ちなみに、タスッタさんの本名すべてをカタカナで表記すると、百八十七文字になる。
そんな本名すべてを一字も間違えず把握している相手について、タスッタさんは興味と関心を持ってしまった。
冷静に考えればかなり胡散くさい誘いのメールではあったが、その日は予定がなかったこともあり、タスッタさんは誘いに乗ってみることにした。
そして今、タスッタさんはメールに記されていた緯度と経度の交差点を求めて、道もろくに整備されていないような山中に来ている。
山に入ってからこれまで誰にも遭うことがなかった、そんな辺鄙な場所であった。
タスッタさんの郷里はこちらの先進国の都市部などよりはよほど野生化された環境であったので、特に不便にも感じない。
それどころか、夜明け前後からもうかなり歩き続けているのに、疲れたような様子も見えなかった。
トレッキングシィーズをはじめとしたこちらのアウトドアグッズはタスッタさんが感嘆するほど機能的にできていて、野山の中を歩くのにかなり慣れているタスッタさんにすれば、この程度は散歩に毛の生えたようなものくらいに認識している。
先ほどから圏外になって、スマホで現在地を確認することができない点だけが問題であったが、目的地のかなり近くまで来ていることは確実だったので、まあいいか、とか、タスッタさんは呑気に構えていた。
待ち合わせ場所がこのような山中だと地図を示しても意味がなく、結局は緯度とか経度で場所を指定するしかないんだろうな。
そんなことを思いながら、タスッタさんは周囲の気配をうかがった。
山の中というのは、耳を澄ますと以外に音が多い。
虫や鳥、動物などが出す音、風に樹の枝が振れる音など、それを音として認識せずに聞き流してしまえばそれまでなのだが、その気になって気をつけてみると、案外、騒がしいのだった。
しかし、人の気配だけは感じられなかった。
もう少し、根気よく探すしかないか。
と、タスッタさんは思う。
そんなとき、
「もし」
と、背中から声をかけられた。
「茶の席に招かれた方ですかな?」
振り返ると、かなりの老いた男がタスッタさんお方をじっと見ていた。
還暦はこえているとは思うけど、実際にはどれくらいの年齢なのだろうか。
タスッタさんは、その老人の目を覗き込んで想像する。
タスッタさんしても、その老人の年齢はうまく予想することができなかった。
「あのメールが招待状だとすれば、招かれたことになります」
タスッタさんは慎重な口ぶりで答えた。
「あなたが、あのメールを出した方ですか?」
「いえ、そちらの方はもう一方に任せきりでしたので、正直なところ、わたしは、どのような手段であなたをお誘いしたのかすら知りません」
その老人は、淡々とした口調で応じる。
「ですが、あなたをお誘いしたかったのは確かです」
その老人は、グレーの三つ揃いという、こんな山中にはふさわしくないきちんとした服装をしていた。
「なぜ、わたしなどが招かれたのでしょうか?」
タスッタさんは、質問を重ねる。
「あなたは、遠い異邦からはるばるやって来たお客人ですからね」
その老人は肩をすくめながらそういった。
「本邦に古くから住まうわれわれとしては、歓待しないわけにはいきません。
なにより、あなたは食べることに多大な関心を持っていらしゃる」
「それがなにか?」
「こちらの招待に応じれば、とてもおいしいものが食べられますよ」
「われわれもあなたがどこからやって来たのは詮索しない。
そのかわりに、あなたもわれわれの正体や出自を詮索しない」
歩きながら老人は、そんなことを提案してきた。
「その方が、お互いにとっていい結果になると思います」
「それはいいですが」
タスッタさんは、その提案にこう答えた。
「わたしのことは、どこで知りましたか?」
「われわれは、ね」
その老人は、そう答える。
「古くからこの国に隠れ住んでいるので、自然と耳ざとくなるのですよ」
それ以上に詳細なことを語りたくはない、ということだろうな、と、その語調からタスッタさんは判断する。
それにしても、と、タスッタさんは疑問を抱いた。
ずいぶんとお年を召しているように見えるのに、挙動のひとつひとつにキレがあるお爺さんだ。
実際のところ、何歳になるのだろうか。
郷里では多くの高齢者とふれあう機会が多かったので、タスッタさんとしても他人の年齢を推量することにはそれなりに自信があったのだが、この老人に関してだけは、これまでの経験があまり役にはたたないような気がする。
なんというか、このお爺さんの瞳の奥には、底知れない奥深さを感じてしまうのだった。
やがて老人は山道から草むらをかき分けて、その先へと進んでいった。
タスッタさんも、躊躇することなくそのあとに続く。
その先には、むき出しの自然が猛威を振るう、いいかえればやわな人間などは平然と締め出すような過酷な場所であったが、タスッタさんはそうした環境に慣れていた。
それに、おそらくは、その老人も。
枝をかき分けつついくらか進むと不意に視界がひらける。
そして、目の前に開けた光景に、タスッタさんは、
「ああ」
と、思わず感嘆の声を漏らした。
「山桜ですな」
老人が、そう説明してくれる。
「本邦では長らく、桜といえばこの山桜のことをさします」
「その方が?」
つややかな、女性の声が聞こえた。
「ああ。
お客人だ」
老人が、短く答える。
「そう。
その方が」
その女性は、五十がらみだろうか。
和服を着こなしていて、地面のうえに敷いた緋毛氈の上に正座していた。
「どうぞ、こちらに」
その女性はと緋毛氈の上にタスッタさんを招く。
「今、お茶を点てますえに」
そんな問答をする間にも、老人は靴を脱いでと緋毛氈のうえにあがっている。
タスッタさんも、それに倣った。
すぐに女性は、大きな茶椀を取り出して抹茶を入れ、茶釜から柄杓でお湯を注いで茶筅でかき混ぜだした。
噂に聞く茶道、とかいうやつだろうか。
「作法などは気にしなくてもいい」
戸惑うタスッタさんの心中を見透かしたように、老人がいった。
「この場にいるのはわれわれだけだ。
好きに愉しむといい」
そういわれたとしても、タスッタさんの気は楽にはならなかった。
緊張した面持ちでその茶碗を受け取り、両手で持って軽く口をつける。
今では慣れた茶の香りが口の中いっぱいに広がり、その次に、意外に強い苦味を感じた。
それに、温度がぬるい。
その分、飲みやすくなっているのだが。
「そのままでは、苦味が強すぎますでしょう」
女性が、そういってタスッタさんの方にお盆を押し出す。
「こちらといっしょに召しあがるちょうどいい塩梅になりますえ」
盆の上には、二つの小皿に乗った和菓子があった。
「同じ桜餅という名でも、地方によってその形が違う」
老人が説明をしてくれる。
「塩漬けにした桜の葉を使うところまではいっしょだが、見ての通り、形はかなり違う。
関東の方は長命寺、関西の方は道明寺というが多いようだ」
「このふたつが、同じ桜餅という名なのですか?」
和菓子の事情に詳しくないタスッタさんは、思わず訊き返してしまった。
「違うのは、形だけですか?」
「実際に食べてみて、確かめてみるといい」
そういわれてしまえば、実際に食べてみるしかなかった。
タスッタさんは、その和菓子のうちの片方を手に取り、そのままかぶりついてみる。
まず舌に感じたのは、強い塩気だった。
この葉っぱは、どうやら長く塩漬けにされたものらしい。
このまま食べられるものかどうか疑問にも思ったが、わざわざ味がついてるということは食べられるということだろう。
そう思い、そのまま噛みきってみる。
塩漬けの葉っぱのすぐ下にあるのは、薄い皮。
クレープのような、餃子の皮のような。
桜餅、といっていたから、これもお米が原料なのでしょうか。
と、タスッタさんは思った。
その薄い皮の中には、おぼえがある甘いペースト状の物体、あんこがあり、これが葉っぱの塩気と混ざるとちょうどいい感じになる。
ああ、お菓子だな。
と、タスッタさんは思った。
これまでに食べてきた、和菓子と呼ばれるスイーツの中の一種で間違いはない。
ただ、これまでに食べてきた和菓子と比較すると、塩漬けの葉っぱがいいアクセントになっている気がした。
再度、お茶を頂いて口の中を清めてから、タスッタさんはもうひとつの桜餅を口にする。
こちらの方は、餅という名称から受ける印象を裏切らない、つまり、もちもちっとした食感がした。
塩漬けの葉っぱに包めれているのは先程の桜餅と同様だが、先ほどの桜餅の皮があまり存在感を主張していなかったのと比較して、こちらの桜餅は餅としての食感が強い。
中にあんこも確かに入っていたが、そちらの印象は、正直なところ、先ほどの桜餅よりは薄かった。
餅の存在感が強くて、中のあんこや塩漬けの葉っぱの存在感を打ち消しているような気がする。
どちらも、けっしておいしくないわけではないのだが、食べ物の趣向としては、確かに別物ですねえ。
ふたつの桜餅を食べ終え、お茶を啜りながらタスッタさんはそんなことを思う。
からになった茶碗をと緋毛氈の上に置くと、じょせいがすぐに手を伸ばして、すぐにおかわりのお茶を点ててくれた。
それに口をつけると、今度はかなり熱い。
甘みを取ったあとの煎茶の渋みと苦味が、ありがたかった。
「それで、どちらの桜餅の方が好みでした?」
老人が、タスッタさんに意見を求めてくる。
「あれだけいただいてもわからんいうのなら、お餅のおかわりはまだいくらでも用意できますけどな」
女性も、そんなことをいいだした。
なんなんでしょうか、この状況は。
と、タスッタさんは思う。
先ほどロから降りしきる山桜の花びらの下で、これまで面識のない二人から桜餅の感想を求められるという機会にも、普通に生活しているとまず恵まれないはずだった。
「どちらのお餅の方が好みだったのかといいますと……」
タスッタさんは意を決して、二人に対して意見を述べた。
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