第12話 東京都中野区。チェーン店の牛たん三種盛りスペシャルセット。
「ああ。
お肉が食べたい」
都内の路上で、タスッタさんは唐突にそんな思いに駆られた。
今朝、朝食を軽く済ませてきたことも手伝って、このときのタスッタさんは空腹に苛まれている。
そして突如体の奥底から湧きあがってきた肉への渇望。
今、タスッタさんはまさしく肉欲に囚われていた。
タスッタさんはその場で周囲を見渡す。
幸い、その場所はJR中央線某駅の駅前であり、飲食店は十分に存在する地点である。
そこにはアーケード商店街などもあり、その中を進んでいけばなにかしらの飲食店にはいきつくことだろう。
ここでタスッタさんは自問する。
お肉が食べたい、それはいい。
しかし、どういうお肉が食べたいのだろうかと。
焼いた肉か炊いた肉か。
牛か、豚か、鶏か。
少し歩いてよさそうなお店を探してみようと、タスッタさんは決断した。
では、具体的には、どこを探しましょうかね。
タスッタさんは軽く思案をする。
アーケードの中に入れば無難に数軒の飲食店に行き当たるだろうと、そう予測はついた。
しかし、それでは少々面白くない。
無難な、ということは、つまりは目新しくはないということだ。
タスッタさんも日本に来てからそろそろ数ヶ月を過ごしている。
つまりは、日本人が日常的に食べるような料理は一通り食してきていた。
できれば普段食べなれないような、少々変わった料理なり調理法なりにありつきたいな、と、そんな淡い希望を持っていた。
そのためには、少し外れた場所を探す方がいいのではないか。
タスッタさんの勘と、これまでの経験から、そう結論する。
幸い、ここは駅前であり、それに区役所とかがすぐ近くにあることもあり、人の数も多い場所であった。
少し歩いて見れば、「少し変わった料理店」くらい、すぐに見つかりそうに思えた。
タスッタさんの予想は、すぐに現実の結果となって現れた。
アーケードを避けて大通りの方にぶらりと足を向けてみると、すぐにあるビルに「ね」というひらがな一字だけの看板を見つけたのだ。
あれはなにかと近づいてみると、どうやら飲食店がそのビルの二階に入っているらしい。
そのビルの前にまで移動して、タスッタさんは看板に書いてある文字を検分した。
「たん?」
タスッタさんは、小さく首を傾げる。
麦とろは、わかる。
実際に食したことはないが、おそらく麦飯ととろろの略称だろう。
たん、というのは肉の部位だろうか?
だとすれば、どこの……と、考えかけたところで、「舌」という漢字一字が脳裏に浮かんでくる。
牛の舌で、牛たんか、と、タスッタさんはその看板を見ながら一人で得心した。
この頃にも日本語の読み書きにもかなりあんれていたタスッタさんであっったが、得意使用頻度が少ない語句に関してはまだまだ見識が足りないと自覚するときがある。
タスッタさんにいわせれば、同じ文字に何通りもの読み方があり文脈によって読み分ける言語という存在が、難易度的に凶悪すぎるのだが。
「ぎゅう、たん」
口に出して、そういってみた。
変わっているし、麦とろとの組み合わせも気になる。
実際に食べてみないことにはなんともいえないが、こうしてわざわざ店の看板に大書きしている以上、店側としても自信を持って推しているメニューなのだろう。
だったら、試してみましょうか。
そう決意をして、タスッタさんは店の中に入った。
店の中は白を基調とした、明るい内装だった。
店に入るとすぐに店員がやってきて、人数を聞かれたあとにテーブル席へと案内される。
まだ昼まで少し間があるせいか、店内は閑散としていた。
案内された席についたタスッタさんはテーブルの上にあったメニューを手に取り、そこに書かれている内容をしげしげと検分しはじめた。
どうやら都内と横浜方面にそれなりに店舗を出してチェーン展開しているお店らしい。
品目は牛たんを中心に、カルビやロースを中心とした肉料理と、それにシチューなども出しているようだ。
酒類も一応扱ってはいるものの、飲食のうち、あきらかに食の方に比重を置いたメニューだな、と、タスッタさんは判断した。
そこまで検分してから、それはともかく、なにを頼むのか早く決めないと。
と、すぐに気分を切り替えた。
さて、どれにしましょうか。
タスッタさんはメニューを睨みながら検討に入る。
お肉が食べたいからこの御店を選んだのであって、肉中心の料理を頼むことだけは決定している。
このお店では様々な組み合わせの、いわゆるセットメニューが何種類か提案されており、その中のどれにするのか、タスッタさんは迷っていた。
この店の売りである牛たんを外すことはありえないが、その他にもカルビとかロースとかがいっしょに出てくるセットメニューがある。
メニューに表示されている写真で見る限りどれもおいしそうで、大いに迷うところだが、最終的にタスッタさんは「牛たん三種盛りスペシャルセット」という定食を頼む。
定食とはいえ昼食としては結構な値段になるのだが、今、タスッタさんに取り憑いている肉欲をお祓いするために、これくらいの出費は惜しくはなかった。
とにかく今は肉づくし、いや、牛たんづくしだ。
脳裏の大半を肉欲で埋めつくされていたタスッタさんのもとに、さほど時間をおかずにトレーを持った店員が注文した料理を持ってきた。
メニューの写真で見たよりは小さく感じるが、それでも肉がたくさん盛られた皿、麦めし、とろろ、お新香、テールスープが所狭しと乗った皿だ。
こうして目の前に来てみると、ずいぶんと豪華に感じる。
タスッタさんはまずテールスープの椀を取りあげ、一口啜って口の中を濯いだ。
テール、ということは、牛の尾の部分を煮込んだスープなのだろう。
そこはかとはない肉の旨味と、それに若干の胡椒のがいいアクセントになっている。
それから、麦めしの上にとろをかけ、かき混ぜる。
麦めしはおかわり自由だそうだから、とろろも一度にすべてをかけることはしない。
最初はせいぜい、三分の一ほどだ。
椀の仲が適当に撹拌されたところで、タスッタさんはおもむろに牛たんが盛られた皿に箸を伸ばした。
まずは、うす切の白たんから口に入れる。
コリコリと噛みごたえがあり、どうやら脂肪分は少ないらしい。
面白い食感だった。
脂肪分が少ない割には、噛みしめるほどにいかにも肉といった味が口の中に広がる。
これなら、意外にいっぱい入ってしまうのではないか。
そんなことを思いながら、タスッタさんは麦めしをかき込む。
とろろのぬめりによって、すっと口の中に入ってしまった。
口の中に残っていた肉々しさが、とろろ混じりの麦めしによって刷新される。
麦めし、といったところで、味などは普通の白米とさほど変わらず、せいぜい、食べると麦らしい香りが混ざっているような気がする程度なのだが。
それにとろろがまざると、異様なほど喉の滑りがよくなる。
よく噛まないと消化に悪いと自分にいい聞かせながら、タスッタさんはまた一口、うす切の白たんを齧った。
牛たんと麦めしが口内で混ざり、なんともいえない妙味を発揮しだす。
ぬめっとした麦めしとコリコリとした硬い牛たんとが混合して、味も食感も、これまでタスッタさんが経験したことがないものになる。
この感覚は面白いな、と、タスッタさんは思った。
麦めしととろろ、それに牛たんの三重奏。
うん。
これは、いいんじゃないでしょうか。
お肉ばかりだと、飽きる。
しかし麦めしを間に挟むことによって、よりいっそう食欲が引き出されるような気がした。
さて、次は別の牛たんも。
そう思い、タスッタさんは今度は色味が若干異なる、もうひとつのうす切牛たんに箸を伸ばした。
メニューによると、このセットでいう三種盛りとは、牛たんの白うす切と白厚切り、それに、赤うす切とで構成されているらしい。
牛たんの白うす切と赤うす 切にどういう違いがあるのか、タスッタさんが知るところではなかったが、なに、実際に食べ比べてしまえばいいのである。
結論からいうと、赤うす切は白うす切よりも歯ごたえがあった。
味自体は、白うす切とそう変わらないような気がする。
これは、同じ牛たんといいながら違う部位なのでしょうか。
それとも、調理法の違いなのでしょうか。
そんなことを疑問に思いながらもタスッタさんは忙しくなく顎を動かして麦めしを啜る。
噛むほどに、旨味が増す。
ような、気がした。
これは、いいかも知れない。
タスッタさんは三種のうちの最後、白厚切に箸を伸ばす。
厚切というだけあって、見ただけも分厚い一切れをタスッタさんは箸で摘み、自分の口元へと運ぶ。
白と赤、二種類のうす切にひらべてもさらに弾力があり強い歯ごたえ。
何度も噛んでいくうちに、噛み続けること自体が楽しくなってくる。
ああ、いいな、これは。
と、タスッタさんは思う。
味は確かに牛肉のそれだけど、はるかに歯ごたえが強く、独特の食感がある。
その食感は、官能的ですらあった。
味もいいけど、歯ごたえもいい。
タスッタさんはテールスープを啜る。
牛たんはあまり脂っこくはないのだが、このテールスープの淡白な味わいを間に入れると口の仲がすっきりとする。
小鉢に盛られていたお新香にも箸をつけた。
味噌なんばんお新香というのだそうだが、テールスープや牛たん自体の味つけが薄めなのに比べ、こちらのお新香は味が濃い。
その代わり、量が少ないのだが。
うん。
これも、こうした料理の組み合わせの中では目先が変わっていいかのも。
タスッタさんは次に薄切り肉を箸で摘み、平たいそれでとろろ麦めしを包んで口の中に入れる。
こうするとまた、おもむきが違ってくる。
いつの間にか茶碗が空になっていたので、タスッタさんは通りかかった店員におかわりを所望した。
歯ごたえがある牛たんと、ずるずるするするのとろろ牛めし。
この組み合わせは、意外に相性がいいのかも知れませんね。
などと思いつつ、箸が止まらないタスッタさんであった。
結局、タスッタさんは麦めしを二回もおかわりして、三種類の牛たんをすべて食べきってしまった。
ああ。
お肉を食べたなあ。
と、食事を終えたタスッタさんは満腹感と満足感に浸っている。
平日昼前の肉三昧。
ただし全部牛たん。
たまには、こういうのもいいじゃないですか。
気怠げに、そんな風に思った。
当初感じていた肉欲もすっかり満足させ、その上、予想外の未知の食材を堪能することができた。
いいお食事でした。
と、そんな風に自分の中で結論した。
タスッタさんが会計をする前後から、ぼつぼつとお客さんが店の中に入りはじめた。
ちょうど、昼食の時間になったのだろう。
この様子では、店内の席はすぐにでも埋まってしまうに違いない。
やはり、それなりに流行っているお店なんですね。
そう納得し、タスッタさんはその店をあとにした。
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