第7話 事実は苛む

1.


<< Incarnations Armamemt >>

 ――愛美の震える左手が落ち着いた女性の声で、そう、囁いた。

 すっかり陽の落ちた午後6時半。部室に戻ろうとした一同を、浩二が引き留めてくれた。『征城さん、門限があるはずだから』と。そこで、愛美の家で外道部の部活を、いや、愛美の"適格検査"をということになったわけだが。

 愛美は震え始めた。

「そんな……そんな……じゃあ、じゃあ、よ、陽太君は……どういう……」

 問われた夜那岐の表情は、掴みかかりたくなるくらいさばさばしたもの。

「お気の毒だけど――」

 愛美の身体から、あらゆるものが床へ引かれてゆく。まるで虚ろな人形になってしまったかのように。愛美はがっくりとうなだれた。

 それを見た祐輔が、疲れ切った表情から一転、彼女の対面のソファから勢いよく立ち上がった。横に座る夜那岐のすまし顔を上からにらみつける。

「なんかないんすか? 実は珍しいケースだけど、無いわけじゃないとか!」

「聞いたことないわ。一応支部に照会してみるけど」

 期待しないでちょうだい。そんな言葉がありありとわかる表情と仕草に、祐輔はさらにいきり立った。

「なんでそんな言い方するんすか! 俺の時もそうだったけど、もうちょっとソフトな言い方出来ないんすか!」

「ソフトな言い方をすれば、状況が変わるの?」

 気配に愛美が顔を上げると、受けて立つ気配の夜那岐が立ち上がって、こちらを見下ろしていた。

「征城愛美さん。あなたは、そのI.A.の適格者なの。誰からも愛されない、誰にも想いが届かない存在。スペシャルワンなのよ」

「だ か ら !」

「佐上君? 説明、したわよね?」

 夜那岐の攻勢は、今度は祐輔に向けられた。

「わたしたちコーディネーターの仕事は、スペシャルワンを探し出してI.A.を託し、メソーラと戦わせること。そしてそれによって、人類の未来を護ること」

 愛美の脳に、夜那岐の言葉が滲み込む。そして愛美は気づいた。言葉の勢いに反して、夜那岐の表情が悲痛そのものであることに。

「そのためには、感情を交えずに全てを説明しなければならない。この、どうにもこうにも絶望的な身の上であることを。そして――」

 顔を再び愛美のほうに向けた夜那岐は眼をしばたかせず、愛美のそれを、まるで奥までのぞき込むように見据えている。

「その絶望から立ち上がる力こそが、メソーラを倒すための原動力。カードの化身たちを呼び出し、使役し、戦わせる力になるの」

「――立ち上がれなかったら?」

 夜那岐の説得に乗れない、ネガな自分がいる。

「I.A.の使えない、ただのモテナイちゃん……今は喪女って言うんだっけ? 余生はそう過ごすことになるわね」

 再び項垂れた愛美の眼から零れ落ちる涙は止めどなく、テーブルを湿していった。おろおろしている祐輔のいたわりも、耳を通り抜けていく。

 その時、誰かが近づいてくる足音がして、リビングテーブルに何かが置かれる音が聞こえた。愛美が涙をぬぐって顔を上げると、そこにあったのは、コーヒーの香りが立ち上るマグカップだった。詩鶴がお盆を抱きしめて、すまなそうな顔をする。

「ごめん。部長の意図に反することになるけど、メグちゃんに落ち着いてもらおうと思って……」

「ううん、ありがとう」

 と夜那岐が詩鶴に向かって微笑んだのをいい機会と、皆取りあえずソファに座り直した。もっともソファは2人掛けが2つなので、男子2人は遠慮して立ち飲みだが。

 コーヒーの芳しい香りと温かさが、愛美の虚ろな全てを満たしてゆく。それは同時に、またしても涙が溢れ出させる触媒となって。彼女は外道部員たちから顔を背けて、声を立てずにむせび泣いた。

「うう……」

「どした? 能美さん」

「いや、余計なことしたかな……」

 詩鶴と浩二のひそひそ声での会話に、祐輔が驚く気配を感じる。

「どうしたんだよお前?」

「何がだ?」

「論理的じゃない、ってふんぞり返る場面だろ、これ」

「わたしが他人にいたわりの心を持つのが、そんなに驚きか?」

「お前に空気を読む機能が実装されてることもな」

 2人の会話に奇妙なおかしみを感じて、愛美は吹き出すと目じりをハンカチでぬぐった。今感じたことが、自然と口を突いて出る。

「そんなに仲いいのに、なんで付き合えないのかな? 佐上君と詩鶴ちゃん」

 愛美の問いに、詩鶴はコーヒーをこくりと飲むと、考え込む。

「なんでだろうな……こいつに対して全くそういう気分になったことがないんだが」

「そういや、オレもないな」

 と祐輔が腕組みをして考え込むふりをしたが、すぐににやりとした。

「実はお前もスペシャルワンなんじゃねぇの?」

「抜かせ戯れ」と詩鶴がジト目になった。

「このあいだ、お前の出したカードをつまめなかっただろうが」

「あ、そうなんだ」

 軽く驚く浩二を尻目に、夜那岐は目の前に置かれたものを手に取ると、不思議そうな顔をした。

「? あの、どうかしましたか?」

「ん? ああいや――」

 訊いた愛美が小首をかしげると、夜那岐は慌てて手を振った。

「私と征城さん以外、湯呑で飲んでるから」

 そういえば、どこかで見たようなと思ったら。詩鶴が申し訳なさそうにうなだれる。

「ごめんねメグちゃん。どうしても見つけられなくて」

 そんな彼女に笑って手を振って、愛美はふと思い至る。

(そういえば、パパとわたしの2つしかないや)

 その思考も、夜那岐の打ち鳴らす手で中断された。

「さ! みんなはもう遅いから、今日はこれでお開きよ。私は征城さんにもう少し説明していくわ」

 お盆で器を集めて洗いに行こうとする詩鶴に「私がやるから」とお礼を言って、愛美は祐輔たちを玄関まで見送った。

「あ、じゃあ」

「うん」

 祐輔の照れながらのお別れに、こちらもちょっとだけはにかんで、しかし確実に先ほどまでの心を覆っていた黒雲は薄れて。愛美はできるだけ笑顔を作って手を胸の前で小さく振った。

「部長の脅しに屈しちゃ――引っ張るな!」

「ほら、早く帰るぞ」

 本当に仲がいいな。それでもカレシカノジョにならない、なれない。再び心に沸き立つ黒い雲を抱えたまま、愛美は取りあえず台所へ洗い物をしに向かった。そのくらいの時間なら、夜那岐は待ってくれるだろう。


2.


 朝。やっぱり寒い、心も寒い朝。愛美はそれでも跳ね起きて、身支度をした。いつもと同じように学生服を着て、階下へ降りる。今日も父お手製の朝食の用意が――していない。テーブルの上は全く何も乗っていないではないか。

「パパ……寝坊かな? どうしよう……」

 朝ご飯はすっかり任せっきりで、時間がない。愛美は少し迷って、登校途中のコンビニで朝食を買うことにした。じゃあ歯磨きをと洗面所に向かおうとしたが、キッチンの隅に違和感を感じる。何気なく近づいた愛美は、そこにあるゴミ箱の中に父のマグカップを見つけた。2つに割れているが、落としたのだろうか。

 心に少しだけもやもやを抱えながらも洗面所で身支度を整えて、カバンを自室に取りに行く前に、愛美は父の部屋の戸を叩いてみることにする。

「パパ? パパ? もう7時45分だよ?」

 ややあって、妙にはきはきとした父の声が扉越しに聞こえた。

「今日はパパ休みだから! 大丈夫だから!」

 その声の勢いにちょっと驚いたが、愛美は安心して部屋へと戻った。

 愛用のナップザックのショルダーストラップを手に取って、愛美はぐっと唇をかみしめると、学習机の上を見つめた。朝起きた時は見て見ぬふりをした、現実を。I.A.という、赤き手袋を。

 机に近づいてそれを手に取り、凝視する。

 これを使う前に、確かめたいことがある。

 それを済ませてから、彼女の戦いは始まるのだ。



 放課後。愛美はバレー部に顔を出す気になれず、外道部の前で、中に入るべきか逡巡していた。

 神田の部活が終わるまで、いや、無理を言ってお願いした早引けの時間まで、まだ時間があるのだ。

 確かめたい。彼の気持ちが那辺にあるのかを。それをしなくては、先に進めない。

 その時間まで部活をして、このどうにも晴れない気を紛らすこともできた。その選択肢を、愛美は敢えて取らなかった。取れなかったのだ。

 まず、登校途中。続いて、教室。さらに、お昼。愛美は彼、神田とのことを話題にされっぱなしだったのだ。幾分かの含み笑いとともに。

 親友だと信じていた、あの子。彼への想いを応援してくれていた、部活の同級生。みんなみんなみんなみんな、眼が、鼻が、口が。

 嗤っている。

 その他もろもろの囁き声まで、愛美には自分に対する嘲笑に聞こえる始末。授業中は教師の声とスライド、板書の書き写しに集中することで凌いだが、終業の鐘と同時にもはや努力も限界に達して、机の横に掛けてあったナップザックを引っ掴むと教室を走り出たのであった。

 それでもなお部室へ入るのを逡巡していた愛美であったが、全く突然にその扉が開けられた。

「ん? あー、もしかして……」

 目の前で一瞬驚き、のちわけ知り顔になったのは、愛美の父より一回り年上に見える背広の男性だった。その四角い顔の筋肉が動き、口が開かれる。

「征城愛美君だね? 初めまして。県警の後池警部補です」

 ケンケイのアトイケ……愛美の記憶が確かならば、崩れた敬礼をしてニッコリしているこの人は、夜那岐たちと連携している警察の人のはず。愛美は緊張でやや顔をこわばらせると、頭を下げた。

「さ、入って入って。ほかの人は一緒じゃないの?」

 すっと後ろに引いて愛美を中に招き入れると、後池は椅子の一つを薦めてくれた。それから慌ててお茶を探す後池の分厚い背中に、愛美は見入っていた。モニターや何かの機械、市内の大きな地図など、見るべきものはほかにもあるというのに。

(パパとはだいぶ違うな……)

 愛美の父は細身で、ホームセンターから買ってきた3段のカラーボックスを、2階にある愛美の部屋まで上げるのすらひぃひぃ言っていた。我が肉親ながら情けない思い出の一つである。

「お待たせ」

 ふと気が付くと、目の前にちょうど湯呑が置かれるところだった。びくっと震えて、かぁっと赤面して。愛美の動揺を、後池は柔らかい笑顔で受け止めてくれた。

「佐上君やノミちゃんと同じクラスだそうだね?」

「あ、は、はい」

 どうにか一言返すのがやっとで、愛美はお茶をすすることでごまかしていると、

「あ、メグちゃーん!」

 愛美の背後の戸が開くと同時に詩鶴の明るい声がして、愛美はくすりとすると振り向いた。詩鶴に続いて祐輔と浩二がなにやら小突き合いながら入ってきて、それを見て呆れ顔の夜那岐が最後に戸を閉めた。

「あ、あのっ! く…く…」

「苦しいの?」

「違うの! えと……」

 小首をかしげる詩鶴には申し訳ないが、立ち上がって勢いよくいこうとしたものの、先輩の名字が思い出せない愛美であった。

「あっはっはっはっ! 征城君、その人はなぁ――」

 察した後池がフォローしてくれるようだ。

「夜那岐ばあさ――「黙れ窓際警官」

 いつの間にかすべるように後池の背後を取った夜那岐が、座る後池の首筋に刃物を当てていた。

「……図星?」

「みたいだな」

 小突き合いがようやく収まった祐輔と浩二の会話が、夜那岐のひとにらみでたちまち止む。

 気を取り直したのか、夜那岐が空咳を一つすると愛美に向き直った。

「狗噛よ。でも、部長でいいわ」

「いえ、その……」

「?」

「申し訳ないですけど、まだ、彼に会って確認したいことがあるので、入部は……それからということにしてくれませんか?」

 愛美の懇請は、夜那岐の凝視を招いた。いや、詩鶴もじっと愛美を見つめてくる。その、愛美から見てもかわいい唇が、ややあって短い言葉を紡ぎだした。

「どうしても?」

 声は出さず、愛美は頷いて肯定すると、夜那岐のほうに向き直った。

「えと、それはもっと後の事なんで、その前にいくつか教えていただきたいことがあるんです」

 言いながらナップザックを開くが、放課中に雑音をシャットダウンする必要もあって作成したメモ書きが見つからない。

「あれ? あれ? たしか国語のノートに挟んで……あれ?」

「あの、征城さん?」と祐輔がおずおずと愛美を指さした。

「その胸ポケットから見える白い紙じゃないの?」

「あ、ほんとだ……」

 慌てたことが恥ずかしくて、愛美はうなだれそうになった。が、すぐに気を取り直して椅子にすとんと座り直すとメモを開く。

「えと、まず、このスペシャルワンっていう状態を抜け出す方法のことは聞いたんですけど――」

「ふむふむ」

 と夜那岐はここでやっと後池の首筋から刃物を離すと、彼の隣に座った。

「それって、どのくらいの人が成功してるんですか?」

「んーと……」夜那岐がタブレットをカバンから取り出すと、操作を始めた。しばらくして該当する情報を見つけたのか、顔を上げる。

「ヘブローマの公式情報、といっても5年前の数字だけど、解放率が出てるわ」

 その言葉を聞いて、他の人たちも身を乗り出す。特に祐輔にとっても重要な事柄だけに、ついさっきまで愛美のほうをチラチラ見ていたのを止めて、真剣な眼差しになった。

「どのくらいなんですか?」と愛美。

「約0.000007パーセント。100万分の7だわね」

 どうやら"解放率"というのは、スペシャルワン状態を脱して、かつ異性との結婚まで至った割合らしい。夜那岐の説明を押しのけるようにして、浩二が声を張った。

「良かったな、祐輔」と浩二が祐輔の肩を叩く。

「……何が?」

「汎用人型決戦兵器の起動確率よりも断然高いぜ!」

「なんの慰めにもなってねえよ!」

「そっか、09システムだもんね……」

 そう呟いて、ふと愛美が気づくと、わけが分からないという顔で首をかしげる後池を除く皆に見つめられていた。いや、もう1人、詩鶴があごに手を当てて、なにやら考え込んでいる。少し赤面した愛美は皆の視線を逸らそうと、詩鶴に声をかけた。

「詩鶴ちゃん? どうしたの?」

「ん? ああ、ちょっとね。部長?」

「なぁに?」

「その解放率――」「分かってるなら黙ってて」

 夜那岐と詩鶴の視線が交錯し、詩鶴は何も言わずにうなずいた。なんのことなのか、浩二はもちろん祐輔にも分からなかったようだ。愛美はお仲間がいたのにホッとして、次の質問へと移ることにした。解放率とやらがかなり低いことに、改めて気落ちしながら。

「えと、2つ目なんですけど、車とかで思いっきりぶつかって、やっつけられないんですか? あれ」

「無理ね」

「え、でも、えと、戦車で撃ったらやっつけれたって。じゃあ、車でガーンってぶつかれば――」

「残念ながら――」と詩鶴がスマホをいじっていた手を休めて言った。

「今調べたんだけど、戦車から発射する徹甲弾の強力な奴で、重さが約20キログラム。有効着弾速度が秒速1,100メートルだから、計算すると衝突時の運動エネルギーが約12.1メガジュールだな。

 車の重さが1トンだとして、同じ運動エネルギーを持つためには秒速155メートル、時速で言うと550キロメートル以上を出してぶつからなくちゃいけないんだ。ぶつかる物もぶつかられる物も形状が違いすぎるから破壊力の比較ができないけど、それを差っ引いても車のほうが非力すぎるよ」

 愛美はうなだれた。

「相変わらず計算速っ!」

 と浩二が舌を巻いている傍で、祐輔はわたわたし始めた。

「いやでも、着眼点は良くね? I.A.がないなら、そういう手をなんか考えていけばさ」

「きゃーさがみくんやさしー」

「夜那岐さんや。そういう棒読みは若人を傷つけるとは思わんかね?」

 後池の指摘に、夜那岐は膨れてみせた。

「なによ! 詩鶴ちゃんだって、愛美ちゃんを傷付けてるじゃない!」

 夜那岐に言われて焦り始めた詩鶴を見て、愛美も焦った。

「あ! 違うの! 詩鶴ちゃんの言ってることが全く分からなかっただけ――」

「……違う意味で傷付いてるぞ。フォローしろよ祐輔」

「どっからフォローしたらいいのか、オレにも分からねぇ……」

 今日はよく赤面する午後だ。愛美はそう思いながらメモに目を落とした。

「……えと、あと、カードで呼び出した人たちって、どうして日本語で会話できるんですか?」

「ああ、あれ、日本語化パッチが当たってるのよ」

「……夜那岐さんも何言ってるのかわかりません……」

「インカルナティオたちの思考言語を日本語化してるってことなんだけど……」

 そこまでで言葉に詰まってしまったらしき夜那岐に代わって、詩鶴が噛み砕いて説明してくれ、どうにか愛美にも理解できた。

「それから、カードを投げると体力を消耗するってことなんですけど、投げ過ぎると死んじゃったりするんですか?」

「死ぬわね」

「またあっさり言うねぇ」とさすがの後池も苦笑い。

 愛美は記憶を手繰って、さらに質問を重ねる。

「でも、佐上君は生きてるじゃないですか。その、人がいっぱい出てきたり、馬に乗った人が槍持って突っ込んでいったりしてるのに」

「あれはね、大したアルテじゃないんだよ」

 お茶受けにポテチを詩鶴や浩二と競い合うようにつまんでいた祐輔が言った。が、

「アルテって、なんだっけ?」

「えーと、ポーカーの役を使って出す技のことだよ」

 まだまだ憶えなきゃいけない用語や単語がいっぱいで、頭がくらくらしてきた愛美であった。

「えと、それから……」

 次の質問は、神田のこととは違う意味で、愛美にとって重要なもの。

「スペシャルワンは家族からの愛情も薄い、もしくは全く受けられないって、夜那岐さんは言われてましたけど……」

 愛美は言いたい。愛美の父は、彼女に溢れんばかりの愛情を注いでくれているではないか。だが、そこを否定されるのは、彼女の心に大きなダメージが来ることを意味する。

 愛美は逃げた。

「佐上君は、どうなのかな?」

「無いな、うん」

 祐輔が口を開くより早く、詩鶴がポテチをつまもうとした手を休めて答えた。祐輔も沈痛な顔で頷くところを見ると、どうやら事実らしい。

「でも、でも、佐上君はあのマンションに一人で暮らしてるんでしょ? 生活費ももらって」

 愛美の反論に、またも祐輔より先に詩鶴が反応した。

「祐輔、あれを見せてあげるといいんじゃないか?」

「ん? ああそうだな。ちょうど今日はその日だし」

 何を見せてくれるのかと思ったら、祐輔はスマホを取り出し操作すること2分ほど。

「はい。気持ち悪くなったら、すぐに返してくれればいいよ」

 気持ち悪くなったら。その言葉に言い知れぬ不安を覚え、でも怖いもの見たさと現状確認に対する義務感でそれを抑えて。愛美はスマホの画面を見つめた。

『週間! まひろ! ニュース!!』

 中年男性の、美声と言えなくもない甲高い声がスマホのスピーカーから響いてくる。

 画面上で正対してしゃべっているのは、愛美の父と同じ年頃の男性。ツルッとした顔には綺麗な山羊髭を生やし、恰幅のいい体に小ざっぱりとしたジャケットを着た、かなりのおしゃれな風体なのだが、愛美とその周りに集った人々を沈黙させる雰囲気が液晶越しに伝わってくる。

 一言で言うならば、怖い。目の焦点が微妙に合っていないのだ。

 画面は1分ほどで切り替わり、中学生くらいだろうか、色白で細身の女の子がヴァイオリンを弾いているものとなった。同時に、大人の女性、しかも明らかに素人とわかる拙いナレーションが入る。どうやらこの女の子の近況を報告したいらしいが、つっかえることが多い上に早口で、熱狂的なことだけが伝わってくる。

「元気そうだな、まひろちゃん」

 詩鶴の言葉に、祐輔は黙ってうなずいている。

(まひろちゃん? ……妹かな?)

 近況報告は5分ほど続いて――練習風景に登下校の風景、自宅での食事メニューまで列挙されて――、また画面が切り替わると、今度は10畳ほどもあるフローリングの部屋に、最初の男性と、同年配の女性が2人で映るシーンとなった。ピアノによる女性の伴奏に乗って、男女の口が大きく開けられて――

「う……」

 もうだめだ。愛美はスマホを投げ出さないように机に置くのが精いっぱいで、顔を背けた。

 もはや愛美の五感のうち聴覚に衝撃を与えてくるだけになった男女の熱唱は、伴奏にぴったり合った、お上手と言えるもの。さりながら、彼らが総身から発する雰囲気が、熱が、気持ち悪い。

 そう、気持ち悪いのだ。祐輔の忠告は偽りではなかった。

「おじさんもおばさんも、相変わらずだな……」

 眉をひそめた詩鶴の言葉が、徐々に愛美の脳に浸み込んでいく。

「……もしかして、佐上君の……?」

「うん、親父とお袋」

 祐輔の説明が続く。父も母も音楽家であり、ヴァイオリニストとして将来有望な妹・まひろと違って、自分にはほとんど音楽の才能が無いため、父母からの折檻込みのレッスンの果てに"いらない子"扱いされていたこと。妹に近づかず、その生活を邪魔しないことを条件に家を出て、進学校に通うことを許されたこと。

「もう1つ。この毎週届く動画メールの感想を必ず返信すること。それが、生活費を払ってもらう条件なんだ」

「理解できんね」と後池があごの無精ひげをさする。

「いらない子なら、無視すればいいだろうに」

 そういうわけにもいかないんですよと祐輔は苦笑して、まだ歌い続けている彼のスマホを指さした。

「聞こえませんか? 俺の声」

「あ、やっぱこれ、祐輔の声なんだ」

 と浩二がスマホを見つめる。まさにおぞましい物を見るような目で。その横で、詩鶴が首をひねった。

「……お前、こんなに歌、うまかったか?」

「まさか。これ、俺が何十回と歌った歌声の、音階が合ってる部分を切り貼りして、さもメロディーどおり三部合唱で歌ってるように重ねてるんだよ。仲良し音楽一家だから、な」

 万が一、祐輔のほうにまひろに関する取材が行った時に、近況を知らないなどとは言わせない。仲良し音楽一家だから。祐輔はそう結んだ。

「征城さん」

「ん?」

「ごめんな、変なもの見せて」

 どうして謝るの? 訊いたのはわたしなのに。

 その言葉が告げられず、ただ黙ってうなずくことしかできない自分が情けない。愛美はうつむいた。

 そこからしばらく、皆黙ってお茶とおやつを楽しむ。だが、このままではいられない。愛美には祐輔に1つ、浩二にも1つ、聞きたいことが残っていたのだ。まずは祐輔から。

「佐上君?」

「ん?」

 袋に残った最後の一つまみをどちらが食べるかで詩鶴とにらみあっていた祐輔が、慌てて愛美のほうを向いた。

「……辛くないの?」

「何が?」

「今のこの状況が、なんだけど……」

 んー、と少し考え込むそぶりを見せたあと、祐輔ははにかみとも苦笑いとも取れる顔をした。

「辛いよ、うん。部長から話聞いて、次の日一日休んじまうくらいには」

(そういえば、休んでたな)

「でも、どーしよーもないんだよな。とりあえずのところは。だから――」

 ?

「――征城さんを護るためって思って、気合いを入れて、さ」

 !

 今度は、さっきとは違う赤面のタネが飛んで来た。彼女と同じくテーブルを囲むメンツの(うわぁ)という表情も、彼女の心にまで熱を掻き立てる。

 彼女はまた逃げた。浩二に話題を振ったのだ。

「京郷君は、どうして――」

 そこまで言って、愛美はついさっきまで自分に対する祐輔の想いについて語られて、何とも言えない雰囲気になったばかりなのだ。山本のことなど、とても聞けない。

「? なに? 征城さん」

「あ、あのね、なんでそもそも京郷君がこの部活にいるのかな、って」

 愛美は別の疑問に逃げた。前々からの疑問であったので比較的スムーズに口を突いて出て、浩二たちには気取られなかったようだ。

「いや、俺たち狙われてたじゃん? あのメソーラに。だからこの部活に参加してりゃ護ってもらえるし世の中の役にも立つしでいいじゃん! って即決で」

「なぜ山本さんを誘わなかったのだ? そういえば」

 詩鶴の口にした疑問はもっともながら、場が静まり返るのは避けらない。

「ん、まあ、いろいろとさ」

 浩二の返答は歯切れが悪いものだった。なおも物問いたげな皆の視線を、お茶のお代わりを淹れにいくことでごまかそうとしている。

 その時、愛美の携帯が鳴った。

 心から発した震えを必死で押さえて、愛美はスマホの画面をチェックする。神田からのメールだった。どうやら予定より少し早く上がったらしい。

「それじゃ、行ってきます」

「メグちゃん!」

 決意を固めて足を速めた愛美の耳に、詩鶴の声が響いた。心配そうな瞳を隠さないクラスメイトに、愛美は無理やり笑顔を作る。

「だいじょぶだよ。また、明日ね」

 後池と夜那岐にもぺこりと一礼すると、愛美は今度こそ部室を走り出た。室内の夜那岐が「さてと、私も――」とか言っているのが聞こえる。


3.


 神田との待ち合わせに選んだのは、帰り道の途中にある児童遊園だった。

 偶然にも先日ここでメソーラとの戦闘があったことを愛美は知るよしもなかったが、なんといってもここは自宅への帰り道にあるというのが大きなポイントだ。人通りも少なからずあるため、彼と揉めた時に助けを呼んでも誰も来ないということもない。公園外周を取り巻く樹木のおかげで、通行人から好奇の眼で見られ続けることもない。愛美なりに考えた選択だった。

 走りたくなくて、でも早く決着を付けたくて、結果中途半端な早足になった愛美が児童遊園に到着すると、神田は既に来ていた。北風に吹かれながらも寒がるふうもなく、いつもの爽やかな笑顔に、どことなく困ったふうな色が混じっている。

「大変だったんだぜ? フケてくるの」

 と言うからには、想定外の"おねだり"だったということか。

「ごめんね……どうしても、確かめたいことがあって」

「なに?」

「陽太君、わたしのこと、どう思ってるのかなって」

 土壇場でこんな質問しかできない自分が苦々しい。本当は『わたしのことなんてなんとも思ってないんでしょ?』と訊いて、彼の顔色の変化を探るはずだったのに。

「好きだよ。オレ、愛美ちゃんのこと」

 嘘だ。スペシャルワンである愛美を愛してくれる人間なんていない。嘘だ。でも……

「オレ、なんか愛美ちゃんの気になることした?」

 笑顔から一転、心配そうな顔をして近づいてくる。その真っ直ぐな瞳に、愛美の心は惹きつけられた。

「オレ……がんばるよ」

「え?」

「ほら、週末の試合、見に来てくれるって言ってくれただろ? オレ、すっげーうれしかったんだ」

 ズボンのポケットに入れられていた彼の手が、すっと彼女の片腕に添えられて。たとえダッフルコート越しでも、乙女の心臓が跳ねる。見上げれば、彼の潤んだ瞳がそこにあった。

「愛美ちゃん……」

「う、うん」

 こくりと頷くと、彼の熱っぽい囁きが彼女の心に潤いとなって滲み込んできた。

「俺の言ったこと、憶えてる?」

 またこくりと頷いて、愛美は急いでスマホを取り出した。メモを確認する。

「県営競技場……フリーキック……だよね?」

 再び見上げた神田の顔は、『しようがないなぁ』というセリフが聞こえてきそうな優しげなものだった。愛美の心に、再び得も言われぬ感情が沸き起こる。

 例外。そう、もしかしたら。

「今度、来てくれ――「その子が今のフリーキック担当なんだ」

 神田の背中に投げつけられた言葉は、彼の心胆を寒からしめるに十分だったようだ。その表情は最前と変わらぬ笑顔ながら、硬直ぶりが愛美にも手に取るように分かる。その顔から眼を背けるように、愛美は彼の背後をのぞいた。

 彼女と彼から1メートルほど離れて、1人の女の子がいた。茶髪をサイドテールに結んだ、背が高く体格のいい女の子は、制服からすると市の西部にある高校の生徒のように見える。

「フリーキックを決めたらキミのところに走っていくから、って言われたんでしょ? あんた。ほかの子のこと、知ってんの?」

「ほかの子?」

「そ、PK担当、ヘディングシュート担当、ボレーシュート担当。どれか決めればその日は感激した誰かさんお持ち帰りできちゃうんだから、そりゃがんばれちゃうよね? そう思わない?」

 挑戦的で嘲るような瞳の彼女から愛美に向かって放たれた言葉が、"例外"という幻想を砕いてゆく。

「知佳、お前何言ってんだよ? ……愛美ちゃん、オレのこと信じてくれるよね?」

 そして、神田の声も笑顔も、もう愛美の心を潤してくれはしない。いや、潤いなどという甘ったれた言葉で、自分の惨めな境遇を誤魔化していたのかもしれない。

 神田の身から、陽気な電子音が鳴った。これ幸いと電話に出た神田が、ペコペコしながらしばらく話して通話を終えた。

「ゴメン、監督に呼ばれた。フケたのがばれちゃったみたいだから」

 試合には来てね。ふてぶてしくも爽やかに、神田は学校のほうへと走っていった。

 涙すら出ない、乾いた愛美のひび割れた声が虚空を、ではなく茶髪の女子を打った。

「調べてたんですね」

「え? なんのことかな~?」

「昨日の夜、今日は徹夜か、って言ってたじゃありませんか。夜那岐さん?」

 愛美の言葉を聞いた女子は、停止した。と見るや、ずるずると頭髪から顔の皮から地面に剥けて落ちてゆく。

「そんな変装もできるんですね」と愛美は素直に褒めた。

「ま、九ノ一ですから」

「さっきの電話――」

「ん?」

 愛美は神田の去ったほうを見やってつぶやく。

「自分で自分にかけたんですよね、きっと」

「そうね。ポッケに突っ込んでたほうの手に別の携帯でも握ってたんでしょ。古い手よね」

「フリーキックが決まったら――」

「そうそう」と夜那岐は変装を片付けながら嗤う。

「何十年も前から、手口が何一つ変わってないわ。まったく男ってぇのは」

 夜那岐の眼は愉快そうに揺れている。

「意外と頭が回るのね、征城さん」

「回ってませんよ。回ってませんでした」

 そう独白した愛美の眼に、涙が溜まる。

「ほんとに、盲目になるんですね。わたし、今度こそはって、わたし……」

 うなだれる愛美の肩を、夜那岐が優しく抱いてくれた。

「送ってくわ。おうちまで」


4.


「! ……ただいま」

 ドアを開けた上り端に父が佇立していたこと。それに驚いて咄嗟に声が出ず、ようやく帰宅の挨拶を絞り出せた愛美であった。

 その父は、いたってにこやかに愛美を迎え入れた。

「おかえり。今日は早かったね」

「あ、うん。ちょっと気分が悪くなって」

「ああ、それでお友達に送ってもらったんだね?」

「ええ、先輩に」

 と言って振り向いた後ろに、夜那岐の姿はなかった。さっさと退散したのだろうか。

 首をかしげながら靴を脱ぐ。何かが引っ掛かるのだ。

「パパ?」

 愛美はキッチンのほうへ向かう父の背中に問う。

「なんだい?」

「どうして友達が一緒に来たって知ってるの?」

「ああ」と父は歩を緩めず答える。

「外で愛美ともう1人、女の子の声がしたからだよ」

 なるほど、と納得しかけて、愛美は階段の途中で立ち止まった。

(パパは……わたしのことを愛してないんだろうか?)

 放課後に部室で見た祐輔の"家族の肖像"。あれが、愛美にも当てはまるというのか。分からない。分かりたくない。でも……愛美は考えながら部屋までたどり着き、制服のままベッドに倒れ込むと、大きく息をついてしばらくうつぶせていた。

 10分ほどして、部屋着に着替えて階下に降り、食卓に付く。父が調理しているところを見るなんて、そういえば久しぶりだ。部活や神田との帰り道デート、そして、メソーラの襲撃。父の帰りは門限のずっと後で、帰ってくればいつも夕食が温めるばかりになっていた。

「ごめん」と父がフライパンを振りながら謝ってきた。

「どうしたの?」

「愛美がこんなに早く帰って来るなんて思わなかったから、今日の夕食は簡単なものになっちゃったよ」

 ごめんと謝って、愛美はふと気付いた。父が、笑顔こそ顔に貼り付けているものの、明らかにキリキリしていることに。

(わたしが早かったこと、そんなに嫌だったの?)

 訊きたい。でも、こういう時の父は存外の頑なさを見せる。ケンカなどしたくない。

 そうだ。たとえ父が、愛美のことを愛してくれなくたっていい。ただ、今のこの"仲良し父娘"であり続ければ。愛美の心は、それでも沈む。再び顔を上げるためには、ミートソーススパゲッティのかぐわしい匂いが必要だった。

 エプロンを付けたまま愛美の対面に座った父がスパゲッティを取り分けてくれて、夕食が始まった。

「学校で、何か困っていることはないかい?」

「ん? 別にないよ?」

「いや、あるな」

 父の断言に、愛美は戸惑う。なんだろう、この感じ。どこかで……

「今日、送ってきてくれた子は、どんな人なんだ?」

「え? ああ、学校の先輩だよ」

 話が切り替わったことに、愛美は安堵した。あのまま問い詰められれば、神田との一部始終を話さねばならなくなっていただろう。

「学校の先輩……親切な子だね」

 父の感想にあいまいに答えて、愛美は話題を切り替えた。できれば、今日だけでもあの部活の事は語りたくない。

「お仕事、休んで大丈夫なの?」

 確か、プロジェクトが大詰めとかなんとか言っていたのを思い出したのだ。

「大丈夫。大丈夫」

 なんだか自分に言い聞かせているようにも聞こえたが、父の仕事の内容など、どうせ愛美が聞いても分からない。

「愛美は、本当にお母さんに似たな……」

「そうかな?」

 死んだ当初は開くことすらできなかったアルバムを、最近やっと見ることができるようになった。そこに笑顔で写っている母は、愛美に似ていると言えば似ているし、鏡で見比べてみるとそうでもないような気もして。

「うん。きれいになったよ」

「また、もう……」

 盛大に照れる娘であった。

 その後は無難な話題に終始して、愛美はごちそうさまを告げるとすぐ部屋に戻った。宿題と、なにより期末試験の勉強をそろそろ始めなければならない。が、昨日と今日の出来事で、彼女の頭の中は占められてしまっている――たとえ占められていなくても、急場しのぎの勉強が彼女の頭に入る可能性が低いことは確定的に明らかなのだが。

 愛美が2階へ上がってきっかり1時間後、部屋の戸がノックされた。

「なに、パパ?」

「そろそろコーヒーブレイクかと思ってね」

 愛美はくすりと笑うと、お盆を両手持ちしているであろう父のために、戸を開けてあげた。

「どうぞ」

 コーヒーが立てる馥郁とした香りをしばらく楽しんだ後、愛美は一口だけカップを傾ける。

「ん? これ……甘っ! 何これ!?」

「甘いだろ。特製だからね」

 予想外の声が背後から聞こえて、愛美の心臓は跳ねた。父がまだ室内に残っていて、しかも彼女のすぐ近くにいたことにまったく気付いていなかったのだ。

「感想を聞かせてくれるかな?」

「え? だから、甘いって言ってるじゃん」

「甘さの中に隠された苦味があるはずなんだ。もう一度味わってごらん」

 そういうものなんだろうか。愛美は半信半疑ながら、もう一度少しだけ口に含んでみた。

「ん……そう言われれば、苦味が無くもない、かな?」

 そう父に伝えたのに、一向に部屋を去ろうとしない。父に対する不審の念は、父がお盆に乗せてきた布の袋の中から取り出した物を見て、さらに強まった。なんという名前かわからないが、15センチ程度の円筒で、先端の光るガラス状の部分はレンズだろうか。それを父はなんと、円筒に付属のバンドで彼の側頭部に取り付け始めたのだ。

「パパ……それ、な……に……」

 舌が思うように回らない。目の前の光景がくらくらと揺れ、まぶたが急激に重くなる。

「これはね、ウェアラブルカメラって言うんだよ」

 父の平然とした説明も聞こえるか聞こえないかの内に、愛美はマグカップを取り落し、椅子から床に崩れ落ちた。


5.


 愛美の意識が落ちたのを確認すると、父は彼女を抱き上げてベッドへと運んだ。自分にいったいこれほどの力があったのか、と驚くくらい力強く。

 ベッドの上に仰向けに寝かすと、愛美の両手首を彼女の頭の上で揃えて――粘着テープを忘れたことに気が付いた。

「ちっ、いかんいかん」

 焦るな。もう、俺のもんだ。

 腰を下ろしていたベッドを降りて自室に粘着テープを取りに行くとき、愛美の乱れた着衣から、白い腹がちら見えた。もうそれだけで、彼の意気は上がり、息が乱れる。我慢できずに、父はそっと手を伸ばして、そのきめ細やかな肌触りを楽しんだ。

 しばらく撫で回したのち、父は自室に戻って粘着テープを探した。記憶していたところに見つからず、悪態をつきながら探すこと10分。ようやく見つかった時には、自分では気付かなかったが父の眼は血走っていた。

 我慢だ。我慢しろ。6年待ったんだ。

 自分にそう言い聞かせて、愛美の部屋へと前かがみかつ小走りで向かう。愛美に飲ませた睡眠導入剤は分量を加減してあるのだ。

 愛美は先ほどの姿勢のままであった。安心の吐息をつく暇も無く、父は愛美の手首を粘着テープで四重に巻き、そのままテープをベッドの柵に巻き付かせた。作業完了。

 ふと思い立ち、父は服を脱いだ。どうせ愛美もひん剥くのだ。自分が服を着ているのもおかしい。さすがにブリーフだけは履いたままにしておいた。それが実の娘に対する、せめてもの良心の残りかすのように。

 脱いだ服を几帳面にたたむと、ウェアラブルカメラを装着しなおした父は愛美の学習机に戻り、お盆の上に載せてあった紙包みを左耳に挟む。すると、愛美が可愛い声でうなった。薬が切れたようだ。少し早い気がするが、まあいい。

 父はウェアラブルカメラの録画ボタンを押すと、ぼんやりと薄目を開けた愛娘に声を掛けた。

「おはよう、愛美」

 聞き慣れた父の声に反応して眼を大きく開いた愛美が、愕然とした顔になる。

「いやぁぁ! 助けて! いやぁ!」

「大声を出してもだめだよ」

 と息を荒くして、愛美のほうへ近づく。愛美は逃げようとして、手首を縛っている紐がベッドの柵に縛り付けられていることに気付き、半狂乱になった。が、所詮はベッド上の獲物。難なく馬乗りできた。

「お前がいけないんだ。俺の、俺だけのものなのに、そのために大切に育ててきたのに!」

「いや! いや! いやぁ!」

 父の体重で腹が圧迫され、愛美は身動きが取れなくなった。それでも左右に身を捩りもがくのを止めない。

「誰か! 誰か助けて!」

「呼べよ」と父はにやついた。

「神田とかいう小僧を。付き合ってんだろ? この淫売! そんなところまで母さんに似やがって!」

 最後の言葉の意味も、なぜ父が神田のことを知っているのかも分からない様子の愛美は、せめて柵を折って腕の自由を得ようと、目一杯の力を振り絞り始めた。

「せめて大学に行くまでくらい育ててからいただこうと思ってたのに、サカリが付きやがって! もう、我慢できない。お前は、俺のものだ。もう逃がさない」

「いや! いや!」

 喉がかすれるほど絶叫している。ちぎれそうなくらい腕に力を入れてる。そんな愛美が憎い。愛おしい。暴発しそうなほどのパトスが下半身にたぎり始めた父は、切り札を使う事にした。

「さあ、お薬だよ。気持ち良くなれる、俺だけの女になれる」

 股の下で暴れる娘に体を揺らされながら、父は左耳に挟んだ紙包みを取り上げた。

 必死の絶叫を止め、愛美はそんなもの飲むものかと口を堅く引き結ぶ。そんな愛娘を、優しい父の仮面を捨てたケダモノは容赦しなかった。紙包みを持たないほうの手で、愛美の喉を締め上げてやったのだ。

 このか細い、力のない自分のどこにこんな力があったのか。改めてその感慨を抱いて間もなく、愛美の息はたちまち詰まり、目が充血し始める。ついに耐え切れず、愛美は口を開いた。

 得たりや応とほくそ笑む父。片手の指で器用に紙包みを開くと――

「はい、そこまで」

 背後の開け放たれたドアから若い男のややハスキーな声がして、父は仰天した。振り向いた彼の目に映った物、それは、ぱたんと下に開かれた桜の代紋入りの手帳だった。

「婦女暴行、並びに強姦未遂の現行犯として逮捕します」

 続けてなにやら定型文らしきことを述べ始めた若い男の横をすり抜けて、年かさの男がつかつかと父に歩み寄り、素早く父の手首に手錠を掛けた。

「そ、そんな! ふ、不法侵入だろ!? 警察が勝手に人の家に――」

「お宅の娘さんからの通報ですが」

 若い私服警官のいやにのんびりとした言葉を待っていたかのように、その脇から真っ青な顔をのぞかせたのは、愛美だった。

「パパ……どうして……」

 愛美は震え始めた。いや、震えているのは自分のほうか。そんな馬鹿なと叫んでベッドを見れば、そこで拘束を外されて手首を擦っているのは、黒髪をポニーテールにした面長の少女。たしか昨日リビングの映像に写っていた――

「う、嘘だ。これは何かの間違いだ!」

 父はもはや娘など眼中に無く、わめき散らしながら警官2人に引き立てられて行った。

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