第6話 心の渦 河原の落日

1.


 朝。心浮き立つ、でも寒い朝。愛美は、がばっと跳ね起きた。パジャマを脱ぎながら、姿見の前に立ち止まり、その中の自分に微笑みかける。

 勇気を出して告白をして受け入れられてからこの1週間の、彼との下校の記憶。それが抑えても抑えても思い出されて、自然に顔がほころぶ。その笑顔のまま下手なステップまで踏んで、愛美は着替えを進めた。最後にネクタイをしゅっと締めて決めると、部屋を出る前にスマホをチェックし、神田に『おはよう』と送ってからリビングに向かう。

「おはよう、愛美。浮き浮きだね」

「うん!」

 父の言葉を全力で肯定し、椅子に座る。ご飯に味噌汁、マカロニとコーンのサラダを頬張っていると、父の視線を感じた。

「何か、いいことでもあったのかい?」

「うん! ……でも、パパにはまた今度、お話しするね」

 6年前に妻を亡くして以来、父は愛美を育てるために懸命だった。大好きだったお酒も止め、娘の行事には必ず出席して。その代り、父は夜の添い寝をしてくれなくなった。自分の部屋で仕事をしているらしく、夜中に愛美がお手洗いに起きた時、通りがかった部屋の中からまだ父の起きている物音がしていたものだ。それは今も変わらない。

 いつか、彼を父に紹介する日が来る。それはもはや遠い日でも、いつか夢見た幻でもなく、近い将来の来るべき現実。愛美の胸は高鳴る。なんといっても初めてなのだ。

 そのドキドキを空いたほうの手で押さえて、愛美はいつの間にか供された温かいお茶を飲むと、うつむき加減で食事を再開した。父の顔を正視できなかったからだが、そのせいで父の表情を見逃す事になった。存外に険しい、その眼を。


 

 登校の道すがら、愛美がまたうれしはずかしなあれこれに浮かれていると、友人が追い付いてきた。さっそくカレシの愚痴を並べ立て始める友人の話を一通り聞いてやった後、愛美は質問をさりげなく放った。

「ケンゴー君のことってさ、もうパパとかママに紹介したの?」

 きょとん、とされる。その友人の反応に愛美もまた戸惑っていると、続いてやって来たのは友人の爆笑だった。

「な、なに言ってんのよ~! 別にまだ結婚するわけじゃないのに~! もーメグちゃんたら!」

「え?! だ、だって……言われない? 『カレシが出来たら紹介しろ』って」

「言われないよ~!」

 爆笑は続く。友人の家族はそんなことをおくびにも出したことはないらしい。

「まあパパは気にしてるみたいだけどね。遠回し遠回しに探ってくるし」

 と友人は言う。愛美の父の、朝のあの言葉も"遠回しな探り"なのだろうか。

「メグちゃん家ってパパだけだもんね~。そりゃ気にするよね」

「まあね」

 そう、いつも父は愛美のことを気にかけていてくれた。それが当たり前として、この6年間生きてきた。でも、でも今は、私のことを想ってくれる人が別にいる。彼が。陽太君が。その事実が愛美の心を、体の中の隅々を満たす。

 どうせ生きているなら、愛されている人の数は多いほうがいい。そこに最愛の人が含まれているなら、なおさらだ。

 教室に入ろうとした愛美は、隣のクラスがざわめいているのに気が付いた。いや確かにいつも賑やかなクラスではあるのだが、今日は違う雰囲気が廊下に面した窓越しに感じ取れる。愛美はタイミングよく出てきた知り合いの女子に聞いてみた。いったい、何があったのかを。

「ああ、山本っちゃんが振られたんよ」

 山本……愛美は記憶を呼び覚ますため、脳みそをフル回転させる。彼女は自他ともに認める残念な子――あくまで進学校なりの――であるが、残念なりの生き残り方、すなわち良好な対人関係の維持のために欠かせないものがある。人物相関図の把握だ。

「えーっ! 京郷君、別れちゃったの?!」

 彼女たちはたしか付き合い始めて2カ月と経っていないはず。その情報に、来合わせた愛美のクラスメートが飛びついてきた。

「ね、ね! じゃあ今、京郷君ってフリーなのかな?」

「そうなんじゃない? なに、狙うの?」と知り合い女子はちょっとびっくりしている。

「うん! だって、めっちゃイケメンじゃん?」

 ピーチクパーチクさえずり始めた女子雀に適当にあいさつをして別れて、愛美は教室の戸をくぐりながら考える。

(京郷君、佐上君とあの部活に一緒に入ったって聞いたけど……それと関係あるんだろうか?)

 あの部活。それを思うと、愛美の胸中が渦を巻き始める。その渦は、教室に入って早速目の当たりにした祐輔の屈託のない笑顔とあいさつでさらに増した。

 つい3日前も、愛美は祐輔たちに助けられていた。神田の部活が長引いたため1人で帰る途中を狙われたのだ。彼女が持てる限りの反射神経を駆使して逃げ回っていると、突如あの先輩が現れて彼女の盾になってくれた。その後すぐに祐輔と浩二が駆け付けてきて、あの人たち――後日詩鶴に説明されたが名前が思い出せない――を呼び出してどうにか時間切れまで持ちこたえた。

 ギリギリと歯を鳴らしながら時空の狭間に身を投じる化物と、任務を遂行してこちらに笑いかけながら消えていくあの人たちと。そのコントラストに少し呆然としていると、祐輔がいつものコンビニまで送ってくれた。

 祐輔は、怒っていないのだろうか。神田への当て付けに使われたというのに。だがそれを確かめると、この関係――祐輔が護り、愛美が護られる――が壊れてしまいそうで、言い出せない。

 愛されている人の数は多いほうがいい。だが彼は、祐輔のことは、愛美にとって胸中の多幸感をかき混ぜる小さな渦だった。

 祐輔のあいさつに俯き加減で答礼して、愛美はそそくさと席に向かった。クラスの女子たちが、彼女を見てくすくす笑っている気がする。だがそれも、近づいてきた詩鶴の一瞥で已んだ。

「おはよう、メグちゃん。1つ、提案があるんだけど」

「ん? なにかな?」

 詩鶴はさらりと言った。

「しばらくのあいだ、日没までうちの部活で過ごさないか? そうすれば、襲われることはないぞ?」

 バレー部の練習が終わったら、外道部にて日没まで詩鶴たちと過ごして解散。メソーラは夜は現れないため、その後はどうしようと自由だ。

 愛美にとって、あの化物に襲われないというのはかなり魅力的な提案だった。正直怖い。あの狂気に染まり切った眼。汚い言葉しか発しない、だらしない口。何より、愛美を殺そうと向かってくるあの圧倒的な殺気。それらを、よりにもよって夕暮れ時に目の当たりにしないで済むというのは、即答をもってイエスとすべきだろう。1週間前なら。

「ごめん……彼と一緒に帰るから」

「論理的じゃな――引っ張るな!」

 眉をひそめた詩鶴が後ろに仰け反った。祐輔が彼女のリボンの端をつまんで、後ろに引っ張ったのだ。

「おら、断られたら引き下がれ、詩鶴」

「お前、ちょっとは効率というものを考えろ!」

 ぎゃあぎゃあ言いながらもあっさりと祐輔に付いていく詩鶴の後ろ姿を見送って、愛美はナップザックから教科書やノートを取り出し始めた。なんとなく湧いた、釈然としない感情を無視して。



 お昼をそそくさと済ませて、愛美は音楽室へと向かった。午後一番の授業がそこで行われるからであるが、友人たちとのおしゃべりを断念してまで駆け付けるほど、愛美は音楽の授業が好きなわけではない。

「よっ」

 LINNEでの約束どおり、神田はもう来ていた。もたれていた窓枠を軋ませて振り向くと、しゅっと手を挙げる。その仕草に似合う彼の爽やかな笑顔に心ときめいて、愛美は小走りに駆け寄った。

「ごめんね、遅くなって」

「ううん、大丈夫」

 定番の会話をキャッチボールして、彼女と彼の逢瀬は始まった。

「週末、試合なんだよね? どこだっけ?」

「県営競技場だよ。こっからだと電車かバスだな。サッカー部はガッコからバスで行くけど」

 県営競技場。スマホのスケジュール画面を呼び出して、愛美はその名をメモする。

「応援、来てくれるんだ」

「もちろんだよ!」

 すっと体を寄せてきてスマホをのぞき込んできた彼の、いたずらっぽい眼にどきどきする。

「オレ、頑張るから。キミのために決めるよ」とささやく彼の低い声。

「だから、バックスタンド中央の最前列にいてね」

 フリーキックを決めたら、キミのところに走ってくから。甘い低音でラッピングしたその言葉を、愛美は彼から贈られた。手を挙げながら、すっと傍から離れて去っていく彼の後ろ姿を見つめていると、自らの背後に同級生たちの足音を聞く。授業がもうすぐ始まるようだ。

「あれ? メグちゃん、早いね」

「え? あ、ああ、うん! ちょっと早めに来たんだけど、鍵が開いてなかったよ~」

 苦し紛れの嘘は見抜かれず、愛美はドジっ子ぶりをからかわれながらも疑われずに済んだ。

 授業を受けながら、教師の声を聞くともなく髪の端をいじっていた愛美の頭の中に1つの妥協案が浮かぶ。彼が遅くなる時は、バレー部が終わったら外道部に行けばいいんだ。

 そのことを授業後、詩鶴に話してみる。

「ちなみにそれ、何曜日なんだ?」

 至極まっとうな反問に、愛美はしどろもどろになった。

「え、え~と、先週はたしか、水曜日と金曜日……だったよ」

「てことは今日は部室に寄らずに帰る、と」

 部長に話しとくから、今日は気を付けて帰って。詩鶴の口調に険が無いことにほっとして、愛美は踵を返そうとして呼び止められた。

「ん? なに? 詩鶴ちゃん」

「祐輔に、ひとこと言ってやって。よろしくお願いしますだけでいい。それがあいつの力になるんだから」

 20センチ近い身長差だけではない、下から懇願してくるような詩鶴の瞳。その真剣さに、愛美は思わず茶化して逃げようとした。

「な、なに詩鶴ちゃん、もしかして、佐上君ラブなんじゃないの?」

「いや全然」

 真顔で言われると、さすがに祐輔が可哀想になる。

「あいつの置かれてる状況、このあいだ説明したよね?」

「え? ああ、うん――」

「忘れてるな?」

「そ、そんなことないよ! ずぅーっとボッチなんでしょ?」

「微妙に間違ってる表現だな……まあいい」と詩鶴は溜息をついた。

「だからこそ、せめてひとことでいいんだ。お願い」

「――わかった」

 詩鶴に根負けしたわけではなく、ただただ"自分を護ってくれる人"に挨拶をしに行く。それだけと、愛美は自分に言い訳をしながら詩鶴に伴われて、祐輔の席に向かった。

 祐輔は、手に持った小冊子を読み込んでいる様子だった。が、愛美が近づくと顔を上げて、笑顔を見せてくれた。また愛美の心の中を渦巻きにさせる、穏やかな笑顔を。

「あ、あの、ね」

「うん」

 髪のカールをいじりながら、愛美は詩鶴の提案を一部受け入れたことを伝えて、祐輔に頭を下げた。

「そういうわけで、よろしくお願いします」

 読んでいた本のことを詩鶴に訊かれ始めた祐輔の返事を待たず、回れ右をして愛美は席に早足で戻った。嫌な女だなわたし、と先ほどとは別の意味で心を渦巻かせながら。


2.


 部活動とは、学生の心身を鍛え、また集団行動に慣れさせるためにするものであろう。だが、この高校における最近の部活動は、はっきりいって低調だった。

 理由は1つ、彼氏彼女と街へ遊びに行ったり、お互いの家に勉強会と称して行ったりして部活動に出てこない、あるいは部活後のそういったあれやこれやに気を取られていたり。要するにこの半年来の"ラブ高"フィーバーに皆が浮かれているというわけだ。愛美の所属するバレーボール部もその1つである。

 パス練習を終えて、2面あるコートの端に散った部員たちがサーブの練習を始めた。愛美もその中に混じってサーブをネットの向こうとやりとりしていると、横で練習をしていた2年生2人のひそひそ話し合う声が聞こえてきた。

(じゃあやっぱり出るんだ。例の不審者)

(うん、なんか夕方暗くなる頃に出るんだって)

(ていうか、なんか暗くなったらいなくなるらしいって聞いたけど……)

(何それ! 律儀~)

 そう、学生のあいだで『暗くなってから帰れば、不審者に襲われない』という噂が流れているのだ。この状況で噂を信じたとして、学生が取れる選択肢は2つ。何らかの理由で日没まで学校に残るか、むしろ陽の高いうちにダッシュで家に帰るか。

 一方で、彼らは所詮10代半ばの少年少女である。『そんなもん、知ったことか』『あたしらは襲われないよね』『不審者なんか来たら、オレがブッ飛ばしてやんよ』などという根拠のない自信を持つことが格好いいと思えるお年頃でもある。

 ゆえに、祐輔たちの"部活動"は連日の活動を余儀なくされていた。そのことも、愛美は詩鶴から聞いている。自分がおそらく不審者から、詩鶴や浩二と同じく"祐輔の仲間"と認識されていることも。

『祐輔がな、悩んでいたんだ』

 その説明の後、詩鶴は仏頂面とも取れそうな表情でそう言っていた。

『メグちゃんを巻き込んでしまった原因が自分にあると思っているらしい。まったく、あいつは時々そういう非論理的な思考を示す。そう思わないか?』

 そう、そもそも祐輔のせいでもないし、愛美のせいでもない。愛美が祐輔に恋人役を頼まなければ、愛美はただの遭遇者として単身(あるいは部活仲間と一緒に)あの事件に出くわし、腰が抜けたままあの鎌に切り刻まれていただろう。

 理屈ではそうだ。だが、愛美はそれを否定する。否定したい。『佐上君のあの何とかいう特異体質のせいで、こうなったの』と。なぜなら、それが愛美の護符だから。愛美をあの狂爪から護ってくれる、人の盾を使役するための魔法の呪文なのだから。

「愛美! 愛美!」と自分を呼ぶ声に我に返る。サーブ練習はすでに終わり、スパイクを打つ人と、それをレシーブする人に分かれての練習に切り替わっていた。

「愛美、調子悪いの?」

「ううん。なんで?」

「いや今ぼーっとしてたじゃん」部活仲間は笑って言った。

「それに、なんか怖い顔してたし」

 怖い顔。その、愛美の内面をえぐる形容に、彼女の胸は言いようのない締め付けを味わう。なおも何か言おうとした部活仲間に無理やり笑って見せて、愛美は追及を振り切った。

 その後は練習に打ち込んで1時間、部活は終わった。着替えを済ませて仲間たちに別れを告げ、愛美はグラウンドの端を急ぐ。この高校のシンボルでもある大銀杏の木の下に、いつものとおり神田が待っていてくれた。ここに来るまでの、行き違った女子たちの目つきと含み笑いをきっぱり無視して、神田とその獲得者の下校は晴れ空の下。

「寒っ!」と思わずこぼした愛美の頬は、次の瞬間赤く熱くなった。神田がすっと風上に回って風除けになってくれたのだ。

「ありがと」

「ん」

 当然と微笑む彼の顔がまぶしい。

「愛美ちゃん家ってさ、お父さんのお仕事ってなにしてるの?」

「え? うちは会社で営業だって言ってたよ」

「そっか、じゃあ帰りも遅いんだ」

「うん……」

 小学生のころは、なかなか家に帰って来ず、帰ってきても夜食を掻き込んで風呂に入った後部屋に籠ってしまう父の薄情さに泣いたこともあった。だがそれも愛美自身の成長とともに、『そういう仕事で、そういう人なんだ。パパは』と割り切れるようになった。まったく無視されたわけでもなく、実際のところ口うるさいと感じるくらい世話を焼いてくれるのだから、自分は恵まれていると愛美は思っている。

「門限が厳しいって聞いたけど、さ」と横に並んだ神田が顔を向けてきた。

「愛美ちゃん家に俺が行けば、そこはクリアーできるんじゃね?」

「え、それはそうだけど……」

 愛美は戸惑う。急展開というだけでなく、部屋を全く片づけていないのだ。

(どうしよう、素直に言えばいいのかな……)

 考え込んでいるのを否定と捉えられたのだろう、神田は柔らかい笑みを見せた。

「ごめんごめん、今日はいいからさ。んじゃ、ほかにどっか行こうよ」

「今から?」

「うん。いや?」

 ねだるような声で言われると、恋する女としては弱い。不審者からの襲撃リスクと彼氏のお誘いを秤に掛ければ、恋が重たいのもまた人情。愛美は精一杯の笑顔で不安を吹き飛ばして、神田の提案に乗る事にした。時間制限を忘れずに付けて。


3.


 どこへ行くのだろう。路線バスで随分西のほうへ来た。降りたバス停からさらに西へと足を向けた神田に従って歩くこと10分。あれこれと会話をしながらなので楽しくはあったのだが、早足なのがどうにも気にかかる。愛美の門限に気を使ってくれているのだろうか。そんな憶測も、近づいてゆく堤防によって中断された。神田に促されて、堤防の階段を2人して上る。

「うわぁ――!」

 眼下に広がる風景、そこは街の西部を流れる河の河口部だった。今まさに半分ほど沈みゆく夕陽が水面に照り映えて、さざ波を黄金色に染めている。遥か向こうに見えるのは、湾内を横断する橋だろう。その逆光なシルエットがまた興趣をそそる。

 同じく夕焼け色に染まった神田が、夕陽を見つめたままつぶやいた。

「ここ、オレのお気に入りなんだ」

「綺麗……」それ以外に言葉が思いつかない。

「こうやってずっと見てるとさ――」

 なおも神田の顔は夕陽に正対したまま。

「親父の乗ってる船が帰ってくるのが見えるんじゃないかって……」

 夕焼けの朱に似つかわしくない、彼の憂い顔。それを見つめる愛美の眼もまた憂いに染まって――

「かんどーてき、だねぇ」

 背後からのだみ声に、2人は仰天して振り向いた。愛美の賭けは、凶と出たのだ。そして、

「よっと!」

 夜那岐も現れた。愛美の影から抜け出ざまに棒手裏剣を放つ。影を縫われたメソーラがもがく様を眺めながら、夜那岐は電話をかけた。

「あ、詩鶴ちゃん? ズッコケコンビに急いで来るように伝えて。……もう向かわせてるって……ああそういうこと、さすがね天才ちゃん。じゃ、食い止めとくわ」

 かけ終えた夜那岐が愛美のほうを向いた。

「逃げて。今すぐ」

「あ、はい!」

 状況の急変に思考が追い付いていない様子の神田を急き立てて、愛美は走った。夜那岐に何か言われた気がしたが聞こえず、堤防の上を走ることしばらく、愛美は失態に気づいた。

「堤防がない……」

 河口部なのだから当然なのだが、動転のあまり突端へ逃げてしまった。愛美と神田は慌てて蹴転びそうになりながら、堤防の斜面に設けられたコンクリート製の階段を駆け下りていこうとしたのだが。

「くくくく、まさかこっちに来るとはねぇ。挟み撃ちにしてやろうと思ったのに」

 メソーラがもう1体いた。肩から生えた腕の先には禍々しい爪付きの手。それをワキワキさせながら、ゆっくりと階段を上ってくる。

「く、来るな! 来るなよぉ!」

 叫びながら神田が後ずさるのに合わせて、愛美もゆっくりと階段を上がる。後ろ向きに上がるのは、"背中を向けたらやばい"という意味不明の直感から。しかしそれは、逃走の遅滞と引き換えである。案の定、メソーラはそれを突いてきた。

「オラ! 背中見せろや!」

 メソーラの振り回した2本の右腕が、横薙ぎに愛美たちを襲う! とっさにしゃがんだ2人だったが、ここは階段上であり、下にいるメソーラは高低差まで考慮して腕を繰り出していた。その腕が命中した2人は悲鳴を上げて吹き飛んで、飛ばされた先の堤防の角で愛美はしたたか腹を打つ。

「ぐ……う……」

 痛みをこらえて眼を開けた愛美は、神田の姿を探した。彼は脇腹を角で打ったらしく、そこを押さえて転げまわっている。

 その時、愛美には既に耳慣れた女性声によるコール音が遠くに聞こえた。

<< Lance Charge >>

 いきり立つメソーラの向こうに見えた騎馬は、瞬く間に堤防の麓へと到達し、勢いそのままに斜面を駆け上がって来た。馬上の騎士たちが掻い込む長大なランスが、窮地の愛美には殊の外頼もしく見えた――のだが。

「ふん!」

 メソーラはするりと2本の槍先を避けて見せたではないか。騎士たちは空しく堤防の上まで駆け上がり、掻き消えてしまった。

「くくくく、そんな距離で中るかよ!」

 まだ愛美たちから20歩ほどの距離にいる祐輔を嘲笑し、だがさすがに攻撃手段を持つ彼を警戒したのか、メソーラは愛美たちの左、川上のほうへ飛び退った。

 チャンスだ。愛美が未だ苦しげな神田を見ると、通じたのか眼で合図が返ってきた。

「えい!」

 頭を抱えて、愛美は堤防ののり面を横向きに転がった。肩や膝がコンクリートにぶつかる音がごつごつと聞こえるが、構わず転がり続けると10秒ほどで麓まで下りてこられた。

「わあ! なんつーことするんだよ征城さん!」

 硬くつぶっていた眼を開けると、祐輔が兵士たちと浩二を率いて駆け付けてくるところだった。ぶつけたところはじんじん痛むが、構わず立ち上がろうとして愛美はよろけた。

「大丈夫? 征城さん」

「あたまくらくらする……」

「そりゃそうだろ」

 浩二に苦笑されてしまった。続いて聞こえたのは、またしてもあのコール音。

<< Jack of clubs "Sir Lancelot" >>

 祐輔が前に向かって投げたカードは、青いチュニックを着た騎士へと姿を変えた。見事な白馬にまたがった彼が一目散に向かった先、そこには神田がいた。いや、"まだ"いたというべきか。神田は愛美のような度胸のよい、あるいは無茶な行動をとれず、無様にも這って降りようとして転がったのだ。それも愛美とは違って、縦に、つまりでんぐり返しを繰り返して。その果てが麓のコンクリート面へのヘッドバットであり、ゆえに動けず"まだ"そこにいた。

「はっ! 来たな幻影!」

 メソーラに言葉を返さず、騎士は腰の剣を抜き放ち、馬上から切り下げることで答えとした。が、これも紙一重でかわされ、四つ腕による反撃をこちらは手持ちの盾で防ぐ。

「くくく、そんなとろい攻撃が中たるかよ! 俺の眼には止まって見えるんだぜ?」

「世迷言を!」

 と風を巻いて長剣を奔らせメソーラの減らず口を閉じさせようとする青き騎士だが、まるで舞踊でも舞っているかのように軽快な挙動を見せ、かつ要所要所でカウンターを放ってくるメソーラにきりきり舞いしている有様である。

 神田はまだ動かない。身じろぎしているところを見ると、気を失ってはいないようだが。愛美は金切り声に近い叫びを発した。

「陽太君! こっちに! 早く!」

 丁々発止の立ち合いを見せる騎士とメソーラ。足下の神田をその馬蹄に掛けぬよう、前へ前へと押し出すランスロットに対して、ちょこまかと左右に動き回って揺さぶりをかけるメソーラの戦法に、愛美は気が気ではない。

「佐上君! 陽太君をこの人たちでこっちに連れてこれないの?」

「分かった、やってみる」

 祐輔はカードを2枚手元から抜き取ると、前へと放った。たちまち現れる雑兵たちに、神田を確保してくるよう命じる。が、雑兵たちは動かない。

「やっぱだめか……」

「何で? どうして?」

 愛美に迫られて、祐輔は困った顔をした。

「こいつらに対しては、攻めるか守るかどちらかの指示を出せ、ってマニュアルに書いてあったんだ。それ以上の複雑な指示は、たぶん指揮官を呼び出さないと――」

「じゃあ出して!」

 自分が居丈高な態度を取っていることは分かっている。まして愛美の彼氏を助けてくれというのは、祐輔にとってはいい面の皮だろう。でも、彼の危機を思うと、そして自分が何もできないことを思うと、つい声が高くなってしまうのだ。

 案の定、祐輔は辛そうな顔をチラッとだけ見せた。だがすぐにニッと笑って、

「分かった。ちょっと待って。手札を全捨てしないと――」

 祐輔の声は、浩二の叫びでかき消された。

「ランスロットが!」

 愛美と祐輔が堤防のほうを見ると、青騎士の背中からメソーラの手が1本生えていた。

「ぐ……無念……」

 くぐもった声を残して、ランスロットは乗馬ごと霧散した。

「神田を護れ!」

 祐輔が、先ほど召喚した雑兵たちに指示を出す。追加の雑兵を呼び出すと、間一髪でメソーラと神田の間に立ちはだかることができた先の雑兵たちに合流させるべく前進を指示した。

「祐輔、あと15分で日没だぜ」

 浩二の報告も、祐輔は唇を噛んでうなずくのみ。その右手は手札の全捨てを2回繰り返し、その間も眼前の雑兵たちはメソーラの猛攻によってみるみる数が減っていく。

「! やっと出た!」

 祐輔の明るい声に愛美と浩二が手札をのぞき込むと、5枚全てスペードだった。Jも1枚見える。

「よし! これで一気に突撃――」

「させねぇぇぇぇ!」

 突如、真横からの蛮声が愛美の耳朶を撃った。瞬間振り向いた彼女の眼に映ったもの、それは、最初に遭遇したメソーラだった。空間の裂け目から踊り出て、通常腕を目一杯振りながら、肩腕は前方に突き出して物凄い速さで突進してくる!

「避けろぉっ!!」

 浩二の絶叫とは逆に、愛美は足がすくんで動けず、祐輔はそんな彼女を咄嗟にかばってメソーラの刺突をまともにくらった。2人ともに悲鳴を上げながら後方に吹き飛ぶ。自分の上に覆いかぶさる形となった祐輔の身体の重さにもがきながらも、やっとのことで抜け出すと、浩二がメソーラに組み付いていた。

「この野郎ぉっ!」

 羽交い絞めにして時間を稼ごうというのか。だが、メソーラに足を思い切り踏みつけられて力が緩んだのだろう、振りほどかれてぐらついたところをフック一閃、沈められてしまった。

「さ、佐上君! 佐上君! しっかりして!」

 喉も破れんばかりの声を出し、その体を揺さぶっても、祐輔の頭はそのゆさぶりに合わせてがくがくするだけで、呻き声すらしない。その上半身から立ち上る血の臭いが、愛美を絶望へと追いやる。最初のメソーラを食い止めていた夜那岐の姿が堤防の上に小さく現れたが、左腕を押さえ片足を引きずっている。あの距離では到底間に合いそうもない。

「くくくく、さあ、スペシャリテども! その命、刈るべし」

「その命、刈るべし」

 満身に槍傷を受けながら雑兵たちを始末した別のメソーラも、ゆっくりとやって来た。夕陽を背にした2体の影が、ザリッという足音とともに少しずつ、少しずつ愛美を覆ってくる。あと10歩ほどでその魔手が愛美に届く。そんな距離まで来たところで、我に返った愛美は必死で周囲を見渡した。

 この際、石ころでもなんでもいい。

 嫌だ。死にたくない。

 やっと、やっと彼氏が出来たのに。

 これから、これからなのに。

 だが、無情にも手ごろなものは何もない。真に絶望しかけた愛美の耳に祐輔の呻き声が聞こえ、うっすらと眼を開けたのがわかった。そして次に愛美の目に留まったもの、それは、彼の胸の上で震えているその右手と、先の衝撃でも吹き飛ばなかったらしい手札。

(……そうだ! これを投げつければ……!)

 愛美は手札を5枚とも祐輔の手からひったくると、

「やあっ!!」

 あと5歩まで迫ったメソーラたちに向かって投げつけた!

<< All hands assault >>

 祐輔の右手からのコール音が鳴るか鳴らぬかのうちに、青銅の鎧を着た戦士を先頭にした一団が立ち現われ、メソーラ2体に襲いかかる。

「なにっ!」「他人のアルテを!」

 この超至近距離ではさしもの"良い眼"も効かず、軍勢の吶喊に押し潰されて、メソーラたちは絶命の声も高く細く、堤防に散った。

「や、やった……やったよ、陽太君……」

 震えて、涙をこぼして。ひとしきりの脱力から回復した愛美が見たもの。それは、夜那岐と祐輔、浩二のそろって驚愕に満ちた瞳であった。夜那岐が言葉を喉から絞り出す。

「征城さん、あなた……」

 浩二の介助で祐輔が呼び出した女性が、4人を治癒する。外道部員たちの間に交わされる目配せの真意を測りかねていると、夜那岐が厳しい目つきのまま、愛美に手を差し伸べた。

「いったん、部室に戻りましょう」

 パトカーのサイレンが、夕闇の向こうから聞こえ始めた。

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