第5話 宴と影と読唇術

1.


「だからな――」

 ゴブレットの中身をクイとあおると、カエサルは続けた。

「ヘクトルを護衛に付けるというのが、そもそも悪手なのだよ」

 日が暮れて、疲れて辿り着いた祐輔のマンション。その玄関前に置かれたやたら重い荷物は、ヘブローマからの直送便だった。

 浩二に手伝ってもらって運び込んで開けた中身は、何やら暗褐色の液体入りのビン2ダース。

 説明の一片すらない不親切さに呆れていると、手袋を入れたポケットが振動。何事かと端を摘んだら、のぞき込まなくて幸い。カードの化身、それもJ、Q、K総勢12名が飛び出してきたのだ。

 夜那岐以外は度肝を抜かれて立ちすくむ中、化身たちは和気あいあいとゴブレットに液体を注ぎあい、どうやら輪番らしくアルジーヌがややどもりながら乾杯の掛け声に皆が唱和して、宴会が始まってしまった。

 このヴィーネという液体、化身専用の"魂の形を保持するためのエネルギードリンク"とやらで、もちろんヒトは飲用不可という代物。手回しよくかつ手際よく、夜那岐が緑茶を入れてくれた。それをみんなしてキッチンで飲んでいたら、ローマ人に呼び出しを食らって冒頭の反省会につながるというわけだ。

「なんでだよ」と祐輔は反論を試みる。

「あの時Jは1枚しかなかったんだから、仕方ないだろ」

「違うぞ、少年よ」

 と横から口を挟んできたのは、オッドアイ、つまり左右の瞳の色が違うマケドニア人。

「ヘクトル殿に雑兵を付けて、護衛隊を指揮させればよかったんだよ」

「そうそう。ヘクトルの戦歴、知らぬわけではあるまい?」

「調べたよ、このあいだ」

 祐輔はカエサルに答え、湯呑に口をつけた。

 ダイヤのJ、ヘクトル。トロイア戦争におけるトロイアの王子、つまり籠城側として奮戦した総大将である。最終的にアキレウスに敗北を喫して戦死したが、寄せ手のアカイア軍を敗走寸前にまで追い込むなど、武人としてだけでなく指揮官としても有能な戦士であった。

 要するに、ヘクトル個人ではなく集団を指揮させるべき、ということのようだ。祐輔は納得しかけたが、次の両人の一言にお茶を吹き出した。

「女性は優しく包み込むように守れということだ」「ま、俺なら女なんて守らないがな」

 ローマ人がマケドニア人をにらみつける。

「男色家は黙ってろ」

「あんな少女は対象外だろ? ハゲの人妻フェチさんよぉ」

「ハゲって言うな!」と騒ぎ出したローマ人の頭上で月桂冠の葉が揺れる。

(なるほど、確かにこいつはカエサルなんだな)

 ダイヤのK、ガイウス・ユリウス・カエサル(夜那岐が『昔はジュリアス・シーザーのほうが通りがよかったのにねぇ』とか言っていた)。共和制ローマ末期の政治家・軍人・文筆家である。

 共和制、つまり元老院による集団指導体制に事実上の終止符を打った終身独裁官であり、政治家としての手腕の確かさと軍略家としての目覚ましい活躍ぶり、そしてそれを自分で言葉にして広められる演説と文章の達人と、マルチという言葉が陳腐なくらいの万能ぶりを発揮した。

 若いころから一貫して民衆派として行動してきたため、大衆の人気も絶大。女性関係も派手で――といっても素人娘には手を出さず、遊びで済ませられる元老院議員の妻や未亡人、独身貴族との"交友"で浮名を流した、まさに俺TUEEEEEな漢である。

 だが、そのあまりの万能ぶりと実績があだとなる。彼が王位を望んだ時、止められる者が誰もいない。そのことに恐れおののいた共和制原理主義者たちは強硬手段を採用し、彼は元老院議場で暗殺された。享年55。のちに後継者オクタヴィアヌスの建議で、神に列せられる。

 そのカエサルの恐らく唯一の悩みが、ハゲ。元老院決議で、戦争の勝利者――詩鶴が以前呼んでいた『インペラトール』がその称号である――が凱旋式の時のみ被ることを許される月桂冠を『外出時には常に被って良い』とされて以来、本当に常に頭上にそれを戴いていたようだ。

「ちぃ、なかなか取れないな、これ」

「引っ張るな!」

 その月桂冠を涙目でかばうカエサルの隙を突いて、それを引っ張り落とそうとしてケラケラ笑うマケドニア人。祐輔の2倍以上の年齢とはとても思えないくらい子供っぽく見えるが、これが現実の歴史では"大王"なんだからな、と祐輔は湯呑片手に騒動を眺める。

 クラブのK、マケドニア王アレクサンドロス3世。22歳の時、宿敵であるペルシア軍を破った勢いそのままに、エジプト、中近東を支配下に収め、インドはガンジス川を越えて攻め込むなど一大征服事業を敢行する。が、その帰途滞在したバビロニアで酒宴の最中倒れ、33歳の若さで急逝してしまうのだ。

 その時重臣に託した遺言が、『最強の者が帝国を継承せよ』というもの。マケドニアで長子相続制が確立していなかったとはいえ、このハジけた遺言のせいで内乱が発生。彼の妻子を含む一族が皆暗殺か処刑される相克の果てに帝国が崩壊してしまうという、良くも悪くもアレな王様である。こんな厨2病テイスト満載の遺言を群臣に公表してしまう重臣もどうかとは思うが。

 ちなみにこの内乱――後継者ディアドコイ戦争――によってエジプト王となった配下武将・プトレマイオスの子孫が、カエサルの愛人として有名なクレオパトラ7世である。実に微妙な因縁の2人でもあるのだ。

 カードの化身、インカルナティオ。死後転生できないまま冥界を漂っていた彼らの魂の一部をサルベージして位相空間の狭間に封じ込め、祐輔たちスペシャルワンがI.A.でカードとして顕現させて、メソーラを攻撃する力の憑代として使用している。そのメンツは現代のトランプにおける絵柄のモデルと同じ、いや、むしろトランプのほうがこちらを真似たのだと夜那岐から説明されていた。

「ちーす、つまみ買ってきましたー」

 夜那岐に何か言われて外に出て行った浩二が帰ってきた。両手に下げるは近所のスーパーの買い物袋、その中身は、

「おおお! チーズだ!!」

 たちまち群がる化身たち。6Pチーズ、アーモンド入りチーズ、チー鱈がたちまち売れていく。

「あのー」

 もう笑うしかないという表情でそのさまを眺めて肩を揺らしていた浩二が、我に返ったように夜那岐のほうを向いた。

「この人たち、たしか呼び出すのに祐輔の体力を使うんすよね? あいつ、過労死しちゃうんじゃないすか?」

 夜那岐も笑いながらお茶を一口。

「大丈夫。セーブモードなのよ、今。軍装してないでしょ? 栄養補給の方法が、これしかないの」

 確かに全員、甲冑や剣を身に着けていない平服姿だ。特に女性は薄絹というか、布1枚しか身に着けていないように見え、祐輔だけでなく浩二もあまり凝視できない。そんな状況でも悠然と動けるのは、さすが女ったらし。

「アテナ殿はカマンベールがお好きでしたね」

 リビングに一対しかないソファ、その1つに泰然と鎮座まします少女は、スペードのQこと知恵と戦いの女神アテナ。カエサル自身が台所で切り分けてきたらしいカマンベールチーズを片膝付いて捧げると、軽く頷いてその一片を優雅な手つきでつまみ取った。50過ぎのオッサンが10歳に届くかどうかの少女に対してするには、いささか滑稽な光景ではある。

 マニュアルを読んで疑問を感じた『なんでギリシャ神話の神様まで魂が冥界にあるのか』という問いを、祐輔は既に夜那岐にぶつけていた。夜那岐の回答は、

『のちに神に列せられたカエサルと同じく、アテナもそのモデルとなった女性がいて、その魂のサルベージに成功したと言われている』

 そのあと続いた『だから残念ながら聖闘士は付いてないの』の意味は分からずスルーしたが、つまり神としてのアテナ本来の力はないということのようだ。

 今日の戦闘中に起きた事を夜那岐に話したら、アテナを出すと軍勢の士気が上昇する代わりに彼女を守ろうとして防衛一辺倒になってしまうため、アルテで強制的に攻撃を繰り出させないとメソーラが倒せなくなるらしい。なかなか使いどころの難しい化身のようだ。

 その少女がアルジーヌにも一片を取って与えると、

「ラケル殿、ユディト殿、そなたらにも1つ賜う」

 といささか地味な身なりの女性たちに向き直ったのだが。

「結構です」

 やや目をそらしながら2人の壮年女性は女神の下され物を断ると、カエサルたちとは別のグループに混ざりに行ってしまった。といってもさほど広くないリビングゆえ、大した距離ではないのだが。

「異教徒から恵まれるのが嫌なんだとさ」

 祐輔の表情を読んだのだろう、アレクサンドロスが言いながらカラカラと笑うと、ヴィーネを飲み干した。

「まったく、なんでこう排他的なのかねえ」というカエサルの嘆きに反応したのは、その横で大王に倣ってゴブレットを勢いよくあおったフランク人。

「まあボス2人がああですからね」

「……あんた、クリスチャンじゃないのか?」

 祐輔の呆れ交じりの問いに、ラ・イルは磊落に笑う。

「いいじゃねぇか! 酒はなぁ、楽しく飲めりゃ異教徒だろうが異民族だろうがなんだっていいんだよぉ!」

 確かにあっちの"ユダヤ・キリスト教グループ"は実に静かにヴィーネを酌み交わし、つまみもポソポソと口にしているよう見受けられる。つかこれ、やっぱ酒なのか?

(あっちはオバハンしかいないしよぉ)

(それが本音かよ!)

 ハートのQ、メラリの娘ユディト。アッシリア王ネブカドネザル2世が派遣した軍勢が彼女の住むベトリアを包囲したとき、その司令官のもとに『イェルサレムへの道案内をする』という偽りと色仕掛けで近づき、酒宴で泥酔した彼の首を掻き切って包囲軍を瓦解させた女性として旧約聖書に外典が立てられている人物。

 ユディト・コンプレックス、すなわち『自ら進んで強い男に身を任せたい強い願望と、それにもかかわらず支配はされたくはないという精神状態』を表す用語にその名が冠せられている。

 もう一人の女性はラケルといい、ユダヤ人の祖先ともいうべきヤコブの妻としてヨセフとベニヤミンを産んだ女性。ダイヤのQである。

 ……正直、クリスチャンでもない祐輔にはなじみの全くないお2人で、昨夜ネットで経歴を調べた時も『ふーん』以上の感想が出てこなかった。というか、Qの人選って。

「スペードがアテナ、ハートがユディト、ダイヤがラケル、クラブがアルジーヌ、か」

 詩鶴が、Qのラインナップを諳んじる。祐輔より遅れてリビングに出てきた詩鶴は、祐輔が作り置きしたカスタードプリンをさっきから黙々と匙ですくって平らげていた。

「正直、微妙なラインナップだな」

「能美さん、本人たちの目の前で、よくそんなコメントできるよな」

 浩二が祐輔に水を向けてきたが、その件については祐輔も同感だ。Qの4人は全て生前の経歴に関係無く治癒の担当であり、正直誰でもいい気がしないでもないからである。

「ま、しようがないんじゃね? 有名な女戦士ってヨーロッパにいないし」

 浩二は反論する。

「いるじゃん。ジャンヌ・ダルクとか」

「ほかには?」

 浩二は黙り込んでしまった。手持ちのプリンを食べ終わった詩鶴が、別のカップに手を伸ばしながら言う。

「ちなみに、ジャンヌ・ダルクが戦場で剣を振るったかどうかは不明だぞ?」

「ああ、旗持って金切声上げてただけみたいだしな」

 と祐輔が応じる。ラ・イルがこちらをチラとにらんできたような気がするが。

「ま、史実レベルで女戦士が実在してる国なんて、日本と中国くらいだから」

 夜那岐が、こちらも戸棚から持ち出してきたポテチをつまみながら話に加わってきた。

「あの、部長も詩鶴も、勝手に他人ん家のもの食わないでくださいよ」

「まったくだぜ(ボリボリ)」

「浩二、お前もだよ!」

「祐輔」と詩鶴が祐輔の意識を別方向へ誘う。

「あっちで何か揉めてるぞ」

 と見れば、先の戦闘で一瞬だけ出てきた王者と、ピンと跳ねた鼻髭の騎士が言い争っている。グループのメンバーは慣れているのか知らんぷり。

 アルジーヌにセクハラすれすれのお触りをしていたラ・イルが、制止するヘクトルの手を払いながら笑って言った。

「ほっとけほっとけぃ。シャルルのおっさんとオジェはいつもああだからよぉ」

 いや、おっさんて。祐輔はラ・イルを不審げににらむ。

「あんたの国のめっちゃ偉い人じゃないのかよ? 大帝だろ?」

 ハートのKに配されるはフランク王にして西ローマ帝国皇帝シャルル。日本人的には、正直彼はマイナー偉人だろう。パリ旅行経験者なら『ノートルダム大聖堂前に立つ銅像の人』、高校で世界史を選択した人なら『カール大帝、もしくはシャルルマーニュって名前で教科書に出てきた人』程度なのだから。

 だが、ヨーロッパでは知らぬ人の無い人気者らしい。盛んな軍事行動の結果、西欧と中欧を征服し支配したことにより現在のヨーロッパの原型を作ったこと、時の教皇により帝位を授けられたことなどが人気のポイントのようだ。

 もっとも皇帝になったところで支配地と富が増えたわけでもなく、それは教皇が自身の権威と権力を天下に、わけてもローマの教会と反目することおびただしい東ローマ帝国皇帝に示すための"イベントの景品"に過ぎなかった。おまけに、当時イタリア半島の沿岸において、人命と財産双方への多大な損失を与えていたサラセン人海賊への対処まで申しつけられたとあっては、まさに良い面の皮である。

 ではシャルルマーニュ自身の王国はと言えば、彼の死後に当時の慣行である分割相続によって、息子3人に分割されてしまう。なにより生前の指示で三分したのは大帝自身であり、その中部と西部がフランクという『国家』にまとまるために約600年間、諸人もろびと――子孫や王朝継承者たち、騎士や将軍、そして名もなき幾多の人々――の血と汗と涙が流されることとなる。

 そのシャルルマーニュが、大きく伸びをすると言った。

「さて、そろそろ戻るとするか」

 その言葉を潮に、ユダヤ・キリスト教グループだけでなく、ギリシャ・ローマグループも立ち上がると、祐輔のポケットに皆吸い込まれていく。

 後に残ったのは、ヒト4人と、ヴィーネの空き瓶多数。

 机上や床に転がる黒褐色の瓶を眺めながら、浩二がつぶやいた。

「どーゆー仕組みか分かんねーけど、大変だな祐輔」

 その言葉に、祐輔は力なく笑った。夜那岐と詩鶴が、後片付けを始めている。


2.


 翌朝の教室で、祐輔は愛美に声をかけられた。

「昨日は、その、ありがとう」

「ああ、うん」

 愛美のそこはかとなく上気した顔を、祐輔は衒いなく見つめることができた。どうせ彼女の心は彼のものじゃない。

 なんだかクラスの女子が、こちらをチラチラ見ながらクスクス笑ってる気がする。待ち合わせしているときも、笑われてたな。

(そりゃそうだよな。気合い十分の当て馬だもんな)

 カタカナ三文字なら、"ピエロ"か。

 背が低くて、ブサメンで、ガッチリしてて。性格悪そうな眼。かの"ストーカー"像は、今更ながらに思い起こせば、神田の真逆だったのだから、我ながら嗤うしかない。

 祐輔は軽く手を挙げて愛美に別れを告げると、クスクスの残響を振り払うために自席に座って目を閉じる。

 思えば、思春期を迎えてこの方、いつも周囲で笑われてた気がする。

 いい感じ、今度こそ、もしかして。そう思って一歩踏み出した途端、ガラスの壁にぶち当たって。へばりついた無様をまた笑われてたんだな、と実感する。

「スペシャルワン、か……」

 その歴史を紐解けば、特別な存在とやらは別して100年に1人の逸材とかの希少なわけでもなく、かと言って畑で穫れるかのように人材豊富であった時は一度もない。ゆえにかつては孤独を自ら選択した縁と、世に殉じるその意識の気高さと確かさゆえ、修道士や修道女からスペシャルワンが見出されてその任に当たったそうだ。

「世のため人のため、ね……」

「なぜ、たそがれてるのだ? 祐輔」

 かけられた声に右を向けば、詩鶴がいた。

「また笑われてるな、って思ったんだよ」

「ああ、あれか」と詩鶴が見やると、女子たちのさえずりは止んだ。

 椅子に座る祐輔の顔から頭ひとつ分くらいの高さにあるその小顔を見て、彼は問いかける。

「お前は、笑わないんだな」

「何かを一生懸命やってる人間を嗤えるほど、わたしは全知全能じゃない」

「へえ」という驚きは、祐輔の本心から出たもの。詩鶴の自己評価がそんな謙虚なものだったなんて。

「だからわたしはお前と同じ学校を選んだんだぞ?」

 かつての公言とは違う告白に、今度は声がでない。祐輔は思わず座り直して、自分の横で眼に光をたたえる少女をみつめた。

「お前は面白い。わたしの予測と演算など到底適わぬくらいな。それを観察して考察するのが、わたしの小3以来の愉楽なんだ。それを進路選択ごときで邪魔されてたまるか」

 そう言って、詩鶴はふんぞり返る。その得意顔を眺め(ブレザー越しに突き出された胸もついでに、あくまでついでに眺めて)、祐輔はため息をついた。そう悪い気分ではなくなっている自分に驚きながら。


3.


「あら」

 夜那岐が外道部の部室にはいると、後池警部補がいた。しかも帰り支度なのか、よれよれのトレンチコートに袖を通しかけて。

「よぉ。今日もここに詰めるつもりでいたんだけどな、ちと厄介な事案が発生しちまったから、戻るわ。右田川が代わりに来るから」

 後池は県警本部に勤務しているが、この事案の担当として賎機署に出向している身である。恐らく、彼でないと片付かないことが本部のほうで起こったのだろう。

 あそう、と一言で片付けて、夜那岐はティーサーバーから冷めかけの紅茶をマイカップに注いだ。立ったままカップから一口啜って、ふと振り向く。そこには、警部補がまだ佇んでいた。

「何?」

「いや……あんたとは長い付き合いだけどよ」

 夜那岐の視線にたじろがず、後池は続けた。

「変わらないな、と思ってな」

「あなたは……老けたわね」

 へっ。鼻で笑われたのも気にせず、夜那岐は問いかけた。

「奥さんはお元気?」

「ん? ああ、元気さ。余ってる元気を脂肪に変えるべく、今頃奥様仲間とケーキバイキングに勤しんでるぜ」

 それはそれは、の後が続かない2人の沈黙を、後池の部下・右田川うだがわが救ってくれた。

「失礼します! ……あれ、イケさんまだ帰ってなかったんすか?」

 部下の言葉に黙って手を上げると、後池は部室を出ていった。その後ろ姿を見送って、

「さて」とわざわざ声に出して、夜那岐は右田川巡査部長にお茶を勧めた。

「つかぬことを聞いていいすか?」

 立ったままで夜那岐が頷くと、右田川は湯呑みを両手で包み込んだ姿勢のまま、口を開いた。存外にハスキーな声だ。

「イケさんの若い頃を知ってるんすか?」

「……最近の警察は立ち聞きの推奨をしてるの?」

 右田川はとぼけた顔で問い返してくる。

「イケさんが若い頃は、そうじゃなかった。そういうことすか?」

「今も昔も、立ち聞きはモラル違反よ。……何が知りたいの?」

 ずずずっ、と音をたてて茶を啜る右田川。こちらは音も立てずカップを傾ける。

「イケさん、昔のこと語らないんすよ。でもあの人は絶対何か隠してる」

「なんで、そう思うの?」

「僕がこのあいだパクった奴がですね、今は強請りなんてシケたこと繰り返して出たり入ったりなんすけど、昔はそりゃもうやんちゃな御仁だったそうで」

 夜那岐の沈黙を続行許可と受け取ったのだろう、右田川の舌は回転する。

「そいつを署にしょっぴいてったら、ちょうど出てくるところだったイケさん見て、ガタガタ震えだしたんす」

 何事かと問い質しても明確な答えは返って来ず、『団長が、団長が』とうわごとのように繰り返すのみだった、と右田川は結んだ。

「団長が、か……」

 そのチンピラ、よっぽどこっぴどくやられたのね。夜那岐はそうつぶやくと、俯いていた顔を上げた。

「団長ってキーワードがわかってるなら、後池さんに聞けばいいじゃない。そうすれば――」

「そうすれば?」

「答えてくれるわよ。鉄拳で」

 ひゃーとおどける右田川を冷ややかに見捨てて、夜那岐は部室の中を見回した。……あれ?

「あそこに確か――」

「ちぃーす」

 祐輔と詩鶴、浩二が来た。

「ああ、あなたたちが持ち出してたの」

 夜那岐が認めた違和感の正体は、住宅地図が机上になかったことだった。

「すみません、後池さんに断って借りてました」

 と詩鶴が頭を下げる。その住宅地図を祐輔が、肩に担いできた大きなボストンバッグから出していた。

「ふーん、優しいとこあるじゃない」

「明らかに難儀してましたから」

 確かに、かなり小柄な詩鶴には、400ページはあるA3の紙の束は重かろう。祐輔に向かって素直にぴょこりと頭を下げる彼女の仕草も愛らしい。

 右田川が立ち上がって自己紹介をし、祐輔たちも自己紹介を返す。夜那岐は3人を机に招くとお茶を湯飲みに注いであげた。

「あー、マイカップ持ってこなきゃ」

 詩鶴が夜那岐の手元を見て声を上げるが、男子2人が乗ってこない。

「いるか? マイカップ」

「俺はどっちでもいいなぁ」

 その時、無線の呼び出し音がけたたましく鳴った。右田川がさすが警官という身のこなしで通信機に飛び付く。

「右田川す。……事案発生……名場弥2丁目…15番……」

 こちらは高校生らしいというべきか、2人で住宅地図に飛び付いて、見事激突する祐輔と浩二。その無様に呆れた表情の詩鶴が口を開いた。

「149ページ、Bの6だぞ」

 一瞬、部室の時が止まる。数瞬後、我に返った祐輔が、詩鶴に言われたページを開いた。

「……えーと、このページの――」

「南北に走る県道があって、西側にフラッグOSUMIっていうマンションがあるだろ? そこの手前を左に曲がって2ブロック行った所だな」

 詩鶴は言いながら立ち上がって、窓際の机上にあった携帯電話用のワイヤレスイヤホンマイクを祐輔と浩二に投げた。

「ここからなら自転車のほうが早いだろ。わからなくなったら誘導するから、電話して」

 戸惑いから立ち直って、駐輪場へと駆け出していく男子生徒たちを見送りながら、夜那岐はまた席に戻って端然と茶をすする詩鶴を見つめた。

「……まさか、住宅地図を丸暗記したの?」

「丸暗記じゃありません」

 とのたまう詩鶴の表情は『失敬な』と言わんばかり。

「昨日現地への誘導でもたついたので、地図に記載されている地名や住宅、マンション名とかの場所を憶えて、それ全てに行き着くための道路を全部、頭の中で繋ぎました。さすがに所要時間までは計算できませんけど……ああこの地図、1500分の1か。じゃあ8分弱ですね」

 あ、新味だと喜色満面になってポテチの袋を開け始める詩鶴を見ながら、いつの間にやら夜那岐の横に移動してきた右田川がこそこそと聞いてくる。

「あの子、何者なんすか?」

「天才ちびっ子――」詩鶴ににらまれた夜那岐は小さくごめんなさいをして、小声を再開した。

「天才ちゃんよ。趣味は佐上君の観察」

 微妙な顔になった右田川を置いて、夜那岐は立ち上がった。室内のモニターに映るカップルはこの高校の生徒のようだが、愛美ではないようだ。別のメソーラが現れたという情報も取りあえずはないが、万が一ということもある。

「わたしも出るわ。征城さんのほうの警護に行ってきます」

 こちらは中庭に向いた窓から出てすぐ跳躍する。愛美本人には黙って発信機を取り付けてあるから、いささか時間はかかるが探し回る必要はない。それにしても――

(こんなに連日メソーラが現れるようでは、増援を呼ばないといけないか……)

 ヘブローマの日本支部に相談を持ちかけるべく、夜那岐は跳躍を繰り返しながらヘッドセットを取り出した。


4.


 気配を消しながら家々の屋根を伝い跳びしていく。8軒ほど飛び越したところで日本支部が電話に出た。支部長に繋いでもらう。昨夜した状況報告に現況を追加し、増援を要請するが、支部長の口調は芳しいものではなかった。

『今、世界中で加速度的にメソーラの襲撃件数が増えてるの。もちろん日本でもね。ほかのスペシャルワンたちもてんてこ舞いよ』

 増援どころではない、と言いたいようだ。ならばそれを告げるだけでいいのに、支部長はまだ何かを言い出しかねているのが伝わってくる。夜那岐はその間を使い、追跡用の画面をチラ見した。愛美はゆっくりと北北東に、つまり彼女の自宅マンションの方向に向かって進んでいるようだ。

『このままでは――』

 支部長の声が硬い。

『" Festum Messis "が来るわ』

 夜那岐には、答えをひねり出す術がない。その沈黙を了解と受け取ったのだろう、別れの挨拶とともに通話は切られた。短く舌打ちをしてこちらも回線を切り、再び眺めた手元のモニター。そこには、愛美の光点が先程と同じ位置で止まっているのが確認できた。

 その事実が頭の中に染みるまで数秒、夜那岐は周囲の状況に気付き、素早く雑居ビルの屋上に伏せた。市街地に入りかけている。夕闇迫る時刻とはいえ、空がまだ明るい以上夜那岐の影は地上に映る。それを通行人に気付かれるのは避けたい。

(発信機が外れた、もしくはどこかの飲食店でくつろいでる、そのどちらかね)

 いずれにせよ、屋根伝いはもうできない。夜那岐は栄泉の術に切り替えた。栄泉は影潜の読み替え、すなわち影から影へと潜み泳ぐ術である。

 印を結ぶこと数秒で、ストン、いやトプンと音がしそうなくらい素早く夜那岐の身は雑居ビル屋上にできた影に潜った。あまり潜ると電波が届かなくなるため、影面すれすれを、呼吸用の筒をくわえて泳ぐ。

 5分ほど泳いで、ビルとビルの隙間でいったん顔と手を出すが、光点にまだ動きはない。

(取りあえずこの辺りのはずだから、虱潰しに探すか)

 そうつぶやいてから、夜那岐は気付く。ここから南に少し行った所で、祐輔が戦っていることに。彼を助けに行くべきか、それとも愛美を捜すべきか。空の暗さを見て、夜那岐は決断する。

(日没まであと10分ちょっとってとこか。これなら、メソーラ討伐をサポートすべきね)

 携帯を操作し、夜那岐は部室へと電話をかけた。

「あ、能美さん? 佐上君、今どの辺り?」

 彼女と佐内に防犯カメラからの位置情報を割り出してもらう。なにやら騒いでいる右田川の甲高い声にいらつく。そこから10秒ほどで、詩鶴から情報が携帯に来た。どうやら本当に住宅地図を頭の中に入れてしまったようだ。

(ある意味才能の無駄遣いね)

 また影に潜る。保存した地図データを頼りに泳ぐこと3分弱、祐輔とメソーラが言い争う声が近づいてきた。

『くそぉ! 今少しのところをぉぉ!!』

『これで勝負だ!』

 夜那岐が影から顔を半分だけ出すと、白衣の騎士が長剣と盾をかざしていた。背後に隊列を形成している雑兵たちが雄叫びを上げて、先頭を駆け出した騎士の号令一下突進していく。その先にはすでに満身創痍のメソーラ。

「フラッシュが出たのか……」

 同じマークにより構成されるフラッシュは、KやJと組み合わせることで、いわば"統制のとれたリンチ"へと変わる。ペア系のアルテが王や騎士の功名争いの感があるのとは大分違う。

 合計4腕を振り乱しての抵抗も虚しく槍を多数突き立てられたメソーラの首を白衣の騎士が刎ねて、戦闘は終了した。

 一息ついて、それでも用心のため周囲を見渡す。ほかにメソーラはいない。

(それにしても、本当にカードの引きがいいわね、佐上君)

 それは、決して喜ばしいことではない。強いアルテの発動は、体力の消費も激しいのだ。現に遠目で見る限り祐輔はぐったりして、浩二に肩を支えてもらいながら歩いている。メソーラが遺したフラクトゥス・アモリスを回収しに行くようだ。

 そこまで見て、やっと夜那岐は気づいた。戦闘が終わって規制区域に入ってきた警察官たちの傍らに、うずくまる男子高校生と、彼の背にすがって何やら叫んでいる女子高校生がいることに。メソーラの被害者がいたのだ。

(間に合わなかったか……)

 あの様子からすると、男子高校生のほうはフラクトゥス・アモリスをメソーラに抜かれてしまったと思われる。彼が失神から目覚めた時、彼女は自分をもはや愛してくれないただの男子高校生を目の当たりにすることになるのだ。

(あの女子のケアが必要ね)

 ヘブローマ日本支部に連絡し、女子高校生へのケアを要請した。それは夜那岐たちコーディネーターの仕事ではないし、夜那岐にもどう処置したらいいのかは分からない。

 連絡を終えて祐輔を探すと、浩二と2人して自転車を押しながら学校へ戻る道をたどっていた。夜那岐から遠いため声こそ聞こえないが、なにやら浩二が話しかけ、祐輔が答えている。読唇術で読み取れないこともないが、

(もうメソーラも出ないんだから、京郷君も帰ればいいのに。ああ見えて面倒見がいいのかしら)

 追い付いて声をかけてやろうと夜那岐が動きかけた時、2人の歩みが止まった。何かに気づいて頭を巡らせた祐輔の、どうにもやるせない顔。その視線の先を追った夜那岐は、祐輔たちから100メートルほど離れた橋上を歩く男女を見とめた。

 男子高校生の物慣れた笑顔に比べて女子の、愛美のそれはまさに輝くよう。喜びの中にほんの少しの恥じらいを混ぜたその顔を、夜那岐はどうしても正視し続けることができなかった。

 夜那岐が橋の上の嬌景から眼を背けると、自然その眼は祐輔を視界に入れることとなる。達観すら超え、うっすらと微笑みすら浮かべたスペシャルワンを。その唇が、何事かを紡いだ。

 『よかった』か。『おわった』か。

 今度こそ読唇術を使う気になれず、夜那岐は自らの未熟さを隠そうと影に潜った。

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