第3話 独寥のスペシャルワン

1.


 朝、教室に入った詩鶴は、そこに大興奮の渦ができていることに気づいた。

 手近な女生徒に朝の挨拶をする間もなく、1人の男子が上気した顔で近づいてくる。

「おはよう、能美さん。ちょっといいかな? 聞きたいことがあるんだけど」

 その男子――浩二の勢いに負けて詩鶴が無言で頷くと、

「これ、なんて生き物か知らない?」とレポート用紙を見せてきた。

 どうせUMAの類いだろう。そう思いながら覗いた手書きの絵。答えは、

「ヘタだな」

「いや、そこじゃなくて」

 浩二は苦笑いすると、説明してくれた。これに昨日の夕方、襲われたのだという。付き合ってる彼女共々。

「あたしらも正直信じらんないんだけどさ」とはクラスメイトの弁。

「メグちゃんまで真っ青になってるし」

 メグちゃんまで? だが、詩鶴は即答する。

「わからないな。人型なのに、手が4本なんて、聞いたこともない」

「そっか……」

 浩二は肩を落とすと、こうつぶやいた。

「祐輔のやつ、やっぱこいつにやられちまったのかな……」

 祐輔? 詩鶴は腐れ縁男子の姿を探して、ぐるりと教室を見回した。

 いない。

 浩二曰く、祐輔ともう1人、3年生の先輩が愛美をかばいつつこの怪物と対峙していたのだが、突然怪物の動きが止まったのを機に先輩の勧めで彼女と揃って街まで逃げたのだと言う。

「ま、なんかあったら警察が騒いでるだろうし、大丈夫なんじゃない?」

 クラスメイトの出した結論はおおむねそんな感じ。だが、詩鶴には何かが引っ掛かる。何か言いたそうな愛美の仕草も。だがその思念も、クラス担任が教室の戸を開けたことで遮られた。

「せんせー、佐上君が来てませーん」

 礼をした後、クラス委員のご注進に担任は答えた。

「体調不良で休みだ。えーと、もうすぐ期末試験だが――」

 怪物のことや不在者のことなどすっかり吹き飛び、クラスメイトたちはうげー、なんて言いだした。さもありなん。彼ら彼女らにとって、試験というものは難行苦行なのだから。

 だが、詩鶴にとって高校の試験なぞ、授業と自習で得た知識の確認作業でしかない――いや、同級生とは別の意味での苦行は存在する。

『問題文をざっと読んだだけで正解が頭に浮かぶのに、それに至る過程を逐一書かねばならないなんて時間の無駄だ』

 という彼女の主張は、残念ながら教師連に受け入れてもらえなかった。

 よって、試験時間中しか苦行が課されない彼女は、今考え込む。

 あの健康優良児――インフルエンザはおろか鼻風邪すら引いたことがない、頑健にもホドがある鉄の身体の持ち主が、体調不良だと?



「メグちゃん」

 昼食を終えて、詩鶴は教室を出て行こうとする愛美に声をかけた。

 サラサラの髪を揺らして振り向いた愛美に、詩鶴は彼女の顔を見上げて問いをぶつける。

「昨日のこと、詳しく聞かせてもらえないかな?」

 途端、愛美の童顔が青ざめる。唇までわななかせながら、愛美は声を絞り出した。

「……わかんない」

「わからんとはどういうことなのだ? 見たまま聞いたままを――」

「佐上君は無事! あれは逃げちゃった! 以上終わり! もう聞いてこないで!」

 詩鶴が止める間もなく、愛美はぷいと身体ごと出口のほうを向くと、教室を出て行ってしまった。

「ふむ……」

 クラスメイトの視線をいくつか感じながら、詩鶴は形の良いあごに手を置いてしばらく考えていたが、次の目標に向けて教室を出た。向かうは3年生の教室の1つ。昨日祐輔と一緒にいたという先輩の名と人相風体は、浩二から既に聞き出していた。

 カップルを再々避けながらたどり着いた3-Aで、詩鶴は風紀委員のOBを見つけて声を掛ける。

「狗噛先輩はいますか?」

「きょうは休みだよ。体調不良だってさ」

 また体調不良、か。

 詩鶴は先輩から、狗噛夜那岐というその先輩がほんの3ケ月前に転校してきたこと、今日まで欠席をしたことはないことなどを聞き出してその場を辞した。

 しかたがない。祐輔の家を訪ねるか。携帯にかけても出ないしな。

 詩鶴の考察――事件の匂いとか女の直感なんてあやふやなものではない、天才の超論理的飛躍――が導き出した答えは一つ。

 『祐輔の戦いに、私も参加する』

 詩鶴は意気揚々と、教室へ戻った。午後の授業が始まろうとしている。


2.


 風紀委員の業務を終えて、詩鶴は祐輔の住むマンションへと向かった。途中でケーキ屋に立ち寄り、クレームブリュレを3つ――自分、祐輔、夜那岐のため――買うと、行程を再開する。

 結構向かい風が強く、小柄な彼女は一生懸命歩を進めた。

(くっ、リボンがひしゃげてしまう!)

 まだ目的地まで結構あるのに。だが詩鶴の苦闘は、意外な形で終焉を迎えた。

 突風による砂埃を避けようと顔をそむけたら、その視界に祐輔を捉えたのだ。児童遊園のベンチに座って、寒さに身を縮めるでもなく、そろそろ茜色から夜の闇に染まり始めた空を見上げて動かない、幼馴染を。

「こんなところで、何をしているのだ?」

 近寄ってかけた詩鶴の言葉に、祐輔はゆっくりと反応した。

「……よう、詩鶴」

「説明しろ」

「……やっぱ、そうくるか」

 でもな、と祐輔はのんびりと立ち上がりながら言った。

「百聞は一見にしかず、だぜ」

 祐輔がゆっくりと指さす左手の先、そこには――

「今日は1人か! スペシャリテ! その命、今日こそ刈るべし!」

「あの絵、結構ポイントを突いていたんだな」

 詩鶴はそんな感想をつぶやきながら、素早く動いて祐輔の背後に回り、異形の者への視界を開けてやる。自分が荒事に向いていないことを十分自覚しての所作だった。

「詩鶴、もうチョイ下がってろ」

 と祐輔が言いながらダウンジャケットのポケットから取り出したのは――手袋?

 ちょっと?! なにしてんのよ?! ……なんて、素っ頓狂な金切声を出す詩鶴ではない。異形の者と戦うには、意表を突いたアイテムは必須。ここまでは、彼女の考察範囲内である。

<< Incarnations Armamemt >>

「……ほう」

 祐輔が拳を握りしめると、着装した手袋が発光して、囁きにも似た落ち着きのある女声を発した。そのまま手首を振ると、すぐその手にカード上の物体が出現する。それは5枚のトランプだった。左から、

 スペード9 ダイヤ2 ダイヤK スペードJ ダイヤJ

 と見える。

「取りあえず、これか!」

 祐輔は9と2を抜くと、こちらに向かって来ていた異形の者目掛けて投げつけた。トランプはくるくると回転しながら膨張して形を変え、いかにも雑兵といった趣の槍兵が11人、異形の者目掛けて突っ込んでいく。

「ふん!」

 異形の者の背中から生えた2本の腕、その先に生えた鎌がうなりを上げて振り回され、雑兵が4人、あっという間に斬られて消滅。残りの雑兵のうち、3人は異形の者にかまわず走り抜けてしまい、残り4人の槍先がようやく異形の者の身体に届くに留まった。

「大したことない攻撃だな。もっと何か趣向はないのか?」

「んなこと言ったって、引いてくるカード次第なんだから、しようがねぇんだよ!」

 詩鶴の批評に反論しながら、異形の者の突進を避けるべく左に回り込む祐輔。移動しながら、またさっきの手順で手元にトランプを作り出している。

「おいこら、わたしを置いてくな!」

「ああもう! 取りあえず帰れよ! 終わったら説明するから!」

 詩鶴の右のほうで悲鳴が上がる。夕方の散歩だろうか、親子連れが公園の入り口にいた。悲鳴はどうやら母親の口から発せられたようだが、

「わ! 祐輔!」

「大丈夫! こいつらは関係者以外襲わないんだってよ!」

 異形の者の攻撃を避けながら、祐輔はまた雑兵を作り出し、突撃させた。だがこれも数が少なく、半数以上が異形の者の迎撃で討ち取られてしまう。そして――

「そこの女!」

「……わたしか?」

 異形の者が詩鶴のほうを突然向き、怒鳴ってきた。その表情はまさに強面というにふさわしい。

「貴様もこのスペシャリテの仲間か!」

 勘違いしたのか、子供を抱えてダッシュで逃げていく母親。その遠ざかる悲鳴を聞きながら、詩鶴は莞爾と笑った。

「そのとおりだ」

「おい! 関係者以外は襲わないって言ってんのに!」

「じゃあ――」

 詩鶴は自他共に認める豊かな胸の前で腕組みをして、ふんぞり返った。

「護れ、祐輔」

「ああもう! えーと、こいつしかいないか!」

 祐輔が手札を1枚抜く。<< King of diamond "Caesar" >> と手袋のコールに乗って投げ放たれた手札は宙を飛んで、詩鶴のちょっと手前で地面に落ちた。

「お前、カード投げへたくそだな」

「うっせぇ!!」

 と叫びながら迫ってきた異形の者の攻撃をすんででかわす祐輔。その間にも、地面に落ちたトランプはにょきにょきと成長し、人型となった。その後姿に、詩鶴は思わずつぶやく。

「ローマ人……まさか、カエサルか?」

 おりからの風にたなびく、頭上に頂いた月桂冠と真紅のマント。風をはらむマントの下に着用している鎧はちらちらとしか見えないが、複雑なレリーフを配した胸甲と鎖帷子双方に銀をかぶせた豪華なもの。それが夕日に照り映える様は、一幅の古典絵画のようだ。住宅街のど真ん中にある児童遊園が背景でなければ、だが。

 壮年のローマ人はグラディウスをすらりと抜き放つと、やや後ずさりながら詩鶴に声を掛けてきた。

「どうやら私に君を護れということらしい。背後から出ないでいただきたい」

「了解した、インペラトール」

 詩鶴の返答に、ローマ人は横目で彼女のほうを振り返り、にっと笑った。

「ふむ……その名で呼ぶか、少女よ。ならば、さっさと終わらせようではないか。小僧!」

「なんだよ!」

 とまた雑兵を召還してしのいでいた祐輔が、ローマ人に怒鳴り返す。

「今の手札を教えろ」

「なんでお前に――」

「祐輔!」と詩鶴は叫んで口添えをする。

「黙ってカエサルの言うとおりにしろ!」

「なんで――わあっ!」

 こちらに気を取られている隙に、異形の者に雑兵を切り捨てられたうえ、迫撃されていた祐輔。最初の一撃は後ろにすっ転んでかわしたが、続いての刺突は横に転がるのが遅く、わき腹を鎌がかすめてしまった。

 くぐもった悲鳴を上げながら、ほうほうの態で距離をとる祐輔。すぐに雑兵を召還して目の前に壁を作るのが限界で、地に片膝を突いてしまった。異形の者は雑兵をすぐに蹴散らしに来るかと思いきや、なにやら躊躇している様子。まっすぐ攻めることしかできないでいた雑兵が、ローマ人が右手を掲げた瞬間きちんと隊列を整えて槍衾を形成していた。

「小僧、大丈夫か?」

「ああ、なんとかな。痛てて……手札、だったよな」

 わき腹を押さえながら祐輔がローマ人に告げてきた手札は、

 ハート5 ダイヤA クラブK スペードJ ダイヤJ

「よし! ここで男色家が出てくるとは、お前中々強運だな!」

 指をパチンと鳴らしたローマ人は、祐輔に矢継ぎ早に指示を出し始めた。

「5枚全部を同時に投入しろ! そうしたらすぐにカードの補充! 補充したカードですぐに増援!」

「指示が多い!」

「祐輔! いいから、カエサルの言うとおりに!」

「分かったよ! 行け!」

<< Sledgehammer >>

 手袋のコールとともに祐輔の左手から放たれた5枚のカードは、劇的な変化を見せた。

 先頭切って飛んだ1枚のカードは、黄金の胸当てに黒いマントを羽織った騎士へと姿を変えた。

 それに続く2枚のカードはそれぞれ青銅の鎧の騎士と、鎖帷子に白いチュニックの騎士へと変化。そのあとに続く5騎の騎兵とともに、Aが分化した槍を構えて――

「……あれ?」

 騎兵団は異形の者の遥か右を猛スピードで走り抜けていってしまった!

「ガハハッハハッ、よし! スペシャリテ、今こそ死すべし!」

「わ! いけね!」

 祐輔は騎兵団の行く末に気を取られて、手札の補充を忘れていたらしい。慌てて右手を振るが、異形の者が兵士の壁を切り崩すスピードのほうが速い。だが、その時。

「はっ!!」

 詩鶴の後ろに生えている大木の梢から女性の声が飛び、次いで棒状のものが2本、異形の者目掛けて立て続けに放たれた。棒は異形の者の足下近くへと突き刺さり、

「遅いっすよ! 先輩!」

「ごめんごめん、読みが外れたわ」

 詩鶴の横に、すとんと立つ者、それは。

「もしかして、狗噛先輩?」

「ん? そうだけど」

「で、あれはもしかして、影縫い?」

「あら、わかるの?」

 夜那岐が面白そうな眼つきで、詩鶴を眺めてくる。

「いやまあ、あれを見れば」

 詩鶴が指さす先、そこには、双鎌を振り上げたまま固まっている異形の者の姿があった。

「ぐぉぉぉぉ、またしても仕切り直しか!」

 苦悶の表情を浮かべて震える異形の者の背後に、ぽっかりと裂け目が現れた。

「やべぇ! おい、前進して攻撃――「まだだ」

 慌てる祐輔に釘を刺したのは、もはやグラディウスを鞘に戻し、悠然と腕を組むローマ人。

「あの騎兵突撃フリークが、タイミングを外すわけがない」

 そうひとりごちたローマ人の指がパチンと鳴ると同時に、先の騎兵団が異形の者を背後から襲う! 吶喊の歓喜に顔を輝かせている、陣頭の黄金の騎士。その顔、いや眼は、詩鶴にある人物を思い起こさせた。

 ローマ人の号令一下、雑兵たちも槍先を揃えて、背後に気を取られた前方の敵に突きかかる。捨て鉢な抗戦も虚しく前後から突き立てられて体中に穴の開いた異形の者。その絶叫は長く続き、やがて不意に途絶えてその身は塵と化した。

「あの眼はオッドアイ……男色家……ということはアレクサンドロスか」

 形の良いあごに指を当ててつぶやく詩鶴の目前で、異形の者とローマ人たちが消えていく。詩鶴は急いで声をかけた。

「護ってくれてありがとう、インペラトール。楽しい時間だった」

 消えかかっていたローマ人が振り向き、にっと笑って手を挙げながら夕闇に溶け込んでいった。

「えーと、能美さん、だったわね? あなた」

「あのー、先輩、ちょっといいすか?」

 夜那岐は詩鶴に何かを聞きたかったようだったが、横から祐輔が割り込んできた。なぜかぎごちない仕草をしながら彼の差し出した手のひらが光っている。

「わ、けっこう溜めてたのね、あのメソーラ」

 それは、全長5センチほどの八面体だった。鈍く、しかし黄金色にしっかりと光る、金属とも輝石とも言いがたい何か。祐輔の手の上には、それが6つ乗っていた。

「それがフラクトゥス・アモリスよ。まあ取りあえず、佐上君が持っとけばいいんじゃない?」

「フラクトゥス・アモリス? 愛の結晶ってなんですか? メソーラって、収穫する人のことですよね?」

 詩鶴の疑問は、祐輔と夜那岐の沈黙を生んだ。

「……えーと、佐上君?」

「はい?」

「この子、なんでここにいるの?」

「天才チビッ子だからじゃないすか?」

「チビッ子言うな!」

 祐輔のわき腹にフックをお見舞いする。劇的。彼はうずくまってしまった。

「あーあ、メソーラに抉られたところなのに。佐上君、ラケルかアルジーヌ出して治癒してもらって」

 夜那岐の言葉に、詩鶴は今使った左拳を見た。そこには、公園の防犯灯の暗い明かりでもよくわかる、祐輔の血が付いていた。

 その赤黒い生々しさ。それだけが、詩鶴が今体験した戦いのリアリティだった。


3.


 祐輔の部屋に上がりこんで、強風でまたもひしゃげたリボンを直していると、リビングのソファにぐったりしている祐輔の代わりに夜那岐がロイヤルミルクティーを入れてくれた。

「――てことは、佐上君のお仕事のお手伝いがしたい、ということね?」

「はい」

「なんで?」

「知的好奇心です」

 私は何か難しいことを言ったのだろうか。テーブルを挟んだソファに座った夜那岐の表情は硬い。

「詩鶴ちゃん?」

「はい?」

「『好奇心 猫を殺す』って言葉、知ってる?」

 詩鶴は元気よくうなずいた。

「あなたの身を守るすべは、何もないのよ?」

「大丈夫」

 そこは自信がある。

「祐輔が護ってくれますから」

「あらあらまあまあ、佐上君てばオットコマエ!」

 その冷やかしに、詩鶴の横にいる祐輔がむっくりとソファから首だけをもたげた。

「先輩、分かって言ってるんですよね?」

「当たり前じゃない。私はコーディネーターよ?」

 というわけでと前置きして、詩鶴はミルクティーを一口すすると居住まいを正した。

「最初から説明してください」

「いいわよ」と夜那岐はなぜか複雑そうな表情をした。

「佐上君の復習も兼ねて、ね」

 視界の端の祐輔がびくりと震えた気がしたが、詩鶴は眼前にタブレットを持ち出した夜那岐の姿に集中した。

「まず質問なんだけど、詩鶴ちゃんは"ベビーブーム"の定義を知ってるかな?」

「特定の地域で一時的に新生児誕生率が急上昇する現象、ですね。原因としては、社会的な緊張が高まって人々に子孫を残そうという機運が高まったりとか、逆に戦争など国難が終結して安堵した人々が子作りに励むとか、そういったものだと記憶しています」

「そのとおり。でも」と夜那岐がいたずらっぽい顔になった。

「それだけでは不十分なの」

「というと?」

「だって、わたしたちはケモノじゃないのよ? いくら子作りがブームになってるからって、誰彼構わず盛って、ウサギみたいにポコポコ子供を産んでるわけじゃないわよね?」

 ポコポコ……詩鶴は少し顔を赤らめながら、こくりと頷いた。

「つまり、そこには愛が介在していたと」

「そう」夜那岐もミルクティーを口に含んで、説明を再開する。

「それも偏在的な愛が、ね」

 夜那岐曰く、その"偏在的な愛"は場所や時を選ばず、この世界に突如として溢れ出すのだという。それも短かくて半年、長ければ10年あまりの長きに渡って。そのあふれ出す地理的範囲も様々なのだと夜那岐は言う。

「つまり――」ミルクティーを飲み終えた詩鶴は、買ってきたクレームブリュレとスプーンを手に取った。

「我が高校が今まさにそのラブ・フィーバー状態だと、そうおっしゃる」

「んふふ、佐上君もだけど、察しが良くて助かるわ」

 そして、と続けた夜那岐の表情が引き締まる。

「そのラブラブチュッチュな奴らを狙って現れるのが、さっき佐上君が倒したメソーラ、収穫者たちよ」

 彼らは他の時空に巣を構えている女王の、いわば働き蜂役。十分にカップルが育てた愛の結晶、フラクトゥス・アモリスを狙って現れるのだそうだ。あの夕方と夜の境目、逢魔が時に。

 あれを巣に持ち帰り、幼生に食べさせるらしい。詩鶴は食べる手を休めて、疑問を口にした。

「あの八面体を取られてしまったカップルはどうなるんですか? また一からやり直し?」

 夜那岐は頭を振った。

「それなら、よかったんだけどね……」

 夜那岐はため息をつくと、ミルクティーを飲み干した。

「フラクトゥス・アモリス、もうめんどくさいから結晶って言い換えるけど、それは他人を愛し、他人から愛されるための心の核であると推測されているの。そしてそれをメソーラが収穫する時、相手の精神から無理やり引き剥がしていく。その結果――」

 話しながら取ったクレームブリュレをテーブルに置いて、夜那岐はまたため息をついた。

「結晶を奪い取られた人間は、以後他人を愛せなくなってしまう。他人から愛されることもなくなる。核となるものがなくなってしまうから。残りの生涯を上っ面だけの交友関係で終わらせる、孤独で寂寥な人生になってしまう……そうやって多くの住民が心から結晶を奪われた結果、衰退もしくは滅んだ都市国家や文明が過去にいくつもあると見られているわ」

「なるほど……結婚や子作りをしない人間の増加で国力が低下するわけか……」

 つい2世紀ほど前まで、人口イコール国力だったわけだしな。詩鶴はそうつぶやくと、夜那岐に説明の続きを促した。

「このメソーラによる襲撃は、古代ギリシャ人によって対応が模索されて、続くローマ帝国の時代になってようやく対抗策が確立したの」

 メソーラ本体には通常の攻撃は通用せず、これは携行火器の発達によっても変わらない。なぜならそれの登場に適応して、メソーラも堅牢化したから。戦車による砲撃での撃破例はあるそうだが、まさかメソーラが現れるたびに戦車を繰り出すわけにはいかない。

「一般的に、メソーラは認知されてないしね。ま、火薬なんてチートアイテムのない古代ローマの人たちがどうやってメソーラの撃破法を発見したかと言うと、ある偶然がきっかけだったの」

 ギリシャ地方のとある村を通過しようとしていたローマ軍が、メソーラを撃退している男を目撃した。彼を援護したローマ軍の指揮官はアテナイの大学に留学経験があり、メソーラのことを知識として持っていた。男は重要人物としてローマへと丁重に送られ、彼の体験と能力をもとに、ローマ文明お得意のシステム化による対策がその緒に着くことになる。

 男は、自らの体力を想念上の剣に変えて戦っていた。だがそれでは、戦闘終了まで剣を手元に維持し続けなければならない。男は疲れ知らずのタフガイであったが、同様の資質を持つ男女はそうとは限らず、体力切れで戦闘中に絶命する者が続出した。そのため、体力消費をより短時間に限定し、かつ威力を増すべく改良が続けられた。その結果が、

「あの手袋、"Incarnations Armamemt"、略してI.A.なのよ。I.A.を手に装着して振ることで、あなたがさっき見たトランプを生成する。その組み合わせでさまざまな効果を発現させてメソーラと戦っている、というわけ」

「いくつか、質問があります」

「速っ!」

 なぜか夜那岐に驚かれた。

「まず、I.A.を製造し運用しているのは、どういった組織なんですか?」

「人類虚無化阻止対策機関、英語の頭文字を取ってHEBloMA(ヘブローマ)と名乗る組織よ。本部は100年ほど前からアメリゴに移ってるわ」

 用語のほとんどがラテン語のままなのは、移転前の本部が開設以来ローマに置かれていたかららしい。

「狗噛先輩の立場はなんですか? さっきコーディネーターと言われてましたが」

「わたしは――」

 夜那岐が言いよどむ。相変わらずへたれたままの祐輔を見つめて。

「俺のことは気にしないで。どうぞ」

 片手を上げてひらひらと振る。祐輔の仕草にも夜那岐の表情は晴れなかったが、やがて意を決したように口を開いた。

「わたしは"スペシャルワン"を見つけ出して、彼らにI.A.を与え、その戦闘を補助する役をやっているの」

「"スペシャルワン"? メソーラは"スペシャリテ"って……ああ、意味は同じか」

 特別な存在。特異体質とかそんな感じを婉曲的に表現したのだろうか。

「そのスペシャルワンでないとI.A.は扱えないんですか?」

 詩鶴の問いに対する答えは横から来た。祐輔が気だるげに持ち上げた右手。そこにはI.A.によって扇状に開かれた5枚の札があった。

「つまんで投げてみな。先輩に向かって」

 頷いて1枚を指でつまみ――上げられない。指が札をすり抜けてしまうのだ。次に、祐輔はI.A.を貸してくれたが、詩鶴がはめても札は出てこなかった。というかI.A.そのものが無反応だった。

「むー……てことは、わたしの役割はサポートか」

 詩鶴は少しだけ思考を巡らすと、夜那岐がクレームブリュレを食べ終わるのを待った。タブレットを操作しながら食べるのはいささか行儀が悪いな、と思いながら。

「ああ、ごめん。待ってくれたのね」

「いえ。それで、祐輔がスペシャルワンであることは、どうしてわかったんですか?」

 詩鶴の質問は読まれていた。夜那岐がくるりとタブレットの画面をこちらに向けてきたのだ。

 液晶画面には、『賎機高校非公式サイト』と題されたホームページが映し出されていた。

「これ、見たことある?」

「いいえ」

 と詩鶴は即答した。高校内のくだらない噂や特定の人物に対するネガティブ・キャンペーン、それらが書き込まれている掲示板があると聞いたことがある程度だ。

「それの、『生徒相関図』に移動して」

 言われて詩鶴は画面の該当リンクで指をタップさせた。やがて現れた画面は黒地に白い枠が所狭しと配列された画面。枠内には人名が書いてある。そして赤や黄色の矢印がその枠、いや人名から人名へ乱れ飛んでいる。正直見づらい。

「……これが、何か?」

「1年生のページが出てるわよね? 佐上祐輔、を検索してみて」

 夜那岐の声は、硬い。

 ブラウザの検索機能で祐輔の名前を入力する。タッチパネルの反応の悪さに戸惑ったが、なんとか入力を終えて、検索ボタンをタップ。

「その矢印はね、この非公式サイトに投稿された、誰それは誰それに好意を持っているっていう書き込みをもとに作成されて、日々更新されているの」

 画面中央に表示された祐輔の名前入りの白い枠を一瞥して、詩鶴は声を失う。祐輔の名前から伸びる矢印は、愛美のそれに伸びている。でも、祐輔に対して伸びる矢印は――

「無いでしょ?」

 夜那岐の説明が、まるで死の宣告のように詩鶴の耳に響く。

「あんなにホレタハレタで毎日大騒ぎの高校なのに、佐上君に好意を寄せるのは誰一人としていない。ゆえに彼は……スペシャルワン、なの」

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