第2話 出現、収穫者
1.
翌日も、祐輔は東門で愛美を待った。
そろそろ北風が葉の散った桜の枝を揺らす季節。正直寒い。
祐輔の前を通る女子3人が、くすくす笑いながら彼をちらっと見た。そして、またくすくす。
(もしかして、噂になってるんだろうか?)
確かあれ、バレー部の女子だよな。祐輔がそんなことを考えていると、
「よっ! お疲れ」と死角から声をかけられた。振り向くとそこにいたのは、ひと組のカップル。男子のほうはすらっとした上背に爽やかなツラを乗っけたクラスメイトで、女子は小柄で細身のメガネっ娘で、隣のクラスの女子だ。
男子――浩二は祐輔に近づくと、馴れ馴れしく肩に手を置いてきた。
「征城さん待ってんだろ? 寒ぃのによくやるよ」
「っせーな」
祐輔が、肩に置かれた手を払いたい誘惑に耐えていると、別れの挨拶をした浩二は彼女に促されて学校を後にした。メガネっ娘がさっそく浩二にひっついて帰っていく。
(寒ぃのによくやるよ、か)
そりゃ、あんだけイチャラブしたら寒くないんだろうな。溜息をついた祐輔の胸に、なんともいえない苦味が沸く。それは中学3年の時、あのメガネっ娘――山本に告白して見事爆死したことも加味されているに違いない。
あの時の山本の(え? なんでわたし?)に(ご冗談を)を足して2分の1で割った表情は、あの惨事の直後夢にまで出てきたまさに黒歴史。物心付いてからこのかた一度も告白が実を結んだことのない祐輔にとって、幾たび経験しても慣れることのない、お決まりの暗黒イベントの1つとして心に刻まれている。
祐輔はため息をついてうつむいた。と、その時、祐輔のセンサーに感有り。
「ちょ、ちょっと!」
愛美がまた、東門で待つ祐輔をパッシング。声を掛けられてびっくりして立ち止まるところまで昨日と同じ再現っぷりに、祐輔はまた一つ溜息をついた。
小走りで愛美に追いついて、ナイト業を開始する。相変わらず話題を振ってもノリの悪い愛美。そして、今日は競歩の練習ですか? というくらい、愛美が早足で家路を急ぐ。
何で急ぐのか分からない。分からないけど、とりあえず遅れないようにと付いていく祐輔は思う。
(なんか、オレがストーカーみたいだな)
あんまり急ぐものだから、東門を出た時には見えなかったサッカー部の連中まで追い抜いてしまったではないか。すると、愛美の歩く速度が緩んだ。
「ごめんね、意地悪して。でも、ちょっと噂になってるみたいだし、学校から早く離れたかったの」
ああ、なんだそういうことか。祐輔が安心していると、愛美が祐輔を見つめてきた。そして、センサーが今度は背後の視線を捉える。
祐輔が振り向くと、サッカー部の男子が1人、こちらを凝視していた。いや、こちらというより、愛美に用がありそうなまなざし。
「神田、なんか用?」と祐輔は彼を見上げて聞いてみた。
その男子、神田は祐輔と中学校が一緒だった奴。細マッチョで高身長でイケメンで、そりゃもうモテモテで。前の彼女と別れたのも、こいつの人気にいらぬヤキモチを焼いた果ての喧嘩のせいだってんだから、祐輔とは住んでいる世界が違う、まさに『ラブ高』を体現しているといえる存在。それがこの神田であろう。
「別に」
神田は祐輔にそっけなく答えると、他の部員と一緒に角を曲がって街中のほうへ行ってしまった。なんだありゃ?
「さあ、佐上君。帰ろ」
その声色に驚いて振り向けば、祐輔の女神が微笑んでいた。いや、実に機嫌がよさそう。話題に乗ってこないのは変わらないが。
そうして歩くこと数分。祐輔と愛美は見てしまった。
(いや、こんな所ですんなよ、ほんと……)
浩二と山本が、マンションの工事現場が人の気配無しなことを幸いに抱き合っていたのだ。
気まずい。最高に。隣を歩く愛美も(アチャー)という顔で、こちらに気付かれないうちにとまた競歩開始。祐輔も無音で付き合おうとしたのだが、そんな2人の努力を台無しにする野太い声が道の向こうから轟いた。
「くっくっく、いいねぇ」
そいつは、沈みかけた夕日をバックに突っ立っていた。背が低くて、ブサメン――逆光というのを加味しても――で、ガッチリしてて、性格悪そうな眼をした1人の男。声の感じからすると中年に思えるが、
「現れたなストーカー野郎!」
まさに愛美の証言どおりの奴が現れたことに、祐輔は燃える。しかもおとなしく引き下がる気はなさそうだ。さあ、ナイトの力、見せてやるぜ――
「違う……」
は?
「誰あれ……」
え?
せっかく愛美をかばうように彼女の前に進み出て、勢いづいていた祐輔の耳に飛び込んできた、愛美の言葉。次に耳朶を打つは、男の言葉の番だ。
「なんだ? 邪魔するのか? 収穫の邪魔をするのか?」
犬歯を、いや牙を剥いた男が咆哮すると、なんと背中から腕がもう一対生えてきた! 新しい腕の先は鎌状の態をなし、内側のギザギザが祐輔たちの恐怖心を煽る。
「収穫の邪魔をする者、命、刈るべし」
そう低く言い捨てて、男が祐輔たちに迫る。浩二と山本がやっと気がついたのか、悲鳴が2つ聞こえる。が、今は奴らのことなんか気にしちゃいられない。
「征城さん、こっち!」
祐輔はとっさに愛美をかばうと、左へと愛美ごと跳ぼうとした。が、当の愛美が硬直して動けない。焦る祐輔の背後に男の鬼気が迫る。
もう間に合わない……!
祐輔は愛美を突き飛ばすとすぐにその腕で頭を守り、ぎゅっと身を硬くして眼をつぶった。頭上で何かが振り下ろされる気配を感じ、そして次の瞬間、祐輔は自分の頭ではなく、何かが鎌と衝突する音を背後に聞いた。
「ついに現れたわね、"メソーラ"!」
声の主は、夜那岐だった。祐輔が振り向くと、彼女は祐輔の真後ろで、小刀、いや、苦無(くない)と思しき得物を逆手に男の鎌を食い止めている。いきり立って上から押さえつけられた夜那岐は、男の力を逆用してその身体を巴投げで投げ飛ばすことに成功した。
「うお、すげぇ」
祐輔が感心すると、夜那岐は彼のほうを振り向かず言った。
「全然ダメよ」
「なんでですか? ていうか、先輩どっから――」
「んなことは後で! ほら」
夜那岐が指差す先、そこにいるのは、さっき夜那岐に投げ飛ばされた男。路上に叩きつけられたはずなのに全くダメージを受けている様子は無く、双鎌を上段に構えてこちらに歩んでくる。
「うわ、全然効いてねぇ!」
祐輔の慨嘆などお構いなしに、夜那岐が動いた。腰に付けたポーチのふたを開けて取り出だしたるは、
(棒手裏剣?!)
意外過ぎるアイテムの登場。そして、次に夜那岐の取った行動も、祐輔の意表を突くものだった。
夜那岐は両手に2本ずつ持った棒手裏剣を、気合を発しながら、なぜか男の前の地面に投げ付けていくではないか。
「ええ?! なんで狙わないんですか?!」
祐輔が不審がるのももっともなこと。棒手裏剣は相手にかすりもせず、アスファルトの路面に全て突き刺さってしまった。
夜那岐は無言。代わって唸り声を上げ始めたのは、目の前の男だった。ぐぉぉ、ぐぉぉと呻き、何かから必死に逃れようともがいている。
「よし! 今のうち」
夜那岐は、浩二と山本に向かって叫ぶ。
「早く逃げなさい! できるだけ遠くに!」
その声に蹴飛ばされるように、浩二と山本は街のほうへ駆け出していった。
それを見届けた夜那岐が、祐輔に向き直った。その眼はいたって余裕そうな、しかし明らかに真剣なもの。その瞳に見つめられて祐輔が声を出せずにいると、夜那岐は腰にポーチとは別に装備したヒップバッグを後ろ手に探った。
「佐上君、キミ、左利きだよね?」
その言葉とともに祐輔に差し出されたもの、それは黒くてゴツイ外観の手袋、しかも片方のみ。
「……えーと、……」
事態が飲み込めない祐輔。この手袋が、何だってんだろう?
「早くこれ、右手にはめて!」
夜那岐が急かすのもワケがわからず、祐輔がまごまごしていると、彼女が更に言葉を継いできた。
「早くして! 影縫いは、そう長くは持たないの!」
「影縫い?」
とオウム返しに"メソーラ"と夜那岐が呼んだ男のほうを見れば、なるほど、先ほど彼女の手から放たれた棒手裏剣は、メソーラの影の端を地面に縫い付けているかに見えた。そしてその棒手裏剣が、徐々に削れて粉をパラパラその身から地面に散らしているのを。
再度の催促に、祐輔は決断のための最後の質問を行う。
「これをはめれば、あいつをなんとかできるんですか?」
「ええ。あなたの頑張り次第だけど」
「頑張りが足りないと、どうなるんです?」
夜那岐はほんの少しだけためらう表情を見せた後、説明をしてくれた。
「あなたもその子も、殺されるわ。奴は、メソーラたちは"フラクトゥス・アモリス"、要するに目的のものの収穫を邪魔する人間を許さない」
ひっ、と息を飲む声が聞こえた。
「な、なんで、わたしが……」
愛美が真っ青な顔で、突き飛ばされた状態のまま、その場にへたり込んでいた。どうやら腰が抜けているようだ。
その怯えきった表情を見て、祐輔は覚悟を決めた。
俺が護らなきゃ、この子が殺される。俺が戦わなきゃ、俺の恋人役も終わっちまうんだ……!
祐輔は黒い手袋を右手にはめた。親指の付け根辺りに縦3センチ、横2センチほどの硬化プラスチックらしき板が埋め込まれたそれは、ごつい見た目を裏切って、指をワキワキさせてみると柔軟性に富んでいる。
「で、これで何しろってんですか?」
祐輔が問いながら右手を握り締めた、その瞬間。
<< I
硬化プラスチックが発光し、大人の女性の落ち着いた声が、その部分から聞こえた。
「わっ!? 音が出た?」
「よし、やっぱり適格者だったわね」
夜那岐が小さくガッツポーズをとると、祐輔を促した。
「さ! その右手で、カードを扇のように開く真似をして!」
「え?」
「早く! 影縫いはもう限界よ!」
見れば、棒手裏剣はやや太めの針金程度にまで細っている。
「小僧! きさまら、スペシャリテどもぉ! おのれおのれ、邪魔をしやがってぇぇぇ!!」
メソーラが憤怒の表情でがなる。歯を食いしばって身を揺すり、影縫いから一刻も早く逃れようともがくメソーラ。その揺れにシンクロするように、かつては棒手裏剣だった針金は震え、細っていく。
「くそ!」
訳のわからぬまま、祐輔は昔テレビで見たマジシャンの手つきを思い出しながら、カードを開く真似をした。
「?! なんだ、これ?」
指示どおりのアクションをした祐輔の右手に、光を発して出現したもの。それは、
「……トランプ?」
そう、5枚のトランプ。先程の手真似どおり扇形に開いたそれは、
スペード2 ハート7 スペードA ダイヤJ クラブJ
祐輔の左に回りこんで手の内を覗き込んだ夜那岐が口笛を吹く。
「なかなかいい引きね。ポーカーのルール、知ってるでしょ?」
ポーカーの知識は確かにある。でも意味が分からない。ワン・ペアしかないじゃん、これ。
その時。
「ちっ! 解けたわ!」
夜那岐が叫ぶと祐輔を横に突き飛ばした。
「わあっ!?」
受身も取れず路面で右肩を痛打してしまった祐輔の息が詰まる。痛みに顔をしかめながら起き上がると、さっきまで自分がいた空間をメソーラの鎌が通過していた。
「佐上君! ジャックのワン・ペアとエースを左手に取って、あいつに投げ付けて!」
メソーラを挟んで祐輔と反対の場所に、夜那岐はいた。背後に愛美をかばいながら、苦無を逆手に構えている。どうやら祐輔を突き飛ばした後、愛美を引っ張って反対側に逃れたようだ。
「ジャック2枚にエース1枚……こうか?」
祐輔が手札からその3枚を抜き出すと、
<< Lance Charge >>
「また何かしゃべった!」
「いいから早く! 来るわよ!」
祐輔が手札に構っている間に、メソーラが接近していた。二丁の鎌が祐輔を狙って振りかぶられるのを見るまでもなく、祐輔は右に思いっきり跳ぶ。鎌が左腕をかすめて服が裂けたが、今度は自分で飛んだため、さっきよりはアスファルトに体のどこかを打ち付けずに済んだ。
「よし、くらえ!」
起き上がって左手の絵札3枚をメソーラ目がけて投げ放つ!
次の瞬間、札に変化が起こった。
投げ方が悪かったのか、くるくると回転しながら飛んで行く3枚の札。その内ジャックの2枚が急激に膨れ上がった。
2枚のジャックはどんどん膨れ、どんどん形を成していき、そして。
「騎士……?」
1枚は黄金色に輝く青銅の鎧を着込んで円形の盾を左に構え、背に大剣を背負った騎士へと姿を変えた。もう1枚は鎖帷子を着込み、その上に深い湖を思わせる青いチュニックを羽織った騎士に変化。いずれも筋骨隆々とした馬にまたがり、メソーラ目がけて疾走を開始する。一方Aは2つに割れると同時に膨れ上がり、長大なランスとなった。
騎士2人が吼え、手元まで浮き上がってきたランスを掻い込んで、まさに人馬一体でメソーラに突っ込んだ!
「ぐぁぁぁぁぁぁ!!」
槍の穂先と、馬の体当たり。それを2体分くらってメソーラは弾き飛ばされ、人馬はともに任務遂行の雄叫びを上げながら消えうせた。
「あ、当たった? よっしゃあ!」
「まだよ! ぼさっとしてないで、カードの補充!」
と夜那岐から叱咤込みの指示が飛んでくる。祐輔は慌てて、また右手を動かしてカードを作り出した。
今使ったカードの分、3枚補充されて、手札は
スペード2、ハート7、クラブ6、クラブQ、ダイヤ8 と変わった。
「あの、ブタなんですけど」
「そのままカードを捨てる仕草をすればオールチェンジ――危ない!」
起き上がったメソーラが、祐輔めがけて憤怒の表情で迫ってきていた。槍に刺された場所には穴が開いて、向こうが透けて見える――なんて観察してる場合じゃない!
「スペシャリテ、死すべし!」
声を出す暇もなく後ろに下がって避けようとした祐輔の脇腹を、鎌が捉える。アンダースローの要領で通常腕の脇の下から繰り出された一撃を、意表を突かれた祐輔は避けきれなかった。悲鳴を上げて横に倒れ込み、倒れた衝撃でさらに傷口に激痛が走り、転がる。嵩にかかって祐輔に攻撃をしようとしたメソーラに、
「はぁぁぁっ!」
夜那岐がショルダータックルを敢行!
夜那岐も反動でふらついたが、メソーラをぐらつかせて追い討ちを阻止してくれた。そのあいだに転びそうになりながらもなんとか距離を取る。夜那岐がメソーラの攻撃をかわしながら、
「佐上君! たしかクイーンがあったよね?」
「あ……は、はい!」
「それ1枚だけ君の横に置いて!」
相変わらず意味は分からないが、彼女の発する切迫した声に導かれるように、祐輔はクラブQを手札から抜き、自分の左の地面に置いた。
<< Queen of clubs "Argine" >>
手袋のコールとともに姿を現したのは、薄い褐色の肌に豊かな黒髪の美人。こんな工事現場において見事にミスマッチな豪奢過ぎる衣装は、まさしく女王だからか。
「アルジーヌに治癒を命令して!」
夜那岐は祐輔に向かって叫ぶと、起き上がって奇声を上げながら突進してきたメソーラに立ち向かう。
「え、えぇと……」
"チユ"って、身体を直してくれってことだよな? 祐輔がアルジーヌと呼ばれた美人に、
「治癒、お願いします」
アルジーヌのまとう気高き雰囲気と傷の痛みで、思わず丁寧語になった祐輔の命令。それを聞いたアルジーヌはびくっと痙攣すると、なぜかおずおずと頷いた。彼女が両手を空に向かって掲げると同時にその身を光が包み、その光が中空に向かって放たれる。光は彼女の頭上2メートルほどで3つに分かれると、祐輔、夜那岐、愛美に向かって降り注いだ。
「ん……治った、のか?」
先程くらった脇腹に手をやれば、止血どころか傷口もふさがっているではないか。服は破れたままだが。
その時、メソーラから愛美をかばった夜那岐が通常腕のボディブローをくらい、悲鳴を上げながら吹き飛んだ。うまく受け身を取って、そのままの勢いで起き上がったものの、肩で息をしている。
「先輩! あ、そうだ、トランプを――」
「あ、あの、マスター?」
右手を動かそうとした祐輔に、アルジーヌがまたおずおずと、今度は話しかけてきた。
「その手札を奴に投げつければ、そのまま攻撃になりますよ」
「え? そうなの?」
急いで手札を4枚とも左手に取って、祐輔は彼のほうを向いて走り寄ろうとしているメソーラめがけて投げつけた。札は空中で槍と盾を装備した兵士に姿を変え、槍を構えてメソーラに吶喊する。その数20人ほど。だが、兵士たちは直進し、半数近くはメソーラの左を脇目も振らずに通過し、消えてしまった。それでも、
「ぐ……っ!」
メソーラの鎌で2人ほど切り捨てられたものの、残りの兵士がメソーラの体に槍を突き立て、その足を止めることができた。その隙に祐輔は後じさりしてメソーラから距離を取る。
手札をドローし直して、さあ次はどうしたらいいんだと考えるより先に、メソーラが動いた。バックステップで。
「きさまら、次は必ず素っ首掻き切ってくれるぞ!」
夕闇迫る中、光る目に血をたぎらせたメソーラは、彼の背後、その空中にいきなり現れた裂け目らしきものに仰向けに倒れこみ、消えた。
2.
愛美をコンビニまで送って、でもやっぱり自宅までの見送りは断られて、祐輔と夜那岐はマンションへと戻った。
体が重い。こんなに階段を上るのがおっくうになったのは、春の体力測定以来だ。
「さて、説明しましょうか」
聞きたいでしょ? という夜那岐の提案はごもっともだが、気分が乗らない。早く寝たい。でも、
「明日も、奴は現れるでしょうね。収穫のため、あなたと彼女を殺すため」
そう言われて聞かないわけにもいかず、祐輔は夜那岐に椅子を薦め、自分も反対側の椅子に座り込んだ。
「あ、ちょっと待ってて」
一旦は座った夜那岐が立ち上がって、キッチンのほうへと歩いていった。と思ったらすぐ戻ってきて、
「これ読んどいて」
とヒップバッグから取り出されたのは、30ページほどの冊子。だるい気分を押してめくった1ページには、トランプのマークが踊っていた。
さっきの戦いで手袋がコールしていた"Lance Charge"は、
『JかKのワンペア、ツーペア、スリーカード、フォーカードのハンド(手役)とAを同時に使用するアルテ。騎士の数が多いほど攻撃は多彩かつ強力になるが、Aが変成するランスもその分増えるため、体力を消費する度合いも増える』
と書いてある……体力を消費?
「はい、どうぞ」
の声に顔を上げると、柔らかな微笑みを浮かべた夜那岐が、目の前の机上に湯気も暖かげなマグカップを置いてくれた。この香り、ロイヤルミルクティーだ。
「佐上君がしてるように、エゲリス式の淹れ方してみたんだけど、どうかな?」
「ええ、おいしいです」
こくりと飲んで、じんわりとした温かみをミルクと紅茶が供してくれることに感謝して……ちょっと待て。
「先輩。ちょっといいですか?」
祐輔の対面に座ってマグカップを傾けていた夜那岐が、首を傾けた。
「なんでオレがエゲリス式の淹れ方してるって知ってるんです?」
「ん? 見てたからよ」
「どこでですか?」
「そこで」
彼女が指差したのは、天井だった。
祐輔は驚いて、椅子を蹴立てて立ち上がった。夜那岐が指差す辺りをしげしげと眺めるが、穴らしき黒点は見当たらない。疑念が祐輔の顔に出たのだろう、夜那岐がまた一口飲むと、マグカップをそっと机の上に置いて――
「よっと」
軽い掛け声とともに、夜那岐の体が椅子から真上に飛び出した!
「!?」
夜那岐は天井に張り付いていた。大の字、と言えばいいのだろうか。手のひらと足の裏を天井板に貼り付けてキープしているようだ。
「無茶苦茶すぎる……」
目頭を押さえて頭を振る祐輔の前に、ストンと夜那岐は下りてきた。いや、無音だったから"ストン"はおかしいのだが。
「さ、座って」
「いや、ちょっと……」
まだ聞きたいことが山ほどあるのに、双肩を押さえられて椅子に強制的に座らされた祐輔の視界がぼやける。あれ? なんで?
疑問も口に出せぬまま、祐輔の意識は落ちた。
3.
夜那岐は祐輔の身体を両手で持ち上げると、ベッドルームに運んだ。
別に何かシようというわけではない。
敵との初めての遭遇、初めての認証、初めての戦闘。そして、恐らく初めての負傷。
肉体的にも精神的にも、多くの負荷がかかっただろう。だが、肉体的にはともかく、精神的苦痛はこれから。それを与えるのが、夜那岐の、コーディネーターの仕事なのだ。そして、肉体的疲労を溜めこんだ人間は、精神的苦痛にとても耐えられない。ゆえに、薬で眠らせた。起こすのは4時間半後。その後、夜那岐による説明フェーズとなる。
嫌な役回りだと、我ながら思う。これまで30人近くの適格者を扱ってきたが、このフェーズ、すなわち"なぜあなたはスペシャルワンなのか"を説明するのが一番の難事なのだ。
そして、その精神的苦痛を与える説明をしなければ、否、その真実を受け入れてもらわなければ、スペシャルワンはその真価を発揮できないときている……。
ベッドの上に祐輔の体を横たえて、夜那岐は彼の衣装ケースへと向かった。せめて部屋着で寝させてやりたい。そう思ったからである。
この2ヶ月ほど常時監視していたゆえの勝手知ったる他人の部屋、衣装ケースを開け部屋着を取り出すと、祐輔のもとへ戻る。部屋着を脇に置くと、今度は彼の学生服を脱がしにかかった。上着、シャツ、肌着と順に脱がした夜那岐の手が、ぴたりと止まる。
初めての負傷、というのは間違いだったことに今更気づく。この監視で、何度も見ていたはずなのに。
夜那岐が人差し指でつうっとなぞる。ゆっくりと。
それは、祐輔の肩や背中に走る、幾筋もの古傷。
しばしその仕草を続けた後、夜那岐は着せ替えを再開した。
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