シェイク ハンズ シェイク!

タオ・タシ

第1話 クロス・スタートライン

1.


 午後の授業が終わって、他の生徒も部活や帰宅で消えた教室。午後の明るい陽の色でもなく、夕焼けの赤さでもない、不思議な色合いが影の黒とコントラストを作り出している、その空間にて。

 佐上祐輔さがみ ゆうすけは、緊張の極みにいた。

 彼が立っているのは教室の後ろの黒板の前。いや、"彼ら"と言うべきだろう。なぜなら祐輔の目の前には、彼にとっての麗しの人・征城愛美まさき めぐみが彼を見つめているから。その頬は赤らみ、そこはかとない戸惑いと逡巡、そして決意の色を瞳に宿している。

 このシチュエーションに至るきっかけは、祐輔が2限目に移動教室から戻ってきたときに始まる。彼が机上に置き忘れた数学のノートに、彼女からの手紙が挟まれていたのを見つけたのだ。

『今日の放課後 もし無理なら明日の放課後 教室に残っていてください』

 それを目にしてから、いったい自分は何をしていたのだろう。祐輔にはまったく覚えがない。購買に行ってパンを買う、その行為すら思いつかずに手紙の文言を思い返していたのだから。

 こんなにドキドキしているのに、腹はちゃんと減るもんなんだな。祐輔が場違いな我が身への感想を抱いていると、愛美の厚めな桜色の唇が開いた。

「あの……佐上君」

「あ、何?」

 しまった、不意を突かれてちょっとつっけんどんだったかな?

「あのね……その、わざわざ居残ってもらって、いきなりこんなことお願いするの、申しわけないんだけど……」

 "お願い"ってなんだろう? 祐輔の頭の中でいろいろ(一部エロエロ)なパターンが駆け巡る。

「その、わたしの――」

 祐輔の心臓が跳ねる。愛美の顔を直視できないくらい苦しい。

「――恋人役をやってほしいの」

「……え?」

 恋人、"役"? 祐輔は顔を上げて、愛美を見た。

「それは、何? 劇か何かの、ってこと?」

 確か愛美はバレーボール部のはず。

 くるんとカールした栗色の髪の端をいじりながら、彼女ははにかんだような表情になった。

「ううん、違うの。……みんなには内緒にして欲しいんだけど」

 との前置きで始まった彼女の告白。それは、最近ストーカーに狙われているというもの。愛美は困った末に、"恋人役"と一緒に帰ることでストーカーを諦めさせたいのだという内容だった。

 祐輔は当然の疑問を愛美に質す。

「警察には相談したの?」

「ううん、まだ。これで効果がなかったら、相談に行こうと思うの」

「そっか……」

 祐輔の逡巡は短かった。愛美に頼られているという至福感と使命感が彼の背中を押す。

「わかった。いいよ」

 祐輔の言葉に、愛美は笑顔で答えて頭を下げた。


2.


 愛美は部活に行って、今祐輔は学校の図書室にいる。彼は帰宅部。よって愛美の上がりを待っている間の暇つぶしにとやってきたのである。

 読みかけだったシリーズの6作目を開きながら、祐輔の心は先の約束のことに飛んでいる。

(ストーカー、か。ちょっと早まっちゃったかな)

 愛美はストーカーと言っていたが、そいつはただの恋する男子かもしれない。それなら男と連れ立って下校する女の姿を見れば、あきらめもつくだろう。これまで祐輔が色気づいてから何度もそうだったように。

 だがもし、マジモンのストーカーだったら?

(襲われるかもな、俺。もしくは征城さんが)

 でも、うれしい。

 単純に、彼女が祐輔を頼ってくれたことが。

 彼女のナイトになる。大げさかもしれないけど、女の子が困っているなら、それが彼の好きな征城さんなら、なおさら。

(これを機会にお近づきになりたいし)

 祐輔は、これまでの自分の失恋遍歴を思い起こす。もう何人に振られたか、いつまで経っても何回経験しても、ちっとも平気にならない。どんなにいい感じであっても、勇気を振り絞って告白した瞬間、まるでガラスの壁にぶつかったように彼女たちに近づけず、もちろん彼女たちから近づいてくることなどなく。

 それが今回はどうだ。愛美のほうから話しかけてくれた。愛美のほうからナイト役を与えてくれた。

「いよいよ俺にもモテ期って奴が来たのか?」

 そうだよ! こんなに色恋沙汰でフィーバーしてる我が高校で、ついに俺にも――

「見つけた!」

 祐輔のナイト願望(ちょっと邪成分含有)は、キンキン声によって掻き消された。

「よう、ちびっ子」

「ちびっ子言うなぁ!」

 祐輔の右に突っ立って鼻息も荒いのは、能美詩鶴のうみ しづる。両手を腰に当てて祐輔をにらみつけているのだが、知性を漂わせる切れ長の眼に似つかわしくないおちょぼ口がどうにも迫力に欠ける。そしてなにより――

「そうかそうか、お勤めご苦労さん」

「こらぁ! リボンをくしゃくしゃにするなぁ!」

 彼女の頭頂部を飾る白くて大きなリボン。それを祐輔は思いっきり押し潰して、なでなでしてやった。

 ちなみにこのリボン、"ちびっ子"の揶揄どおり140センチ代前半しかない詩鶴の身長を嵩増しするために、めいっぱい立てて兎の長耳のように結びがしてある。このリボンを取る取らないで身体測定の教師と毎年揉めているのは、祐輔にとって春の恒例イベントである。小学校高学年からは男女別なので、あくまで伝聞だが。

 そう、祐輔と詩鶴は小学校以来の腐れ縁。詩鶴の記憶では『小2の時から』テストの点取り競争でのライバルだった。いや、彼女の恐るべき知性を知っている者にとっては、たとい祐輔といえども、もはやライバルなんてもんではない。にもかかわらず、何かとちょっかいをかけてくる、祐輔のケンカ友達といったところか。

「なあ、風紀委員さんよ」

 崩れたリボンを必死に立て直しながらまた声を上げようとした詩鶴に、祐輔は釘を刺す。

「ここ、図書室だぜ? お静かに願えませんかね?」

「ふん」と詩鶴は鼻を鳴らして、図書室の中を指で示しながら言った。

「あいつらがそんなこと、気にしてると思うか?」

「……まあ、な」と祐輔も苦笑い。

 図書室内は見渡す限り、カップルカップルカップルカップル。

 どいつもこいつも形だけ本を机に広げて、いちゃいちゃいちゃいちゃしている。

 詩鶴が溜息をついた。

「まったく、健全かつ不健全な光景だな。こんなだから『ラブ高』などと揶揄されるんだ」

 祐輔と詩鶴が通っているこの賎機しずはた高校は進学校であり、旧帝大にも少なくない人数の合格者を毎年出している、地域で一、二を争う学校だ。部活動にも熱心で、スポーツ特待生はさすがにいないが県大会の常連クラブも複数ある。

 まさに"文武両道"なのだが、それゆえか、はたまたそれ以外の何かがあるのか、自校内のみならず他校の学生ともカップルの発生率がとても高い。ゆえに若干の妬みと僻みも混ざって他校の生徒から『ラブ高』などと呼ばれているのだ。

「ま、祐輔。お前には関係ない話だがな」

 横の椅子に座ってきた詩鶴の、ありきたりな挑発を受け流して祐輔は聞いた。一体何を見つけたのかを。だが、詩鶴のリアクションは祐輔の想像を超えた。

「ほう、新しいのを買ったのか。どれどれ」

「おい、引っ張んな」

 祐輔がさっきまで着けて聞いていた携帯オーディオプレイヤーを詩鶴が手にとって、まじまじと見ている。彼女は時々祐輔の言動や身の回りの品に、急に興味を示すことがあるのだ。曰く、『お前は観察対象だから』とか言って。

「何で変えたんだ?」とまで聞いてくる詩鶴に、祐輔は何の気なしに答えた。

「こっちのほうが使いやすそうだったからさ。前のやつより」

「なるほど……ああ、何を見つけたかだったな。お前だ。お ま え 」

 ちんまりした指を突きつけられても理解できない祐輔。詩鶴は軽くため息をつくと話し始めた。

「お前、まだ帰宅部じゃないか。今、風紀委員会は秋の帰宅部撲滅キャンペーン中なんだ」

「知ってるよ。この1カ月、俺の目の前にいるちびっ子風紀委員さんから耳にタコができるくらい聞いたぜ」

 ちびっ子というわかりやすい挑発返しに、詩鶴は今度は乗ってこない。少しだけ唇をぐっと噛むと、祐輔に切り返してきた。

「じゃあもう一度言うぞ。何か部活に入れ。じゃなきゃ、風紀委員会に入れ。私がお前を推薦してやる」

 そうすれば、と詩鶴はにやりとした。

「念願の彼女ができるかもしれないぞ?」

「安っぽい煽りだな。天才ちびっ子・詩鶴チャンのお言葉とも思えないぜ」

 そう、彼女はこの高校始まって以来、いやこの地方の歴史上初めてといっても過言ではない天才として名が通っている才媛である。1年前の受験時には、複数の超難関私立高校から特待生のお誘いが来たくらいの。だが、『地元の高校に通いたい』と公言して、彼女はこの高校を受験していた。

「ぐぅぅ、さっきから我慢してればちびっ子ちびっ子ってぇ……」

 ちょっと眼が潤み始めた詩鶴だが、ここで情けは無用。過去の失敗を教訓に、祐輔は畳み掛けた。もうそろそろ"ナイト"業開始の時間だからでもある。

「そういうお前こそ、彼氏できたのかよ? そういう謳い文句は実績がないと効き目がないんだぜ」

 んじゃ、俺帰るわ。祐輔はすっと席を立つと、カバンを肩にさっさと退場した。まだ約束の時間にはちょっと早いが、待ちきれない自分に内心苦笑しながら。

「待てこらぁ! 本、棚に返してけ!」

 詩鶴の抗議から足早に遠ざかり、祐輔は待ち合わせの場所である東門へと歩を進めた。

 その道中、祐輔がそれとなく周りを観察すると、

(ほんと多いな、カップル)

 廊下の隅、教室の中、踊り場。その全てにたむろしているわけじゃないけど。

(詩鶴も俺なんかに構わずに、こいつらを指導すりゃいいのに)

 めんどうくさいから、適当な文科系の部活にでも登録してお茶を濁すか。そんなことを考えているうちに、祐輔は東門に着いた。そのまま門に張り付くのもかっこ悪いので、傍の桜に背中を預けて待つ。

 部活を終えて帰宅の途に着くクラスメイトや中学校時代からの同級生に、適当に挨拶をしながら過ごすこと約15分。愛美が小走りでやってきた。

「ごめんね、遅くなりました」

「あ、うん……て――」

 意表を突かれた祐輔。なぜって、愛美はそのまま小走りに門を通り過ぎてしまったのだ。

「ちょ、ちょっと待って!」

 慌てて呼び止めると、愛美は「あ」という感じそのままの表情で立ち止った。

「ご、ごめん。……帰ろっか」

 彼女のほうからそう促されて歩き始めた帰り道。3分ほどかかって、祐輔はやっと声をかけることができた。彼女の横顔ではなく、後姿に。

「征城さん、あのさ、並んで歩かないと、そのストーカーに見せ付けることにならないんじゃ……」

 愛美の姿は1メートルほど先。ここまでずっと、その距離のままなのだ。

「そ、そうだよね」と振り返った彼女の視線が、祐輔の肩を越える。つられて振り向くと、サッカー部と思しき連中が5人、こちらに向かって歩いてくるところだった。サッカー部はなにやらワイワイと盛り上がりながら2人のそばを通り過ぎていく。

「征城さん、サッカー部がどうかしたの?」

「あ。ううん……さ、帰ろ」

 祐輔が追いつき、やっと愛美の横顔を拝むことができた。その表情は硬い。

 取り敢えず授業の話とか、教師の愚痴とか、当たり障りのない話題を振ってみた。が、その先が進まない。愛美から話題を振ってくることもない。

 困った祐輔は、疑問に思っていたことを聞いてみることにした。

「ところでそのストーカーってさ、どんなやつなの?」

 その言葉に戸惑った表情をしながら、愛美は教えてくれた。

「んと……背が低くて、ブサメンで、ガッチリしてて。性格悪そうな眼してて」

 ……なんか、手厳しいな。祐輔は密かに舌を巻く。

 さらに、祐輔たちの学校の生徒じゃないという情報も愛美から得られた。取り敢えず特徴はわかったので残りの帰り道は気をつけていたが、奴は姿を現さず。

 そんなこんなでたどり着いたコンビニの前で、祐輔は愛美に別れを告げられた。

「え、ここでいいの? 征城さん家、ここから近いの?」

「ううん。でも、佐上君の家って、さっき通り過ぎた交差点を曲がってかなきゃダメだったんでしょ?」

 申し訳ないから、と言う愛美の表情を見て、祐輔は悟る。

 家が分かるの、嫌なんだね。

「えっと……じゃあ、朝はここで待ち合わせだよね? 何時に――」

 祐輔の質問は、手を振って遮られた。

「あのね……ストーカーは、朝はいないの」

「あ、そうなんだ……じゃあ、気をつけて帰って。何かあったら大声出しなよ」

 ありがとう、と微笑むのもそこそこに愛美は踵を返すと去っていった。

「しまった」

 聞き忘れた。なんで俺を選んだの? って。

「……まあいいか」

 明日も明後日も恋人役は続くんだし。

 祐輔はしばらくコンビニの前に立ちすくんだ後、自分も家路をたどった。心に少しだけ引っかかりを感じながら。

 "さっきの交差点"まで戻ると、知り合いがちょうど帰ってくるところだった。

「あら、佐上君。お勤めご苦労様」

「な、なんのことですか?!」

 祐輔がドギマギするのを見て笑うのは、同じマンションの隣室に住んでいる3年生の先輩だ。2ヶ月前に越してきた彼女――狗噛夜那岐くかみ やなぎとはそれ以来、部屋の前や廊下ですれ違うと挨拶をする程度のお付き合い。――にしたいのが祐輔の希望なのだが、それは叶いそうもない。正直言うと、祐輔はこの先輩がちょっと苦手なのだ。なぜって、

「ふふ、佐上君が東門で待ちぼうけしてたから声掛けよっかな、と思ったら、あのショートカットの子に慌てて付いてくんだもん。で、後を付けてたら、『ストーカー』がどうこういってるじゃない。ああ、ナイト役なのね、と」

 そう、夜那岐はどうやってか知らないが、祐輔の周囲に突然出現して、祐輔の会話をまるでその場にいたかのように聞いているのだ。

「また盗み聞きですか。止めてくださいって言ってますよね?」

 結構きつい口調で抗議しても、暖簾に腕押し。なぜなら、付きまといの具体的な証拠がないから。それに、こうやって接触してくるのは週に1回程度。しかも祐輔へのあふるる想いをぶちまけてくるわけでもないから、ストーカー相談にも持ち込めない。

「何が狙いなんですか? 先輩?」

 聞きたくなかったが、しょうがない。薮蛇になるからと今まで避けていた質問を、祐輔は思い切って口にした。

「ひとつは、人類と私の明るい未来のため。もうひとつは、時が近づいているからよ」

 ……うわぁ。

 祐輔に並んでマンションへの道を歩きながら、さらっと口にする夜那岐。イタい、イタすぎる。

 早く、これ以上会話をしないようにして、部屋に入ろう。そう決意して足を速めた祐輔は見逃すことになった。遠ざかっていく彼の背中を見つめる夜那岐の、憂いと決意に満ちた顔を。


3.


 鍵を開け、部屋へと入った祐輔は学生カバンを床に置くと、ベッドに寝転んだ。もうすっかり日も暮れて、月明かりのみが照らす室内を無言で眺めていたが、やがてあることを思い出すと、パソコンを起動した。今日は"アレ"の日。

『週刊! まひろ! ニュース!』

 週1回送られてくる動画付メール。その動画を再生すると聞こえてきたハイテンションなナレーションは、何を隠そう祐輔の父親。まひろとは、祐輔の3つ下の妹の名である。

『今週のまひろはすごいぞ! なななんと! 日曜日に開催されたデブリヴォラ・コンクールでぇぇぇぇっ! ゆーしょーしたのだ! すごいぞまひろ! さすが、我らがまひろ!』

 ここでナレーションが母親に変わって、先週水曜日からのまひろの動静がダイジェストで流れるムービーが流れ始めた。

「コンクール……? ああ、1カ月前だかに言ってたやつか」

 動静紹介ムービーは5分ほどで終わり、最後は父母揃って画面に登場。動画撮影用の部屋に盛大に紙ふぶきを撒き散らしながら、父作詞・母作曲の『MAHIRO THE FOREVER』を三部合唱して、ビデオレターは終わった。

「今回は楽だな」

 独り言をつぶやきながら、祐輔はメールソフトを起動する。コンクール優勝おめでとう、で始めて、と……

 5分ほどで感想を書き終り、祐輔はそれを送信した。さ、飯でも食うかと腰を上げる。

 今日の夕食は、昨晩作っておいたビーフシチュー。ちょっと肉が固くなってしまったが、味付けは悪くない。

 温め直した御飯と一緒にそれを平らげ、風呂に入った。

(征城さん、やっぱ近くで見るとかわいいな。今日はちょっとキョドり気味だったけど)

 湯船に顎まで使って、祐輔は目を閉じる。まぶたに浮かぶのは、今日の帰り道、夕日を逆光にした愛美の横顔。祐輔の言葉にも相槌しか打たない、硬い表情のそれを。

(恋人役、だもんな)

 雨の日とかどーすんだろ? やっぱ相合傘だよな。急いで歩くんだけど、だんだん降りが激しくなって彼女の肩が濡れるのを見かねてさ、『もっとこっち寄れよ』って腰に手を添えて……

(なわきゃないよな、"役"だもんな)

 祐輔は目を閉じたまま、まぶたの彼女に質問する。

 なんで、もっと親しげに振舞わないんだ?

 そもそも、ストーカーって本当にいるの?


4.


 愛美は宿題を終えると椅子から立ち上がり、グーっと伸びをしてそのままベッドに倒れこんだ。

(やっぱり、ちょっとつっけんどんだったかな)

 彼女が思い返すのは夕方の帰り道。一生懸命話をしてくれる祐輔のうれしそうな、でもどことなく不審さを隠しきれない瞳。

(変に思われたかな、やっぱり)

 表情を作りすぎたのだろう、と愛美は思う。『あくまで君は恋人"役"なの』って。

 でも、つい昨日までさほど親しげにしてこなかった男子に、いきなり馴れ馴れしいのもまた変だし。もうちょっと優しくしてもいいんだろうか。でも――

 ベッドに投げ出してあったスマホが鳴り出した。同じクラスの友人からのコールに、愛美はどことなく物憂げな表情でタップする。

 『あ、愛美? 聞いてよもーケンゴー君ったらひどいんだよ!』

 最近付き合い始めた彼氏の愚痴。彼女からの電話は、このところいつもこれだった。

 聞き流しながら、愛美は思う。わたしだって。今度こそ。

 そして思い出すのは、彼の戸惑い顔。『え? なんで?』というセリフが聞こえてきそうな。

 そう。彼女は今日の放課後、奇襲をかけてやったのだ。

 その表情を思い出し、ベッドに寝転んだ愛美は心軽やかに友人の愚痴に付き合ってやろうとしたのだが。

「おーい! 愛美! 風呂に入りなさい!」

 父だ。愛美はもう15歳なのだから身の回りのことくらいできるのに、なにかと世話を焼いてくる。父子家庭の我が家ゆえ、愛情を注いでくれているとは思うのだが。

(なんか、ちょっと違うんだよね)

 まあいいか。父の言葉を格好の言い訳にして、愛美は愚痴愚痴電話から逃れ、着替えを手に階段を下りた。


5.


 詩鶴は風呂から上がると冷蔵庫を開け、絶叫した。

「お母さん! 牛乳がないんだけど!」

「新しいのが入ってるでしょ」

 もう一度冷蔵庫の扉を開け、見上げる彼方に目標物発見。詩鶴はため息をつくとマイ足台を持ってきて、新しい牛乳のパックを取った。

「ふう」

 開封したての牛乳を、時間をかけて、ゆっくり飲み干す。一気飲みはカルシウムの摂取を阻害する。……ような気がする。

 彼女は知っている。骨の成長は、摂取したカルシウムをいかに効率よく骨細胞に変換できるかにかかっていること。そしてその効率は個人差があるので、どんなに牛乳を飲んだところで余剰分は排出されてしまうということを。

 だから、これは暗示。めいっぱいカルシウムを摂取して、いっぱい骨細胞に変換してやるという、お願い。

「あ、お姉ちゃんまた牛乳飲んでる!」

 台所に入ってきた妹が、詩鶴の所業を見つけて大声を上げた。

「……お前こそ、その手に持ってるコップはなんだ?」

 姉の指摘に口を尖らせながら、妹は黙ってコップを差し出した。

「お前、それ以上背を伸ばしてどうする気だ?」

 更なる指摘に、妹は口癖になっている含み笑いをする。

「くふふ、お姉ちゃんこそ。どんなに栄養取ったって、脳みそと胸とお尻に行っちゃうんだから、無駄無駄」

 ぐぅ、とうなりながらも詩鶴は妹のコップに牛乳を注いでやった。そしてまた足台を流しに移動させて、上に乗る。

 自分のコップを流しで洗いながら、彼女は想う。この牛乳は、いつか出会う"あの人"に釣り合うために、必要なのだ。

 私の王子様。どこにいるかわからないけれど、必ず見つけてみせる、素敵な人。

 頭脳は私並みじゃなくていい。むしろ私が導いてやろう。

 優しさも、むやみに発揮しなくていい。優しすぎるのは、罪だ。

 『天才は遺伝しない』と言ったのはアドルフ・デア・レッテだったか。では子供には秀才程度の脳みそとそれを包むこの美貌、そしてナイスバディを譲ってやろう。そのためには、子作りを厭わない人がいいな。

「お姉ちゃん」

 収入はあった方がいい。私はたぶん、ずっと大学か研究所で――

「お姉ちゃん!」

「なに?」

 詩鶴が気が付くと、妹が背後で仁王立ちしていた。

「まーた妄想? いいかげん退いてよ、わたしもコップ洗いたいから」

「妄想じゃない」

 と詩鶴は洗い終わった手をタオルで拭きながら、豊かな胸を張って妹に応えた。

「王子様、だ」

 妹のヤレヤレ顔を見て満足。詩鶴は洗面所に向かった。早寝早起きは骨細胞への効率よい変換に資する。……と信じて。


6.


「はい……やはり、そうですか」

 夜那岐は月明かりのみの部屋に一対あるソファに座って、受話器の彼方に向かってうなずいた。

「……はい、スペシャルワンの目星は付いています。……ええ、例によって例のごとく、冴えない高校生ですわ。頭はいいですけど」

 そのまま取り留めのない会話が交わされ、通話は終わった。そのままソファに背中を預け、独りごちる。

 スペシャルワン。なんて皮肉な呼称だろう。名付けた奴と、口にするたびにニヤついている奴に棒手裏剣を投げつけてやりたいくらい。

 そして、そんな身勝手もできない自分がいる。この身にまとわりつく束縛を解くために、そして"鍵″を手に入れるために、契約を果たさねばならない。忌々しい彼らとの契約を。

「あと11人……」

 夜那岐は誰にともなくつぶやくと、寝室へと向かった。来たるべき時に備えて英気を養うために。

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