#002 赤猫通駅、迎えに来てくれたユカとアルカに


 それから、今度は抜け道を通らずガス燈で華やぐ大通りを引き返した。

 赤猫通あかねこどおりまで歩いた所で、声を掛けられた。

沙夜様さやさまっ!」

 私と背格好が同じくらいの少女が、息を弾ませて駆け寄って来た。栗色の髪がガス燈に照らされて、艶やかに揺れていた。

「鈴猫のクッキーをお買い求めでしたら、私にお言い付けて下されば……」

 鈴猫焼菓子店すずねこやきがしてんの大きな紙袋を、私が抱えていることに気づくと、心配の声色が揺れた。

「ユカ、ごめんなさい。でも、これは私の決心のためだから」

 大きな紙袋をぎゅっと抱きしめた。

 ユカも制服姿だった。きっと、私のこと、着替える間もなく、ずっと、探していたんだ。気づいたら、ユカのことが愛おしくて切なくなった。

 この栗色の髪の少女、ユカ・ティア・テューは、二年前、帝都にいた時に私付きになった侍女官じじょかんだった。私がティンティウム市立芸術学院へ、身分を隠して留学した時にも、付き添ってくれた。

 ユカは、ずっと側にいてくれた。だから、声色だけで私の気持ちを解ってくれる。



 赤猫通駅あかねことおりえきまで戻ったとき、夕闇ゆうやみの中でもうひとつ声が沸いた。

沙夜さやっ! もう、探したわ」

 敷石舗装しきいしほそうの馬車道の傍らにある駅にも、ガス燈が灯されていた。私とユカがいる橙色だいだいいろの光の輪へ、赤い髪の少女が駆け寄って来た。

「アルカ、ごめんなさい……」

 バツが悪すぎて、紙袋を抱いたまま小声でつぶやいた。

「当然でしょっ! あんな顔で泣きながら飛び出されたら、心配しない方がどうかしてる」

 もうひとりの私の親友、赤い髪の少女、アルカ・ミルグランセンは、地元育ちだった。ティンティウム市内星掛通ほしかけどおり織物屋おりものやを営む老舗しにせの長女で、芸術学院では縫製技術ほうせいぎじゅつを学んでいた。自宅のある星掛通ほしかけどおりから、芸術学院まではトラムを乗り継ぐ待ち時間を入れても、一時間と掛からない。でも、アルカはあえて学生寮に入っていた。

 私、ユカ、アルカの三人で、学生寮ではひとつの部屋に棲んでいたの。


「何よ、それ?」

 アルカは、夜風の中に甘く香ばしい焼きたてクッキーの匂いが混じっていることに気づいて、私が大事そうに抱く大きな紙袋を見遣みやった。星掛通ほしかけどおり鈴猫東通すずねこひがしどおりは三百セタリーブほどしか離れていない。鈴猫焼菓子店すずねこやきがしてんを紹介してくれたのも、実はアルカだった。

「ずっと、名前のこと隠していてごめんなさい。だから……皆で食べながら私のこと、話そうと思って……」

 アルカは、ため息をついて見せた。

「二年近くも一緒の部屋に住んでいるのよ。あたしが気づいていないと思っていたの?」

 クッキーの匂いの中で小さく首を竦めた。

 言われて気づいた。アルカの家は星掛通ほしかけどおりに古くからある老舗しにせ中の老舗しにせ。ティンティウム自治評議会に代議員を出している家柄だった。私のこと、どこからか聞き及んでいてもおかしくない。

 でも、私が話すのを二年近くも待っていたんだ。

「……ごめんなさい」

沙夜さや

 ほんの少しだけ混じった怒りを隠した声が呼んだ。

 トラムが通り過ぎる車輪の音、車窓から零れる光の中で、パンと頬を打つ音が微かにした。


  ◇  ◇


 ガス燈が照らすアルカの横顔は、泣きそうだった。ユカは、静かに寄り添ってくれる。

 トラムが通り過ぎると、急に静かになった。

 アルカが黙ってしまう。私も打たれた頬の暖かさでアルカの気持ちが解ったから、もう言葉はいらなかった。


 ――ずっと三人で一緒、親友だよって、約束していた。守れない約束だと知っていた。


 でも、それは、約束じゃなくって願い事だったんだと、今更に思った。

 織物屋おりものやさんの娘にすぎないアルカにとって、法印皇女ほういんこうじょである私は――こんな風に身分のことを言いたくはないけど――本当は、雲の上の存在だった。

 星掛通ほしかけどおりにある老舗しにせの跡継ぎ娘は、この地上の街ではたいそうな身分かも知れない。でも、私は天空帝国てんくうていこくを統べる法王様ほうおうさまの孫娘だから――この街で過ごすつかの間の休暇が終われば、きっと、大勢の騎士たちを従えて、妖魔ようまを狩るために天空てんくうの海を巡り続けることになるはず。

 学校を卒業してしまえば、アルカとはもう会えない。

 こんなに私のことを想ってくれるアルカと別れる時が来ることなんて考えたくなかった。だから、ずっと一緒にいたくて嘘をついて、メートレイア伯爵家はくしゃくけの名前を隠し続けていた。

 だから、ごめんなさいと言葉にしてしまった。私はアルカに叱られたかったの。甘えだって解っているけど、それでも、望まずにはいられなかった。だって、こんなにも一生懸命に私を叱ってくれる人はいない。


 ユカは、きっと、アルカに心の中で感謝していると思う。私が望んでいても、ユカには出来ないことを、アルカは代わりにしてくれるから。


 次のトラムに三人で乗った。

 かたん、かたんと、敷石舗装しきいしほそうの街並みを小さなトラムが走る。夕暮れ時の車内は、家路を辿る人々の談笑する声が揺れている。ほんのりおしりが温かい座席に三人で並んで座っていた。

 もう、夕食時間を過ぎていて、三人ともお腹が空いていた。私、いっぱいクッキーを抱いていたけど、これは学生寮に帰り着くまで袋を開けないって決めていた。


 アルカに打たれた頬は不思議と痛くない。老舗織物屋しにせおりものやさんの長女として厳しく躾けられているから、アルカは叱り方も良く心得ているみたいだった。

 同じ学年なのに、私にとってアルカの傍は、まるで姉の隣に座っているかのように安心できる場所だった。

 アルカは、私が秘密にしていたことを怒ったわけじゃなかった。「ごめんなさい」という言葉を私が口にしたから、叱ってくれたの。

 アルカと私は、ごめんなさいって言葉を言わないって約束していたから。叩いてもらわないと、私の「ごめんなさい」が止まらないって、アルカは知っているから……

 上手に叱ってくれるアルカが、迎えに来てくれて嬉しかった。だから、アルカの横顔に、心の中だけで「ありがとう」とつぶやいた。


 かたん、かたん……

 車窓の向こうを街の灯が流れていた。ティンティウム市は、世界最大の商都しょうとだから、街並みも華やかだった。自治権を持っているし、地上にあるから、めったに天空騎士てんくうきしを見かけることはない。私は、法印皇女ほういんこうじょという自身の役目を忘れて、何気なく過ごせる暖かい街をすっかり気に入っていた。


 もちろん、帝都にも冬至祭とうじまつりはあるよ。

 だけど……北部高原にある帝都では、冬のお祭りは、本当に雪が降る季節になるから、とにかく寒かった。

 帝都は、貴族や騎士、多くの官吏かんりたちが棲まう政治の中心で、同時に天空艦隊てんくうかんたいの本拠地だから、面倒なやっかいごとも色々あったの。

 私は、二年前に負った大怪我おおけが加療かりょうを理由に、面倒な帝都から逃げてきたの。

 ため息をひとつ、甘いお菓子の匂いの中で零した。


 ティンティウム市のトラムは、複雑な市街に合わせて、時折に狭い路地を通る。小さな曲がり角を、きつめの半径でちょっと無理をして回るから、がたんがたんと車内が揺れる。

 ふと、アルカの赤い髪が、私の頬に触れた。


 法印皇女ほういんこうじょというのは、繰り返しになるけど、天空帝国てんくうていこくの特別な役職で、法王様ほうおうさまから直接に任命状を頂く、数少ない親任官しんにんかんのひとつだった。あんまり自覚がないけど、法印船団ほういんせんだんという小さめな天空艦隊てんくうかんたいを指揮できる権限けんげんまである。

 私の記憶が確かなら、天空艦隊てんくうかんたいの中では、少将よりも格上のはず。絶対指揮権がないだけで、大勢の騎士たちを指揮する責任を負っている点は、何も変わらない。百戦錬磨ひゃくせんれんま偉丈夫いじょうぶな方々と同格っていうのは、正直に言って、怖かった。


 この世界は、およそ六百年前に漆黒世界しつこくせかいから妖魔ようまの襲来を受けた。今は、もう、存在しない時空転移門を壊されて、一万とも十万ともいわれる妖魔ようまの大群に侵入された。

 世界守護天空艦隊せかいしゅごてんくうかんたいの全てを失うほどの劣勢を何とか出来たのは、女神様が完成させた法印魔法ほういんまほうのおかげと伝えられている。

 だけど、女神様はもういらっしゃらない。

 なのに、六百年以上も過ぎて、肝心の法印魔法ほういんまほうが解け始めている。妖魔ようま魔法機械まほうきかいは、今もかなりの数が、この世界のどこかに埋もれているはず。

 だから、危険な魔法機械まほうきかいがどこかで発掘されたなら、帝国版図ていこくはんとの端までも飛んで行って法印魔法ほういんまほうをかけ直すのが、法印皇女ほういんこうじょの役目だった。

 だけどね、危険な魔法機械まほうきかいが目覚める前に都合良く発掘されるとは限らない。法印ほういんが間に合わなければ、戦ってでも妖魔ようまを食い止めることになる。法印皇女ほういんこうじょの指揮下に小さめでも天空艦隊てんくうかんたいが置かれているのは、そういう意味だった。


 法印皇女ほういんこうじょには、遺伝資質いでんししつが必須で、それは法王家ほうおうけにゆかりの血筋に限られる。私のお母さんは、現法王様ほうおうさまの次女だった。メートレイア伯爵家はくしゃくけ降嫁こうかして、私を産んでくれたの。

 だから、私は、法王様ほうおうさまの孫娘で、理屈の上のお話に過ぎない気もするけど艦隊指揮権まで持っていた。

 そんな特別な子が、貴族の子女が集まる帝都の学校へ、普通の顔をして通うのはちょっと無理だった。私が気にしなくっても、他の生徒達は私を特別視していた。だから、友達も出来なかった。いつも、お昼はひとり、校庭の隅っこでお弁当を食べていた。


 地上の街に来てからは、そんな煩わしいことは、全然なくて幸せだった。銀杏金枝寮ぎんなんきんしりょうという名前の女子寮に入ったら、みんなに弄り回されて、ひとりにされる時間はなかった。毎日、本当に楽しかったのに……




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