#018 猫池製パン、初老のパン職人の気概は
♯星歴682年 10月 16日 午後11時50分
アゼリア市
その時、初老のパン職人は、明後日の朝に焼くパン生地を
「さてと……」
パン職人は厨房の引き出しから一枚のカードを取り出した。
パン職人は、その魔法符札を生地の上に乗せて、魔法の呪文詩を唱えた。
これは、水魔法〈ペイエンの雪玉〉という基礎魔法のひとつ。生活支援魔法を集めたペイエンの基礎魔法群の中でも、帝都では食品を扱う職人たちには必須の技能ともいわれる法符魔法だった。
この魔法は、一般的には、様々な食品の保冷の他、調理の途中で
低温発酵の温度管理に用いるのは、ちょっとした応用技だといえる。職人は、クロワッサンやデニッシュといった、バターを練り込み繰り返し折り込む製法の生地を得意としていた。発酵には便利なイーストを用いず、天然酵母よる低温長時間発酵にこだわりを持っていた。面倒だが、この製法は生地に弾力を持たせ、パイ生地の如くサクサクの食感を宿したパンを焼くことができるからだった。
「辺境区から帝都に出て来る
ぶつくさ言いながらも、
当然だが、
だが、職人の焼くパンは違った。
イーストの膨張力に頼ったパンと比較して、天然酵母パンは長持ちするうえに、豊かな味わいを秘めていた。帝都を遠く離れて、妖魔の魔法機械と戦う第七艦隊群の騎士たちにとって、日々、口にするパンの味は重要だった。帝都からの運ばれたパンは希少なものであり、多くの天空艦船では慣例的に週末の午後、休息時間におやつとして配られていた。
たとえ、分配した結果が小さなクロワッサンがひとつだけであっても、天空騎士たちが帝都から届くパンをどんなに心待ちにしているのかを、職人は知っていた。だから、そのパン職人にとって、
そんな深夜のことだった。
職人は、ふと、何かが気になり窓の外を見遣った。
ガラス窓の向こう、まだ寝静まっている猫ヶ池通を何かがゆらりゆらりと通り過ぎた。低く響く不気味な地鳴りが影に続いた。窓ガラスが音を立てた。
「こいつは、えらいことだ!」
初老のパン職人は、仕上げたばかりの生地を保冷庫にしまうことさえ忘れていた。
店の奥に飛び込んで、大慌てで物置を掻き回した。自身と同じくらいに年代物のカメラを引っ張り出した。
マグネシウム粉末に
震える手で蛇腹を伸ばしカメラを構え、夢中で路地をゆく陽炎のように揺らめく巨大な影にレンズを向けた。
その時、ちょうど法王宮殿の大鐘楼の鐘がこんな時間だというのに鳴り響いた。深夜だからなのか、風向きのせいなのか、空に反響したからなのか、大鐘楼の鐘の音はいつになく綺麗に響いて聞こえた。
その瞬間、狭い路地を塞ぐ漆黒色の機械獣魔が姿を現わした。パン職人が悲鳴をあげなかったのは、
パン職人は、その瞬間を逃さず、シャッターを切っていた。
そして、すぐに駆けだした。逃げるためではなく、焼きたてパンよりも早く、この写真を天空艦隊へ届ける必要があると、初老のパン職人は知っていた。
古びたカメラで撮影された写真乾板には、
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