法印皇女と侍女官と

#012 法王宮殿、法印皇女になって……


♯星歴682年 10月16日

  アゼリア市中区法王宮殿ほうおうきゅうでん


 特別扱いされるのは嫌だった。

 六時限目まで授業を受けて掃除当番も片付けた。今日もいつもどおりに過ごすつもりだった。


 先週のうちに、法王宮殿ほうおうきゅうでんから説明の使者が教頭先生の所へ来ていた。私の事情は、先生方はご存知のはず。だけど、変な風に目立つのは嫌だから、法印皇女ほういんこうじょに任命されることは、くれぐれも内々に……ってお願いしていた。


 職員室へご挨拶に伺った。教頭先生からは励ましの言葉と同時に「誇らしいことなのに……」とひとこと、ぐさり。事情を秘匿ひとくすることをお願いしたことが、まだ残念に思われているみたい。いつまで隠し通せるかなんて、あまり期待してないけど、妙に気を遣われたり、クラスメイトに変に意識されたりするのは嫌だもの。


 ――私、その日、法印皇女ほういんこうじょになりました。


 繰り返しになるけど、私の家、メートレイア伯爵家はくしゃくけは武門一筋の家柄だった。代々に渡って天空艦隊てんくうかんたいの要職を務めて来た家柄だった。法王家ほうおうけと同じくらいに古い貴族家きぞくけで、しかも法王家ほうおうけ姻戚関係いんせきかんけいにあるの。


 普通の貴族きぞく家なら……帝国を統べる法王様ほうおうさまから、天空帝国てんくうていこくの要職に任命されるなんて凄いお話が来たら、舞い上がってしまうはず。綺麗きれいな衣装を何ヶ月も前から仕立てるだろうし、少なくとも当日は馬車くらい用意してくれるはずと思う。親族や一門の騎士きしたちを招いて、盛大な祝宴を開く貴族家きぞくけもあるらしい。


 でも、うちは全然違う。


 役職は単純に帝国を守護しゅごするための名目めいもくに過ぎない。必要なことは、役割を果たすこと――そう、教えられてきた。だから、今日もいつもと変わらず、水上バスの駅に向かった。


 学校を出たら、そのまま駅まで走った。職員室で話し過ぎたせいで、時間がぎりぎりだった。

 傘を学校に忘れてしまい、途中で雨に降られた。改札を抜けたと同時に、水上バスが桟橋に滑り込んで来た。いつもこんな感じにバスには、飛び乗ってばっかりだった。せめて、こんな儀式の前くらいは落ち着いて行きたかったと思う。


 法印皇女ほういんこうじょというのは、天空帝国てんくうていこくにある役職のひとつ。今から六百年も昔にこの世界は漆黒世界しつこくせかいの侵攻を受けたの。長くて激しい戦いの末に、妖魔ようまとその魔法機械まほうきかいたちは、女神様によって法印ほういんされたと伝えられている。


 でもね、六百年も過去のこと。

 神話や伝説って、本当の歴史なのかは微妙なのかも知れない。

 そして、六百年も過ぎたから――法印ほういんが解け始めているの。危険な妖魔ようま魔法機械まほうきかいが甦る前に、再度の法印ほういんをするのが法印皇女ほういんこうじょのお仕事だった。

 と言っても、絵物語に出てくるような格好いい大立ち回りなんて出番はないはずだった。だって、私、学校に通わなきゃいけないし、魔法機械工廠まほうきかいこうしょうの片隅に転がるがらくた整理が実際のお仕事なのは、今日も明日も変わらない……そう、信じて疑わなかった。


 ぼんやり船内暖房の温もりの中で座っていると、居眠りしそうなほどに幸せだった。アゼリア市の水上バスは、細い市街地の水路をゆらゆらと進むから、微妙に気持ち良くって、居眠りして乗り過ごす心配がたっぷりある。

 秋が深まったと思ったら、最近、朝夕が急に寒くなってね。寒いのに弱い私は、この季節が一番に苦手だった。

 ゆらりゆらり。揺れる窓の向こうは、夕暮れ時のアゼリア市の街並みが、しとしと雨に濡れていた。


 法王宮殿ほうおうきゅうでん駅に着いたら、小雨だし宮殿は近くだから走り出した。

 とたん、右肩にピン止めしていた通信布が呼び出し音を立てた。通信布を手に取り、開封呪文を唇だけで唱えると、淡い文字が布の表面に浮かんだ。

 見るとお父様から――仕事が忙しいらしく、任命式に間に合わないから、立会いなしで任命状を受けるようにって。ちょっと、ため息。ちょっと無責任すぎる。


 法王宮殿ほうおうきゅうでんへは何度も来ているから迷うことはないけど、正門まで廻る時間が惜しいから、中庭を抜ける小道を通った。


 すぐに、違和感を感じたの。

 誰も、いない……?


 仮にも、世界をべる天空帝国てんくうていこくの中枢だよ。こっそり中庭を抜けて法王様ほうおうさまのいらっしゃる祭儀さいぎ場まで辿り着けるはずがない。いつもなら、中庭に忍び込んだ途端、衛士えいしたちが走ってくる。正門で面倒な手続きを踏むよりも、衛士えいしに捕まって連れて行かれるパターンの方が、大幅に時間短縮できるから、中庭横断ルートを選んだのだけど。それなのに……なぜ?

 制服のポケットから懐中時計を引っ張り出した。すでに十七時を過ぎていた。どうしよう、遅刻ちしゃうよ。

 法王宮殿ほうおうきゅうでんはとても広大な敷地に複雑な回廊かいろうが行き交う、迷路みたいな建物だった。誰かに捕まえてもらわないと、時間どおりに任命式に会場になる「月の間」に辿り着けない。


 私、ちょっとだけ方向音痴ほうこうおんちなの。

 途方に暮れ始めた頃に、雨に塗れた緑の生垣の向こうに、見知った大きな影が見えた。手を振ると、影は深く一礼した。

 やっと、見付けてもらえた。安堵あんどした。

 そう、この大柄なおじさま――ティルム祭儀官さいぎかんは、私が中庭を近道したあげく、迷子になりかけて、この垣迷路がきめいろの庭に迷い込むと読んでいたらしい。

沙夜姫さやひめ、傘をお持ちにならなかったのですか?」

 太くて包容力を感じる優しい声が笑みを含んで言う。

「学校に忘れてきちゃった」

 くしゃみをしたら、祭儀官さいぎかんが柔らかいタオルを手渡してくれた。この人は、老獪ろうかい天空騎士てんくうきしと聞いているけど、会う度に、いつも、私の行動の先を読んで、抜かりなく準備しているの。

法王猊下ほうおうげいかはすでに月の間にいらっしゃいます。任命状をすぐにもお受け下さい」

 えっ? びっくりして小首を傾げた。確か、任命式は十九時からのはずだった。

 あと約二時間はある。もちろん、その前に正装せいそうに着せ替えさせられるし、事務方からは式次第しきしだいの説明、さらに立会を頂く貴族家きぞくけの方々や帝国高官へのご挨拶廻あいさつまわりもあるし……

 色々と大変でうんざりな準備に大忙しのはず。

 それなのに、いきなり、任命状を受けるって…… えっ?

 私は、自身の雨に濡れた学校の制服姿を見回してから、戸惑った顔をティルム祭儀官さいぎかんへ向けた。

 祭儀官さいぎかんは、軽くため息をついた後、静かにうなずいた。


 祭儀官さいぎかんに導かれて、迷路みたいな宮殿の回廊かいろうを渡った。角を三つほど折れたあたりで方向感覚がなくなる。途中、大扉をいくつか潜った。法王宮殿ほうおうきゅうでんの最深部は、もちろん行ったことなんてない。私が知っているのは…… 後で話すけど、南端にある離れの一部屋だけなの。


 結界魔法けっかいまほうで守られた区画を通って、やっと、たどり着いた。深青色のタイルに飾られた小ホールが「月の間」と呼ばれる特別な祭儀場さいぎじょうだった。

 白亜はくあの衣をまとう威厳いげんに満ちた姿が、数名の従者を従えて月の間中央に佇んでいた。

 この方がエデュルセス法王様ほうおうさま。このミ・レア・トゥール天空帝国てんくうていこくを統べられている、この帝国で一番の重責を担っている方なの。

沙夜さや、学業が忙しい最中に呼び出してしまい、まことに申し訳なく思います。雨に降られましたか」

 宿題で膨らんだ私の鞄と、雨粒にぬれた髪を見遣みやり、法王様ほうおうさまは穏やかに目を細られた。

「学校の勉強と法印ほういんの教習とお仕事と、いっぱいあって大変です」

 少し唇を尖らせて見せた。法王様ほうおうさまは、少し困ったように表情を曇らせた。

 法王様ほうおうさまが優しいのでつい甘えてしまった。

 それから、ふいに気付いた。

「そういえば、お母様は?」

 月の間を見回すけど、姿はない。立ち会いに来てくれるはずだった。綺麗きれいな赤い髪を伸ばしているから、とても目立つ人なんだけど。

瑠華様るかさまは、法印皇女ほういんこうじょ船レアルティアにて、東ウルスティア方面の警戒に当たられています」

 瑠華様るかさまというのが、お母様の名前だった。

 少し困った声色で、ティルム祭儀官さいぎかんが私に耳打ちした。

 ちょっと、呆れた。お母様が、あの天空船てんくうせんにゾッコンなのは知ってたけど、任命式くらい来てくれると思った。

 それに、立会を予定されていたはずの主要な貴族家きぞくけをはじめとする来賓らいひんの皆様もいない。

「あの、皆様、お忙しいご様子とお察しします。あの、任命式は日を改めては……?」

 やっと、何かあったのでないかと気づいた。戸惑いがちに延期を申し出た。でも、法王様ほうおうさまはゆっくり首を振った。

沙夜さや天空帝国てんくうていこくはいま、あなたの力を必要としているのです。あなたには、つらい思いを強いることが多くて申し訳なく思います」

 そんな……私は慌てた。法王様ほうおうさまは優しい方だけど、こんなに気遣われたら恐縮きょうしゅくしてしまう。ましてお詫びのお言葉を頂くなんて。

 でも、何か答えようとして――急に、胸が詰まった。きっと、記憶を封印されているせいだと思う。本当にしゃべりたいことが、時々、言葉にできない。

 私は、いま、メートレイア伯爵家はくしゃくけのひとり娘としてこの場に立っているけど――本当は……きっと、違うの。


 もしも、この儀式の場にお父様とお母様が来ていらしたら、きっと、私は泣いていたかも知れないと思った。だけど、いまは、私しかいない。メートレイア伯爵家はくしゃくけの娘は、もう私だけだった。だから、黒髪を揺らして首を振って、心の中に一斉に沸きあがった色々な言葉を全部、呑み込んで隠した。

「……誰が、悪いとか、そんなことは思いません。私たちを必要としてくださるなら……私はあんまり優秀な子ではないけど……頑張ります」

 気恥ずかしさで耳まで赤くなりそうだった。私は、本当は、あんまり頑張らない子のはずだった。身の丈に見合わない言葉って、やっぱり恥ずかしい。

 法王様ほうおうさまは優しく微笑してくださった。

 私が法王様ほうおうさまの前で、大理石の床にペタンと座ると――後ろに並ぶ従者たちが顔を見合わせていた。葛藤かっとうを声にしたら、少し気持ちが楽になった。そう、私は優秀なんかじゃないもの。法印皇女様ほういんこうじょさまなんて、絶対に似合わない。でも、似合わなくっても、優秀じゃなくっても、背伸びをして法印皇女ほういんこうじょになるって決めていた。


 だから、開き直った。

 いいもの。どうせ無作法な武門の家柄だからね。私は、本来、法印皇女ほういんこうじょになるとは期待されずに育ったはずなのだから。

 法王様ほうおうさまが軽く咳払いをした。ついで、呪文を詠唱えいしょう――従者たちが半調子分遅れて唱和しょうわすると、月の間は特別な結界けっかいになっていた。


 ――メートレイア伯爵家はくしゃくけ、総領姫たる沙夜さや・イス・メートレイアを、次席法印皇女じせきほういんこうじょに任ずる。


 法王様ほうおうさまの声がとても神々しく告げた。

 任命状、続いて法印皇女ほういんこうじょの目印でもある剣を与えられる。私向けに小振りで細身のレイピアを両手で受ける。私にとってはお飾りに過ぎないのに、さやも柄も繊細な銀細工が巻き付いていた。たぶん、法王宮殿ほうおうきゅうでんの宝物庫から由緒正ゆうしょただしい刀剣を選んでくれたみたいだった。私、正式に法印皇女になったけど、それでも、武官でも騎士きしでもない学生のお手伝いなのは変わらないとおもっていた。剣技なんて習っていないから、レイピアなんて振り回すことはないと思った。

 手渡された任命状を小脇に立ち上がる。自然とため息が漏れる。


 ――法印皇女ほういんこうじょ


 この官職名はあんまり一般の人には知られていないけど、大昔に妖魔ようまが遺した魔法機械まほうきかいを再封印する大切なお役目だった。


 でもね、立ち会いにいらっしゃるご来賓らいひんの方々を待たずに任命を急ぐなんて、いったい何が……?


 疑問は消え残っていたけど、まだ、このときは、たとえ法印皇女ほういんこうじょになったとしても、退屈な日々を過ごすことになるだけのはずっていう、昨日までの日常感覚が、私には残っていたの。

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