審判

「柿崎さん、この書類もお願いします」


 電話が鳴り響くこともなく、活力の消失したオフィス。

 そこは例えるならば、分子があまり動かず、故にエネルギーの少ない低温状態。

 そこに表情を変えずに書類の判を押す、一人の厳格な雰囲気を醸し出す美女。

 しかし、その厳格さと、他の者を意に介さないその態度が周りに強烈な壁を造り上げていた。


「さすが、クールビューティー柿崎燈香かきざきとうか様。今日も書類としか見つめ合わないみたいですよ」


 その光景を遠く後方の席から見つめ、男が隣の他の男に耳打ち立てる。


「何であんなに人に対して無関心なんだろうね。まるで私は人間には興味ありません、みたいな感じだよな」


 耳打ちを立てられた男は、そう呟く。


「そうそう、なんか俺らを『物』としか認識していないような、そんな冷たい目を向けてくるし」


「美人なのに勿体ないねえ。あれじゃあ、デートに誘う気も起きねえよ」


 嘆息して男が告げる。

 そんな男達の密談をしかし、その美女はしっかりと耳に入れていた。

 だがそれは、その美女と男達のいる距離では決して聞こえることはないはずだった。

 『普通の』人間ではあり得ないことだった。


(全く、当たり前だ。事実、私は貴様らを『物』としてしか見ていないし、貴様らのような低次元の存在に欲情されても迷惑なだけだ。『穢れた』悪魔の子どもよ)


 表情は無表情。しかし、その嫌悪を美女は心の中で吐露する。

 お前らは──『非』だ。

 そして、柿崎燈香──否、人に扮した天使、ケルビエムは審判する。


(世を正常にサイクルするために貴様らが義務付けられた『仕事』。それを無下にし、つまらん話でロスを招くとは。それで自身の首も締めることになるというのに、愚かなことだ)


 そして、周囲をちらりと、見渡す。


(あのお茶汲みを任された女は『是』だ。何故なら、覚束無いが、ちゃんと業務を全うしようとしている。対して、あの二人組の女は『非』だ。新入社員の女をいびる算段を話しあっている。それが、教育なるものとなれば良いが、貴様らが検討している方法は明らかに過剰だ。おまけに業務中にそんな話をするのを止めろ。せめて、飲みの時にするがよい)


 周囲の人間の行動、言動、全てを表情を変えずに観察し、ケルビエムは次々と社内の人々に審判を行ってゆく。


(ふう、やはり『今の世』にはびこる人間は穢れた存在ばかりだ。悪魔と交わり、罪を覚えた赤子がよもやここまで蔓延するとは、あの時は思いもよらなかった。だがしかしっ!)


 ケルビエムは今までの無表情を険の表情に変える。

 その判を握る手に、思わず力みが生じる。


 タァン!


 そして、強く書類へと判を叩きつける。


(そんな奴らも、あの『天使の虐殺者』と比較すれば、まだ可愛いもの! あの悪魔を超えた醜悪な生物は……私が、焼き尽くしてやるっ!)


「ど、どうしたのかね!? 柿崎君っ!?」


 突然の淡々と仕事をしていた女子社員の激情に驚き、近くにいた係長が問う。


「……いえ、何でもありません。少し、疲れが。お手洗いへ行ってきてもよろしいでしょうか?」


 ケルビエムの願いに係長は首を下に振り、了承する。


「君は非常に真面目で優秀な社員だが……あまり無理はするなよ。少しは羽を伸ばすことも覚えないと」


 はい、そうですね。お気遣いありがとうございます。

 と、ケルビエムは軽く会釈して席を立つ。

 そして、


(あんたが倒れると、こっちもしわ寄せがきて困るんだよ)


 という係長の心の声をケルビエムは理解していたが、無視し、ドアへと手を掛ける。




 夕暮れ──それは、虚しさと悲哀、感傷を浸した景色。

 その燃え盛る燈と紅が人に写すは、正逆の感情。

 日に照り付けるは黒色のしなやかな長髪。

 後頭部で纏められた長髪を揺らし、スーツを着た女性は脇道を進んでゆく。


(予定通り、定時に終了したな。全く、何故穢れた悪魔の子はこのサイクルでさえもまともにできないのか)


 まあわかっていることだけども、という自問自答をしてその女性、人に扮したケルビエムは嘆息する。


(それは、『罪』を手に入れてしまったから。私達と同様の『感情』を、『欲』を。『本来の人』は純粋であり、澄み切った『玩具』だった。至高の『アストラル』だった。それすらも……)


 ケルビエムは心の声を途切れさせ、表情を曇らせる。


(しかし、穢れたと言っても『この世界』の循環要員達だ。その社会は、ミカエル様の構築する世界には大切なのだ。せめて、『最後の審判』までは絶滅してもらっては困る)


 さてどうだろう? と、ケルビエムは今日一日の自身の行いを振り返り、思慮する。


(そのサイクルにこうやって最近は投じているわけだが、私はどの程度上手くやっているのだろうか)


 自身の行い、立ち位置。

 それは『サイクル』を害しているのか、そうでないのか。

 それが、ケルビエムの、天使達の『審判』。


(私は、黙々と作業を行っていた。しかし、それも度を過ぎると職場の環境を害する。だから、私は気にかけるものがいれば応ずるし、また手を抜かねばならないところは抜かなければならない。だからこそ、昼食後の午後は一旦休止した。係長の心の不安を改善するためにな)


 ケルビエムは頷き、自身の問いに肯定する。


(そうだ、上手くサイクルは循環していた。私は、『是』だ)


 思慮して歩いていると、夕暮れとコントラストを彩どる緑が溢れる公園へと差し掛かっていた。

 そこには、ベンチで肩を落とし、項垂れる男。

 その灰色のスーツは木々の影で覆われ、黒く染まる。


(あの男は──私の所属する会社の人間だ。コミュニケーションが下手で、職場の雰囲気を悪くした人間)


 ケルビエムはこの男が、項垂れている理由を知っていた。

 それは、職場の人間関係が上手くいかず、いわゆる『窓際族』となっているという理由である。

 これは、丁度良いかもしれないな。

 そう、ケルビエムは判断し、ベンチで項垂れる男へと近づいてゆく。


「やあ。どうしたんだ、こんなところで?」


 そして、ケルビエムは男に尋ねる。


「き、君は、燈香さん……?」


「そうだ、私だ」


 突然呼ばれ、驚愕している男にあくまで淡々とした口調でケルビエムは答える。


「ぼ、僕に何の用だい……?」


「いや、やたらと落ち込んでいるのでな」


「そ、そうか! 燈香さんも、あいつらに除け者にされたのか!? そうか、そうか。燈香さんも、あの職場では周りと壁を作っていたしなぁ……」


 勝手な結論をして、ケルビエムへ希望の眼差しを向けて男は叫ぶ。

 その表情はさっきの陰鬱から喜々へと変わっていた。


「あいつら、自分が合わないと分かると、とことん人を軽蔑して蔑みやがるっ! 本当にクズばっかだ! あんなクソ会社辞めてやりたいよっ!」


 そして、突然愚痴を始める。

 それをあくまで無表情で見つめ、ケルビエムは口を開く。


「そうか。だったら、今すぐ辞めればいい」


「え……?」


 ケルビエムの鋭利な言葉に、男は言葉を失う。


「正直、会社でも貴様のような『流れ』に取り残されるものは迷惑なんだよ。貴様がいるだけで作業効率も悪くなるし、その愚痴は他の者の会社への反発に繋がりかねん。それはすなわち、『この世界』へ悪影響を及ぼす」


 そしてケルビエムの容赦のない言葉の連なりに男は一寸、言葉を失う。


「そ、それを伝えるために……僕に話しかけたのか……?」


「ああ、そうだ。……いいや、言葉足らずだったな。率直に言おう。貴様は『死ね』。それも潔く、だ。会社から辞めさせるのにもいらん手順がいるし、それがベストだろう」


「っ……!」


 突然のケルビエムの提案に、男は言葉を失くす。

 その男の、怒りなのか悲しみなのかわからない表情を見つめ、ケルビエムは言う。


「ああそうか、そうだったな。そういえば、貴様らにとって『死』は終焉であって、畏怖するものであったな。では、こうしよう」


 ケルビエムは言葉とともに、右手を地面に平行にして伸ばす。

 途端、地面から湧き出るものが。

 それは、白い閃光を放つ球体。


「な、なんだこれはっ!」


 男は地面から這い出る異質に、恐怖を覚える。


「私自身が手を下すのは禁じられているのでな。……さあ、わが子よ、穢れを取り除け!」


 ケルビエムの号令とともに、その球体は形を成す。

 それは、男の半分程の背丈の小さな天使。

 その体は白いローブに包まれ、顔には悦の表情を象った仮面。


「ひ、ひいっ! 化け物っ!」


 男はその姿を確認すると、そして公園の入口まで駆け出した。

 それは、未知のものへの恐怖からであった。


「『神性創造・智天使セラフィム・クリエイション・モード・ケルビム』。私の『ピット』達から逃れられると思うなよ」


「う、うわぁっ!」


 男が公園の入り口に足をつけると、その眼前には無数の小さな天使達が。

 しかし、その体躯とは比例しないプレッシャーが男の足を止める。


「あ……ああ……」


 もう、逃げられない。

 男は恐怖の顔を作り、その場に立ち尽くす。


「さあ、貴様の『アストラル』も私に取り込まれ、その穢れを浄化されるがよい」


 男の眼前にいる天使達が白銀の剣を構える。

 そして、その剣は男を横薙ぎに振り払うはずだった。


「……え?」


 目を閉じ、死を覚悟した男が目を開けると、そこには自身の予想とは異なる結果が写し出されていた。


「ふ、ぐっ……!」


 そこには、多数の青白い閃光を放つ矢が。

 その切っ先は天使達の胴体を深々と突き刺さり、見えない。


「ガブリエルの『繭』……!」


 苦虫を噛み潰した表情を露わにし、ケルビエムが呟く。


「天使が人を殺す……キリスト信者には決して見せられない展開だね」


 青白い閃光を放つ弓の弦に、同色の矢を五つ張らせ、その男は言う。


「あと、俺はガブリエルの『皮』でも、『繭』でもないっ! 俺の名は坂口京馬、『人』だ!」


 そして、芯の通った確かな声で、京馬は叫ぶ。

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