始まりの追憶
新しく舗装されたベージュの壁。
そこに取り付けられた窓々には汚れが全く見当たらない。
地面を走る黄緑の廊下には、光沢のあるワックスが塗りたてられ、そこも同様に黒く濁る汚れなど存在せず、清潔である。
その廊下を悠々と歩く一人の美少年。
佇まいは年齢とは比例しない、どこか大人めいている雰囲気。
その眼差しは穏やかであり、また野性的な鋭さもあった。
その少年の名は椎橋桐人、十七歳。
進学校に通う、高校二年生。
超が付くほど、成績優秀、スポーツ万能、容姿端麗。
まさに、成功を約束された人間。
「おい、桐人! お前、また模試でトップだったんだって!? こんなんじゃ、T大も余裕で合格なんじゃねえのか?」
突然、桐人の肩に手が置かれる。
「いやあ、わからんぞ? 受験には魔物が住んでる可能性もあるからな──まあ、今回の結果は素直に嬉しいがな」
苦笑して、桐人は傍らの男子生徒に告げる。
──まあ、当然の結果だ。
桐人の内心は心で呟く。
この程度の模試の難易度、苦戦するまでもない。むしろ何故、皆があそこまで頭を抱え込むのかさっぱりだ。
桐人はため息を吐きそうになる。
が、思考を切り替え、あくまで苦笑を続ける。
(否、そうじゃない。俺が皆とは『違う』からだ。)
そう、桐人は『特別』だった。
だから、普通の皆とは感覚が異なる。
物心ついた時からそうだった。
桐人は初めから何でも出来た。
初めての事もコツを掴めば、すんなりとクリアできた。
だから、人生において、苦悩というのを知らない。
が、人間関係には少し苦労はした。何せ、『普通』が感じる挫折や妬みの感情が全く分からなかったからだ。
──そんなもの感じるぐらいなら、打開策を打ち、実行する方に気を向けた方が効率的だ。
馬鹿馬鹿しい。
だが、そんな思考は吐露してはならない。
それは、集団で行動を生業とし、それが繁栄の原理であった人としての、『繋がり』のために必要なことだから。そう、桐人は判断したからだ。
桐人はその方針の下、この世間の感覚への同調をした。さらには周りを観察し、常日頃の変化にも柔軟に対応してきた。
「俺なんて、半分いくかどうかの順位だからな。お前が凄い羨ましいよ。くそ! この完璧超人がっ!」
そう言って、男子生徒は桐人にじゃれるように取っ組みかかる。
それを笑みを持って、桐人が答える。
「いてて……おいおい止めろよ、嫉妬かぁ!? 俺だって、こんな平然としてるが、影でこそこそ頑張ってんだぞ! ガ・リ・勉・だ! 色々な誘惑に勝ったり負けたりで紆余曲折してここまでこれましたもっと讃えろ」
桐人も負けじと取っ組み、応戦しながら言う。
「誰が讃えるか! こんちくしょう!」
取っ組んでいた手を離し、ジト目で男子生徒は桐人を見る。
はは、それを桐人は笑みの顔で返す。
そして、自身の席へと座る。
まあ、『普通』って感覚はこんな感じだ。
自身の居場所もちゃんと確保しないとな。
そして、桐人は携帯電話を開く。
……智子からメールか。
桐人はそのメールの文面に、無表情で返す文章を綴る。
(また、おはようから続く近況メールか。まあ、同じ学校でべったりされても自身の時間が作れないから、これはその代償と考えれば安いものだな)
そんな思慮を巡らせながら桐人は目を上に向け、周囲を見る。
……自身と目を合わせて、何人の女子生徒が目を背けたのだろう。
全く、俺には彼女がいるのにとんだ茶番だな。
桐人は嘆息しながら、目を下に戻す。
「ねえねえ、知ってる? 今日、転校生が来るらしいよ?」
そんな桐人の少し離れた横で女子同士が会話している。
「へえ、知らなかった。それ、いつの情報?」
「いやいや、実は私も今日初めて知ったんだけど……なんと、その転校生、外人なんだよ! それも、超美人!」
「え!? マジ!? うわあー……男なら良かったなあ。それも美人なんて……」
ため息をつき、女子生徒が呟く。
桐人はメールで文面を打ちながら、その情報にも耳を傾けていた。
(転校生、か。それも帰国子女。『お国柄』にもよるが、果たしてこのクラスに馴染めるかね。まあ、最初は皆、優しくしてくれるが、その後はどうなるか)
そんな自身の思慮に桐人は嘆息する。
全く、非効率だ。俺には何も関係ないのにな。
そんな思慮をしていると、HRの予鈴がなり、担任の先生が教室に入ってくる。
いつもの、起立、着席の二行動を終え、先生が口を開く。
「今日はHRを始める前に、転校生を紹介します。さあ、入ってきなさい」
そう、先生が顔をドアへ向け、告げる。
ピシャッ!
すると、勢いよくドアが開かれ、堂々とした足取りで一人の美少女が教壇へ立つ。
その美しいブロンドの髪は揺らめくたびに爽やかで艶やかな匂いを放つ。
皆、最初のドアの快音で、その目を美少女へと向けていた。
そして、その目はその少女の容姿と匂いによって離れることはなく、皆は瞳孔を大きくし、さらに見つめる。
生徒達の目は常に釘の状態となっていた。
「この子はアメリカの学校から転入し──」
「私はアメリカからやっていたエレン・パーソンズよ! アメリカでは少しモデルみたいなことして雑誌にも載ったことあるよ! よろしくねっ!」
先生の言葉を遮り、その異国の美少女─エレン・パーソンズはウインクをして自己紹介を行った。
「やべえええええ! 超可愛い、つーか、超美人! これはちょっと遅い春がきたかも!」
「俺は可愛い小動物系の子が好きだと思ってたんだが、どうやら勘違いだったみたいだ……!」
そして、放たれたウインクはそこにいる全男子生徒の心に釘を打つ──と思われた。
(これまた、えらくインパクトの強い奴が来たな。そして自己主張も激しそうだ。正直、トラブル要因になる可能性も高い。悪いが、あまり関わりたくない相手だ……)
椎橋桐人だけはしかし、その少女に響かなかった。
人生において、成功を願う桐人にとって、その少女と親密になることはあまりにもリスクが大きいと判断したからだ。
「は、はは。元気が良いね。エレンちゃん……じゃあ、座る席は──」
「あそこがいいわ。あのイケメンの隣り」
苦笑しながら、先生が座る席を促そうとするも、それをまた遮りエレンは主張する。
そして、その指先を見て、桐人の目が丸くなる。
「え!? でもあそこは他の子が座ってるんだけど……」
「そこは、先生の権限でどうにかしなさいよ? まあ、私のバックにはどうとでもなるぐらい権力ある人達たくさんいるから強制的に席を譲らせることも可能だけど」
何やら、えらくとんでもないことを言うエレンに対し、先生は困惑の表情を浮かべる。
それは、桐人も同様だった。
(こ、これは、何の冗談だ!? 俺に一目惚れでもしたのか? いや、あの手はプライド高く、自身は先に手を出すタイプではないはず……)
桐人は焦燥する。
「ちょっと待ってくれ。何故、俺の隣りが良いんだ? 正直、俺自身も、そしてその隣の子も理由がないと納得できないと思うんだが」
桐人は思慮した結果、直球に理由を聞くことにした。
その方が、情報が増え、打開策を検討しやすいと考えたからだ。
また、ここでもし自身に気があることをその美少女が告げたら、彼女の存在を話せばそこでその関係を断つことが出来る。
だが、その桐人の予想を超えた回答を、エレンは口にする。
「あんたが、私のおじいちゃんだからだよ!」
……は?
突然の言葉にクラス中が首を傾げる。
──桐人の全てを変えた出会いは、まるで乱気流のように勢いよく訪れたのだった。
「──れなさい!」
そう、あれがエレンと俺の出会いだった。
俺の、全ての価値観を変えた出会い。
「──れなさいよっ!」
あれから、色々あった。
最初の力の発現、最初の天使との戦い、最初の苦悩。
全てが完璧だと思っていた自身の最初の挫折。
でも、そこにはエレンがいて、馬鹿にされながら、馬鹿にしながら──
徐々に本当の自分をあいつに曝け出していた。
「──れなさいってば! あ、嘘!? こいつ涎垂らしたっ!?」
自身に眠る力、呪い、宿命、悲劇──
色々なことがわかって、色々な出会いがあって、色々な別れがあって。
それでも、ずっと一緒にいてくれた。
そんなエレンを俺は──いいや、あいつも同じ様に俺を好きになっていた。
「っ離れなさいって言ってるでしょ! このやろうっ!」
そんな思慮をしていた俺の頭は、艶やかな足に蹴られ、宙を浮く。
「ああ、もうっ! 人の足を抱き枕かなんかと勘違いしてんじゃないの!? 圧迫して足が壊死するとこだったわ! おまけにその足に涎まで垂らしてくるし……最低」
「いやあ、悪いな。つい良い夢を見てしまってな……ところで、もう怪我は大丈夫なのか?」
その桐人の問いに、エレンは不機嫌な表情となって答える。
「ああ、あれくらいの怪我、もう完治してるわ。後は……ケツアクウァトルに『会い』に行ってきただけ」
「じゃあ、もう全然問題ないんだな? ……良かった」
桐人は安堵の表情を浮かべる。それは、純粋で、深かった。
「……何、気持ち悪い顔浮かべてんのよ。馬鹿」
エレンはその桐人の顔から背け、紅潮した顔を見せないようにする。
「やっぱり、お前はそうでなきゃな。俺は、そんなお前を好きになったんだから」
桐人はそう言って微笑し、手をベッドのシーツへと置く。
そして、もう片方の手でエレンの腰を掴み、腕で自身へと引き寄せる。
「ちょ、起きていきなり……ん……」
目を丸くして、拒絶の態度を示すエレンの唇を、桐人は強引に奪う。
唇を奪われたエレンは、一寸の間の後は抵抗を忘れていた。
後は、熱く、熱い、接吻。
桐人はエレンを大事なものを抱え込むように抱き締める。
「俺は──お前を、失いたくない」
その手は力強く、荒らしい。
が、同時に優しい。
「……もう、こんな場所で……人が来たらどうするの?」
「そういうシチュエーションも、ありだろ?」
艶やかな顔を困惑に変え、問うエレンに対し、桐人はあくまで強引。
エレンを押し倒し、また唇を重ねる。
が、
「……ち、来たか。さて、『どっち』だろうね」
桐人は重ねた唇を外し、顔を虚空へ向ける。
「『察知』したのね。──どのみち、どっちでも許さないのは変わらないけど」
嘆息して、エレンは体を起こし、呟く。
「いや、お前は病み上がりだろうし、俺に任せろ。──それに、今日の俺は若干機嫌が悪い。『本気』を出して暴れたい」
「それは、こっちのセリフよ。あと、私は病み上がりでも何でもないわ。さっき言ったでしょう? 『会い』にいったから、今日まで寝てたって」
乱れた衣服を正し、エレンは告げる。
そうか、桐人は微笑する。
「じゃあ、『風雷コンビ』で暴れるとするか。いつも通り、背中を任せる」
「同じく。──でも、あの黒ローブの根暗野郎がいたら、私に譲りなさい。タネはわかったわ。跡形もなく吹き飛ばしてやるっ!」
エレンは試運転のように全身に電気を迸らせ、微笑。
そのエレンの意気込みに桐人も応えるように風を纏わせる。
「ふふ。まあ、『あいつ』でも、『ミカエル』でも、『形』は変わらないだろうけどね」
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