◆31:Cognosce te ipsum

 ほどなくして、休憩室は白衣と看護師服を着た人間に埋め尽くされた。


 倭も、スナオの父親も全く意識を向けていなかったのだが、シンが知らずの間に休憩室を出て人を呼んできたらしい。

 騒動を聞きつけてやってきましたという寄せ集めの人員ではなく、全員がスナオか倭に関係のある顔触れだったのはそのためだ。


 駆けつけたのはこの形成外科と皮膚科のフロアを担当する医者に加えてワンフロア下の整形外科の医者もいた。細縁のメガネをかけた四十代に見えるその女性が、近原スナオの担当医だと言うことだった。


「近原さん! いい加減にして下さい。他の患者様の迷惑になります。それに、差し出がましいようですが、あなたのそれはしつけの域を超えています」


 感情的にならないよう制御されて落ち着いた声だったが、公私を混同しないよう考えられた言い回しの端々に、ひとりの人間を助けようとする熱い意志が見え隠れしていた。


「だまれ。だから嫌だったんだ。女の医者なんて。能力もない癖に口ばかりだ。無能はこれだから」

「では、初日に書かせて頂いた診断書とカルテ、お嬢さんの申告を採用して訂正させて頂いても?」

「待ってくれ。脅すのは卑怯だぞ! ヤブ医者め」

「あなたにやられたことを通り魔にやられたと、書かせて頂いたのは私です。大事にしたくないとおっしゃる娘さんのことを思ってさせて頂いたんですよ。もし、この判断が正しくないと思えば」


 親が自分の子どもをどう扱おうと勝手だろう、と主張するスナオの父親と互角に口論しながら彼女がスナオを連れて去っていくと、ようやく場の張り詰めた空気が緩んだ。



「大変だったね」


 ねぎらうようにシンが声をかけてくるが、倭は気味の悪い違和感しか覚えない。

 なんと返して良いかわからず、聞こえないふりをする。


「伊比さん、ちょっと」


 夕飯前、自分が担当医だと自己紹介した紀ノ本きのもとという医者が倭を手招きした。もじゃもじゃに伸ばしっぱなしの髪と青いひげの目立つ男だ。


「お父さんから君のことを頼まれたと、夕方話したよね?」

「はい」


 何の話だと思いながら近寄る。


「ちょっと気になったんだけど」


 周囲にいまだ残る看護師の耳を気にしてか、部屋の隅へ倭を誘導し声をひそめて彼は続けた。


「伊比さんは、お母さんは、今いらっしゃらないのかな?」


 心臓が跳ね、背筋が心持ち伸びた。一拍か二拍か、会話のなかでの返事と言うには遅すぎる間を開けて倭は口を開く。


「それは、どう言う意味ですか?」


「うん。君のお父さんからこう言付かっていてね。何か急用があるときはお父さんの携帯か会社に連絡して欲しいと。ご自宅は帰宅の時間が一定でないから連絡先の優先順位としては高くして欲しくないと、言われたんだ。お母さんについて尋ねたら、あの子の母親はおりませんと、家族は私だけですと、そう突っぱねられてね。何か切羽詰まったような感じだったから」


 青ひげに囲まれた、逆むけだらけの唇がうねうねと動き、寝不足を示す充血した瞳が申し訳なさそうに倭を見つめている。白衣からはたばこ臭さが、吐き出される息からは歯磨き粉の香がした。


「それで、子どもの俺に直接、尋ねるんですか?」


 立場をふりかざすつもりはなかったが、なぜ自分に聞いてくるのだと言う思いがある。質問の難易度からして、理由くらい聞き出してもかまわないだろう。


「ああ、いや、話しづらいことだよね」


 書類を綴じたバインダーを脇に挟み、両手の平を胸の前で振って話題を散らすようなジェスチャーをする。だが、彼の状況を確かめたいという意志は変わらないようで、話を切り上げる気配はなかった。


「直接お父さんにどういうことかお尋ねしたかったんだけど、お仕事があるらしくてそれ以上話が出来なかったんだ。ごめんね。今後の診察やもし大きな治療手術が必要になったとき、動きやすさが変わってくるから聞いておきたいんだ。もし話せないことなら、別にかまわないよ」


 話せないことなら、と紀ノ本は言うが、倭には話せないことがそもそも何なのかがわからない。


『あの子の母親はおりません。家族は私だけです』


 この言葉の意味がわからなくて頭の中をグルグルと回っている。


 くそ親父。

 母さんと世界をどこにやった。

 勝手に殺すな。



 冷静に考えれば、ふたりは意識不明で入院中なのだからそれを上手く伝えられず、居ないという表現を使ったと理解するのが妥当だと、倭もわかっている。

 それでも、言い間違いなどではなく、あえて伸彦がそのように伝えたのだという可能性を選んでしまうのは、さっきシンが得意げに吹いていたホラが原因だった。


「俺には母さんと双子の妹がいます。今意識不明で入院中なので、そう言ったんだと思います」

「え? そうだったの?」


 全く予想もしていなかったという風に彼は目を丸くして、バインダーからメモ用紙を一枚取りだし、ボールペンを走らせる。


「中央総合病院に入院してます。なんか、近くの病院には入院させたくなかったみたいですけど」


「だよね、中央総合病院ってけっこう遠いよね。この近くにもウチだけじゃなくて三件くらいそこそこ設備の良い総合病院あるのに。ふうん、そうか、そういうことか」

「あの」

「ん? なんだい?」


 全てが腑に落ちたという表情で病院名をメモしていた彼は、気さくそうな笑顔を倭に向けた。意外とシワが少なく張りのある皮膚をしている。もしかしたらまだ、彼は二十代なのかも知れない。


「お願いがあるんですが、母さんと妹の容態、確認してもらえますか?」


 うん、いいよいいよ、あっちの病院先輩が居るからね、聞いてあげるよ、と驚くほど気安く紀ノ本は請け合ってくれた。



 結果はやはり、ふたりとも意識不明のままであると言うこと、身体上は一命を取り留めているが、またいつ危うくなるかも分からない状態だと言うことだった。

 実の息子さんたってのお願いだから、ということで忌憚ない現状を教えてくれたよ、と気の毒な伝書鳩になってしまった紀ノ本は無感情な声でそう伝えてくれた。


 その後はすぐ消灯時間が訪れた。

 夜の九時という健全な高校生には早過ぎて、不眠症を患う倭には地獄のような長さを保証する就寝時間が始まる。

 倭は布団の上であぐらをかき寝る努力をかけらもしようとはせず、時が訪れるのを待っていた。


 倭の居る部屋は四人部屋で、入り口は常に半分開いている。

 十時頃、その開いた扉から看護師が懐中電灯をもって病室確認に来た。懐中電灯の光が遠ざかっていくと同時、窓の向こうに茂る植木がガサガサと揺れる。


 しばらくして全身にロープを巻き付けたスナオの姿が現れた。


 木の枝に申のように腰をかけ、口をぱくぱくと開閉させる。


「ひ き あ げ て」


 倭は音を立てないようゆっくりと窓を開いた。


 ベッドの足に結びつけておいたロープが、窓から外に出て、宙を渡り向かいの植木に居るスナオに繋がっている。下からロープを引っぱるだけで気付けるものを、わざわざ木に登って来訪を主張してくれたらしい。バカとなんとかは高いところが好きと言うことわざを思い出す。


 いったん地面に降りた彼女を苦労して引き上げる。スナオが重たいのではなく、倭の全身の筋肉が感電によってところどころ火傷を負っているからだった。全身傷だらけだったから、そこから電気が大量に流入したんだと、紀ノ本には説明された。ブチブチと筋肉がちぎれるような嫌な感触を味わいながら、彼女を室内に招き入れる。


「このくらいの壁、指が治っていれば一人でじゅうぶんなんだけど」


 うそぶきながら病室に侵入した彼女はちゃっかりパジャマを着込んでいる。さっそく靴を脱いで遠慮なくベッドにダイブした。


「うっひゃー、ふっかふかだわー!」


 小学生並みの奇声をあげて二転三転ゴロゴロマットレスの感触を楽しんだ後、彼女は肘枕をして倭を見上げる。


「で? メールで聞いたら無言無視されたけど、どうしてあたしにここを貸してくれるの?」

「俺、病室抜けるから、その間身代わりになってくれ」

「いやよ、そんな器用じゃないもの。でもあなたは廊下かどっかで寝てちょうだい」

「あのなあ……まあいいや、大それたこと期待してねーよ。そこで人間がひとり寝てるふりをしてくれたら十分だ」

「あたしがそれをしないといけない理由はあるかしら? あたしに寝場所を貸してくれる人はいくらでも居るのよ」


 外灯に白く照らされた彼女の小さな顔。短い髪は頭部をさらに小作りにみせている。身体能力が並外れているせいで忘れがちになるが、夕方思い出したように、彼女は女子高生なのだ。どうやらあの日倭の家に泊まらせたあとも他人を渡り歩いて自宅には帰っていなかったらしいと知っては、放っておけなかった。

 舞夏との関係を知った今なら、舞夏に事情を話して泊めてくれるよう頼むべきかとも思ったが、その案は迷惑かけたくないのひと言でスナオにより却下された。


「お前の指を折ったのが父親だってみんなにばらされてもいいなら、帰ってくれ」

「なっ」


 彼女は夜目にもわかるくらい顔を青ざめさせ、柔らかそうな唇をわなめかせた。

 飛び起きて首を狩ろうとするから、大慌てで避ける。


「やめろ。他の人に気付かれたらどうするんだ」

「あなたこそ、病室を抜け出してどうするつもりなの?」


 ベッドの上で尻餅をつく倭の股の間に左手を、その左外に右手をつき、彼女は膝でにじり寄る。外で明々と灯る蛍光灯の光を吸って、瞳は網膜の裏側、眼窩まで透けそうだ。灰色がかった大きな瞳がじっと倭を見つめる。


「その前に、ひとつ聞いていいか?」

「なにかしら?」


「あいつ、シンが言ってたよな、三日前、今から言うと一九日の日、近原はある物を手に入れるために、新幹線に乗ったって。どこへ何を手に入れに行ったんだ?」

「音楽学校の学校案内パンフレットよ。あなたも今日会ってわかったでしょう。あの親が居る家にいたら、あたしはなにも出来ない。奨学金をもらえればいいけど、それが無理ならバイトしてでも自分で授業料を払って通える学校を探したの」


「そうか」

「さあ、答えたんだから、さっさとあたしの質問にも答えなさい」


 倭は、生まれた頃から、やりたいことのために環境を周囲から与えられてきたから、道を自分で切り開き無理やり作ると言うことを思いつきもしなかった。自分の中にあった甘さを噛みしめる。それは、苦くて、決まり悪く情けない苛立ちを口中に染み渡らせた。


 スナオはさっさと答えろと言わんばかりにゆっくりと顔を近づけてくる。


「確かめに行く」


 顔を逸らしたくなるのをこらえて言った。


「なにを?」


 スナオはさらに一歩詰める。


 彼女の胸が立てた膝に当たっているような気がしたが勘違いと思うことにした。スナオの体温が匂い立つように伝わってくる。きめ細やかな皮膚がその輪郭線をぼやかしていく。


 倭は乾いた唇を、ゆっくりと舐めて湿らせた。


「俺が、惨めな奴なのかどうかを」


 スナオが綺麗に並んだ歯をみせて嬉しそうに笑う。


「自分が間違っていたかどうかを確かめに行くのね?」


「ああ」

 首肯した。


 彼女の体重が膝に心持ちかかった。


 スナオが右腕をこちらに伸ばしてくる。



「いいわ。あなたにはいっぱい貸していっぱい借りた。これで全てチャラにしましょう」


 無造作に頭を撫でられた。


「いってらっしゃい」




 ◆




「お電話ありがとうございます。はい、こちら榎水病院です。はい、こちらに伊比さんは入院されてますが。ええ、ええ? そんな、本当ですか?」


 電話を受けた看護師は額から冷えピタを引っぱがしてもう一度張り直した。受話器を肩に挟んで、パソコンを操作し入院中の患者に伊比倭が居ることを確かめる。手近なメモパッドを引っ張り出す。


「居なくなった方のお名前をもう一度お願いします」


 ボールペンがメモパッドに黒い溝を掘る。


 イビミヤビ、イビセカイ。

 サキホドマデイシキフメイ。


 チン、と鈴の鳴る軽い音を立てて受話器が置かれた。


 彼女は目を丸く見開いたまま、切った電話の受話器を再度持ち上げ、流れるような指裁きでプッシュボタンを押す。内線を回し、形成外科へつなぐ。



「紀ノ本先生、いらっしゃいますか?」




 ◆




 倭はスナオの助けを借りてロープを伝い病院を抜け出した。

 時刻はまだ十時を回ったばかり。

 公共交通機関は当然動いている。バスに乗って駅まででた後、電車に乗り目的地へ向かう。



 もしかしたら目をつむったままでもたどり着けるのではないか、そう何度も思ったそこへたどり着いたのは十時半のことだった。


 倭は電気の灯らないその建物を見上げる。


 生まれてから十七年を超える歳月を過ごした、自分の家。本当にここで四人の人間が家族として暮らしていたのか、分からなくなってしまった家。


 伸彦はまだ帰宅していないらしい。鍵はもっていたが、中に入らず家の塀にもたれて待つことにした。


 近くにある公園のほうから、しきりと蝉の鳴き声が聞こえてくる。夜であるにもかかわらず三十度を超える気温のせいだろう、頭痛がしそうなくらい似たようなリズムを熱唱し続けている。

 首もとを伝う汗を拭うのにも疲れた頃、ようやく伸彦が姿を現した。


 彼はカメラにレンズ、ストロボやスタンドその他様々な器具の入った鞄を背負いながら歩いていたが、家の前にある人影に気付いて一瞬歩調を乱す。

 顔を真っ直ぐ倭に据えたまま、ゆっくりと息子の前まで歩を進める。


「倭、なにしてるんだ、こんな所で」


 低く抑えられた声だったが、咎める色は強く、半ば恫喝するような声音だった。


「父さんに聞きたいことがあってきた」


 塀から背を離し、倭は伸彦と対峙する。


 いつも母親や世界、倭から目線を反らし続けていた父親とは思えないくらい、落ち着き払った表情が彼の決意を迎えた。伸彦はなにかを察したのか、鞄を担ぎ直し足を心持ち開いて会話の構えを取る。いつも背を丸めていたから気付かなかったが、彼はまだ、倭より一センチほど背が高い。


「聞きたいことはなんだ?」


 倭は彼が帰ってくるまでここで何度も脳内でシミュレートした質問を口にする。


「父さんは、母さんを守れたのか?」


 突然なんだ、と彼は言わなかった。

 無骨な顔をほんの少しだけ歪めて口を引き結んでいる。


「母さんは母さんなんだよな? 父さん、この前俺に話をしたよな。母さんが病弱だったって。だけど、俺の記憶の中で、母さんが病弱だった時なんてないんだ。いつも元気いっぱいで、家事は頑張るけど料理が下手くそで、俺と世界を応援してくれて、いっぱい心配してくれて、叱ってくれて、でも、病に伏せっていた記憶なんて、ない」


 高ぶり暴れ出して暴走しそうになる感情をなんとかなだめすかしながら言い切る。ゆっくりと息を吸って吐いた。


 伸彦の目がゆっくりと細められていく。

 眉が外側へ向けて垂れ下がり、鞄を支える手からは力が抜け落ちていた。


「母さんは、本当に母さんなのか?」


「どこまで知ってる?」


 本当のことを教えて欲しかったのに、答え次第では今まで信じていた物が全て空虚な瓦礫になりそうなのに、伸彦の口から返されたのは、倭を探るような質問だった。


「ふざけんな!」


 怒りではなかった。

 いくつもの不安が限界まで膨らんで、息をするのも苦しいほどになっていた。


 平静を保って質問を重ねられる自信はもう微塵も残っていない。


 自分でもここまで激高する理由がわからなかった。

 シンの言っていたことなんて、いまだ半信半疑だ。

 彼がスナオの願いを叶えに来ただとか、倭を殺そうとしただとか、倭の母親は神なのだとか、そんな荒唐無稽な話を全部が全部信じ切れるほど、頭は純粋に出来ていない。


 だけど、一概にそれを否定できるような状況でもなかった。


 倭の中に、シンがまるで自分の意識と引き替えに残していった疑念を深めるようなことばかりを伸彦が言うから、それは全て勘違いだ冗談だと否定して、跡形もなく払拭して欲しかっただけなのだ。


「今更父親面しやがって! 父さんは、いつもビクビクビクビク俺達のほうを見てたよな。根性無しのコミュ障だと思ってたよ。だけど違ったんだな。俺達が怖かったんだろ? 母さんと普通に話してる俺と世界が怖かったんだろ? 母さんは俺の本当の母親じゃないんだろ?」


 息子の責め立てる言葉を、伸彦は正面から浴び続ける。

 口を結んで、耐えるように少し俯いて、だけど、がんとした仁王立ちで。


「その通りだ」


 疑念は事実に変わった。

 口撃の雨あられを全て受け止めた後、彼はそう言った。



「お前の母さんは、お前を産むのと引き替えに、死んだ」





 生まれてきた赤子の泣き声だけが熱く痛ましいほどにけたたましく響く病室で、伸彦は妻になるはずだった雅の手を握りしめていた。

 どんどん冷えていくその手を、必死に両手で温めて、そうすれば、ごめんねと言って目を覚ましてくれるんじゃないかと無駄な希望を抱いて。



 どのくらいの時間、そこで自失していたのかはわからない。



 周囲を医者と看護師が慌ただしく行き来して、新しく授かった命を生かすために全力を尽くしていた。人がまるで蜃気楼のように感じられる、心身乖離の状態のまま、伸彦は誰かに肩を叩かれた。

 いや、叩かれたような気がしたのだ。


 振り返るとひとりの女性が居た。

 彼女もまた、雅と同じくベッドに横たわっていた。

 そして、生まれたばかりの赤子を抱いて、あやしていた。


 そのとき、子どもの声が二重奏になった。

 まるでなにもない空間から突如現れたかのようなふたりに、伸彦はフラフラと近付いていった。


「こんにちは。わたしは雅。あなたの妻になるはずの人よ」


 彼女は、さっき眠りに落ちた雅とそっくりな顔で、いつものように悪戯っぽく笑ってみせた。





「わからなかった。あの時起きた奇跡の意味が、すぐには」



 伸彦は頭を抱える。

 抱えて、厚みのある両手で短い髪をかき混ぜて、女神に懇願するように唸った。


「後から知った。彼女は、雅が呼び出したこの世にいない存在なのだと。どうしても、子どもを産んで、子どもを育てたい、そう願う雅の心に反応して呼び出されたのだと、にわかには信じがたいことを言っていた。

 だけど、信じるしかなかった。

 実際、雅は骨になってしまったし、彼女を死なせてしまったから、父さんは雅の実家からは絶縁されてしまった。だけど、俺の側にはずっと彼女がいたんだ。変だった。俺以外の雅を知る人は皆、彼女の死を受け入れているのに、俺だけは取り残されたまま、偽りの家族を続けていたんだから」


 倭は自分の足下がゆっくりと渦を巻いて地底に沈み込むような感覚を味わう。

 今にも転倒してしまいそうで、じっと立っていることが出来ない。


「冗談、きついし。はは、そこまで教えて欲しいなんて言ってねーだろ。俺ん家、仏壇すらねぇじゃん」


「お前達の母さんは死んでない。いや、母親が必要だと思った。いや、いてくれるなら、真実なんて虚像よりも価値のあるものなのか? いや。いろいろ迷った。答えがこれだ。父さんは、お前達に絶対母さんの死を教えないことにしたんだ」


「ありがた迷惑だよ」



 今まで見てきた母親の姿が、全て虚像だったというのなら。


 一緒に過ごした日々も、与えられたものも、否定された自分という存在も、倭が大好きだった母親のなにもかもが、張りぼての、無価値な現実だった。



「すまん、いつか話そうとは思ってた」


「父さんが、メディアに事故の被害者の名前を出さないよう言って回ってたときに、気付くべきだったよ。知られたくなかったんだな? 伊比雅が生きているって。母さんが生きているって」


 父親を責め立てる、自分の顔は最低な顔をしているだろう。

 だが、それがなんだというのだ。

 蹂躙された母さんの命に比べたら、どれほどの罪だというのか。

 どれほどの高温で煮えたぎっているのか、頭のてっぺんに集まった血が血管を膨らませ、周囲の脳細胞を圧迫している。

 熱い、苦しい、痛い、頭が割れそうだ。

 思考がままならない。


「その通りだ」


 伸彦は何度か口を開閉させたが、言い訳の言葉も弁明の言葉も説明の言葉もなにも発せず、淡々と低い声で肯定した。それはとりもなおさず、何の救いの余地も残さない絶対的な断言だった。


「母さんが生きていることを、誰にも知られるわけにはいかなかった。雅が死んでいることを、お前達に知られるわけにはいかなかった」


 表と裏、それが境目もなく共存する現実がどれほど狂気に近いものだったのか、何となく察することは出来たものの、目の前を赤く染める怒りが邪魔をして、同情する気には微塵も慣れなかった。


「なあ、どうして父さんはバス事故の加害者と被害者の葬儀に首を突っ込んでるんだ? 母さんが神で、生きるためにバス事故を呼び寄せたからか?」


 どんな質問やとがめの言葉が来ようとも、耐えて見せようと力んでいた伸彦の体から力が抜け落ちる。

 しばらくしてぽかんと開いた口が閉じ、代わりに寂しそうな表情がゆっくりと満ちて来た。


「それは、違う。雅を弔えない代わりに、誰かを弔いたかっただけだ。お前を育ててくれた彼女にそんな神がかった力はない。彼女は病弱でない以外、雅だった。だから、おれは受け入れられない現実から彼女に逃げたんだ。彼女は自分は神だといつも自称していたし、おれもおれ達を救ってくれた神だと思っていたが、彼女は神なんかじゃない、怪我をすれば血を流す人間だったよ」


 何が本当で嘘なのか、何が現実で虚構なのか、わからなくて自分の存在すらあやふやになりそうな中、倭はその言葉を信じることにした。

 伸彦が知っている、最大限の事実として。



「父さんは、さっき、奇跡だと言った。母さんがいることが。だけど、その奇跡の本当の意味を考えたことはないんだろうな」


 落胆が口からぼとりと落ちて夜の闇に溶けた。


 向かい合う伸彦の輪郭線もぼんやりとかすんでいて、倭の足下も曖昧だった。

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