◆30:apoptosis

 もう必要ないだろうから、と点滴の針を外して貰い、病院内を動き回る許可を得たのは夕食の後だった。


 薄味、まずい、と聞き及んでいたはずの病院食が意外にも下処理が丁寧で出汁がきいていたことに感動しつつ、配膳トレーを給湯室まで運ぶ。

 そこで、目を覚ましてからずっと気になっていた白髪頭の男と鉢合わせした。



「やあ」


 親しげに彼、古藤信治は片手を上げて見せる。


 警戒して後ずさり、一挙手一投足も見逃すまいと睨み付ける倭へ、毛を逆立てる子猫をあやすようにシンは甘ったるい笑顔を作った。

 両手を挙げて攻撃をする気はないことを示す彼の横を、不思議そうに腰の曲がった老人が通り過ぎて、トレーを回収台に置きまた帰って行く。間を開けずして今度は点滴台を引きずった中年の女性が給湯室に入ってきた。続いて何人か分のトレーをまとめて持った看護師が忙しげに来る。


「ここだと話が出来ないね。どうだろ、ちょっと休憩室に来てもらえないか?」


 生きていることを確認出来たのだから、もう彼と顔を付き合わせ続ける必要性はなかったのだが、促されるまま自販機が唸る休憩室まで付いてきてしまった。


 頼むよ、と懇願する彼の声音に今までのような敵意は含まれていないようだったし、今後シンがどうするかは知っておくべきことにも思えた。

 それに、病院内であれば大事にはならないだろうと踏んだのもある。

 加えて、彼とのやり取りの中引っかかっていることが、ひとつあったのだ。



「座ってよ。そう警戒しないでくれないか?」

「警戒もするだろ。お前、俺になにしたと思ってんだよ」

「それはお互い様じゃないか」


 そう返されると倭は反論する言葉を見失う。


 シンは自販機からオレンジジュースとブラック缶コーヒーを購入し、コーヒーの方を黙り込んだ倭へ放った。


「毒なんて仕込んでないよ」

「どうだか」

「ほんと。僕はもう、君に害意を与えるつもりはない。寿命が尽きかけてるんだ」


 倭は眉に唾をつけたい気持ちで背中を廊下側へ寄せる。


「君のせいじゃない。近原スナオが選択したんだ。生かすべきは僕か、僕を殺そうとした君か。彼女がプールから引き上げたのは君だったし、君の友人に助けるよう頼んだのも君だけだった。言い換えれば近原スナオは、僕の死を望んだ」


 なんと言って良いかわからず、両手で冷えたスチール缶を弄ぶ。


「彼女が完全に僕を拒絶したなら、もう、つけいる隙はない。大人しく返して還るとするよ」


 オレンジジュースを上下に振り混ぜてから、プルタブを軽い音とともに開けた。一口飲んで美味しそうに眼を細める。


「なあ」


 爪の先でスチール缶を叩く。

 指先を守り支えるため死んで硬化アポトーシスした細胞と金属がぶつかってカチカチと音が鳴る。


「なんだい?」

「お前、俺の母さんについてなにか知ってるのか?」

「知りたいのかい?」


 倭は口ごもる。アドバンテージを与えるのは避けたかった。


 頭の中でそろばんを弾いていることを察してか、シンは口元を緩める。

 右の指を三本立ててみせた。


 親指、人差し指、中指。


「三つめだ。プールで君に教え損なったからね。別に教える義務も理由もないけど、タダで話してあげるよ」


「借りるつもりはない」


「はははっ。いやいや、僕も貸すつもりなんてないさ。ただ、なにも知らない君がかわいそうでね。もっと苦しめてやりたいだけだ」


 シンはジュースを飲み、舌を湿らせた。


神饌みけって知ってるかい? 君たち人間が神に捧げる供物のことだ。神にとって最高の神饌は、命なんだ。それは死した肉体そのものであることもあるし、熟れた実を丁寧に絞り、蒸し、発酵させたものであることもある。そしてまた、神前に傅く人間の真摯な心根であることもある。つまりは、神饌を差し出す人間の、生きたい、そう願う心そのものが、僕たちにとって最上の御馳走であり、力になる」


「お百度参りだとか言ってたな」

 倭は嫌な予感を覚える。

 缶コーヒーを爪が叩く音が鼓膜を震わせ続けている。


「そう。お百度参りをする人間は、誰もが生きたいと願っている。よりよい環境で、よりよい自分で、自分のために、誰かのために。理由はさまざまだけど。君だってちょっとした神頼みくらい、したことあるだろ」


「ないね」

 思い出す努力もせず否定した。

 眼前のゲスに頼るくらいなら死んだ方がましだ。


 シンは喉を鳴らしてジュースを飲み、愉快そうに話を繋ぐ。


「君の母親は、神だ」


 唾液を飲んで倭の喉が鳴った。

 息が詰まる。

 缶コーヒーを握りしめる両手が血流を失い白くなっていた。


「ばかな。ふざけるのもたいがいにしろ」


 否定してから冷静さが戻ってきて、それは自分の母親が人間であり神などという得体の知れない存在ではないという確信に変わっていく。


「信じるか信じないかは君の自由だ。そのうち、嫌でも思い知るだろう。僕たちは自分の存在を維持するために力が要る。無から有を生み出すというのはそれだけでとてつもない労力を必要とするんだ。


 君と同じ屋根の下で暮らしていたときは、君や君の父親が神饌を知らずの内に差し出してたんだろうが、離れて暮らすことになって力の供給源はなくなった。彼女達は人間で言うと物資供給ライフラインを絶たれた被災地で生活するような状態だった。


 ここからは僕にもまだ確かな理論としては話せないんだが、彼女達は交通事故に巻き込まれてラッキーだったんだよ。死に行く人たちの生きたいという思いを吸い取ることが出来たんだから。おかげで、僕たち縁なるものにまで力が分け与えられた。本当はいくら願われても滅多に芦原には来られないのさ、なんてね」


「その妄想が、お前の言う三つめか?」


 頭を反らしシンを見下げながら倭は顔を歪める。

 手にしたコーヒーの缶を感情ごと壁に叩き付けた。

 手の内側で液体が暴れ、反動が肘まで伝い響く。


「聞くんじゃなかった。不愉快なだけだ」


「僕は君のその顔が見れて面白かったよ」

 シンは目尻を緩ませ頬をゆっくりと持ち上げた。

 慈愛に満ちた表情で倭をじろじろと見る。

 数秒の後、


「さて、そろそろ」


 言って髪を掻き上げ、オレンジジュースの残りをぐいぐいと飲み干す。

 口の両端をつり上げたまま、名残惜しそうに呟いた。


「このジュースの味ともお別れかな。それじゃあ、さよなら、だ」


 最後だけ、倭の方を向く。


 彼が別れの言葉を口から発したあと、その体が貧血を起こしたようにぐらりと傾いた。

 そのまま倭の見つめる中、スローモーション動画みたいにゆっくりと重力に引きずられ、気付けば何かに肉塊がぶつかる鈍い音ともにその肩と頭部を自動販売機に衝突させていた。

 手から離れたアルミ缶が床に落ちて転がる。

 ほとんど生理的な反応なのだろう、声というよりは空気の押し出される音と言った方がしっくりくるうめきを漏らす。


「うぅ」


 そこへ、うめきをかき消すように誰かが休憩室に飛び込んできた。

 普段は常時開放、と書かれた扉を足蹴りで容赦なく閉ざしたのは、近原スナオだった。


 何ごとかと息を呑む倭に気付いているのかいないのか、扉のスリットから外をうかがっている。

 しばらく経ってようやく納得したらしい。背伸びをやめ、大きく息を吐き出した。



「ふう、まいたか」


「なにしてんだよ」


 目に見えてスナオの肩が跳ね上がった。

 勢いよく振り向く。

 扉に背中がぶつかって派手な音を立てる。


「なんでこんなとこに……ああ、あなた、入院してたっけね」

「忘れてんなよ」

「忘れてなんかないわ。あなたの病室がこの棟のこの階にあるなんて知らなかっただけよ。ところで、そこで自販機を枕にしてるのはなになの?」

「見ての通り、あいつだよ。さっきいきなり倒れてさ」

「ふうん?」


 スナオは不思議そうに擦り寄って、微動だにしないシンの肩をつついた。反応なし。今度はその耳の穴に指を突っ込む。


「うわあ!」


 奇声を上げてシンは跳ね起きた。

 反動で尻餅をついて、辺りを見回す。

 自分を冷淡に見下ろす倭とスナオの顔を交互に見て、ヘラ、と優男風に笑った。



「ええと、君たちは僕のファン?」



「は?」


 倭の声に追随するように、「はあ?」とガラ悪くスナオも、何言ってんだこいつ、を極限まで短縮したあざけりと疑問の声を上げる。



「え? 違うの? まいったな。早とちりかあ」


 頭を掻きながら彼は立ち上がろうとし、全身の筋肉が上手く動かせないのか途中で倒れそうになり、どうにか踏みとどまって二本の足で体を支えた。


「ええと、じゃあ、ここはどこなのか、わかる?」


 倭とスナオは今度は同時に顔を見合わせた。


 目配せだけで語る。


(お前が相手をしろ)

(やだ、意味わかんない)

(わかるわからないじゃねえよ脳筋。お前の神だろ)

(さっきまであなたが話をしてたんでしょ)


 互いに顎をしゃくって指をさし、お前がシンと話せと役割をなすりつけ合ったが、いつまでたってもらちがあかないので結局倭が折れた。


「榎水市立病院だよ。これで満足か?」


 彼は困ったように頬を掻く。邪気のない顔で眉尻を下げた。


 彼から害意と悪意を取り払い人並みの表情を持たせたら、こんなにも人相が親しみやすくなるのかと思う。


 やたらとギョロギョロしていた目は黒目も大きく、高いが薄い鼻は気品を感じさせ、直線的に整った輪郭と、柔らかな曲線でかたどられた顎は男らしさと幼さを両立させていた。


「ここ、病院なんだ。さっきまでの記憶がないんだけど、もしかして僕、入院してたのかな?」


「記憶がないの?」

 スナオは首を六十度ぐらい曲げて眉間に皺を寄せる。


 倭の腹部がぎゅ、と縮こまった。

 自販機の稼働音に加え、さっきまで気にしていなかった空調の送風音がやけに耳に付く。


「それ、何月何日からだ?」

「え?」


 彼は目をパチパチさせ、左上へ瞳を寄せた。


「七月のええと、海の日の次だから、十九日だね。その夕方頃から記憶がない。交通事故にでも遭ったのかな? 週末の二十三日には外せない仕事が入ってるんだけど。今日は、何日なんだ?」


 今日が二十三日よりも前の日であることを疑わない無邪気な表情と口ぶり。

 その肝心の土曜日にあったことが原因でお互いここにいるというのもわからないのだろうか。


 倭は何と返したらいいかわからず、ぎこちない苦笑いを浮かべて視線をさ迷わせた。


 受け入れがたいものが喉に詰まっている。


 スナオの上位互換としての神が古藤信治の体から抜けて、本来の古藤信治の意識を取り戻した?

 そんな馬鹿な。

 じゃあ、スナオがシンを受け入れていたら本来の古藤信治は消えてしまうではないか。

 神を名乗る癖に理不尽にも程がある。

 おそらくこの男が二重人格か何かなのだ。


 笑って間をつないでいると、当のスナオが背骨寄りの脇腹をつねってくる。筋肉ごとつねられる。体がのけぞるくらいめちゃくちゃ痛い。


「ちょっと、どういうことよ」

「わからん。だけど、たぶん、こいつにはお前に成り代わろうとしたり、俺を殺したりするつもりはない、と思う」


 なかなか回答してもらえないことにじれたのか、シンは口を尖らせた。


「で、何日なの?」


 しかし、倭もスナオもそれに答えることはなかった。というのも次の瞬間、鉄製の何かが壁にぶつかる豪快な音が炸裂したからだ。さっきスナオが閉めた扉が開く。


「おい、何日も帰らねえで心配させやがって! いつまでわがまま続ける気だ! クソ娘が!」


 野太い声を張り上げて怒鳴り散らしながら入ってきたのは、背丈はあるものの平均より痩せて骨張った男性だった。


 倭とシンが驚いて二歩扉から後ずさるのに対し、スナオだけ敏捷な動きで倭を盾にするように男から逃げる。


「おい、小僧、そこの小娘をこっちによこせ。とっつかまえて髪掴んで引きずってやる。ションベン臭いガキかばってっとオマエもはっ倒すぞ?」


 罵詈雑言と慇懃無礼な物言いがトレードマークのスナオが黙りこくって倭のシャツを掴み、ガタガタと体を震わせていた。

 その体の震えと体温を感じながら、どういうことだと首を捻って彼女に問う。

 スナオは倭の視線に気付かないのか、目を強く閉じて首を振った。


「おら! 隠れてねぇでこっち来い!」


 男はズカズカと歩み寄り、半ば倭にぶつかるようにしてかきわけ、スナオの腕を掴む。そのまま左手で強引に引きずり、俯くスナオの首根っこ辺りを反対の右腕を使ってなぎ払った。

 ほとんど抵抗らしい抵抗をみせず、また受けの姿勢も取らず、彼女は壁に頭をぶつける。

 ズルズルと床に崩れ落ちた。


 その一撃は、素人目にも明らかに、腰が入っていなかった。

 力任せに腕を振るい、乱暴に首を狙った。


 それは単純な暴力で、力加減のない暴力で、その先を予想しない暴力で、だからこそその男性が持つ最大限の力が無慈悲に引き出されていた。


 床にへたり込むスナオは目を閉じ全身を弛緩させ、失神している。


 さすがと言うべきか、二秒後には意識を取り戻してゆっくりと頭を振ってみせた。

 そこに男は容赦なく腹部へ蹴りを見舞う。

 スナオは体を折り曲げてその身をかばった。短く切り揃えた髪の下から覗く首は、とても細い。


 スナオが女子であることを思い出す。



「どこをふらふらほっつき歩いているかと思えば……!


 人様の家を借り歩いてただと!?


 オマエは全くクズの中のクズだな。金にもならんことに身を崩して、あげく家にも帰らず人様のご厄介になりやがって。


 今度は足の骨を折ってやろうか?

 ああ?

 そうすれば勝手なこともできなくなるだろ?

 それとも何か、舌をちょん切ってしまえば満足か?


 半端に機能があるから馬鹿な夢を見る。

 いい加減目を覚ませ。

 オマエに歌なんか許すつもりはない。

 聞いているだけで虫唾の走るほど甘ったるい下衆な歌の価値なんぞ、腐った生ゴミ以下だ。オマエは大人しくおれの言うことに従って生きていればいいんだ」



 唾をまき散らしながら、男はスナオの首を両手で締め上げる。

 息苦しさから逃れようとスナオは首に糸を付けられたマリオネットのように立ち上がった。



「いや! 離して! あたしの考えは自由よ!」

「クソッタレが。お前の考えなんて社会で通用しねーんだよ。高校なんて行かすんじゃなかったな。二学期から止めろ。止めてフリーターにでもなんにでもなって金を稼げ。それが出来ないなら死ね。死んじまえ。今ここで死ぬか? 首を絞められて死ぬか?」


「ぐ……」

 スナオは途中から息を吐くことが出来なくなったのか、うめくことすらやめてしまう。


 顔がインクを落としたみたいに赤く染まって行く。

 足はつま先立ちで、今にも浮きそうだった。

 食いしばっていた口が空気を求めてぱかりと開く。その口の端から唾液が一筋伝う。



「もう、よせよ」


 スナオの目から持ちこたえようとする光が消えた瞬間、倭は男の腕を掴んで引いていた。


「他人は黙っていろ」


 倭は首を振った。


 今までの自分だったら、こう言われた時点で引いていただろうし、そもそもまだこの場に残っていたりせず病室に戻っていたはずだった。

 だけど、ここで引いてはいけないと、何かに責め立てられるように感じている。


「あなた、近原のお父さんですよね。俺たちは確かに子供です。親の庇護がないと生きていけない。キリギリスみたいに実らない夢を語ることが許される歳でもない。それは、彼女もわかってます」

「庇護、なんて、なく、ても」


 まだ意識が残っていたのか、最後の酸素を振り絞ってスナオは倭を否定する。


「これはしつけだ。関係ない奴は口を出してくんじゃねえつってんだろ」


 目尻から涙を流すスナオも、そうだと言いたげに倭を見つめていた。

 手の力が少し緩んだのか、酸素を求めて息を吸い、むせる。


「ほっとけません。近原は夢のために自分を切り売りしてます。俺は親にやりたいことをやらせてもらって、近原より遥かに恵まれていたから、それを悪いとは言えません。けど、正しいとも思えない」


 スナオの父親は、娘を壁に投げつけ、倭へ拳を振りかぶった。殴るその腕を避けず、正面から受け止める。衝撃でたたらを踏む。


「失せろ。おれは聞かねぇぞ」


 彼と目を合わせて気付く。



 赤らんだ白目。

 上気した皮膚の色。

 吐き出される息の酒臭さ。


 倭は真っ直ぐにその倦んだ目を見返す。


 スナオに才能があるのかどうかは知らない。

 だけど、慈悲も必要もないことが理由で可能性を摘み取らせたくはなかった。

 陸に打ち上げられた魚は、そのエラもヒレも価値のないタンパク質となって、黙然と死を待つしかないのだ。


「お願いします。最後まで言わせて下さい。もう、がむしゃらにやりたいことを追いかけるつもりもないけど、知った風なことを言うつもりもありません。おじさん、少しでいいので、どうか近原を応援してやってくれませんか?」


 スナオを肯定する倭の態度に、言葉に、彼は激高し怒号をあげる。


「なんでてめぇに言われて頷かなきゃなんねぇんだ。あぁ!? おれはなぁ、こいつをちゃあんと社会で生きていける人間にする義務があんだよ。好き勝手させるつもりはねぇんだ。こんなクズを甘やかすわけにゃあいかねぇんだよ」



「社会で生きていけるようにするために、指を折ったんですか!?」



 今度は倭が声を荒げる番だった。


 絶大的で絶対的で不動で堅固な不文律が、未来を追い求める心を否定しているのが悔しかった。


 神様なんて居ないのだと心が荒れ狂う。


 制御できない。

 内臓が痛い。

 骨がうずく。

 視界が揺れてぼやけて行く。



 親が子のためを思って首を絞めることが行きすぎた教育なのだと言うための論拠を倭は持たない。


 だけど、少なくとも、倭の母親は倭の泳ぐための肉体を傷つけたりはしなかった。


 スナオが親の理解を持たないことが理不尽に思われてならなかった。


 この不条理で不合理な現実を倭は許せない。



「かまいません。多分、折らなきゃいけないことをそいつはやったんでしょう。俺の口出しするようなことじゃない。


 でも。それでも!


 わがままを聞いてください。


 身近な人が味方であるだけで、ものすごく力になるんです。


 だから、おじさんが応援することが無理でも、せめて俺には応援させて下さい。いや、応援します。俺には応援したかった人がいたんです。


 素直になれなくて、妬んで羨んで疎ましくて、避け続けた。失うんです。もうすぐ、多分。彼女は俺に出来ないことを成し遂げる人だったのに。

 だから、もう同じ後悔はしたくありません。

 大丈夫です。


 俺たちはちゃんと、選び続けます。

 今出来ること、やらなくちゃいけないこと、しっかりと考えて、現実を見つめて、未来のために歩いていけます。


 だから、」



 喉に唾液が絡んだ。鼻の奥が痛む。



「信じて下さい」



 男は眉を目一杯しかめ、舌打ちする。

 倭へ向けて唾を吐き出し、胸ぐらを掴んだ。

 その顔全体が頬も目も唇もぶるぶると震えている。

 怒りになのか、怖れになのかわからなかった。

 なぜか、激高しているはずの彼の目尻に悲しみが潜んでいるように感じられた。



「お願いです。いつか、絶対、幸せにして見せます」



 きっと、これは、倭が母に言いたかったことなのだ。

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