7月24日(日)

◆29:Si vis amari, ama.

 は、黒板にチョークを走らせていた。


 カッカッカッカッ。

 小気味の良い音。


 彼は、時々首を傾げた。

 芸術家が自分の作品の出来具合を確かめるように。


 彼は、腕を下ろして黒板に書いたメッセージを読み返した。


 悩みに悩んで決めたメッセージ。


 これで本当に伝わるだろうか?

 わからなかった。

 けども、伊比に直接訊くわけにはいかなかった。

 伊比が、十年になる友好関係の中、一度も話してくれなかったことについて、家族について、不躾に踏み込むことはためらわれた。


 カッカッカッカッ。

 悩む鷹来の横で、秀英がチョークを黒板にもくもくと叩き付け、クラスメートへ届けるメッセージを作り上げている。


 時間はほとんどない。

 今更悩みなおすわけにはいかなかった。


 問題は無いだろう。


 鷹来は、そう自分を納得させ、いくつものカラーチョークを握りしめて黒板の空白――黒色――を埋めて行った。


 鷹来は、これから自分が行う事が、そして今まで自分が行ってきた事が、正義であることを願う。


 鷹来は、あの人に決して無慈悲な死を与えはすまいと、決意を新たにする。






 20××年7月24日(日)



 真っ白な扉の隣、壁にもたれて鷹来は腕を組んでいた。

 あれから二十二時間が経つ。

 腕時計のデジタル表示は16:00と時間を伝えてしていた。


 伊比からの電話を受け、駆けつけた学校のプールで見たのは心肺停止状態の伊比と古藤信治とかいうミュージシャン、それからピンクの鬘をかぶり、目を真っ赤にした近原サンった。


「お願い、救急車を呼んで。それから、心臓マッサージがいると思う」


 走り寄った鷹来に、暴行でも受けたのか顔面をあちこち腫らした伊比を預けて、近原サンは部室棟側の弊へ走って行った。

 監視員席を引きずり弊に付け、よじ登ったかと思ったら軽業師のような身のこなしで隣の部室棟へ消える。

 両手を包帯でコーティングされている女子とは思えない規格外の身体能力だった。


 近原サンがなにをしているのかの詮索は後回しにし、119番へかける。

 ひとが二人溺れている、と伝えると呼吸はあるか、心臓は動いているか尋ねられた。

 落ち着いた安心感のある声に指導されるまま、救急車が到着するまで心肺蘇生法を行った。その横に転がる古藤信治まで助ける余裕はなかった。



 ガリガリと頭をかきむしる。


 いつの間にか夕日が赤く差し込んで辺りを橙色に染め上げていた。


 もしかしたら、自分の犯した行動が、伊比を追い詰めてしまったのかも知れなかった。


 彼を逃げ場のない袋小路の暗闇デッド エンドへと。




 ◆




 風が鼻先を柔らかく撫でる。

 顔が、なにか、太母のような光に照らされ温められる。

 疲労が重力に引っ張られ、体の背中側にまんべんなく溜まっていた。



 甘い洗剤のにおいがする。


 その香に誘われるようにして、意識が闇の底から浮上してきた。

 ぽこん、と水面に浮き出る。


 倭はゆっくりと目を開いた。


 真っ白な木材を張り渡した天井。



 ここは、どこだ。



 酷く喉が渇いていた。


 ゆっくりと記憶を巻き戻す。

 シンに敗者復活戦を挑んだ。

 シンの歌手生命を何らかの形で絶つか、当面活動できないようにする必要があったからだ。

 活動できなくなれば、彼が持つスナオへのアドバンテージが消え、スナオとシンを入れ替えることが出来なくなる。それを狙った。プールの底に水中カメラを二台沈め、ケーブル一本につき一五アンペアの漏電をさせる。三十アンペアの電気に感電すれば、最悪で痙攣性の筋収縮か呼吸困難だ。


 意識まで失うつもりはなかった。

 しかし結果として何時間か記憶を飛ばしてしまったところを見ると、一時的でも五十アンペアを超える電気に通電してしまったらしい。


 三〇アンペアトリップの漏電ブレーカーは、通常三十アンペアを超過する電流が一定時間以上流れないと落ちない仕組みになっている。例えば定格電流に対して二〇〇%の電流が流れたとき、最短三十秒で落ちることもあるが、最長百二十秒の時間を要することもあるのだ。


 つまり、三〇アンペアトリップのブレーカーでも運次第では六〇アンペアの電流に二分間通電し続けることが有り得るわけだ。

 一緒に感電したシンも無事なら良いのだがと思う。



 恐らくスナオか、鷹来のおかげで倭は一命を取り留めてここにいる。

 ここは、病院かそれに類する場所なのだろう。


 自分の現状を把握したところで、体が酷く重たく動かしづらいことに気付いた。

 頭部は枕にずっぷり沈んでおり、首をゆっくりと回すと硬い布の擦れる音がする。


 左側へ首を回すと、誰かの額がそこにあった。

 ゆっくりとピントを合わせる。

 目の下に隈を作って小さな寝息を立てているのは舞夏だった。


 ずっと側に付いていてくれたのだろうか。


 産毛が夕日を受けてキラキラと光り、細い絹のような髪が太陽を透かして風にそよめいている。彼女に近い方の左腕は、よくわからないチューブや針が巻きついていて動かせなかった。


 仕方なく打撲や感電による筋収縮で上手く動かない右手を使う。油を注し忘れたおんぼろロボットのようにぎごちなく稼働する。


 宙をたゆたう髪をそっとすくいあげた。指先でしばらくその感触を味わった後、前髪が流れて露わになった額に触れる。柔らかくて温かい。

 まるで、母親を彷彿とさせるようなそれは、だけど、とても弱くてかそけく感じられた。生え際をゆっくりと撫でる。その髪のしなやかな起伏を楽しんでいると、ようやく舞夏は目を覚ました。


「ん……」


 喉の奥で小さく唸る彼女に向けて、倭は口を開閉させる。

 発声を忘れてしまったのか、一度めは掠れたような音が出ただけだった。

 もう一度試みる。


「おはよ、う」


「いびっち?」


「ん?」


「ほんとに?」


 舞夏がベッドに伏せていた体を跳ね起こす。

 そして覆い被さってきた。


「よかった、よかったよぉ」


 舞夏の髪が首をくすぐる。

 彼女がすりつける頬が温かく濡れている。

 抱きしめられる肩に甘酸っぱい痛みを与えるその力が、懐かしくて切ない。

 彼女の香りは甘い。

 そっと匂い立つ茉莉花まつりか



「もう、目を覚まさないかと思った」

「ばか。んなわけないだろ」


 もう少し甘えていたい。

 そう思う弱い自分の声をなんとか押しとどめて、体を起き上がらせる。

 舞夏は倭の母親ではないから。


「俺、どれくらい寝てた? 今何時?」

「一日近く寝てたと思う」


 足下にあるサイドボード、その上の時計を舞夏は確認する。


「今は四時過ぎだよ」

「そうか」

「喉、渇いたでしょ、ちょっと待ってて」


 言い置いて、病室をぱたぱたと飛び出して行った。

 ほどなくして戻って来た彼女は、手にマグカップを携えている。


「給湯室から貰って来たの。温めのお茶の方がいいかと思って。もし、冷たいのがいいなら、」

「やめてくれ」


 手を差し出して押し留めた。


 舞夏が悲しそうに眉を下げるが、見ないふりをしてマグカップを受け取る。

 室温の麦茶を一気にあおった。

 燻した麦の香りがためらいがちに残る。


「座って」


 ベッド脇の丸椅子を舞夏に指し示した。

 彼女が座すのを待って口を開く。


「勘違いさせないで欲しい」

「どういうこと?」


 語尾がほんの少し、震えていた。


「母さんみたいだなってこと。そんなに世話してくれなくていい」

「なんだ、そんなこと」


 舞夏は手櫛で自身の髪を梳かす。


「ほんとはね、起きたらすぐに知らせてって先生に言われてたの。私がホントにいびっちの世話をしたかったら、真っ先に呼んでるよ」


 倭は目をしばたたかせる。


「その前にね、どうしても話しておきたいことがあったの」


 舞夏はいくぶん、言いにくそうに舌をもつれさせる。


「これ見て」


 舞夏が鞄から二枚の紙を取り出した。


 一枚目は週刊誌の切り抜き、もう一枚はノートの切れ端に書かれたメモ。


 大ぶりの罫線からはみ出しがちな文字。

 鷹揚な筆跡になぜか覚えがあった。どこで見たのかまではすぐに思い出せない。

 最近もどこかで見たような。


 脳内でチカチカと明滅し照合させて行くと、合致を示すものがあった。


 女子大の近くで見せられた鷹来のノート。

 学校をサボった時もかなり頻繁に借りているから止めるべき所を止めず跳ねる所は勢いよく跳ねていく、彼の癖を倭は熟知していた。


 ああ、そうか。


 唐突に合点が行く。

 鷹来が初日に見せてくれたメッセージ、その動画。

 あれが酷く手ブレをしていたのは、これが理由だったのだ。

 倭であれば、書き文字を見ただけで誰が書いたものかわかってしまう。



「もう一枚のほう」


 うながされるまま、週刊誌の切り抜きにも目を通した。

 タイトルを見てとっさに平静を装おうとしたが、目がうっすらと見開かれてしまう。

 痣だらけ切り傷だらけの自分の顔が強ばるのがわかった。


「これは?」


 さっきお茶を飲んだというのに、喉の奥が乾燥してひっつく。

 うまく声を出せない。


「私もわからない。月曜日発売の週刊誌の記事だと思うんだけど、私が買ったのと少し内容が違うの」

「どうして?」


 舞夏が困ったように倭を見つめる。


「いや、」


 言葉に詰まった。顔面を両手で覆うと、舞夏からぬれタオルを差し出された。

 顔面をごしごしと擦る。

 かさぶたが剥がれて、傷が開く。

 可愛らしいハート柄のタオルに鮮血が染みる。

 言葉を探す。


「私ね、このメモに書かれた病院に言ってみたんだ」

「会ったのか?」


 タオルから少し顔を離して、彼女を伺う。


 目を伏せて彼女が首を振ると、絹のような髪が緩やかに舞った。

 その仕草を見て、倭の目尻に涙が滲む。

 安堵が温かな塩水の塊となって喉元をせり上がって来た。

 タオルでもう一度顔を拭う。


「顔を見ただけ。ふたりとも、眠ってたから」

「元気そうだった?」

「ばか。寝てるのにわかるわけないじゃん。でもなんか、普通に寝てるみたいな感じだったよ。ねえ、どうしてお見舞い、行ってあげないの?」

「会いたくない。見せる顔がない」


「どうして? お母さんでしょ? 妹さんなんでしょ?」


 やっぱり、ばれていた。


「言っただろ、世界は、パーフェクトなんだって。だから、俺はあいつが嫌いだ。一緒に居ると、自分が下らない人間に思える。母さんだって、俺より世界を選んだ。病院で寝てるふたりを見て、自分がなにを思うのか、想像が付かない。怖いんだよ」


「でも」


 彼女は膝の上でスカートを握りしめて、なにかをこらえる。


「一緒に居られる時間って、貴重なんだよ。大事にしないと。なくしてから後悔しても遅いんだよ。私は、会いに言ってあげるべきだと思う。いびっちのために。もし、ひとりだと怖いなら、私が付いていくから」


「ありがと」


 言いつつ、舞夏をつれて世界の見舞いに行くことはないだろうと思う。

 全てにおいて負けて来た相手と同じ空間に、舞夏と居たくなかった。

 ボロボロになって、もう、糸くずみたいな切れ端しか残っていない、なけなしのプライドかも知れない。もしかしたら、独占欲なのかも知れない。頭の中がとっちらかっていてわからなかった。


「花太、元気?」

「うん、まだまだ大丈夫だって、お医者様が。あっ」


 舞夏は唐突に立ち上がり、スカートの裾をはたいて正す。


「そろそろ、知らせなきゃ。心臓が止まってたから、脳に障害が出てないかとか、調べないといけないんだって。たぶん、筋肉もあちこち焼けてるかもって。――傷だらけだったから」


 昨日プールでなにがあったのか彼女は尋ねようとしない。気を遣って尋ねないとか、尋ねにくい、とか、そういう理由ではないのだろうと思う。

 たぶん、あえて尋ねないのだ。


「じゃ、ね」



 舞夏が病室を抜けて行った後、扉の影から伺うようにして長身の男が顔を見せた。


「伊比」

「なんだよ」


 多少、いや、かなり、苛立った声になったのは仕方がないと思う。

 原因は百パーセントそいつにあるからだ。


「ごめんって」

「俺何も言ってないぞ」

「ケケケ。そうだな」

「その笑い方やめろ」

「ごめんって」

「許す」


 ほっとしたように破顔して、でもまだどこか顔の端々を緊張させて、鷹来が中に入ってきた。

 さっき舞夏が腰掛けていた椅子に座る。


「これは?」


 舞夏から渡された週刊誌の切り抜きを見せる。


「お前の持ち物か?」


 セルフレームの奥で、彼のごま粒のような黒目が泳ぐ。


「こっちのメモもお前だろ?」


 しばらく鷹来は強ばった笑いを顔に貼り付けていたが、観念したのか長い息を吐き出した後、天井を仰いだ。


「すまん、オレだ。入川さんに拾われるつもりはなかったんだ」

「俺が訊きたいのはそこじゃない」


「そうだよな。うん。会いに行ったよ。ふたりには。キモイかも知れないけどさ、おまえが話してくれないことが気になったんだよね。意識不明で入院する事態になってるのに、ちっともそのそぶりみせねーじゃん。逆に心配になるだろ」


「そうかもしれないけど」


 どうしてどいつもこいつも俺に無断で勝手に見舞いに行くんだ、と倭は胸の中で愚痴る。


「おまえに相談したら、行かせてくれないだろ。俺とおまえって小学校からの付き合いじゃん、なのに、おまえに妹がいたなあって記憶全然無いんだよ。言われてああいたかも、みたいなおぼろげな記憶がかろうじて蘇るくらいでさ。触れられたくないんだなっての、馬鹿でもわかるぜ」


「その通りだよ。おっしゃるとおり、触れて欲しくなかったね」


「だからごめんな。俺が最初見舞いに行ったとき、死ぬか生きるかの境目でさ、どうにか峠は越えたんだけど、医者の言うには意識が回復しない可能性が高いらしくて」


 唐突に言葉を切って鷹来はじろじろと倭の顔色をうかがった。

 なんだよ、と呟く。


「おまえ、親父さんからなんかきいてる?」

「いや、そんなに。意識のことは今初めて知ったな」

「ごめん」

「謝んなくていい」


 倭はベッドの背に上半身をもたれさせた。

 本当は腰が抜けるほど驚いていた。

 そこまで酷い状態だとは想像すらしていなかったのだ。


「教室にメッセージ書いた犯人、オレなんだ」


 再び唐突に彼は話題を変えた。


「知ってる」

 すっかり騙されたことが悔しくてうそぶく。


「ははは、ごめん。オレさ、もしも、もしもだけどさ、怒らずにきいてくれよ? このまま伊比のお袋さんとか妹さんが死んじまったらって思ったんだよ。おまえに気にかけてもらえないまま、死んじゃったらって。縁起でもないこと考えたんだよ」


「どう話が繋がるんだ?」


「このまま、事故でたらって思った。だから、どうにかして、お前を動かしたかった。気持ちは入川さんと同じだ。伊比、お袋さんと妹と、このままで良いのか?」


 質問には答えず、逆に詰問を返す。


「それで“このクラスの誰かが殺される”って書いたのか? このクラスの俺の誰か家族が殺されるって?」


「ああ」


 倭は半眼で鷹来を睨む。

 ちちちち、と舌を鳴らして、右手の中指と人差し指で手招きした。


「ちょっと顔もってこい」


 いつも明るく元気でテンションが高い。それがトレードマークの鷹来が、怯えたような目をして上半身をこちらに倒した。


「もっと。あとメガネ外せ」


 ちちちちち、と手招きする。鷹来の顔がそろそろと近付く。ベッドの上に乗り上げる手前で一瞬ためらいをみせたが、有無を言わせず手招きを続けた。


 彼の尖った高い鼻がゆっくりと近付き、見たくもない毛穴が見えるほどの距離になる。


「よし、そこで止まれ」


 言ってから、倭は軽く自身の頭部を逸らし、思いっきり頭突きした。

 腹筋のバネを存分に使った一撃が炸裂する。


「ぐえ」

 鷹来がカエルを踏んづけたような声を上げ、頭を抱えてしゃがみ込む。


 倭にも腹筋がちぎれるような感覚に加え、頭突きのダメージがダイレクトに跳ね返る。

 頭が割れるように痛い。

 目の前がチカチカする。

 額にあった傷がさらにいくつか開いてなにか温い液体が垂れてきた。



「バカか、てめえは」


 怒りがふつふつとどころかボコボコと沸き立ってグラグラ視界が揺れていた。


「俺をそんな方法で動かせると思うな。神かよ。直接話しに来いよ」


 水くさい。

 他人行儀過ぎるし、なんでもぐいぐい来る鷹来らしくない。



 いや。


 倭は思い直す。


 鷹来は、確かに誰にも彼にも親しく接するし、当然誰に対しても心の距離は近いし、細かいことをとやかく言わないし、誰に対しても優しい博愛主義者だ。

 だけど、同時に、相手が踏み行って欲しくない部分は敏感に察知してそれとなく避けるし、気配りが出来るし、他人の性格を把握しているから、他人をコントロールしようとするきらいがある。

 たいていの場合彼のコントロールがメンバーの幸福値を上げるので、不平不満は発生しない。



「お前ってそう言やそういう奴だったよな」


 鷹来に対して倭が壁を作るから、正面切ってそのテリトリーに踏み込めなかったと言うことなのだろう。

 だから、それとなく、倭が母親と世界を意識するように仕向けた。



 結論から言えば、それはほとんど成功している。

 全てが全て鷹来の思惑の結果ではないが、上手いこと手の平で転がされたようで不愉快だった。



「友だちやめたい」


 ベッドへ仰向けに転がると、鷹来は顔を青ざめた。


「すまんって。直接お前に話せなかったのは、オレの弱さが原因だ。いや、八方美人で良い奴を気取りたかったんだと思う。許してくれ。この通りだ」


 細長い体を丸めて土下座する。

 患者や医者がスリッパで歩くとは言え、地面と大差ないリノリウムに額を付けて許しを請う。

 どうとも言えない情けない姿に、それを強いた自分自身に、倭は恥辱を味わう。新たな怒りを覚える。


「お前ってさ、どこまでふがいないんだよ。ああもう。やめろ。土下座やめやめ。立ってくれ。俺はそんなの望んでない」


 渋々と彼は立ち上がるが、もう後悔に染まった表情も、落ち込んだ態度も隠そうとはしていなかった。口を力なく結んで俯いている。


 倭は自分の自由な右手を宙に浮かす。握る。

 ちなみに左手は、透明な液体が入ったパックとチューブで繋がっていて、変に動かすと刺さった針が血管を突き破りかねない状態だった。


「見ろよ、これ。力入んねーの。前坂を殴りたくても、殴れねーの。だから代わりに頭突きした。な? 俺はこれで気が済んだから。そのしけた態度やめてくれ。めちゃくちゃ嫌いだ」


 じっと見上げていると、鷹来はゆっくりと息を吸い肩を怒らせた。

 それからポンプからガスが抜けるみたいに肩を萎ませる。

 風切り音とともに顔をあげたと思ったら、歯を出して笑った。

 湿っぽさのカケラもない、台風が通り過ぎたあとの空みたいに底抜けに明るい笑顔。


「もう一発やってもらえるか?」

「なんで?」

「だって伊比、納得してないだろ」

「そーゆーのがむかつくんだよ」


 布団から足を引きずりだして彼の膝頭辺りを蹴り飛ばす。


「もういいよ。どうせ救急車呼んだのもお前だろ? いや、どっちでもいいか。命助けてもらったようなもんだからさ、それであいこにしようぜ」


 とりあえずの和解が成立した辺りで、看護師が台車を引いて病室に入ってきた。

 遅れて舞夏も戻ってくる。

 看護師は倭のベッド脇で台車に積んだ医療器具を弄り始めた。舞夏より背が高くて、臀部に脂肪が偏った女性だ。体温計をケースから取り出しつつ、愛嬌のある笑みを浮かべる。


「体温測定と、脈拍測定と、採血しますね」

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