◆28:Memento mori.(2)
「なんだい?」
歯だけではなく舌も切っているのか、一つ言葉を発するだけで意識が飛び散りそうな激痛が走る。
まるで痛みその物を丸めて口いっぱいに咥えさせられているようだ。
吐き気も止まず、登ってきた胃酸が傷口に染みて目の前がちかちかと点滅した。
「いたいけな子どもの願いを叶えてやれよ。お前は要らないそうだ」
「ふん。僕はその為に呼び出されたんじゃない。本来の目的に、願いに従うまでだ」
「そうかよ」
スナオのため。
スナオの願いを叶えるのが自分の目的と言いつつ、今までの強硬な態度から、交渉はするだけ無駄だとわかっていたが、やはり聞き入れるつもりは毛頭なさそうだった。
そろそろ潮時だろう。
大切に隠していた奥の手とも言える仕掛けを作動させる。
「決裂だな。じゃあ、俺はお前の歌手生命を絶たせてもらう」
「どう言う意味だ?」
「今までのお前の行動は全部動画に納めた。これが流出すればどうなるか、わかるよな?」
シンの顔に焦りが走った。
盛大に舌打ちし、歯をむき出して周囲を見渡す。
そして、見つける。
「くそっ」
隣の部室棟の窓から引かれた電気コード。
それが気付かれないよう細心の注意を払って、コンクリートブロックの境目に沿いプールの壁を伝わされていることに。
単純な陽動作戦だった。
階段を上ってプールに入ると、部室棟は背中側になる。
入った直後、シンは反対側のプールサイドにいたスナオに視線を誘導され、気付かなかったのだ。
「くそが、くそが、くそが」
呪詛のように怒りを吐き出して、彼は地面を蹴った。
「もういい。足が付かないように慎重にやるつもりだったけど、やめた。せっかく無人の学校に招待していただいたわけだしね」
シンは右腕を大きく薙ぐ。
その手の先に鈍く光を反射する物があった。
同時に辺りに備えられた外灯が日没を検知して明かりを灯す。
シンが手首を捻る。
鋭く光る金属。
刃渡りは片手を広げた程度だが、ドリルのようにぐるりとねじれている。
以前インターネットで見たことがあった。
ツイストタガーだ。
ブレード部分に穴が開いており、柄まで繋がる空洞が仕込まれている。人体に刺されば、肉と血管を広範囲で寸断し、かつ、刃で出血を防ぐことなく逆に空洞部分へ吸い上げる。殺傷能力だけを追求して作られた凶悪なナイフ。
今までは本気じゃなかったってことかよ。
心中でぼやく。いや、脳の片隅で十八文字分の情報を瞬かせる。言語化するような余裕は心理的にも時間的にもなかった。
「さっさと死んでくれる?」
たった一歩の踏み込みに見えたのに、シンの顔が目と鼻の距離まで肉薄していた。本能的に体をのけぞらせて避ける。風切り音。シャツの胸が裂けた。体を捻り逃げる。
シンのナイフは、上下左右から降り注ぐ。何本もナイフがあるがごとく次々と襲い来る。速い。視認することすらままならない。あっという間にプール際へ押し寄せられる。
「俺を殺したら捕まるだろ?」
慎重にシンとの距離を計りながら問うた。
「大丈夫だ。近原スナオにその罪を着てもらう。一石二鳥だよ。スナオは自分の体を捨てざるを得なくなるだろう? ナイスアイデアじゃないか」
「サイテー野郎だな」
これが神様だとは受け入れたくなかった。
胸糞の悪さに血と胃の中身を吐きそうだ。
「なにか言い残すことはあるかい? 聞くだけ聞いてあげるよ。もう、後がないだろ?」
手の内側でくるくると器用にナイフを回しながら、シンは顎を突き出して倭をねめつける。
「遺言、ね」
わずか十メートルほど動いただけなのに、息切れと脂汗が止まらなかった。
まるで
「ふん。ビデオカメラもデータも君を殺した後にゆっくり削除させてもらうよ」
「ほざいてろ」
「ほざいてろ? 自分の立場、わかってるのかい?」
から唾を何回も飲み込む。
息を整えるために、早鐘を打つ心臓へ無茶を要求する。
「ああ、いまだかつてなくな」
大きく息を吸って肺へ新鮮な空気を送り込む。
クラウチングスタートをする直前もこうだった。
緊張感が膨らむ。
感情が高揚する。
笑え。挑発しろ。
ザコキャラを舐め腐るカミサマなんざ、こちらから願い下げだ。
倭は神に願わない。
願っても、叶っても、それは自分の力で得たものではないからだ。
夢も希望も失った絶望の中、倭は知った。
自分に残されたのは、この無能で無才能な自分自身だけなのだと。
顔の筋肉が軋む。
口を切られたせいで、左側はわずかしか動かない。
右側だけ倭の怒りを吸って釣り上がっていく。
ゆがむ。
ひずむ。
顔が。
笑みが。
怒りが。
体中を満たしていく酸素が、心を熱く練り上げる。
たとえマスターベーションと笑われようとも。
絶望を絶望し尽くせ。
もう、己を諦めるな。
理不尽な負け戦を吹き飛ばすんだ。
己自身で己自身に期待しろ。
生き残る道はそれしかない。
これぞ、
「ははっ。なるほどな」
倭の口から、血反吐とともに笑いが溢れた。
「俺は、カミサマを殺すってわけだ」
「なに?」
シンが眉間に青筋を立て、上半身を一ミリ動かす、
瞬間。
「近原スナオ!」
ありったけの酸素を使って倭は叫んだ。
そのまま身をひねって背後へ倒れ込む。
背後はいつものプールだった。
足で地面を蹴り、飛び込む。体を弓なりにする。
ナイフがぴたりと追いかけてきている。
スナオがシンを背中から蹴ったのだ。
前方向へナイフを振るった瞬間の体重移動に、全く予期していなかった背後からの攻撃が加わって、シンはバランスを崩す。
そのまま倭の後を追うようにプールへ落下する。
泳いでプールサイドから遠ざかる倭から三メートルほど離れて空気の粒が大量に湧き上がった。
――近原、お前、どのくらい泳げる?
――五十メートルなら、三十秒をギリギリ切るくらいね。
図書館での会話だ。
マジかよ、脳筋にも程があると天を仰いだ記憶がある。
あれは、シンの水泳能力を確かめたかったのだ。
シンはスナオの上位互換であり、男の体を持つのであれば、五十メートル二十五秒を切る可能性は十分ある。
もはや水泳選手並だ。
ブランクのある体でどこまで泳げるか。
プールの中、二十秒で良いから、シンから逃げ切る必要があった。
倭が水泳経験者であるからと言って、五十メートルの自由形でシンに勝てる見込みは五分五分だった。
もしそれが、ともに飛び込み台から万全の状態でスタートを決めたならば、の話だが。
下腹部に力を入れる。口の端から血がこぼれた。
今倭が持つアドバンテージは、水面に落下する前に泳ぐ体勢に入っていたこと、シンから三メートルの距離を既に稼いでいることだ。
三メートルもあればギリギリなんとかなるかも知れない。
目指すべきだいたいの方角に見当を付ける。
風と雨にあおられ平生と違い水にうねりが生じていた。
目を閉じて、全身で水の動きを感じた。
あった。
上部の風にいたずらにもて遊ばれる層と、下部の停滞した不動の層。
層と層の間に体をねじ込み、へそから全身をうねらせる。
細かく腹筋と背筋を曲げ伸ばしドルフィンキックを打つ。
その度、シンに蹴られた時の打撲が楔のようにあちこちの筋肉をうがった。
水面にたどり着き、背後に送った右腕をリリースする。
短く息を吸う。
口の中の血が邪魔をして、想定の半分も酸素を摂れなかった。
体が上手く連動しない。
焦るな。
自分に言い聞かせる。
水に体を馴染ませろ。
水の音を聞く。
自分が作る水しぶき、風と雨に叩かれる水面、背後から迫り来るであろうシンの鼓動を拾う。
何かが耳に突き刺さった。
高い、鈴のような音。
目を見開き、そちらへ意識を向ける。
その時。
体が引きずられた。
驚愕が走る。
なにが起こったのか。
まるでジェットコースターに乗ったように、前へ体がさらわれる。
足を鞭のようにしならせ、手の先から腕を水中へ勢いよく、深く、突き刺す。
さっきまでの違和感が消え、倭自身が水流になったようだった。
何かが呼ぶ。こっちだ、こっちへ来い。
それが何ものなのか、初めて聞く声なのに倭は全て知っていた。
生きたいと願え。命を求めよ。
声が言う。
自分自身が水を使うのではない、水が倭のために動き、流れ、先へ先へと運んでいく。
圧倒的な全能感と、見たことのない光が体を包む。
恍惚が脳髄を駆け抜ける。
ああ、これが、世界がいつもいた場所なのだ。
それは瞬く間のことだった。
数秒後全能感は忽然と消え、再び薄暗くよどむ水中へ倭は放り出される。
だが、それだけで十分だった。
対岸の壁が迫る。
少し首を回して背後を確かめる。
シンがさっきと変わらず三メートル離れた位置を付けていた。
予想より速い。いや、追いつかれなかっただけマシか。
ポケットをまさぐり、小さな
持ち手には黒いビニールテープを巻き付けてある。
テープは電気絶縁用のもので、延性があり、水道管の穴を修復する用途にも使えるものだった。
プールの底に沈めた仕掛けへたどり着く。
倭の父親、伸彦の仕事道具である水中カメラがその黒い瞳を濁る水中へ向け、動作中を示すLEDを白く光らせていた。
動画に一部始終を納めているというのは、はったりだった。
部室棟から電気コードを伸ばして引けたのはこの水中カメラの電源だけ。
ビデオカメラより、水中カメラを仕掛ける方を選んだ。
スナオにたやすく組み敷かれる倭が、正面からケンカを挑んでシンに勝てる可能性は万にひとつもない。
休暇中の学校であれば目撃者もいないから、いつシンに命を狙われてもおかしくなかった。
倭は殺される覚悟でシンをここへ呼び出したのだ。
たったひとつだけのライフでできることに全てを掛けて。
カメラから伸びる電気コードをまさぐる。
シンが倭に追いつくまで後一メートルを切った。
あった。
電気コードを覆うプラスチックの殻を見つける。
後五〇センチ。
手で掴み、ビニールテープで覆われた表面を撫でる。
後三〇センチ。
穴を見つける。
後十〇センチ。
錐で突き刺す。
シンの手が倭の肩に触れた。
同時。
電流が走った。
ガチャポンの穴へ水が渦を巻いて浸入する。
空気を押し出し中を満たす。水に漏電し、三〇アンペアを超える電流が流れ出る。
内部に仕込んであったのは、ケーブル一本ではなかった。
父親から拝借したのは水中カメラ二台。二台分のケーブルだ。
溢れ出た電気は四方へ散らばりかけたが、すぐそばに伝導率の良い塊を見つけた。人間の肉。
たゆたう血液のにおいを獰猛に嗅ぎ取り、その鋭い
意識が、ホワイトアウトする。
◆
水の中に入った
二人とも脱力した状態で顔を水につけたまま、ぴくりとも動かない。
なにか非常事態が起きたことは、すぐに勘付いた。
けど、具体的にわからない。
言葉で説明できない。
頭の中でイメージも描けない。
外灯が太陽の消えた、藍色のプールへ光を落としているだけ。
スナオはプールサイドを走る。
それ以外はなにもしなくて良いとも。
「馬鹿じゃないの馬鹿じゃないの馬鹿じゃないの」
ジャバジャバと水しぶきを跳ね上がらせて二人の方へ回り込む。
伊比は命をかけてシンへ対抗しようとしたらしい。
どうせ殺されるなら相打ち覚悟の勝負だったとでも言うのか?
このまま水中に放置していては息ができなくなって死んでしまう。
スマートフォンをポケットから出しその場に置き、足からプールに飛び込む。
泳ぎ寄って彼の両脇へ腕を通した。飛び込んだ瞬間なにかヘンだと思ったが、それがなになのかはわからない。
こういうとき女子の非力さが恨めしくなる。
浮力があって助かったと思いながら伊比の上半身をプールサイドへ乗せた。
ひっくり返して呼吸を確かめる。
ない。
心臓へ耳をあてる。
ない。
どうしよう。
さあさあと頭から血の気が引いていく。
救急車だ。
救急車を呼ばねば。
どうして先に救急車を呼ばなかったのか、短絡思考の自分を恨みながらスナオはスマートフォンへ手を伸ばした。
ふと、その横に伸びている黒い二本の電気コードが視界に入る。
これは、なんだ。
目でその先をたどる。
それはプールの入り口側へ伸び、塀を伝い、隣の部室棟の中へ消えていた。
嫌な予感がする。
このまま救急車を呼んで良いのか。
スナオは悩んだ。
どうしたらいい?
どうすれば最適だ?
状況が把握できない。
「伊比!」
その時、スナオの予想だにしない人物が現れた。
階段を走って登って来る長身の男。
傘もささず駅から走ってきたからだろう、すっかり濡れ鼠になった姿。
歩いて十五分の距離を走ってきたとは思えないくらい、明瞭な声。
「伊比! どこだ! どこにいる!」
「ここよ!」
スナオは叫ぶ。
息が詰まった。
顔中が濡れていた。
目から鼻から溢れる水分が止まらない。
死ぬんじゃねぇぞ。
初めて、スナオは願う。
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