◆32:Fiat eu stita et piriat mundus.

 スマートフォンの地図アプリを頼りに倭は道を進んでいた。


 乾いた風が高層オフィスビルの建ち並ぶ幅十数メートルの道を温く駆けて行く。

 人工的に臭いを付けられた排気ガスが、喉を刺激する。

 風に髪をあおられながら、ビルとビルの裏側を抜けるようにして、中央総合病院を目指していた。

 気温は高く、目に入った電光板の情報によれば三十度の熱帯夜。

 汗が額にも鼻にも脇にも滲み、全身を伝う。


 既に面会時間はとうに終わり、入院患者の大半は夢の世界に入っているだろう。

 それは、病院を抜け出してきたから想像するまでもなく、知っていた。

 それでも、倭は今、中央総合病院で昼夜問わず眠り続ける母と、妹の世界に会わなくてはならなかった。


 もちろん、道端でうずくまって夜が明けるのを待っても良かった。

 途中で心を折り、榎水病院に引き返しても良かった。

 そしてベッドで眠るスナオを転がし落として、ふてくされて眠ってしまっても良かった。

 神なんてものは嘘っぱちで、自分が経験した全ては悪い夢だったと、ありきたりの現実リアリティにしがみつき、自分が理不尽に直面させられている可能性を真っ向から否定し背中を向けたって良かった。


 何をしたって自由だったし、何をしたって、誰も倭を責めたり怒ったりはしないだろうとわかっていた。

 スナオあたりは少し小言を漏らすかもしれないが。



 だけど、それは過去に留まることだ。

 現在いまにしがみついて、過去に留まることだ。


 倭は誓った。


 ちゃんと、選び続けると。

 今出来ることを、やらなくてはいけないことを、しっかりと考えて、現実を見つめて、未来のために歩いていくのだと。


 そして、当たり前のことに気付いたのだ。


 与えられた環境で回遊する魚は海を知らない。

 海の味も、海の広さも、海の残酷さも、海の冷たさも温かさも、何も。


 腹を据えて、目を凝らしてよく見れば、八方塞りに見えた絶望の先には、おびただしいほどの選択肢が広がっていた。

 絶対的な壁に見えたものは、心を映し出した幻でしかなかった。

 倭は限られた時間を使い、数え切れないほどあまたある選択肢の中から、吟味して吟味してたったひとつ、唯一を選び取った。



 母親に直接会って、真実を確かめる。



 その瞬間、すべての選択肢が消えた。







 そして、再び星の数に匹敵する量の選択肢が生まれ瞬く。




 ひとつ選択肢を決めるたび、地図は新しくなって複雑な迷路を描き出す。



 コンパスは心の中ここにあった。

 これがある限り、倭は未来を失わずにすむ。

 眩いばかりの前途では、決してないけれど。



 左前方、円筒形やら四角錐台やらのビルの合間に、中央総合病院と書かれた看板が見えた。


 あと数百メートルほどだ。


 スマートホンを閉じ、脳内へ焼いた地図に従って角を曲がった。

 正面から、車椅子を押す女性のシルエットが近付いてくる。

 車道側へ身を寄せて道を譲る。

 病院が近いと言うことが、怯えてひりつく肌に感じられた。キイキイと車輪が軋みをあげている。


 倭に譲られた車椅子用の通り道を、だが、そのふたり組みは使わなかった。

 倭の正面へ正面へと、車輪を回し、そして、すれ違うことなく止まる。


 大型トラックが通り過ぎると同時、吹き付けた突風が三人を轟音で取り囲む。



「世界……」


 トラックのヘッドライトが照らしだしたその顔。髪の短い少女。倭の双子の片割れだった。

 そして、世界が押す車椅子に身を沈めているのは、倭の母、雅。



、こんばんは。うーん、ただいまかな。そろそろ来る頃だと思って抜け出して来ちゃった」


 彼女は倭とよく似た顔貌で、にこりと笑う。

 笑うと顔が歪むのすら、倭とそっくりだった。ほろほろと響く木管楽器のような声が懐かしい。


「世界、お前、大丈夫なのか?」


 聞きたいことが沢山あるはずなのに、まず口を突いて出て来たのはありきたりで空々しい安否確認だ。


「母さんがね、お兄ちゃんにどうしても言っておきたいことがあるんだって。ね、母さん?」


 世界は、車椅子に座る雅の耳元へ口を寄せた。

 雅は腰すら座らない状態なのか、背もたれに預けられた体が不自然に歪んでいる。

 長い髪はくしけずられずぼさぼさで脂ぎって毛束どうしが絡んでいた。

 雅がゆっくりと、目を懲らさないとわからないような緩慢さで顔を持ち上げる。

 ガタガタと上半身を痙攣させながらなんとか、顔を正面に向け、眼球だけで倭を見上げた。



「う、う、……と。や、」



「お兄ちゃん、ホラ、突っ立ってないで」


 吃音気味な雅の声に耳を澄ませていると、世界がせかすように手招きした。

 我に返り、雅の側に膝を突く。


「母さん、なんだ?」


 久しぶりに見る母の体は、記憶にあるよりも一回り萎んでいた。

 眼下はくぼみ、口の周りや頬の脂肪がげっそりと落ちている。皺が増え、パジャマから伸びた腕は骨が浮いていた。それでも、雅の倭を見る目の色は、それだけは、衰えることなく息子を責める光に溢れている。


「やま、と」


 ゆっくりと時間をかけて彼女は子の名前を呼んだ。

 ぎこちなく、少しずつ筋肉の動きが調整されるように宙で迷いながら、二本の腕が倭の肩に触れる。

 そっと、抱くように背中へ回る。



 汗で湿った背中に、母親の手は熱く、燃えるような痛みをもたらす。



 彼女の肩口へ鼻を埋めると、雅の汗と懐かしい日だまりのようなにおいが、ゆっくりと肺を満たした。

 少しだけ過去を思い返し、倭は雅がつらくないようその体を支える。


「あ、倭。よく、聞いて」

「なに?」

「お母さんは、あなたを育てられてすごく、すごく、幸せだった」


 喉の奥底で熱されたようにしわがれた声。


 体を引き離して、表情を確かめようとする倭の力を雅は全身で抱え込む。

 引き離そうとすれば簡単に引き離せるそれを、倭はほどかなかった。



「ふがいない息子でごめん」


「バカ」


 彼女の手が背中を叩く。


「お母さんこそごめんなさい。倭をもっと愛してあげたかった。でもできなかったの。少しずつ心が壊れて行って、自分でも止められなかった」


 倭は、波打つ唇を、前歯で噛み締めて抑えつける。塩っぱい味が口の中に広がり、息が詰まる。


「ごめんね。あなたたちのことを考えるなら、お母さんはもっと早くにいなくなるべきだったの。

 だけど、そばにいたかった。

 手放したくなかった。

 あなたたちが大好きだったから、もっと笑顔を見たかった。

 大きくなって行く姿を見たかった。

 ひとりの人間として、ひとりの母親として、生きたかった。


 例え、心が壊れてあなたたちを傷付けても、そばにいさせて欲しかった」



 堪えきれず、目から涙が溢れる。赤血球を持たない血液が頬を濡らす。

 今さら、調子の良いことを、と一笑に付して、これまでの悔しさを恨みを憎しみを晴らすことだってできた。

 雅の言葉に嘘は見えなかったから、倭の首筋を濡らす彼女の温い体温は、本音を伝えていたから、否定すれば彼女は簡単に傷付いただろう。



 けども、できなかった。

 だからこそ、できなかった。



「母さん、何言ってるんだよ」


 どうにか冗談めかして笑う。


「遺言みたいじゃん」


 違う。

 もっとちゃんと母さんの言葉を理解しないといけない。


「もうすぐ、また、意識がなくなっちゃうと思うの。今がきっと最後だから。ねえ、顔をよく見せて」


 雅は倭の肩に手をつき、それから、息子の両頬を両手で包んだ。

 ひび割れて汗ばんだ親指が倭の額を、まぶたの輪郭を、腫れた頬を、体液に湿る鼻とかさぶたが張り付いた唇の縁をなぞり、顎を伝う涙をすくいあげる。



 互いの胸がしゃくりあげるようにひくついた。


「頑張ったのね。生き抜いてくれて良かった」


 そっと頭部を撫でるその手は、大切にとっておいた幸せな過去を思い起こさせるほどに優しい。なにもかもを投げ捨てて泣きつきたい衝動が肺を満たしていく。彼女の甘い言葉で心も身も過去も何もかもすべて押し流してしまいたい。

 だけども、それでは駄目なのだ。今、倭がすべきこと。それをやらなくてはならない。



 選べ。唯一を。



「母さん、わがまま言っていいか?」

「ええ。好きなだけ」

「俺を産んで良かったって、言ってくれ。いや、産んで失敗だったでも、なんでもいいから」


 自分の両腕に体重を預ける雅の柔らかさと重さ、体温、脈打つ血管、そして、確かな鼓動。心音が一瞬大きくなり、その間隔を速めた。


「ごめんなさい。それだけは、聞いてあげられないの。でも、倭は、母さんの自慢の息子よ。それは、わかってちょうだい」

「嫌だ。俺が今欲しいのは、母さんが母さんで、人間だという証拠だけだ。それ以外はいらない」


 雅の体を車椅子へ押し戻し、背もたれに抑えつけて揺らす。


 情けない声で縋りつく。


 今までどれほど拒絶されようが疎まれようが、彼女に愛をねだったことはなかった。

 プライドが許さなかったし、むしり取るようなものじゃないと思っていたからだ。


「母さん、言ってくれ、お願いだから、嘘でもいいから」

「ごめんね」


 無理矢理に笑顔を作って、雅は顔を歪ませる。

 街灯を吸った瞳が濡れた宝石のように光る。


「あなたを、産んだ本当のお母さんに、雅さんに、私はとても感謝しているの。私に子を持つということを教えてくれた。それがどれだけ暖かくて素敵なことかを体験させてくれた。幸せだった」


「意味、わかんねぇよ」


「だめ。今の倭なら、わかるでしょう。私は、本当のことをあなたに伝えていなかった。雅さんは、あなたの本当のお母さんは、とてもとてもとても、生きたがっていた。そして、それ以上に、あなたの生を、この世に生まれて生きて行くことを切望していた。悔しいくらい」


 倭は思わず両耳を塞ぐ。


 聞きたくない。

 聞いたら、全てを失ってしまう。

 自分が母親だと思っていた目の前の女性も、今までの過去も、そして、自分という存在の意義も。



 雅の両手が倭の手首を掴み、外側へ引く。

 塞いで聞くまいとする行為を許さない。


「これだけは、わかってちょうだい。彼女の生きたいという気持ちが、お腹の中の子を産みたいという気持ちが、立派に生かしてあげたいという気持ちが、私を今日まで存在させてくれたの。倭、これが、どういうことかわかる?」


「わからない。わかりたくない」


 うつむいて頭を振る。否定する。歯をくいしばる。



 逃げるな。選べ。自分で選び続けると、決めたんだろう?



 ゆっくりと顔を上げて雅を見た。

 視界は涙が覆い尽くして、ぼやけてほとんどなにも見えない。




「あなたは、とてつもなく望まれて生まれて来たのよ」




 彼女の指が、倭の目を力強く拭った。


 涙の幕が取り払われ、彼を見下ろす雅の、眉根を寄せ、目を眇め、崩壊しそうに微笑む顔が見えるようになる。

 雅は何かを発音しようとして口を開けた。

 掠れた音が出るも、声にならず、二度、三度と口を開きなおす。



「自分に、誇りを持って、生きて。大好き、よ」



 言い終えると彼女はゆっくりと瞼を閉じた。

 溢れた液体が目尻から頬を伝って落ちる。


「母さん!?」


 最悪の予想が胸に去来して、倭は慌てて彼女の肩を揺すった。


「大丈夫だよ。今は力尽きて眠ってるだけだから。お兄ちゃん」


 にこにこと、この場に不釣り合いなくらい屈託なく笑う妹。

 世界。

 車椅子の背に付いた持ち手に両手を添えている彼女へ、倭はうろんなものを見る目を向けた。


「お前は誰だ? 俺の妹は、俺のことをお兄ちゃんとは呼ばない」


「はあ、ようやく指摘してくれたよ。せっかくこんなに分かり易い間違い探しを用意したのに、ずっと放置なんだから、さすが俺。事なかれ主義」



 雅の前に膝を突いたまま、倭は表情を険しくした。


「物事の優先順位を考えただけだ。もう一度訊く。お前は、誰だ?」



 世界の体を乗っ取った何者かは、両腕を下から持ち上げるジェスチャーをする。

 倭に立ち上がるよう促す。

 唇をねじ曲げて笑う。



「俺? 俺はお前自身だよ、伊比倭」



 女子にしては長身な世界は、それでも倭より十センチ近く低い。

 車椅子を回り込んで、倭の正面に立ったは、背中で両手を組みにやにやと笑っている。



 倭は眉をさらにひそめ、一歩下がった。背中にガードレールが当たる。



「覚えがない。俺は、お前を呼び出すようなことはしてない。それとも、最初から世界は、そうだったのか?」


「違う。俺は、お前の妹の体を借りているだけだ」


 耳慣れた声。

 あまり高くない、まろやかに鼓膜を叩く世界の声で、ソレは続ける。


「お前の父親が話しただろ。お前の実の母親が産んだ子もひとり、ここで眠っている育ての母親が産んだ子もひとり。

 お前の妹がパーフェクトだったのは、生みの母親のエゴだな。

 どれそれが出来る子になって欲しい、じゃなく立派になって欲しいって願えばそりゃあ、マルチチートにもなる。

 幸せになって欲しいって願えば、お前は相対的不幸になってたかも知れないぞ?」


「だから、俺は、お前を呼び出すようなことはしてないっつってんだろ」


「ああ、それは簡単だ。お前、生まれたいって願ってたじゃん、母親の胎内で。いつ顕現するかなんてこっちの勝手ってやつ。百回行かない不完全なままで顕現する変人もいるしな」


 世界の顔で、その拗くれた笑い方はやめてくれと倭は思う。自分の顔を鏡に映して見せられるよりたちが悪い。苛々と舌打ちをして、ガードレールの鉄パイプを爪で叩く。


「それで? 要件はなんだ? お前もシンや母さんみたいに、俺に成り代わりたいのか?」

「そうだよ、俺」

「じゃあ、断る。俺は俺で事足りてる」

「本当に、断ってもいいのか?」


 ソレは顔だけを倭に近づけ、下から愉快そうにねめあげた。


「どういうことだ?」

「どうって? 知ってるんだろ、俺達のこと。俺は、お前の願いを何でも叶えてやれるぞ? 例えば、誰よりも速く泳ぐ、とか」


 あまりにも、予想通り過ぎて敵愾心も警戒心も萎んで消えてしまう。

 ため息をひとつはいた。


「もっと面白い話をしてくれるのかと思ったよ。山へ帰れ」

「ま、そうだよな。ここまでは予想通りの返事だわ」


 世界の姿でソレはウンウンと頷いて、右手で自分の胸を、左手で雅を指し示した。


「そろそろ命つきかけてるお前の育ての親と妹の代わりに、うまい話をもってきたんだ。

 どうだ? 彼女達を生かしたいと思わないか?」


 その問いに対する答えは、イエスしかなかった。

 だが、どういうからくりを用いれば実現できるのか、想像が付かない。

 いや、ひとつだけ知っていた。だけど、それは最低の方法だ。


「お前の育ての親が消えれば、必然、この世界も消えるだろうな。親と世界を救う簡単な方法は、ひとつだ。神饌として、贄として、人の命を差し出せばいい。この前の事故のように、ね。定期的に何人かの命をもらえれば、彼女達は生きられる」


「それしかないのか?」


「ああ、これだけだ」

 人差し指を立てて、ソレは車椅子の回りをゆっくりと歩いて戻る。


「知らない人間の命なんて、どうだっていいだろ? ちょっとこの世の人口が減るくらい、たいしたことじゃないさ。知っている人間の、それも家族の命とどっちが大事だ? 考えても見ろよ、親不孝者。お前は、母さんに何かしてやれたか?」


 にかり、と歯を見せて世界は笑った。車椅子の背に両肘を付いて、倭が頷くのを待っている。通りすぎる車が何台もふたりの顔を白く、赤く照らし出した。



 瞼を閉じる。


 目の前に選択肢が広がる。

 無数の道。

 さらにその先にも無数の選択肢があって、同じものがひとつとしてない無限の未来へと繋がっている。



 母さんと世界のいる未来。


 母さんと世界のいない未来。



 そのどちらを選ぶのか。どちらを選べばいいのか。



「悪い話じゃないと思うぞ? 早く決めてくれないかな? そろそろ抜け出したのがばれて捜索隊がここまで来そうだ」


 ソレは回答を急かす。ソレの人差し指が車椅子の背を叩いている。


 未来をひとつ選ぶことは、その他の未来を失うこと。

 今、ここで選択を誤れば、二度と同じ未来は手に入らない。



 今出来ること。


 母さんと世界を生かすこと。母さんと世界を殺すこと。

 やらなくてはいけないこと。

 母さんと世界を生かすこと。

 現実を見つめて、未来のために、唯一を選び取ること。



 息を吸った。

 排気ガス混じりの空気が喉に突き刺さって咳き込みそうになる。


 目を開いた。

 ごみごみとしたオフィスビル群の裏側。月明かりすら遠い高いビル。

 上空を覆う光化学スモッグの厚い層、空調の廃熱が生み出す歪んだ熱帯夜。


 爽やかさのかけらもない、風が作る轟音。息の詰まる烈風。



 倭は口を開いた。

 自分の意志で、誰に流されることなく選んだ唯一の回答を。




「それでも、断る」




 永遠に他人の可能性を奪い続けるのか、それとも他人の可能性のために、母さんと世界を殺すのか。



 答えは決まっていた。



 人の命を犠牲にしてまで、生きる罪を母さんにも世界にも背負って欲しくはなかった。



 いや、これはたてまえだ。



 本当の理由は別にあった。

 倭は生きたかったのだ。

 望まれた命を。

 精一杯の力で。



 神を信じるならば。

 先の選択肢は、倭ひとりに対し、育ての母親と世界を天秤にかけるに等しいものだった。

 ゆえに倭が決めた道は、何よりも罪深い。



「そうか」



 綺麗なU字型の笑みを口でかたどって、倭を名乗るソレはあっけらかんとした声を出す。


「そうか。ま、どっちを選んだって、彼女達は生きられなかったしな。他人の命を食い物にして生きられるなら、そんな便利なことはないよ」


 肩をすくめてうそぶくそれに、倭は呆れかえる。

 試されたのだと気付いて、膝の力が抜けた。


 騙されたのなら、まだましだ。


 目の前のソレは、倭に罪を負わせたかったのだ。

 他者を犠牲にして生きる罪を。

 言い換えるならば、親兄弟を殺してでも自分を生かそうとする罪を。



「じゃあま、俺は帰るよ。いつかまた、必要になったら呼んでくれ」


 シンの時もそうだったが神というものは取り残された肉体に頓着しないらしい。

 出し抜けに意識を手放された世界の体が、支える力をなくして倒れそうになるのを、倭は慌てて支えた。

 その体はしっかりと重たい。


 神様だとか、人間じゃないとか、消えてしまうとか、そんな話が簡単に吹き飛んでしまうほどに。


 世界を抱きしめる。かすかな海のにおい。




「伊比さーん! 伊比さーん! 伊比雅さん! 伊比世界さん! いらっしゃいますか!!」


 遠くからふたりを探す声が近付いてくる。

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