カイケツ編
7月23日(土)
◆21:Alea jacta est.
20××年7月23日(土)
ここに全てのピースがそろった。
事件の犯人へたどり着く手がかりも。
この世ならざるものの意志も。
そして、伊比倭。彼が動くべき理由も。
濃密な闇が丑三つ時を過ぎて少しずつ薄まり透き通っていく時間帯。
市立榎水高校の前にひとつの人影があった。
台風が日本に上陸してしまったのか、数時間前から吹き始めた風はおおよそ北東からのものだが、周囲の山々とぶつかり合って複雑に向きを変え続けている。白くペンキを塗られた校門が吹きすさぶ風にあおられてガシャガシャと音を立てていた。
人影は数歩門から後ずさり、風が追い風となったタイミングを見てダッシュした。そのまま鉄扉に飛びつき、乗り越える。
伊比倭はスニーカーの裏にコンクリートの衝撃を受け止めた。
痺れる足を労っている時間はない。足を引きずるようにして部室棟へ向かう。
部室棟の入り口を両手でもって揺らしてみるが、もちろん夜間の不法侵入者を弾くために施錠されており正面から入ることは叶わない。扉にはめ込まれたガラスは人が悠々と通り抜けられそうな大きさだが、格子状に針金で補強された網入りガラスであるから突破は無理だろう。念のため開いていたら楽だなと思って試してみただけだ。部室棟はプールと隣接しており、その壁と弊の間は二十センチメートルほどだが、その近さが逆に窓からの進入を不可能にしている。
ここも想定通り。
倭はそのままプールサイドへ続く鍵のかからない扉を引き明け、進入する。
プールの弊と部室棟の壁の間が通れないならば、プールの弊の内側から進入すれば良いだけだ。監視員用の階段付き椅子を運んで来て登り、弊に飛びつく。まったくつかむ場所のない一面のコンクリート弊のクリア難易度は校門を突破したときよりも高くなっていたが、二度目のチャレンジで弊の縁に指を掛ける事が出来た。そのまま無理矢理ゴムソールでコンクリートへ食らいつき、身体を引き上げる。
塀の上に立つと足もとが丁度部室棟の一階と二階の境目部分と同じ高さになる。今度は部室棟の窓に飛びつけばいいわけだが、プール側の窓は明かり取りと風通しだけが目的なのか、天井付近に四十センチメートルほど細長いものが付いているだけだ。ここでもやはり飛びつく以外に突破方法はない。しかも失敗すれば落下して怪我をしかねない。
倭は背中に背負ったリュックの位置を調整し、生唾を飲み込んだ。
大丈夫、いける。
助走無しで飛ぶ。
風を最大限味方に付けたことが幸いしたのか、一発で窓の桟に手が届いた。
身体を半分持ち上げ、片腕で捕まりながら窓を引き開ける。鍵がかかっているかどうかはわからなかった。ここは確か丁度使われていない部屋だったはず。たむろする部未満サークル止まりの連中が不用心であることを願った。もし正常な用心さを持っていれば窓は開かず頭突きをお見舞いするほか無いのだが。結果は頭突き六回で、危うくめまいから転落しそうになった。
頭からぽたぽたと幾条かの血を流しながら内部に侵入する。落下地点に何があるのかもわからなかったことが災いして、重力加速度そのままにスチールラックへ激突した。派手な音が無人の部屋に響き渡り、もくもくと埃が月明かりの中舞う。
咳き込みながら立ち上がった彼は、どうやら今度は右腕と左足の脛を切ったらしいと気付いて舌打ちした。こういうことなら最初から石でも投げつけておけば良かったと自身の手際の悪さを呪う。
キョロキョロと部屋の中を見回す。
進入したのとは逆にある廊下側からの入り口、つまり正規の入り口から見て一番奥に“それ”はあった。倭が今し方崩壊させたスチールラックの上の壁に取り付けられている。スチールラックを踏み台にして近付き、分電盤のふたを開ける。リュックのポケットからペンライトを取り出して中を確認した。
主幹漏電ブレーカーがひとつと、子ブレーカーがふたつ。主幹漏電ブレーカーは 30A、子ブレーカーは20Aだ。都合が良い。子ブレーカをガムテープで落ちないように固定してから扉を閉じる。この部室棟は、ひとつの部室で過電流や漏電が生じたとき、よその部室に影響が及ばないよう、各部屋に小型の分電盤が備え付けられていることは知っていた。
別にどちらでも良いことなのだが、倭とて被害は最大限かつ最小限に抑えたい。コンセントは思った通り、スチールラックの裏側に二口隠れていた。
部屋の確認を終えると埃だらけの床に直接腰を下ろし、家から運んで来たものをリュックから広げた。ニッパー、父親の部屋から拝借してきたウン万円するカメラとそのケーブル、これまた伸彦の仕事道具である黒のビニールテープ、道中二百円を投じて入手したガチャポンのケース。中身は駅のゴミ箱に捨てた。電車は走っていないので自転車でここまで来たこともついでに思い出す。それから、なぜ、自分がこんなことをしているのかと言うことも。
今週の始め、つまり、海の日の翌日七月十九日からのことを頭の中で整理する。
倭は実のところ、古藤信治と出会うまで、事件を解こうと真剣に思ったことがなかった。巻き込まれるままに調子を合わせていたに過ぎない。だが、今改めて事件と向き合えば、その真相は恐ろしく単純で最低な筋書きで導き出すことが出来た。
――手始めに僕は君の代わりにそこにいる男を排除しに来た。伊比倭を殺す。それが君の願いだからだ。
シンの言葉を思い出す。
一日目のメッセージ。”このクラスの誰かが殺される”。
二日目のメッセージ。”殺してやる。近原スナオ”。
黒板に書かれていた犯行予告を思い出す。
これは、偶然の一致だろうか?
それにしては、出来すぎている。
一日目に書かれたメッセージは鷹来の話を要約すると、二日目以降も2-Bの生徒しか知らなかった。三日目実際に被害が連続して起きるまで担任教師である半田俊二にすら知らせず、二回とも黒板を消してしまっている。つまり、これが外部の人間の仕業であるならば、模倣犯がつけ込む隙はない。一日目、二日目とこのメッセージを書いた人物がシンであれば、すっきりとつじつまが合うのだ。
以前からスナオとシンの間に交流があったのかどうかは不明だが、自分の歌で勝負したいと願うスナオなら、一方的にシンを知っていてもおかしくない。もし、朝一番に登校する彼女が学校でメッセージを書くシンを目撃していたならば、どうか。
かばおうとはしないだろうが、鷹来から聞き込みされることは相当鬱陶しかったのではないだろうか。「犯人捜しは慎重にやりなさい」と遠回しに牽制を掛けたくなるほどには。部外者であるシンがどうやって学校へ侵入したのか。それは考えるだけ無駄だろう。現に倭がここにいるのだから。
つまり。”このクラスの誰か”、とは伊比倭のことであり、”殺してやる。”とはスナオの代わりに殺してあげる、という意味であるのではないだろうか。
ぞくぞくぞくと血液が足裏から心臓へ遡り、蛇のように首筋をうねり昇る。
耳朶を噛み脳みその中を縦横に駆け巡る。
自分の顔が歪むどころではなく、険悪な形相になっているのがわかる。
「これを解いたら、スナオであることの大切さが身にしみてわかるかもね」
苫田郁美の台詞がリフレインする。
上等じゃねーか。
心中で吐き捨てた。
高ぶる心を必死でなだめて作業を続行する。
手が小刻みに震えている。
ここは慎重にやらなくてはいけない。
二度三度と深呼吸をして落ち着かせ、ニッパーを電源ケーブルにゆっくりと押し当た。手応えが変わる当たりで止める。左手に持ち替え、右手で被覆部を魚肉ソーセージを剥く要領で剥いでいく。ほんの三センチメートルほど剥いた当たりで作業をやめ、ニッパーで余分になったゴムを切り取った。銅線に切れ目が入っていないか確認する。視界が悪く確証は持てないが、傷付いた線はなさそうだった。小学校三年生の夏休みに行った模擬実験を実践するだけだ、失敗はないだろう、自分に言い聞かせる。
一連の犯行声明、犯罪予告の犯人が誰であるかはわかったが、三番目だけはまだ腑に落ちない点がある。おそらく、シンの意志ではないのだろうが、垣内庸一の目撃した少年が消失した原因はわかった。彼らがなぜこんな持って回った演出をやったのかはわからないし推測する気力もなかったが、この胃の底で焦げ付く吐き気を呼び覚ました責任は絶対にとって貰いたい。進んで殺されに行くつもりもないが、命乞いをするつもりもない。
だが、それよりも、目の前にあるリスクを排除することが重要だ。
薄明かりの中、
伸縮性に富んだビニールテープを巻き付けて隙間が空かないようにしていく。プラケースを完全に覆い尽くしたら、電源コンセントへ差し込み、カメラを作動させた。問題なく動作中であることを示す白のLEDが点灯する。そのまま数分待ったが、動作に不安を感じるところはなかった。
ほ、と息をついてスマートフォンで時間を確かめる。四時五二分。どうせ眠れないならと父親が寝静まった頃を見計らって出て来たが、そろそろ夜明けが近い。部屋の中も、日の出の前触れを拾って随分明るくなってきていた。
ただリスクを排除するだけなら、保健代わりとは言えここまで手の込んだことはやらなくても良いのだろう。これはリスク排除という名の罪滅ぼしであり、後悔を埋め合わせるだけの自己満足なのだ。
ラインの画面を立ち上げて、双子の世界から届いたメッセージを読み返す。世界が少しずつ追い詰められていたことを知っていたのに、自分はなにもしてやれなかった。いや、日々届けられるSOSにあえてなにもせず無視を決め込んだ。プライドを守るために、本当に守るべき相手から顔を背けたのだ。打ちのめされた自尊心は思いやりを失い、理性は自分の不出来の罪を誰に問うことも出来ず逃げ場の無さに押しつぶされていた。
兄さん、こっちはもう桜が満開。だいぶあったかい。ここのところ、母さんが毎日同じご飯を作る。兄さんの好きな
そっちはどう? 新しいクラスにはまだなじめない。スポーツ推薦でない子となかなか仲良くなれない。学年が変わっただけでこれだ。自分が嫌になる。今日も天ぷら。母さんどうしたんだろ。家事もほとんど手に付かないみたい。
ゴールデンウィーク、兄さんはどうしてる? 洗濯物も洗い物も部屋の掃除も溜まっていたのが片づいてすっきり。みて、これ片づけたんだよ。きれいでしょ。褒めてくれても良いんじゃない?
夏みたいに暑くなったね。外で目一杯泳げるのがとても楽しい。家のことも学校のことも忘れて、水とだけ対話できる。この時間がずっと続けばいいのに。最近料理が得意になって来たよ。今度兄さんにも手料理振る舞おうか。
この調子でほぼ毎日メッセージが来ていた。倭はそのひとつひとつに既読以外の反応は示さなかった。
もうすぐ夏休みだね!!! 週末にはそっちに帰れるよ! 楽しみ!!! 母さんも連れて行くね。このところずっと寝たままで伏せってるんだ。お医者さんは心の病だろうって。そうかもしれない。この間、「倭」って呼ばれちゃった。
倭より世界の才能を選んで、世界の傍にいることを望んだはずの母親が、今年の春、いや、もしかしたら世界が報告していなかっただけでその前からなのか、どこか狂ってきていたらしいと知って心配するどころか、いい気味だと心の中で嘲笑う自分が居た。
いや、母さんは、もっとずっと前から、ここにいた時からおかしかったのかもしれない。母さんにぶたれた日、氷雨の降る中何時間も閉め出された日、首を絞められた日、出来損ないと罵られた日、存在すら否定された日。
いつからおかしかったのだろうか。
目を閉じて思い出せるのは、倭に対する彼女の生ゴミを見るような表情と金切り声だけ。
正常とはどういう状態を指すのだろうか。
わからない。何も。
だけど、願っていたのだ、倭も世界も、口に出して言いはしなかったが伸彦も、倭から離れて大事にしている世界と二人きりで生活して、少しでも彼女の気が休まればと。
家族だったから、昔々を遡れば皆が楽しく笑い合っていた記憶が胸をつかむから、いつかそんな毎日に戻れたら良いのにと願っていた。
現実は非情にも真逆の方向へ転がって、世界ですら母親の視界から消えてしまいつつあるらしい。
このことを世界が伸彦に打ち明けた様子もなく、もちろん倭から報告したこともない。
帰ったら、オムライスが食べたいな。兄さん作ってよ。大きいやつ。前みたいに分けて食べたい。
オムライスは、母親が倭達に小学生の頃よく作ってくれたメニューだ。栄養バランスには気を遣うが料理には気が回らないせいで豪快な一品ものが多かった彼女の代表メニュー。
三合の白米へ一気に玉ねぎとピーマンとウィンナーと細切れ胸肉を混ぜ込みケチャップで和えて炒めたべちょべちょのチキンライスの上に、これでもかとふんだんに卵を投入した牛乳入りのふわふわオムレツが乗っかったもの。
これをナイフで半分に切って彼女は倭と世界の前に並べる。
ふわりと鼻孔を刺激する甘酸っぱいケチャップと優しい卵の香りが立ち上り、口の中が唾液でいっぱいになる。
「たくさん食べて大きくなあれ」
そう言って両手でふたりの頭を撫でる彼女の手はいつだって温かいし、顔は慈愛の笑みで満ちている。
◆
目を覚まし犯人は考える。機会は熟し切っている。いや、腐り落ちようとしている。
限界だ。さあ、仕上げと行こうじゃないか。
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