◆20:邂逅

 倭は夜の街を走っていた。


この町は中央がやや膨らんだスコップに似た形をしており、地形の大半に勾配を含んでいる。延々と続くスロープのように舗装されたコンクリート道を駆けていると、日が落ちているとはいえじっとりと額に汗がにじんで来る。


彼は家と家の隙間にある暗闇を片端から覗き込みながら歩を進めていた。



「花太がいなくなったの。つないでる紐が古くなっててそれで……でも、脱走するような子じゃないのに。ねえ、死んじゃったらどうしよう。花太がいなくなったらどうしよう」


 血の気が引いた顔で舞夏は喉から不安を絞り出した。


 舞夏とは、彼女の住まう家から最寄りになる駅の改札口で落ち合った。電車で学校とは逆、つまり県庁所在地方面に鈍行で五駅進んだ所にある、小さな駅だ。


榎水高校のある町は山で三方を囲まれていて、スコップの先--南側は東西の山の縁が内側へせり出しており、昔から人口が少ないため都市開発が遅れている。代わりに近代になって付近に高速自動車国道主要地方道、貨物線など、各主要都市動詞を繋ぐための大型道路や線路が幾本も作られていた。貨物用コンテナを連結した列車が、改めて状況を説明する舞夏の背後をゴトゴトと走り抜けていく。


道中聞いていた内容に、花太を知る友人にも何人か協力を仰いでいるという情報だけアップデートする。



 ヘルパーとして倭が呼びつけた鷹来が次の電車で合流し、すぐに手分けして探そうと言うことになった。


「関係ないと思うが」


 顎に指を添えて言葉を選ぶ。

 舞夏の、今にも何かをこぼしそうに大きな目が彼を見上げた。


「入川は家で待機してろ」


「どうして?」


「体が弱ってた花太が脱走するのはなんかおかしい。もしもの可能性がある」


「もしもってなんだ? 近原さんと秀英のことか?」

 舞夏を気遣って遠回しに伝えようとしていたのに、鷹来が大胆にも核心を打ち抜く。


「オレは関係ないと思うけどね。でも、ま、女の子は夜あまり歩き回らない方が良い。それに」

 スマートフォンの画面を光らせて言う。

「まだ大夫遠いけど台風が近付いてる」


「俺らが探すから、な?」

 舞夏の両肩に手を置いて安心させる。自分の手が震えそうになるのをこらえた。怖いのではない、自分から誰かに近付くことが慣れないだけだ。


 バチバチとプラズマを発して明滅する蛍光灯の下で、舞夏はためらいがちに頷いた。



 花太は目が白濁しているという点以外取り立てて特徴のない中型の雑種犬だ。写真は受け取ったが、一度見ただけの犬をまた見たからと言ってそれと判別できるかどうか、自信は五分五分だった。


「おーい、花太ー!」


 ぬるま湯のような風が渦を描いて吹き行く十字路で、あてずっぽうに声を張り上げる。分かれ道につく度両手でメガホンを作って試してみたが、呼応する影はどこにも見当たらない。幾つめの曲がり角だったか。十を超え数えたあたりから数えるのも面倒になっていたためわからないが、着ているシャツの背中がぐっしょりと濡れそぼった時だ。


不穏に風のざわめく上空へ向け犬の名前を呼んだ彼は、目線を下した道路の先に見覚えのある人影を見つけた。駆けよって肩を叩き顔をチェックする。


「あ、やっぱ近原だ。なんでお前ここにいるんだ?」


 膝に両手を突いて息を整える倭にスナオから見くだすような視線が来た。


「なんでって、犬を探してるのよ」

「犬?」


 ヘアピンで前髪をまとめているせいで丸出しになっている彼女の白い額にも汗の膜が張っている。水分が不足しているのか、見上げた喉が空唾を飲み込む動作をした。


「なに、どこかで聞いたみたいな話だなあって顔してるのよ。すっごく、すっごく不本意だけど、あたしの探しものとあなたの探しものは同じ花太よ」

「同じ? どういうことだ?」

「にっぶいわね。頭ついてるの? お飾り?」


 比較的無事な左の人差指で頭をつっつく。しかも自分の頭ではなく倭の頭を、だ。


「ついてるけど、わからん。え? 近原と入川ってそんな仲だったっけか?」

「だったのよ。あなたが舞夏ちゃんと出会うずうぅっっっと前からね」

「はあ? じゃあお前ら友達なのにあんな上下関係でいるのかよ。なんでお前それでいいんだよ。嫌だとか言ったことないわけ?」


 期せずして明るみに出た事実が衝撃で、どう受け止めたらいいのかわからない。意外とかそんな表現を凌駕している。


「あなたらしい切り返しね。あなたは舞夏ちゃんのことはどうでもいいのに、あなたの言葉を借りれば上下の上かしら、上の立場である舞夏ちゃんの態度には言及しない。かばってるんじゃなくて、あなた自身がその上下関係を当然あるべきものとして流したがってるからよ。黙認して関わりたくないのでしょう。でもあいにくと」


 スナオは小ぶりだが形の良い胸を反らせて倭をあざ笑った。


「まあ、あなたの性格考察なんてどうでも良いわね。あたしたちの関係はご想像のような上下でできていないわ。あたしは昔から引っ込み思案な性格だったの。それをかばってくれたのが舞夏ちゃんよ。あたしはもういい年になったから引っ込み思案も改善されているのだけど、今度はあたしたちの関係がその時のかばうかばわれるのまま残ってしまったの」


「じゃあ、どうして怪我人に犬の捜索をさせる? 悪化したらどうするんだ?」

「優しいお言葉! でも残念。それも見当違い。あたしは舞夏ちゃんを守るの。そのためなら怪我くらいどうってことないわ」

「じゃあ、質問を変える。お前達の関係はいったい何なんだ? 入川を守るってどういうことだ? 俺を嫌ってるのと関係があるのか?」


「ご名答」


 倭の鼻に自分の鼻がくっつきそうなほど近くまで顔を寄せて、スナオは嘲笑った。


「あたしは、舞夏ちゃんを愛してる。ラブの意味で。舞夏ちゃんも、了承してる。そして、あたしのヘンテコがばれないように上下関係を作ったの。あたしから望んだのよ。一生舞夏ちゃんのナイトで居させてもらえるように」

「どこの馬の骨とも知れん俺は敵ってわけか」

「ふん」

 鼻を鳴らして身を離し、彼女はポケットに手を突っ込んだ。

「あなたなんか、眼中に入れるのも不愉快だわ」


 “この先T字路有り 事故注意!!”と書かれた立て看板に頭を預ける。その看板の足下には花束がふたつ供えられていた。どくり、と心臓が跳ねる。スナオもそれに気付いたのか、話題を九十度変えてきた。


「ところで、ねえ、あなたの家族で誰か、最近亡くなった方がいるの?」

「いや。なんでだ?」


「お昼間神社に行ったでしょ。神社でなんとなく思い出しそうだったんだけど、そのあとあたしは商店街の仏具屋さんに行ったの。そこでお線香のにおいがしたわ。あなたの家でしたのと同じにおい。だから誰か死んだのかなと考えたのよ。もし毎日お線香をたくお宅だったらあなたの服や身体にもついてるはずでしょう。さっき顔を近づけたときも汗のにおいしかしなかった。あなた自身に全く覚えがないのなら何か突発的でイレギュラーな事態があったと想像が行くわ」


 彼は目を丸くして、考えて当然のことだろうといった具合に憤然と口をへの字にしている少女の顔と全身を眺めまわした。


「それには答えたくない」


 まさか、父親が赤の他人の葬式回りをしているとは言えるはずがない。しかも、倭ですらその行動の真意はわからないのだ。


「そう」


 彼女はその言葉の意味を計るようにじっと倭を見つめ、ややおいて瞼を閉じた。


「いいわ。花太を探しましょう」


「ああ、そうだな。ここでじっとしていても意味がない」

「あ、ねえ、そっちにはいなかったわよ。あっちじゃない?」


 T字路の分岐点、倭が来た方ともスナオが来た方とも違う道を指差した。住宅街を南西方向に横切る幹線道路だ。なだらか、と表現するには勾配がある道。上手はスタート地点の駅や舞夏の家があるから探すとすれば下手になると判断したのだろう。車道も四車線あって広々としている。


「そうか」

「次分かれ道があったら手分けしましょう」


 その提案に是非もなく従って方向を転じた倭は、そこにいた人物のせいでたたらを踏む。泥水をぶっかけられた気分になった。



「やあ、こんばんは」


「古藤さん」



 いつからそこにいたのだろう。


 青く信号が光る横断歩道の先で、ひとりの男、古藤信治がガードレールに寄りかかっていた。小首を傾げトントン、と人差し指で左の耳を叩く。


「昼間ぶりだね」


 引き締まって形の良い長身。こちらに近付きながら、その両腕を通せんぼするように開く彼は口元に愉快そうなものをうっすらと貼り付けている。視線は侮蔑の色をたたえた氷のように鋭い。冷たさを感じさせるのは、視線のきつさだけではなく、瞳に装着されたカラーコンタクトのせいでもあると正面から睨み返して気づく。右にひとつ、左にふたつのピアス。シルバーチェーンのネックレス、指にいくつもはめられた指輪。


「明日夏祭りでこの歌を歌おうと思うんだ。聴いてよ」


「あたしたち、急いでるんです」

 興味なんて無いというように横をすり抜けかけたスナオの二の腕をシンはつかんだ。


「そう言わず」



  秘密はとてもビター。



 テノールで耳を甘くとろかすような声だった。


 勢いよくスナオが振り返る。

凄惨な目つきでシンを睨む。

シンはウィンクする。

ねっとりと伸びる声が、夜の町に絡みついて広がって行く。



  誰が決めたの?

  甘くとろける快感。

  等価交換、弱さをちょうだい。

  舌を絡めて花園の中、僕は誓った。

  君は僕を幸福にしてくれた。

  守ってあげるね。

  強く笑う君が好きだよ。

  恋する女の子は誰よりも可愛くて無敵。


「どうしてあんたが、その歌を知ってる!」


 彼女は身をよじって逃げだそうとするが叶わない。軽々とスナオを捉えるシンは嬉しそうに愉快そうに笑んでいる。


 この歌は、スナオが倭を待ち伏せていたときに歌っていたものだ。思い出して気付く。この歌詞は、おそらく、スナオと舞夏の関係を詩にしている。


「どうかな? 僕が歌った方がこの歌詞のよさを引き出せる」


 カタン、と彼は首を横に倒した。その下に潜むカラーコンタクトをした灰色の瞳が冴え冴えと光る。形は良いが赤らみのない薄い唇、陰影すらも呑み込んでしまう白い肌。


 そして、格好。


 まるでスナオをそのまま男に作り直したかのような風貌の彼は、その口にヘラヘラと冷たい笑いを湛え続ける。体術に心得があるらしいスナオを赤子のように押さえつけている。



「近原スナオ十七歳。好きな食べ物はりんご、嫌いな食べ物はのりのつくだ煮。好きなことは狭い自室に閉じこもってあこがれの歌手の歌を聴くこと。好きな人は入川舞夏。性同一性障害の持ち主限りなくFTMに近いFTX。男になれないことから男に対して強い劣等意識とコンプレックスを抱いてる。男に抱かれることはもちろん屈辱だ。シンガーソングライター、ミュージシャンになりたくて毎日歌を歌い誰にも聴かれない曲を作っている。自分に才能がないことを承知していて、何が何でも芸能界に引っかかるために、」


「黙れ!」


 スナオが声を張り上げてシンの頬をひっぱたいた。

拳銃を打ち鳴らしたような破裂音の波が拡散する。耳の奥が急激な気圧差を伴った振動のおかげでキンと痛んで倭は顔をしかめた。


 シンは自身の顎をきざったらしく持ち上げる。


「君は何が何でもメディアの一角に食い込むため手段を選ばないことにした。いや、正攻法、最も目的に近いルートを無理矢理突き進むことにした。三日前だ。君はとある物を手に入れるために、そこにいる彼と別れた後新幹線に乗った。そして、事件が起こった。どうだい、事実だろう? 僕は本当のことを言ってるんだ。なぜ、そうも嫌そうな顔をする?」

「気味が悪いからよ」

「気味が悪い? なぜ? 僕があまりにも知りすぎているから?」

「ええ」

「僕が知っているのは当然のことだよ」


 はたかれたことが腹に据えかねるのか、ニコニコとした笑顔を顔面に貼り付けたまま、シンはスナオの腕をねじり上げた。スナオの顔が苦悶に歪む。


「近原!」


 ようやく放心が解けた倭は走り寄ってふたりを引きはがした。


「なぜなら、僕は君だからさ。僕が全てをやってあげる。もう後ろめたいことをしなくてもよくなるんだ。悩んで苦しんで、あげく指を叩き壊されるという目にも遭わなくなるんだ。なんでも僕がかなえてあげる。ネ、万々歳デショ?」


 ふざけたみたいにニタァとシンは笑って両手を万歳の形に持ち上げた。


「あなた何を言っているの? 意味がわからないわ」

「僕は君の夢をかなえるためにここにいるんだ。簡単に説明するとね、僕が今持っている歌手としての地位。これはそっくりそのまま君のものになる」


 スナオの眉が顔の中央にぐいと寄せられる。


「それで?」


「僕が習得した能力と天賦の才能もすべて君のものだ。僕は超常的な存在だからね。言葉通り僕の持てるものを君に移植することができる。君は道行く人が聴きほれる声で望み通りのキーの歌を歌えるし、心を揺さぶるメロディーを奏でることもできるし、痛切でダイナミックなリリックの歌詞を書くこともできる。ところで、僕がどうしてこんな恰好をしているかわかるかな?。どうしてもう一人の君だと名乗りながら僕が男なのかわかる?」


「あたしが男になりたいから……?」


 スナオは相手の理論に乗っかって質問を投げてやったが、半信半疑どころか零信十疑状態を如実に示す平坦な声音だった。百歩下がってシンの言い分を是としなければ話が見えてこないのだと言うことには倭も同意だった。


「そう、その通り」


 ぱちぱちと乾いた音で拍手をするシンはあくまで人を食ったような態度を崩さない。


「素晴らしいことだと思わないかい? 努力では絶対に超えられなかった壁を魔法のように飛び越えて、おまけに完全にスターへの道を整えられた身分まで手に入るんだ」


「それって、ほとんど近原の意識をあなたの中に移植しているようなものじゃないか」


「確かに、結果としてはそう見えるかもしれない。ま、でも実体としてはさかさまさ。近原スナオの肉体と僕の肉体を交換するのさ。故に、主が近原スナオで、従がこの近原スナオの理想の姿を持った僕であることは変わらない。


スナオ、君の理想はこうだ。


男になりたい。男だったらイルカちゃんは気持ちに応えてくれるたかもしれない。どうせなら、同い年ではなく経済力があって、かつ年齢は離れすぎていないのが良い。それから、この気持ちの悪い、丸くて柔らかいぶよぶよとした体からは解放されたい。自分の望む分野で自分の夢をかなえたい。たくさんの人に自分の声を届けて応えてもらいたい。君はこういう欲望も願望も、なにひとつ満たされないまま、空虚に抱えて毎朝を向かえている。短絡的な男どもに尊厳も権利も吸い上げられて、地べたをはいずるような気持ちで毎晩眠りにつく。そんな毎日はもううんざりだ。


輝きたいんだろう? 不道徳に自分を染めるのはやめて、もっと大切にしなきゃ。ね?」


 腕を広々と広げる信治を気でも狂っているのだろうかと真剣に心配しながら倭は突っ立っていた。


「信じられない。あなたの言っていることよくわからない。確かにあたしの個人的なことを知っていたのは気味が悪いけど、それは別に調べれば何とかなることじゃない? でも、あなたの能力をもらうとか、あなたがあたしの理想の姿だとか言うのは、あり得ない話よ」


「それじゃあ、お試し体験やってみようか? そっちのエキストラに信じてもらう必要はかけらもないけど、まあいいだろう、君、僕の右手を持って見てごらん」


 芝居がかった口ぶりと、倭への理不尽な敵意はスナオの代替物を名乗るだけあって、厭味ったらしいほどにそっくりだと肩を落とす。差し出されたシンの手をしぶしぶながら握った。なめらかで節が控えめな長い指を持つ中性的な手だ。指の先だけ毎日ギターを弾いているからか、爪のように硬い。


「僕の指とスナオの指を交換したとする」


 メキ。


空間が。


メキベキメギョッ。


千歳飴を砕き割るより硬質で高い音。


空間に存在するおびただしい量の原子の運動が、信治の指を中心にして歪む。


本能的に気付く。

これは、空間が圧縮し攪拌し拡張し分裂し分散している。


物理法則を無視した熱エネルギーがシンの手を中心に放出され、倭の周囲をすり抜けてスナオへ向かう。同時にスナオから吹き寄せた風とぶつかり、倭の髪が渦を巻いて逆立った。


次第に添えていられないほど彼の手が高温になる。

「熱っ」

ふりほどくと、どろどろに溶けた手が急速に収縮して熱で崩れた千歳飴のように歪んだ指が姿を現した。

同時に風が止む。


「近原、お前の指」

「みせて」

 スナオが倭を掻き分けてシンの手もとを覗いた。


「あたしの手が一瞬めちゃくちゃ熱くなった。今のはどう言う手品?」


「手品? 手品ではないよ。僕のような、誰かの願いを叶えるためにその一から呼び出された存在が持つ唯一の超常能力だ。これがないと肉体の交換は出来ないからね。互いが離れれば離れるほど必要とするエネルギーも多くなるし、実質相手の姿が見えない距離で行うのは不可能だ。そもそも一部分とはいえそんなに軽い作業じゃない。デモンストレーションは一度きりで許して欲しいな」


「理解出来る言葉で話して」


「うーん」


 困ったようにシンは首を倒した。瞼を閉じて思案する。


「今風に言うなら、あらかじめ決められたレピシエントに対して、臓器移植のようなものを、主要組織適合性複合体MHCの不一致から起こる細胞性免疫による拒絶反応を起こさないようキラーT細胞の制御をしながら、肉体の有機物と無機物の配置と構成を遺伝子レベルで置換するわけだけど、僕も実際どうなのかわからないからなあ。ほら、心臓を動かす洞房結節はどうやって興奮してるのって訊かれても困るでしょ?」


 ニコニコと詐欺師のように饒舌に説明する。倭は、彼の言っていることがにわかには信じがたかった。


「ざっくり言うと、あなたは、身体の特定の部位を近原とのみ交換出来る?」


「そうそう。ほんとうは一気に全部やってしまった方が拒絶反応も一元化されて楽なんだけど。残念ながら現状それをするのは無理なんだ。受け皿になるスナオの心が今のようだと、リジェクトされてお互い死んじゃうからね」

「だいたい言いたいことは理解した。信じるつもりはないけど、小難しい理屈はもっとどうでも良いわ」


 スナオは口を尖らせて内側が全く見えなくなるまで包帯をぐるぐる巻きつけた自身の腕を上下に動かしているが、微妙な違和感はあるものの確信に至る感覚的な変化はない様子だった。


「君は受け入れなくてはいけない。これが僕という存在だよ。僕が、近原スナオの上位互換であると同時にリペアでもあると言うことをね」

「ばかばかしい」

 スナオが鼻で笑う。


倭も目の前で起こったことは何かの手品だと言う以外の結論を持てなかった。たちの悪い心理トリックを含んだ手品。


「まだ、信じられない? じゃあ、この指は一度クーリングオフだ。僕だって明日客前で演奏して歌わなくちゃならないからね。お飾りでなくマトモな指が必要なんだ」


 風が吹く。

小さな核融合炉のように彼の手が微細な光を放ち、折れた指が液体になって崩れ、しかし地面まで垂れ落ちることなく霧散する。記憶形状合金のように信治の指が皮膚に血肉の張りを取り戻し、正しい姿となる。同時に隣から先よりもだいぶくぐもった破壊音が聞こえた。


「うっ……」


「っおい!」


 軽くたたらを踏んだスナオの肩が倭の背中に引っかかり、ズルズルと地面へ崩れ落ちる。彼女は、痛みをこらえて熱をはらむ目を信治に向けた。


「あなた、痛覚がないの?」

「いいや、人並みにあるよ」


 シンはとんとんと自分の後頭部、頭の付け根を叩く。


「君の代替物として働くときはスイッチを切っているだけさ。心頭滅却すれば火もまた涼しって言うだろ。いわゆる精神力だね。これで信じてもらえたかな?」


 歯を食いしばるスナオは脳の理解が追いつかないようで、諦めきった声を出した。


「もういい。それで? あなたの望みは何なの? わざわざここに現れて頭のおかしいことを話すにはそれなりの理由があるのでしょう?」

「ああ」


 彼が頷くと、山の手から強い風が吹き下ろした。髪と衣服がバタバタと揺れあたりの気温が湿っぽくなっていくのを感じる。あたりの闇が一段とその濃さを増す。


「手始めに僕は君の代わりにそこにいる男を排除しに来た。伊比倭を殺す。それが君の願いだからだ。君は大切な人の思いを奪いそのくせ傷つけることしかしないその男が死ぬほど憎くて恨めしい。そうだろう?」


 倭は片足を一歩引いてスナオを見下ろした。耳の奥で滝の流れ落ちるような音が響いている。これが血が引く音というものなのかもしれない。見上げるスナオの光を宿さない黒眼が、青白い眼球の上でぐるりと動き、倭をとらえた。


「そうね」

 少女は自由な左手を伸ばして倭の足首に爪を立てる。痛みが刺さる。

「あたしはこのかっこつけがすごく気に入らない。あなたの言うことは間違ってない。だからあなたがもしこの男を殺してくれるというのであればあたしにとってこの上ないことだとも思うわ」


「おい」


「でも」

「でも?」

 シンが先を促す。


「あたしはどうしたって舞夏ちゃんが好きになったこの男にはなれないの。ううん、なりたくないの。あたしには叶えたい夢がある。そのためには、舞夏ちゃんを手放さなきゃならない。だからあたしは」


 倭の足にすがるようにしてスナオは立ち上がった。


「この男に命と同じくらい大切な舞夏ちゃんを預けることに決めたの」


 空気の湿度を吸い上げるように乾ききった決意は、その言葉で代理された悔しさとみじめさを物語っていた。



「だって、歌があたしを呼ぶから」



 倭は目を見開いてスナオの瞳を覗き込んだ。

そこには透明な、濁りのない意志が光っていた。



 ああ、この目はどこかで、以前も見た。



 不愉快なものに縋り付き己の命を預けてでも夢を叶えるとはどんなものだろう。とても苦しいことなのだろうか、それともとても幸福なことなのだろうか。



 倭には生まれた時から世界がいた。

世界は倭の代替物だった。

同時に倭は世界の代替物だった。


違いは、世界が倭の上位互換だったと言うことだけだ。


だから倭にとって自分とは非常に客体的な存在であり、この倭という名前を付けられた精神をホルダーする肉体に唯一無二の貴重さや大事さを感じたことはなかった。言いかえれば肉体を傷つけることや死という絶対的な形で失うことに対して常人よりも恐怖を抱かなかったし無頓着だった。


まるでライフにスペアがあるRPGの勇者みたいに、ほいほいと底の見えない穴に飛び込んでいいのだと無邪気に思っていた。成長して自分を主人公だと思う無邪気さを失ってからは、自分をRPGのザコキャラのようにスペアの効く人間だとしかみなせなくなっていたから、やっぱりほいほいと底の見えない穴に飛び込みそうになった。ただ必要がないからやらなかっただけだ。そこにルールがあったからちょっと従って生きてきただけだ。



「腹が立ってはらわたが煮えくりかえって毎晩眠れないくらい悔しいけど、伊比君、あなたがいなくなると舞夏ちゃんは悲しむわ。あなたがこの世にどれだけ必要な人間なのかはちゃんと分かっているつもり。少なくともあたしにとって必要な人間だと言うことは分かっているわ。だから、あたしはあなたを殺せないの」


 言葉を切り、指が痛むのか苦しそうに細い喉を上下させる。


「けど、それは理性、表層真理での話さ。深層心理では殺したいと願っている。だから、僕はこの使命を帯びた」

「難しい事はわからない。どうでも良い。黙れ」

「そうですよ、笑えないブラックジョークですね。そのジョークくすりとも出来ない上にものすごくむかつくんですが」


「本気だよ。僕がやるべきことの一つだ。近原スナオの望みを叶えるために僕はここにいるからね。安心して。君が望んだことはすべて僕が先回りして君以上の出来栄えでかなえてあげる。詩を思いついたときは推敲済みの歌詞をあげよう。君が歌を歌うときはその旋律を僕が代わりに聴衆へ届けよう。誰もが聞き惚れ誰もが感動してくれるさ。僕の功績は全て君本人の成果になるんだから、すごく楽だろう?


君は家で寝転んでポテトチップスでも食べていればいい。君の夢はすべて僕が叶えてあげる。もうザコな自分に悩まなくて済むんだ。君に何もかもを与える代わりに、何もかもを頂こう。君が僕を受け入れざるを得ない状況をゆっくり作って行こうじゃないか。とても寝覚めの良い朝がやってくる」


 シンは肩をすくめてきざったらしくウィンクした。


「今日は僕が何者であるのか、明かせた素晴らしい日だ」


失せなさいファッコフ

 スナオが吐き捨てた。







 坂を下りきると、土手に作られた高架橋が壁となって立ちふさがった。倭たちがいつも活用している電車の走る線路がその上を通っているのだ。T字路だったがシンの登場で疲れ切ったふたりは二手に分かれようと言い出すのも億劫で同じ方向へ進んだ。と言うのも、コンビニエンスストアが煌々とした明かりを夜の住宅街にふりまいているのをみつけたからだ。


 何か飲み物でも買おうか。シンとの対面の緊張と走り回った消耗から、からからに乾いてひっついたまま離れそうにない喉の粘膜にそう考えた倭は、知った人間がコンビニから出てくるのに気づいた。


「おい、前坂?」


「うん? あ、伊比か。今連絡しようと思ってたんだ」


 に狩りと笑ってピースサインを作る。


「見ろよこれ」


 差し出されたレジ袋の中には骨っ子やら何やら犬の食糧らしきものが数点ゴロゴロとはいっている。


「花太見つかったぜ。なんか、病気みたいでさ、うんともすんとも自分では動こうとしないんだよ。しかも鳴きまくるし、お腹減ってんのかと」


 ほら、そこにいる奴。顎で前坂が電柱を示すと、作業用のビニル紐で電柱に繋がれた雑種犬と、その前にしゃがみこむスナオがいた。スナオにあやされているからかリラックスした表情でたまに鼻をフガフガ鳴らしている。


「あれ、近原さんじゃん」

「入川に犬探しを頼まれたんだと」

「そーなんだ」


 鷹来は不思議そうに目をしばたたかせたが、詳しく事情を聞き出そうとはしない。誰とでも親しくするが、相手が話したがらないことにまで踏み込まないのが彼なりの気の使い方だ。倭は幾度となくそれに救われてきた。


「ほーれ、ご飯だぞー」


 鷹来はビニール袋からビーフジャーキーを出して振り回しながら、ぼろぼろの毛皮を持ったどろどろの犬にホップステップで抱きつきに行く。倭は肩の荷が下りた気分で首を鳴らし、来た道を眺める。ひとりの女性がこちらにあるいて来るのを見つけた。


「あ、マリ先だ」

「え? マリーちゃん?」


 耳ざとく鷹来が聞きつけて立ち上がり、乱れた頭髪をなでつけ始めた。


「もうおせぇよ」


 近寄って彼の頭を手刀でどつく。マリ先こと室井真理は鷹来が一方的に好いている生物教師だ。彼女はこのあたりによく来るのか、非常に楽そうな、言い換えれば非常にラフなロングスカートをはいている。オードリーヘプバーンかなと倭は思う。

「あのダサさがいい」

「なんで」

 思わず突っ込んだところで真理が倭たちの存在を視野に入れた。歩みに少しブレーキをかけ、思い直したようにしっかりとした足取りへと変わる。細いメガネのフレームがきらりと光る。

「あなたたち、こんな時間に外出ですか? 家は近いの?」

 自分の勤める高校の生徒だと認識できているのかどうか判別付きかねる第一声に、鷹来は右腕を高々と上げて応えた。

「家はむっちゃ遠いっす」

「あなたは?」

「あ、俺は五駅くらい離れてます。多分。なあ、ここってどっちの駅の近くだ?」

 土地勘のない場所で目を白黒させる倭に鷹来が耳打ちする。

「正確には六駅分だな」

「ということだそうです」

 苦笑いでごまかす倭たちをジトッと真理は睨み、肩を落とした。

「あなたは?」

「言いたくありません」

 プチっと真理の薄い額に青筋が浮かんだ。

「でもそこそこ近いです。ここまでは自転車と徒歩で来たので説明しても分からないと思います」

 高校生というものは手に負えない、という風に細長いため息を吐き出し、手の甲を額に当てる。

「犬探ししてたんですよ」

 マイナスポイントを稼ぎたくない鷹来が尋ねられもしないのに事情を説明する。

「随分おじいちゃんな犬ですね。少し白内障になりかけてるわ。獣医になった友だちから聞いたことがあります。犬にも痴呆とか認知症があるんですって。夜鳴きが酷くなったり、徘徊したりしちゃうんですよ。感受性とか警戒心も薄くなったり」

「あーなるほど」

 言われれば心当たりが山ほど有った。そうか、花太は年なのか。

 舞夏は近いうちにこの犬を失うのだなと思う。だから、あんなに必死だったのかも知れない。残された時間がわずかだからこそ、貴重になると言うことなのかも知れない。じゃあ、自分は? 父親のやつれた顔が思い浮かぶ。倭は気分が悪くなった。胃の底が痙攣し、酸っぱい吐き気がよじ登ってくる。

「でも、あまり夜遅くまで出歩いていてはだめよ。事件にも巻き込まれやすくなるわ。特に夜は見通しも悪いから。わかった?」

「了解っす」

「気を付けます」

「あなたは?」

「わかりました」

 渋々とスナオが頷く。

「いい子ですね」

 真理はそれ以上しつこく説教することはせず、コンビニの自動ドアをくぐった。高来がそのまま追いかけていくから、倭も花太の首輪とビニル紐がしっかりとつながっていることだけ確認してそれに続く。本音は外の蒸し暑さにこれ以上耐えられなかったからだ。胃液が喉元までせり上がってきていた。熱中症になりかけているのかも知れない。

「マリーちゃんはこの近くなの?」

「わたし? わたしなら近くよ」

 ついて回る鷹来の質問に、カゴへ生鮮野菜を賞味期限すら調べないまま適当に放り込みつつ彼女は答える。

「サラダパックを買わないんすか?」

「どうして?」

 豆鉄砲を食らったみたいに目をまん丸にして真理は倭の目線を拾い上げた。

「え? だって、不経済だし面倒じゃないっすか?」

「え?」

「えっ?」

 倭と真理、鷹来が口をぽかんと開いたまま動きを止める。間抜けな表情でフリーズした画面に再生ボタンを押したのはスナオだ。

「食べないんですか?」

「うん。食べないよ。科学的生物学的に言って旦那さんにできあいのものを食べさせてあげるのは忍びないと思うのよね」

 賞味期限も調べずにコンビニで食材調達をする女の良い分には聞こえなかったが、回復不可能なほどのダメージを不意打たれたのは鷹来で、彼はぽかんどころでは収まらずがっくりと顎を落とす勢いで白目を剥いた。そのまま腰が抜けた様子で細長い体がフラフラと不安定に揺れる。

 どうやら倭の隣でひとつの恋が伝えられないまま終わってしまったらしい。アーメンと心の中で手を合わせた。

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